蠅男

15話 蠅男(15)

2,471字 約5分 2005年7月12日 公開

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 お竜が腰をおさえ、歯をくいしばっているのは、帆村にとってたいへん幸いだった。

 帆村は素速く蠅男の背後にまわると、湯(まじ)りの砂の中にもがく蠅男を、うしろからグッと抱きあげた。

「ううぬ」

 と蠅男は満身の力をこめて、抱えられまいと(えび)のようにピンピン跳ねまわった。これを放してはたいへんである。帆村は両腕も千切れよとばかり、不気味な肉塊を抱きしめた。

 蠅男は蛇のように首を曲げて、帆村の喉首に噛みつこうとする。

「もうこっちのものだ。じたばたするだけ損だぞ」

 この言葉が蠅男の耳に入らばこそ、怪魔はなおも激しく抵抗する。さすがの帆村も、その大力に抗しかねて、押され気味となった。

 だが帆村にはまだ、自信があった。

 彼は蠅男を抱きしめたまま、悠々と砂風呂の出入口から外へ出た。そして足早につつーッと走ってプールのある広間に駆けこんだ。

「皆さん、蠅男をつかまえましたッ」

 というなり帆村はそのまま、ザンブリと熱湯満々たるプールの中にとびこんだ。

「うわーッ」

 と、これは蠅男の悲鳴だ。

 帆村の作戦は大成功をおさめた。義足義手をつけては天下無敵の蠅男も、帆村に抱きしめられて暴れるたびに、ズブリズブリと水雑炊ならぬ湯雑炊をくらってはたまらない。二度、三度とそれをくりかえしているうちに、蠅男は、だんだんと温和しくなっていった。

「さあ皆さん。住吉署に電話をかけて下さい。署長さんに、帆村がここで蠅男をおさえていると伝えて下さい」

 この場の唐突(だしぬけ)な乱闘に、プールから飛びあがって呆然としていた入浴客は、ここに始めて、目の前の活劇が、いま全市を震駭(しんがい)させている稀代の怪魔蠅男の捕物であったと知って、吾れにかえって大騒ぎをはじめた。

 帆村が、この何処に置きようもない重い肉塊を抱えて、腕がぬけそうに疲れてきたときに、やっと正木署長をはじめ、警官の一隊がドヤドヤと駆けこんでくれた。

「どうした帆村君。いよいよ蠅男を捕えよったかッ」

「はア、ここに抱いて居ります」

「なにッ」と署長は目をみはり、「おおそれが蠅男か。想像していたよりも物凄いやっちゃア。待っとれ。いま皆におさえさせる。そオれ、掛れッ」

 署長がサッと手をあげると、警官たちは靴のままプールの中にザブンと飛びこんできた。

「オヤ、――」

 と近づいた警官が愕きの声をあげた。

「蠅男は死んどりまっせ」

「ええッ、――」

「こっちへ取りまっさかい、帆村はん、手を放してもよろしまっせ」

「そオれ、――」

 警官隊の手にとって抱きとられた怪人蠅男の肉塊は、蒟蒻(こんにゃく)のようにグニャリとしていた。そして口から頤にかけて、赤い糸のようなものがスーッと跡をひいていた。血だ、血だ!

「舌を噛みよったな。ええ覚悟や」

 と、いつの間に来ていたのか、正木署長が沈痛な声でいった。

「ああ、とうとう蠅男は死にましたか」

 そういった帆村は、はりつめた気が一度にゆるむのを感じた。

「おッ、危い。どうしなはった、帆村はん」

 鬼神のように(たけ)き帆村だったけれど、蠅男の自殺を目のあたりに見た途端(とたん)、激しい衝動のために、遂に意識をうしなって、警官たちの腕の中に仆れてしまった。

「無理もない。蠅男と、徹頭徹尾闘ったのやからなア」

 そういって正木署長は、ソッと帆村の腕を握って脈をさぐった。

     *

 もちろん帆村は、間もなく意識をとりかえした。そしてあとは元気に、蠅男事件の後始末に力を添えたのであった。

 その後になって、当時までまだ誰にも知られなかった無慚(むざん)な一つの事件が明らかにされた。それは事件の途中から行方不明になっていた池谷医師の屍体が、()の控家の天井裏から発見されたことであった。彼は蠅男のために、そこに手足の自由を奪われたまま監禁されていたのだった。そして誰も食料を(はこ)ぶ者がなかったままに、とうとう餓死してしまったものである。これも蠅男の残忍性を語る一つの材料となった。

 池谷医師は、蠅男のような悪人ではなかった。ただ彼は蠅男から、一つの弱点を握られていたのであった。それをいうと、またくどくなるが、要するに蠅男の情婦お竜と昔関係のあった仲で、お竜は彼のために捨てられた女だったといえば、あとは誰にもそれと察しがつくであろう。彼はそんなことで、心ならずもある期間は蠅男やお竜と行動を共にしていたのである。

 それはその年も押しつまって、きょう一日の年の暮だというその日の朝、大阪駅頭に珍しく多数の警察官を(まじ)えた見送りをうけつつ、東京行の超特急列車「かもめ」号の二等室で出発しようとする一組の新夫婦があった。

「では、お大事に」

「新家庭は、いよいよ新しい年とともに始まるというわけだすな」

「まあ近いうち、お二人揃って大阪へ里帰りするのでっせ」

 などと、朗らかな(はなむ)けの言葉はあとからあとへと新郎新婦の上に()げられる。

 やがて、列車は出るらしく、ホームのベルはけたたましく鳴りだした。

 そのとき人の垣をわけて、車窓にとびついた一人の紳士があった。これは村松検事だった。

「ああ、間にあってよかった。君たちの結婚を祝おうと思って、大きなデコレーションケーキを注文して置いたのが、ばかに手間どってネ。これなんだよ、やっと出来た」

 と、車窓にさしだしたのは、大きな硝子(ガラス)器に入った見事なケーキだった。

「よく見てくれ、これは君たちの好きな大阪名物の岩おこしで組みたててあるんだが、一かけずつ製造所がちがっていて、味もちがっているのだ。これを二人で仲よく食べながら、たまにゃ大阪のことも思いだしてくれたまえ」

 若き夫婦は、感激のいろを現わして、この素朴ながら念の入った贈物を感謝した。

 ベルの音がハタと止った。いよいよ発車である。見送りの人たちは、いいあわせたように両手をあげて、二人の新しい生活の門出に万歳をとなえた。

「帆村探偵、ばんざーい」

「花嫁糸子さん、ばんざーい」

 いまは夫と仰ぐ帆村荘六とチラリと目を見合わせて、新婦糸子は(はずか)しそうにパッと頬を染めた。

 それを望んで、見送り人たちの中から、また大きな賑やかな拍手が起った。

 列車は(はか)りきれない幸福を積んで、徐々(じょじょ)に東へ動きだした。

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