草枕

14話 十二(2)

3,736字 約7分 1999年2月17日 公開

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 ああ出来た、出来た。これで出来た。寝ながら木瓜を観(み)て、世の中を忘れている感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出ればそれで結構である。と唸(うな)りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払(せきばらい)が聞えた。こいつは驚いた。

 寝返(ねがえ)りをして、声の響いた方を見ると、山の出鼻を回って、雑木(ぞうき)の間から、一人の男があらわれた。

 茶の中折(なかお)れを被(かぶ)っている。中折れの形は崩(くず)れて、傾(かたむ)く縁(へり)の下から眼が見える。眼の恰好(かっこう)はわからんが、たしかにきょろきょろときょろつくようだ。藍(あい)の縞物(しまもの)の尻を端折(はしょ)って、素足(すあし)に下駄がけの出(い)で立(た)ちは、何だか鑑定がつかない。野生(やせい)の髯(ひげ)だけで判断するとまさに野武士(のぶし)の価値はある。

 男は岨道(そばみち)を下りるかと思いのほか、曲り角からまた引き返した。もと来た路へ姿をかくすかと思うと、そうでもない。またあるき直してくる。この草原を、散歩する人のほかに、こんなに行きつ戻りつするものはないはずだ。しかしあれが散歩の姿であろうか。またあんな男がこの近辺(きんぺん)に住んでいるとも考えられない。男は時々立ち留(どま)る。首を傾ける。または四方を見廻わす。大に考え込むようにもある。人を待ち合せる風にも取られる。何だかわからない。

 余はこの物騒(ぶっそう)な男から、ついに吾眼をはなす事ができなかった。別に恐しいでもない、また画(え)にしようと云う気も出ない。ただ眼をはなす事ができなかった。右から左、左りから右と、男に添うて、眼を働かせているうちに、男ははたと留った。留ると共に、またひとりの人物が、余が視界に点出(てんしゅつ)された。

 二人は双方(そうほう)で互に認識したように、しだいに双方から近づいて来る。余が視界はだんだん縮(ちぢ)まって、原の真中で一点の狭(せま)き間に畳(たた)まれてしまう。二人は春の山を背(せ)に、春の海を前に、ぴたりと向き合った。

 男は無論例の野武士(のぶし)である。相手は? 相手は女である。那美(なみ)さんである。

 余は那美さんの姿を見た時、すぐ今朝の短刀を連想した。もしや懐(ふところ)に呑(の)んでおりはせぬかと思ったら、さすが非人情(ひにんじょう)の余もただ、ひやりとした。

 男女は向き合うたまま、しばらくは、同じ態度で立っている。動く景色(けしき)は見えぬ。口は動かしているかも知れんが、言葉はまるで聞えぬ。男はやがて首を垂(た)れた。女は山の方を向く。顔は余の眼に入らぬ。

 山では鶯(うぐいす)が啼(な)く。女は鶯に耳を借して、いるとも見える。しばらくすると、男は屹(きっ)と、垂れた首を挙げて、半(なか)ば踵(くびす)を回(めぐ)らしかける。尋常の様(さま)ではない。女は颯(さっ)と体を開いて、海の方へ向き直る。帯の間から頭を出しているのは懐剣(かいけん)らしい。男は昂然(こうぜん)として、行きかかる。女は二歩(ふたあし)ばかり、男の踵を縫(ぬ)うて進む。女は草履(ぞうり)ばきである。男の留(とま)ったのは、呼び留められたのか。振り向く瞬間に女の右手(めて)は帯の間へ落ちた。あぶない!

 するりと抜け出たのは、九寸五分かと思いのほか、財布(さいふ)のような包み物である。差し出した白い手の下から、長い紐(ひも)がふらふらと春風(しゅんぷう)に揺れる。

 片足を前に、腰から上を少しそらして、差し出した、白い手頸(てくび)に、紫の包。これだけの姿勢で充分画(え)にはなろう。

 紫でちょっと切れた図面が、二三寸の間隔をとって、振り返る男の体(たい)のこなし具合で、うまい按排(あんばい)につながれている。不即不離(ふそくふり)とはこの刹那(せつな)の有様を形容すべき言葉と思う。女は前を引く態度で、男は後(しり)えに引かれた様子だ。しかもそれが実際に引いてもひかれてもおらん。両者の縁(えん)は紫の財布の尽くる所で、ふつりと切れている。

 二人の姿勢がかくのごとく美妙(びみょう)な調和を保(たも)っていると同時に、両者の顔と、衣服にはあくまで、対照が認められるから、画として見ると一層の興味が深い。

 背(せ)のずんぐりした、色黒の、髯(ひげ)づらと、くっきり締(しま)った細面(ほそおもて)に、襟(えり)の長い、撫肩(なでがた)の、華奢(きゃしゃ)姿。ぶっきらぼうに身をひねった下駄がけの野武士と、不断着(ふだんぎ)の銘仙(めいせん)さえしなやかに着こなした上、腰から上を、おとなしく反(そ)り身に控えたる痩形(やさすがた)。はげた茶の帽子に、藍縞(あいじま)の尻切(しりき)り出立(でだ)ちと、陽炎(かげろう)さえ燃やすべき櫛目(くしめ)の通った鬢(びん)の色に、黒繻子(くろじゅす)のひかる奥から、ちらりと見せた帯上(おびあげ)の、なまめかしさ。すべてが好画題(こうがだい)である。

 男は手を出して財布を受け取る。引きつ引かれつ巧(たく)みに平均を保ちつつあった二人の位置はたちまち崩(くず)れる。女はもう引かぬ、男は引かりょうともせぬ。心的状態が絵を構成する上に、かほどの影響を与えようとは、画家ながら、今まで気がつかなかった。

 二人は左右へ分かれる。双方に気合(きあい)がないから、もう画としては、支離滅裂(しりめつれつ)である。雑木林(ぞうきばやし)の入口で男は一度振り返った。女は後(あと)をも見ぬ。すらすらと、こちらへ歩行(あるい)てくる。やがて余の真正面(ましょうめん)まで来て、

「先生、先生」

と二声(ふたこえ)掛けた。これはしたり、いつ目付(めっ)かったろう。

「何です」

と余は木瓜(ぼけ)の上へ顔を出す。帽子は草原へ落ちた。

「何をそんな所でしていらっしゃる」

「詩を作って寝(ね)ていました」

「うそをおっしゃい。今のを御覧でしょう」

「今の? 今の、あれですか。ええ。少々拝見しました」

「ホホホホ少々でなくても、たくさん御覧なさればいいのに」

「実のところはたくさん拝見しました」

「それ御覧なさい。まあちょっと、こっちへ出ていらっしゃい。木瓜の中から出ていらっしゃい」

 余は唯々(いい)として木瓜の中から出て行く。

「まだ木瓜の中に御用があるんですか」

「もう無いんです。帰ろうかとも思うんです」

「それじゃごいっしょに参りましょうか」

「ええ」

 余は再び唯々として、木瓜の中に退(しりぞ)いて、帽子を被(かぶ)り、絵の道具を纏(まと)めて、那美さんといっしょにあるき出す。

「画を御描きになったの」

「やめました」

「ここへいらしって、まだ一枚も御描きなさらないじゃありませんか」

「ええ」

「でもせっかく画をかきにいらしって、ちっとも御かきなさらなくっちゃ、つまりませんわね」

「なにつまってるんです」

「おやそう。なぜ?」

「なぜでも、ちゃんとつまるんです。画なんぞ描(か)いたって、描かなくったって、つまるところは同(おんな)じ事でさあ」

「そりゃ洒落(しゃれ)なの、ホホホホ随分呑気(のんき)ですねえ」

「こんな所へくるからには、呑気にでもしなくっちゃ、来た甲斐(かい)がないじゃありませんか」

「なあにどこにいても、呑気にしなくっちゃ、生きている甲斐はありませんよ。私なんぞは、今のようなところを人に見られても恥(はず)かしくも何とも思いません」

「思わんでもいいでしょう」

「そうですかね。あなたは今の男をいったい何だと御思いです」

「そうさな。どうもあまり、金持ちじゃありませんね」

「ホホホ善(よ)くあたりました。あなたは占(うらな)いの名人ですよ。あの男は、貧乏して、日本にいられないからって、私に御金を貰いに来たのです」

「へえ、どこから来たのです」

「城下(じょうか)から来ました」

「随分遠方から来たもんですね。それで、どこへ行くんですか」

「何でも満洲へ行くそうです」

「何しに行くんですか」

「何しに行くんですか。御金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分りません」

 この時余は眼をあげて、ちょと女の顔を見た。今結んだ口元には、微(かす)かなる笑の影が消えかかりつつある。意味は解(げ)せぬ。

「あれは、わたくしの亭主です」

 迅雷(じんらい)を掩(おお)うに遑(いとま)あらず、女は突然として一太刀(ひとたち)浴びせかけた。余は全く不意撃(ふいうち)を喰(く)った。無論そんな事を聞く気はなし、女も、よもや、ここまで曝(さら)け出そうとは考えていなかった。

「どうです、驚ろいたでしょう」と女が云う。

「ええ、少々驚ろいた」

「今の亭主じゃありません、離縁(りえん)された亭主です」

「なるほど、それで……」

「それぎりです」

「そうですか。――あの蜜柑山(みかんやま)に立派な白壁の家がありますね。ありゃ、いい地位にあるが、誰の家(うち)なんですか」

「あれが兄の家です。帰り路にちょっと寄って、行きましょう」

「用でもあるんですか」

「ええちっと頼まれものがあります」

「いっしょに行きましょう」

 岨道(そばみち)の登り口へ出て、村へ下りずに、すぐ、右に折れて、また一丁ほどを登ると、門がある。門から玄関へかからずに、すぐ庭口へ廻る。女が無遠慮につかつか行くから、余も無遠慮につかつか行く。南向きの庭に、棕梠(しゅろ)が三四本あって、土塀(どべい)の下はすぐ蜜柑畠である。

 女はすぐ、椽鼻(えんばな)へ腰をかけて、云う。

「いい景色だ。御覧なさい」

「なるほど、いいですな」

 障子のうちは、静かに人の気合(けあい)もせぬ。女は音(おと)のう景色もない。ただ腰をかけて、蜜柑畠を見下(みおろ)して平気でいる。余は不思議に思った。元来何の用があるのかしら。

 しまいには話もないから、両方共無言のままで蜜柑畠を見下している。午(ご)に逼(せま)る太陽は、まともに暖かい光線を、山一面にあびせて、眼に余る蜜柑の葉は、葉裏まで、蒸(む)し返(かえ)されて耀(かが)やいている。やがて、裏の納屋(なや)の方で、鶏が大きな声を出して、こけこっこううと鳴く。

「おやもう。御午(おひる)ですね。用事を忘れていた。――久一(きゅういち)さん、久一さん」

 女は及(およ)び腰(ごし)になって、立て切った障子(しょうじ)を、からりと開(あ)ける。内は空(むな)しき十畳敷に、狩野派(かのうは)の双幅(そうふく)が空しく春の床(とこ)を飾っている。

「久一さん」

 納屋(なや)の方でようやく返事がする。足音が襖(ふすま)の向(むこう)でとまって、からりと、開(あ)くが早いか、白鞘(しらさや)の短刀(たんとう)が畳の上へ転(ころ)がり出す。

「そら御伯父(おじ)さんの餞別(せんべつ)だよ」

 帯の間に、いつ手が這入(はい)ったか、余は少しも知らなかった。短刀は二三度とんぼ返りを打って、静かな畳の上を、久一さんの足下(あしもと)へ走る。作りがゆる過ぎたと見えて、ぴかりと、寒いものが一寸(すん)ばかり光った。

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