草枕

10話 九

4,862字 約10分 1999年2月17日 公開

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「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几(さんきゃくき)に縛(しば)りつけた、書物の一冊を抽(ぬ)いて読んでいた。

「御這入(おはい)りなさい。ちっとも構いません」

 女は遠慮する景色(けしき)もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟(はんえり)の中から、恰好(かっこう)のいい頸(くび)の色が、あざやかに、抽(ぬ)き出ている。女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。

「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」

「なあに」

「じゃ何が書いてあるんです」

「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」

「ホホホホ。それで御勉強なの」

「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開(あ)けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」

「それで面白いんですか」

「それが面白いんです」

「なぜ?」

「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」

「よっぽど変っていらっしゃるのね」

「ええ、ちっと変ってます」

「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」

「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」

「妙な理窟(りくつ)だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」

「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」

「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」

 余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。

「あなたは小説が好きですか」

「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と判然(はっきり)しない返事をした。あまり好きでもなさそうだ。

「好きだか、嫌(きらい)だか自分にも解らないんじゃないですか」

「小説なんか読んだって、読まなくったって……」

と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。

「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」

「だって、あなたと私とは違いますもの」

「どこが?」と余は女の眼の中(うち)を見詰めた。試験をするのはここだと思ったが、女の眸(ひとみ)は少しも動かない。

「ホホホホ解りませんか」

「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」余は一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。

「今でも若いつもりですよ。可哀想(かわいそう)に」放した鷹(たか)はまたそれかかる。すこしも油断がならん。

「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と、やっと引き戻した。

「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、惚(ほ)れたの、腫(は)れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」

「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」

「おやそう。それだから画工(えかき)なんぞになれるんですね」

「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留(とうりゅう)しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」

「すると不人情(ふにんじょう)な惚れ方をするのが画工なんですね」

「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤(おみくじ)を引くように、ぱっと開(あ)けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」

「なるほど面白そうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃる所を、少し話してちょうだい。どんな面白い事が出てくるか伺いたいから」

「話しちゃ駄目です。画(え)だって話にしちゃ一文の価値(ねうち)もなくなるじゃありませんか」

「ホホホそれじゃ読んで下さい」

「英語でですか」

「いいえ日本語で」

「英語を日本語で読むのはつらいな」

「いいじゃありませんか、非人情で」

 これも一興(いっきょう)だろうと思ったから、余は女の乞(こい)に応じて、例の書物をぽつりぽつりと日本語で読み出した。もし世界に非人情な読み方があるとすればまさにこれである。聴(き)く女ももとより非人情で聴いている。

「情(なさ)けの風が女から吹く。声から、眼から、肌(はだえ)から吹く。男に扶(たす)けられて舳(とも)に行く女は、夕暮のヴェニスを眺(なが)むるためか、扶くる男はわが脈(みゃく)に稲妻(いなずま)の血を走らすためか。――非人情だから、いい加減ですよ。ところどころ脱けるかも知れません」

「よござんすとも。御都合次第で、御足(おた)しなすっても構いません」

「女は男とならんで舷(ふなばた)に倚(よ)る。二人の隔(へだた)りは、風に吹かるるリボンの幅よりも狭い。女は男と共にヴェニスに去らばと云う。ヴェニスなるドウジの殿楼(でんろう)は今第二の日没のごとく、薄赤く消えて行く。……」

「ドージとは何です」

「何だって構やしません。昔(むか)しヴェニスを支配した人間の名ですよ。何代つづいたものですかね。その御殿が今でもヴェニスに残ってるんです」

「それでその男と女と云うのは誰の事なんでしょう」

「誰だか、わたしにも分らないんだ。それだから面白いのですよ。今までの関係なんかどうでもいいでさあ。ただあなたとわたしのように、こういっしょにいるところなんで、その場限りで面白味があるでしょう」

「そんなものですかね。何だか船の中のようですね」

「船でも岡でも、かいてある通りでいいんです。なぜと聞き出すと探偵(たんてい)になってしまうです」

「ホホホホじゃ聴きますまい」

「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも趣(おもむき)がない」

「じゃ非人情の続きを伺いましょう。それから?」

「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹(いちまつ)の淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石(とんぼだま)の空のなかに円(まる)き柱が、ここ、かしこと立つ。ついには最も高く聳(そび)えたる鐘楼(しゅろう)が沈む。沈んだと女が云う。ヴェニスを去る女の心は空行く風のごとく自由である。されど隠れたるヴェニスは、再び帰らねばならぬ女の心に覊絏(きせつ)の苦しみを与う。男と女は暗き湾の方(かた)に眼を注ぐ。星は次第に増す。柔らかに揺(ゆら)ぐ海は泡(あわ)を濺(そそ)がず。男は女の手を把(と)る。鳴りやまぬ弦(ゆづる)を握った心地(ここち)である。……」

「あんまり非人情でもないようですね」

「なにこれが非人情的に聞けるのですよ。しかし厭(いや)なら少々略しましょうか」

「なに私は大丈夫ですよ」

「わたしは、あなたよりなお大丈夫です。――それからと、ええと、少しく六(む)ずかしくなって来たな。どうも訳し――いや読みにくい」

「読みにくければ、御略(おりゃく)しなさい」

「ええ、いい加減にやりましょう。――この一夜(ひとよ)と女が云う。一夜? と男がきく。一と限るはつれなし、幾夜(いくよ)を重ねてこそと云う」

「女が云うんですか、男が云うんですか」

「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰める語(ことば)なんです。――真夜中の甲板(かんぱん)に帆綱を枕にして横(よこた)わりたる、男の記憶には、かの瞬時、熱き一滴の血に似たる瞬時、女の手を確(しか)と把(と)りたる瞬時が大濤(おおなみ)のごとくに揺れる。男は黒き夜を見上げながら、強(し)いられたる結婚の淵(ふち)より、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼を閉(と)ずる。――」

「女は?」

「女は路に迷いながら、いずこに迷えるかを知らぬ様(さま)である。攫(さら)われて空行く人のごとく、ただ不可思議の千万無量――あとがちょっと読みにくいですよ。どうも句にならない。――ただ不可思議の千万無量――何か動詞はないでしょうか」

「動詞なんぞいるものですか、それで沢山です」

「え?」

 轟(ごう)と音がして山の樹(き)がことごとく鳴る。思わず顔を見合わす途端(とたん)に、机の上の一輪挿(いちりんざし)に活(い)けた、椿(つばき)がふらふらと揺れる。「地震!」と小声で叫んだ女は、膝(ひざ)を崩(くず)して余の机に靠(よ)りかかる。御互(おたがい)の身躯(からだ)がすれすれに動く。キキーと鋭(する)どい羽摶(はばたき)をして一羽の雉子(きじ)が藪(やぶ)の中から飛び出す。

「雉子が」と余は窓の外を見て云う。

「どこに」と女は崩した、からだを擦寄(すりよ)せる。余の顔と女の顔が触れぬばかりに近づく。細い鼻の穴から出る女の呼吸(いき)が余の髭(ひげ)にさわった。

「非人情ですよ」と女はたちまち坐住居(いずまい)を正しながら屹(きっ)と云う。

「無論」と言下(ごんか)に余は答えた。

 岩の凹(くぼ)みに湛(たた)えた春の水が、驚ろいて、のたりのたりと鈍(ぬる)く揺(うご)いている。地盤の響きに、満泓(まんおう)の波が底から動くのだから、表面が不規則に曲線を描くのみで、砕(くだ)けた部分はどこにもない。円満に動くと云う語があるとすれば、こんな場合に用いられるのだろう。落ちついて影を《ひた》していた山桜が、水と共に、延びたり縮んだり、曲がったり、くねったりする。しかしどう変化してもやはり明らかに桜の姿を保(たも)っているところが非常に面白い。

「こいつは愉快だ。奇麗(きれい)で、変化があって。こう云う風に動かなくっちゃ面白くない」

「人間もそう云う風にさえ動いていれば、いくら動いても大丈夫ですね」

「非人情でなくっちゃ、こうは動けませんよ」

「ホホホホ大変非人情が御好きだこと」

「あなた、だって嫌(きらい)な方じゃありますまい。昨日(きのう)の振袖(ふりそで)なんか……」と言いかけると、

「何か御褒美(ごほうび)をちょうだい」と女は急に甘(あま)えるように云った。

「なぜです」

「見たいとおっしゃったから、わざわざ、見せて上げたんじゃありませんか」

「わたしがですか」

「山越(やまごえ)をなさった画(え)の先生が、茶店の婆さんにわざわざ御頼みになったそうで御座います」

 余は何と答えてよいやらちょっと挨拶(あいさつ)が出なかった。女はすかさず、

「そんな忘れっぽい人に、いくら実(じつ)をつくしても駄目ですわねえ」と嘲(あざ)けるごとく、恨(うら)むがごとく、また真向(まっこう)から切りつけるがごとく二の矢をついだ。だんだん旗色(はたいろ)がわるくなるが、どこで盛り返したものか、いったん機先を制せられると、なかなか隙(すき)を見出しにくい。

「じゃ昨夕(ゆうべ)の風呂場も、全く御親切からなんですね」と際(きわ)どいところでようやく立て直す。

 女は黙っている。

「どうも済みません。御礼に何を上げましょう」と出来るだけ先へ出て置く。いくら出ても何の利目(ききめ)もなかった。女は何喰わぬ顔で大徹和尚(だいてつおしょう)の額を眺(なが)めている。やがて、

「竹影(ちくえい)払階(かいをはらって)塵不動(ちりうごかず)」

と口のうちで静かに読み了(おわ)って、また余の方へ向き直ったが、急に思い出したように、

「何ですって」

と、わざと大きな声で聞いた。その手は喰わない。

「その坊主にさっき逢(あ)いましたよ」と地震に揺(ゆ)れた池の水のように円満な動き方をして見せる。

「観海寺(かんかいじ)の和尚ですか。肥(ふと)ってるでしょう」

「西洋画で唐紙(からかみ)をかいてくれって、云いましたよ。禅坊さんなんてものは随分訳(わけ)のわからない事を云いますね」

「それだから、あんなに肥れるんでしょう」

「それから、もう一人若い人に逢いましたよ。……」

「久一(きゅういち)でしょう」

「ええ久一君です」

「よく御存じです事」

「なに久一君だけ知ってるんです。そのほかには何にも知りゃしません。口を聞くのが嫌(きらい)な人ですね」

「なに、遠慮しているんです。まだ小供ですから……」

「小供って、あなたと同じくらいじゃありませんか」

「ホホホホそうですか。あれは私(わたく)しの従弟(いとこ)ですが、今度戦地へ行くので、暇乞(いとまごい)に来たのです」

「ここに留(とま)って、いるんですか」

「いいえ、兄の家(うち)におります」

「じゃ、わざわざ御茶を飲みに来た訳ですね」

「御茶より御白湯(おゆ)の方が好(すき)なんですよ。父がよせばいいのに、呼ぶものですから。麻痺(しびれ)が切れて困ったでしょう。私がおれば中途から帰してやったんですが……」

「あなたはどこへいらしったんです。和尚(おしょう)が聞いていましたぜ、また一人(ひとり)散歩かって」

「ええ鏡の池の方を廻って来ました」

「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」

「行って御覧なさい」

「画(え)にかくに好い所ですか」

「身を投げるに好い所です」

「身はまだなかなか投げないつもりです」

「私は近々(きんきん)投げるかも知れません」

 余りに女としては思い切った冗談(じょうだん)だから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。

「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」

「え?」

「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」

 女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧(かえり)みてにこりと笑った。茫然(ぼうぜん)たる事多時(たじ)。

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