24話 福翁自伝 02 福翁自伝(24)
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暗殺の患は政治家の方に廻わる凡そ私共の暗殺を恐れたのは、前に申す通り文久二、三年から明治六、七年頃までのことでしたが、世間の風潮は妙なもので、新政府の組織が次第に整頓して、随て執政者の権力も重きを成して、自から威福の行われるようになると同時に、天下の耳目は政府の一方に集り、私の不平も公衆の苦情も何も蚊もその原因を政府の当局者に帰して、之に加うるに羨望嫉妬の念を以てして、今度は政府の役人達が狙われるようになって来て、洋学者の方は大に楽になりました。喰違に岩倉公襲撃の頃からソロ/\始まって、明治十一年、大久保内務卿の暗殺以来、毎度の兇変は皆政治上の意味を含んで居るから、云わば学者の方は御留主になって、政治家の為めには誠に気の毒で万々推察しますが、私共は人に羨まれる事がないから、先ず以て今日は安心と思います。
剣を棄てゝ剣を揮う私が芝の源助町で人を斬ろうと決心した、居合も少し心得て居るなんて云えば、何か武人めいて刀剣でも大切にするように見えるけれども、その実は全く反対で、爾うではないどころか、日本武士の大小を丸で罷めて仕舞いたいとは私の宿願でした。源助町のときには成程双刀を挟して、刀は金剛兵衛盛高、脇差は備前祐定、先ず相応に切れそうな物であったが、その後、間もなく盛高も祐定も家にある刀剣類はみんな売て仕舞て、短かい脇差のような物を刀にして御印に挟して居たが、是れに就ても話がある。或日、本郷に居る親友高畑五郎を訪問していろ/\話をして居る中に、不図気が付て見ると恐ろしい長い刀が床の間に一本飾てあるから、私が高畑に向て、あれは居合刀のようだが何にするのかと問えば、主人の云うに、近来世の中に剣術が盛になって刀剣が行われる、ナニ洋学者だからと云て負けることはない、僕も一本求めたのだとリキンで居るから、私は之を打消し、「ソレは詰らない、君は之を以て威すつもりだろうが、長い刀を家に置て今の浪人者を威そうと云ても、威嚇の道具になりはしない。詰らぬ話だ、止しなさい。僕は家にある刀剣はみんな売て仕舞て、今挟して居るこの大小二本きりしかない。然かもその大の方は長い脇差を刀にしたので、小の方は鰹節小刀を鞘に蔵めてお飾に挟して居るのだ。ソレに君がこんな大造な長い刀を弄くると云うのは、君に不似合だ、止すが宜い、御願だから止して呉れ。論より証拠、君にはこの刀は抜けないに極て居る、それとも抜くことが出来るか。「ソレは抜くことは出来ない、迚もこんな長い物を。「ソリャ見たことか、抜けもせぬものを飾て置くと云う馬鹿者があるか。僕は一切刀を罷めて居るが、憚りながら抜くことは知て居るぞ、抜て見せようと云て、四尺ばかりもある重い刀を取て庭に下りて、兼て少し覚え居る居合の術で二、三本抜て見せて、「サア見給え、この通りだ。どうだ、君には抜けなかろう。その抜ける者は疾くに刀を売て仕舞たのに、抜けない者が飾て置くとは間違いではないか。是れは独り吾々洋学者ばかりでない、日本国中の刀を皆なうっちゃって仕舞うと云うことにしなければならぬ、だからこんなものは颯々と片付けて仕舞うが宜しい。君も今から廃刀と決心して、いよ/\飾りに挟さなければならんと云うなら、小刀でも何でも宜しいと云て、大きに論じた事がある。
扇子から懐剣が出る是れも大抵同時代と思う。幕府の飜訳局に雇れて其処に出て居た時、或人が私に話すに、「近来なか/\面白い扇子が流行る。鉄扇と云うものは昔から行われて居たが、今はソレが大に進歩して、唯の扇子と見せて置て、その実はヒョイと抜くと懐剣が出て来る、なか/\面白い事を発明したと噂して居る。ソコで私が大にまぜかえして遣た。「扇子の中から懐剣の出るのが何が賞めた話だ。それよりも懐剣として置て、ヒョイト抜くと中から扇子の出るのが本当だ、倒まにしろ、爾うしたら賞めて遣る、そんな馬鹿な殺伐な事をする奴があるものか、面白くもないと云て、打毀した事を覚えて居ます。
幕府が倒れると私はスグ帰農して、夫れ切り双刀を廃して丸腰になると、塾の中でも段々廃刀者が出来る。所がこの廃刀と云う事は中々容易な事でない。実を申せば持兇器を罷めるのだから、世間の人は悦びそうなものだが、決して爾うでない。私が始めて腰の物なしで汐留の奥平屋敷に行た所が、同藩士は大に驚き、丸腰で御屋敷に出入するとは殿様に不敬ではないかなどゝ議論する者もありました。又或るとき塾の小幡仁三郎と誰か二、三人で散歩中、その廃刀を何処かの壮士に見咎められて怖い思いをした事もある、けれども私は断然廃刀と決心して、少しも世の中に頓着せず、「文明開国の世の中に難有そうに兇器を腰にして居る奴は馬鹿だ、その刀の長いほど大馬鹿であるから、武家の刀は之を名けて馬鹿メートルと云うが好かろうなどゝ放言して居れば、塾中にも自から同志がある。
和田与四郎壮士を挑む明治四年、新銭座から今の三田に移転した当分の事と思う、或日和田義郎(今は故人になりました)と云う人が、思切た戯をして壮士を驚かしたことがある。この人は後に慶應義塾幼椎舎の舎長として性質極めて温和、大勢の幼稚生を実子のように優しく取扱い、生徒も亦舎長夫婦を実の父母のように思うと云う程の人物であるが、本来は和歌山藩の士族で、少年の時から武芸に志して体格も屈強、殊に柔術は最も得意で、所謂怖いものなしと云う武士であるが、一夕例の丸腰で二、三人連れ、芝の松本町を散歩して行くと、向うから大勢の壮士が長い大小を横たえて大道狭しと遣て来る。スルと和田が小便をしながら往来の真中を歩いて行く。サアこの小便を避けて左右に道を開くか、何か咎め立てして喰て掛るか、爰が喧嘩の間一髪、いよ/\掛て来れば五人でも十人でも投り出して殺して仕舞うと云う意気込が、先方の若武者共に分たか、何にも云わずに避けて通たと云う。大道で小便とは今から考えれば随分乱暴であるが、乱世の時代には何でもない、こんな乱暴が却て塾の独立を保つ為めになりました。
百姓に乗馬を強ゆ相手は壮士ばかりでない、唯の百姓町人に対しても色々試みた事がある。その頃私が子供を連れて江ノ島鎌倉に遊び、七里ヶ浜を通るとき、向うから馬に乗て来る百姓があって、私共を見るや否や馬から飛下りたから、私が咎めて、「是れ、貴様は何だと云て、馬の口を押えて止めると、百姓が怖わそうな顔をして頻りに詫るから、私が、「馬鹿云え、爾うじゃない、この馬は貴様の馬だろう「ヘイ「自分の馬に自分が乗たら何だ、馬鹿な事するな、乗て行けと云ても中々乗らない。「乗らなけりゃ打撲るぞ、早く乗て行け、貴様は爾う云う奴だからいけない。今政府の法律では百姓町人、乗馬勝手次第、誰が馬に乗て誰に逢うても構わぬ、早く乗て行けと云て、無理無体に乗せて遣りましたが、その時私の心の中で独り思うに、古来の習慣は恐ろしいものだ、この百姓等が教育のない計りで物が分らずに法律のあることも知らない。下々の人民がこんなでは仕方がないと余計な事を案じた事がある。
路傍の人の硬軟を試る夫れから又斯う云う面白い事がありました。明治四年の頃でした。摂州三田藩の九鬼と云う大名は兼て懇意の間柄で、一度は三田に遊びに来いと云う話もあり、私もその節病後の身で有馬の温泉にも行て見たし、かた/″\先ず大阪まで出掛けて、大阪から三田まで凡そ十五里、途中名塩に一泊する積りにして、ソコで大阪に行けば何時でも緒方の家を訪問しないことはない、故先生は居ないでも未亡夫人が私を子のようにして愛して呉れるから、大阪に着くと取敢えず緒方に行て、三田に遊び有馬に行くことなども話しました所が、私は病後でどうも歩けそうにない、駕籠を貸して遣ろうと云われるので、その駕籠をつらせて大阪を出立した。頃は旧暦の三、四月、誠に好い時候で、私はパッチを穿て羽織か何か着て蝙蝠傘を持て、駕籠に乗て行くつもりであったが、少し歩いて見るとなか/\歩ける。「コリャ駕籠は要らぬ、駕籠屋、先へ行け、乃公は一人で行くからと云て、たった一人で供もなければ連れもない、話相手がなくて面白くない所から、何でも人に逢うて言葉を交えて見たいと思い、往来の向うから来る百姓のような男に向て道を聞たら、そのとき私の素振りが何か横風で、むかしの士族の正体が現われて言葉も荒らかったと見える、するとその百姓が誠に丁寧に道を数えて呉れてお辞儀をして行く、こりゃ面白いと思い、自分の身を見れば持て居るものは蝙蝠傘一本きりで何にもない、も一度遣て見ようと思うて、その次ぎに来る奴に向て怒鳴り付け、「コリや待て、向うに見える村は何と申す村だ、シテ村の家数は凡そ何軒ある、あの瓦屋の大きな家は百姓か町人か、主人の名は何と申すなどゝ下らぬ事をたゝみ掛けて士族丸出しの口調で尋ねると、その奴は道の側に小さくなって恐れながら御答申上げますと云うような様子だ。此方はます/\面白くなって、今度は逆に遣て見ようと思付き、又向うから来る奴に向て、「モシモシ憚りながら一寸ものをお尋ね申しますと云うような口調に出掛けて、相替らず下らぬ問答を始め、私は大阪生れで又大阪にも久しく寄留して居たから、その時には大抵大阪の言葉も知て居たから、都て奴の調子に合せてゴテ/\話をすると、奴は私を大阪の町人が掛取にでも行く者と思うたか、中々横風でろくに会釈もせずに颯々と別れて行く、底で今度は又その次ぎの奴に横風をきめ込み、又その次ぎには丁寧に出掛け、一切先方の面色に取捨なく誰でも唯向うから来る人間一匹ずつ一つ置きと極めて遣て見た所が、凡そ三里ばかり歩く間、思う通りに成たが、ソコデ私の心中は甚だ面白くない。如何にも是れは仕様のない奴等だ、誰も彼も小さくなるなら小さくなり、横風ならば横風で可し、斯う何うも先方の人を見て自分の身を伸縮するような事では仕様がない、推して知るべし地方小役人等の威張るのも無理はない、世間に圧制政府と云う説があるが、是れは政府の圧制ではない人民の方から圧制を招くのだ、之を何うして呉れようか、捨てようと云て固より見捨てられる者でない、左ればとて之を導いて俄に教えようもない、如何に百千年来の余弊とは云いながら、無教育の土百姓が唯無闇に人に詫るばかりなら宜しいが、先き次第で驕傲になったり柔和になったり、丸でゴムの人形見るようだ、如何にも頼母しくないと大に落胆したことがあるが、変れば変る世の中で、マアこの節はそのゴム人形も立派な国民と成て学問もすれば商工業も働き、兵士にすれば一命を軽んじて国の為めに水火にも飛込む。福澤が蝙蝠傘一本で如何に士族の仮色を使うても、之に恐るゝ者は全国一人もあるまい。是れぞ文明開化の賜でしょう。
独立敢て新事例を開く私の考は塾に少年を集めて原書を読ませる計りが目的ではない。如何様にもしてこの鎖国の日本を開て西洋流の文明に導き、富国強兵以て世界中に後れを取らぬようにしたい。左りとて唯これを口に言うばかりでなく、近く自分の身より始めて、仮初めにも言行齟齬しては済まぬ事だと、先ず一身の私を慎しみ、一家の生活法を謀り、他人の世話にならぬようにと心掛けて、扨一方に世の中を見て文明改進の為めに施して見たいと思う事があれば、世論に頓着せず思切て試みました。例えば前にも申した通り、学生から授業料の金を取立てる事なり、武士の魂と云う双刀を棄てゝ丸腰になる事なり、演説の新法を人に説て之を実地に施す事なり、又は著訳書に古来の文章法を破て平易なる通俗文を用うる事なり、凡そ是等は当時の古風家に嫌われる事であるが、幸に私の著訳は世間の人気に役じて渇する者に水を与え、大旱に夕立のしたようなもので、その売れたことは実に驚く程の数でした。時節の悪いときに、ドンな文章家ドンな学者が何を著述したって何を飜訳したって、私の出版書のように売れよう訳けはない。畢竟私の才力がエライと云うよりも、時節柄がエラかったのである。又その時代の学者達が筆不調法であったか、馬鹿に青雲熱に浮かされて身の程を知らず時勢を見ることを知らなかったか、マアそのくらいの事だと思われる。兎にも角にも著訳書が私の身を立て家を成す唯一の基本になって、ソレで私塾を開ても、生徒から僅ばかりの授業料を掻集めて私の身に着けるようなケチな事をせずに、全く教師等の所得にすることが出来たその上に、折々私の財嚢から金を出して塾用を弁ずることも出来ました。
所で私の性質は全体放任主義と云おうか、又は小慾にして大無慾とでも云おうか、塾の事に就て朝夕心を用いて一生懸命、些細の事まで種々無量に心配しながら、又一方ではこの塾にブラサガッて居る身ではない、是非とも慶應義塾を永久に遺して置かなければならぬと云う義務もなければ名誉心もないと、初めから安心決定して居るから、随て世の中に怖いものがない。同志の後進生と相談して思う通りに事を行えば、塾中自から独立の気風を生じて世間の反りに合わぬことも多いのと、又一つには私が政治社会に出ることを好まずに在野の身でありながら、口もあれば筆もあるから颯々と言論して、時としてはその言論が政府の癪に障ることもあろう。実を云えば私は政府に対して不平はない、役人達の以前が、無鉄砲な攘夷家であろうとも、人を困らせた奴であろうとも、一切既往を云わず、唯今日の文明主義に変化して開国一偏に国事を経営して呉れゝば遺憾なしと思えども、何かの気まぐれに官民とか朝野とか忌に区別を立てゝ、私塾を疏外し邪魔にして、甚だしきは之を妨げんなんとケチな事をされたのには少々困りました。今これを云えば話も長し言葉も穢くなるから抜きにして、近年帝国議会の開設以来は官辺の風も大に改まりて、余り酷い事はない。何れ遠からぬ中に双方打解けるように成るでしょう。
又私は知る人の為めに尽力したことがあります。是れは唯私の物数寄ばかり、決して政治上の意味を含んで居るのでも何でもない。真実一身の道楽と云おうか、慈悲と云おうか、癇癪と云おうか、マアそんな所から大に働いたことがあります。仙台藩の留守居役を勤めて居た大童信太夫と云う人があって、旧幕府時代から私はその人と極、懇意にして居ました、と云てその人が蘭学者でもなければ英学者でもない、けれども兎に角に西洋文明の風を好み洋学書生を愛して楽しみにして居る所は、気品の高い名士と申して宜しい。当事諸藩の留守居役でも勤めて居れば、芸者を上げて騒ぐとか、茶屋に集まるとか、相撲を贔屓にするとか云うのが江戸普通の風俗で、大童も大藩の留守居だから随分金廻わりも宜かったろうと思われるに、絶えてそんな馬鹿な遊びをせず、唯何でも書生を養て遣ると云うことが面白くて、書生の世話ばかりして、凡そ当時仙台の書生で大童の家の飯を喰わない者はなかろう。今の富田鉄之助を始め一人として世話にならない者はない。所が幕末の時勢段々切迫して、王政維新の際に仙台は佐幕論に加担して忽ち失敗して、その謀主は但木土佐と云う家老であると定まって、その人は腹を切て仕舞ったその後で、但木土佐が謀主だと云うけれども、その実は謀主の謀主がある、ソレは誰だと云うに大童信太夫、松倉良助の両人だと斯う云う訳けで、維新後その両人は仙台に帰て居た所が、サアその仙台の同藩中の者から妙な事を饒舌り出した、既に政府は朝敵の処分をして事済になっては居るが、内からそんなことを云出して、マダ罪人が幾人もあると訴えたからには、マサか捨てゝも置かれぬと云う所から、久我大納言を勅使として下向を命じた、と云う政府の趣意は甚だ旨い、この時に政府は既に処分済の後だから、成る丈け平穏を主として事を好まぬ。ソコで久我と仙台家とは親類であるから、久我が行けば定めて大目に見るであろう、左すれば怪我人も少ないだろうと云う為めに、態と久我を択んだと云うことは、その時私も窃に聞きました。政府の略は中々行届いて居る、所が仙台の藩士が有ろうことか有るまいことか、御上使の御下向と聞て景気を催し、生首を七ツとやら持て出たので久我も驚いたと云う、そんな事まで仙台藩士が遣た。その時に松倉も大童も、居れば危ないから脊戸口から駈出して、東京まで逃げて来た、と云うのは両人ともモウちゃんと首を斬られる中に数えられて居たその次第を、誰か告げて呉れる者があって、その儘家を飛出して東京へ来て潜んで居るその中にも、仙台藩の人が在京の同藩人に対して様々残酷な事をして、既に熱海貞爾と云う男は或夜今其処で同藩士に追駈けられたと申して、私方に飛込んで助かった事さえありましたが、この物騒な危ない中にも、大童と松倉はどうやら斯うやら久しく免かれて居て、私は素より懇意だからその居処も知て居れば私の家にも来る。政府の人から見られるのは苦しくない、政府はそんな野暮はしない、そんな者を見ようともしないが、何分にも同藩の者が遣るので誠に危ない。引捕えて、是れが罪人でございと云えば、如何に優しい大目な政府でも唯見ては居られない。実に困た身の有様だと、毎度両人と話す中に、私は両人の為めに同情を表すると云うよりも、寧ろこの仙台藩士の無情残酷と云うことに酷く腹が立ちました。弱武者の意気地のない癖に酷い事をする奴だ、ドウかして呉れたいものだと斯う考えた所で、夫れから私が大童に面会して、ドウか青天白日の身になる工夫がありそうなものだ、私が一つ試みて見よう、何でも是れは一番、藩主を引捕えて談ずるが上策だろうと相談して、私は大きに御苦労な訳けだけれども、日比谷内にある仙台の屋敷に行て、藩主に御目に懸りたいと触込んで、藩主に面会した。ソコで私がこの藩主に向て大に談じられる由縁のあると云うのは、その藩主と云う者は伊達家の分家宇和島藩から養子に来た人で、前年養子になると云うその時に、私が与て大に力がある、と云うのは当時大童が江戸屋敷の留守居で世間の交際が広いと云うので、養子選択の事を一人で担任して居て、或時私に談じて、「お前さんの処(奥平家)の殿様は宇和島から来て居る、その兄さんが国(宇和島)に居る、その人の強弱智愚如何を聞て貰いたいと云うから、早速取調べて返事をして、先ず大童の胸に落ちて、今度は宇和島家の方に相談をして貰いたいと云うので、夫れから又私は麻布竜土の宇和島の屋敷に行て、家老の桜田大炊と云う人に面会してその話をすると、一も二もなく、本家の養子になろうと云うのだから唯難有いとの即答、一切大童と私と二人で周旋して、夫れから表向きになって貰たその人が、その時の藩主になって居るので、ソコで私がその藩主に遇うて、時に尊藩の大童、松倉の両人が、この間仙台から逃げて参たのは、彼方に居れば殺されるから此方に飛出して来たのであるが、彼の両人は今でも見付け出せば藩主に於て本当に殺す気があるのか、但し殺したくないのか、ソレを承りたい。「イヤ決して殺したいなどゝ云う意味はない。「然らばモウ一歩進めて、お前さんはソレを助けると云う工夫をして、ドウかして、命の繋がるようにして遣ては如何で御座る。実はお前さんは大童に向て大に報いなければならぬことがある。知るや知らずや、お前さんが仙台の御家に養子に来たのは斯う云う由来、是れ/\の次第であったが、夫れを思うても殺すことは出来まい。屹度御決答を伺いたいと、顔色を正しくして談じた処が、「決して殺す気はないが、是れは大参事に任かしてあるから、大参事さえ助けると云う気になれば、私には勿論異論はないと云う。マダ若い小供でしたから何事も大参事に任かしてあったのでしょう。「然らばお前さんは確かだな。「確かだ。「ソレならば宜しい、大参事に遇おうと云て、直ぐ側の長屋に居たから其処へ捻込んだ。サア今藩主に話をして来たがドウだ。藩主は大参事次第だと確かに申された。然らば則ち生殺はお前さんの手中にある、殺す気か、殺さぬ気か。仮しや殺す積りで捜し出そうと云ても決して出る気遣いはない。私はちゃんと居処を知て居る、捜せるなら試みに捜して見るが宜い、捕縛すると云うなら私の力の有らん限り隠蔽して見せよう、出来るだけ摘発して見なさい、何時まで経ても無益だ。そんな事をして人を苦しめないでも宜いだろうと、裏表から色々話すと、大参事にも言葉がない。いよ/\助ける、助けるけれども薩州辺りから何とか口を添えて呉れると都合が宜いなんて又弱い事を云うから、宜しいと云い棄てゝ、夫れから私は薩州の屋敷に行て、斯う/\云う次第柄だから助けて遣て呉れぬかと云うと、大藩とか強藩とか云うので口を出すのは実は迷惑な話だが、何も六かしい事はない、宮内省に弁事と云うものがあるから、その者に就て政府の内意を聞て上げるからと云て、薩摩の公用人が政府の内意を聞て、私の処に報知して呉れたには、兎も角も自訴させるが宜しい、自訴すれば八十日の禁錮ですっかり罪は滅びて仕舞うと云うことが分た。夫れから念の為め私は又仙台の屋敷に行て大参事に面会して、政府の方は自訴すれば八十日と極て居るが、之にお負けが付きはしないか、自訴と云えばこの屋敷に自訴するのであるが、この屋敷で本藩の私を以て八十日を八年にして遣ろうなんと云うお負けを遣りはしないか、ソレを確かに約束しなければ玉は出されないと、念に念を入れて問答を重ね、最後には若し違約すれば復讐するとまで脅迫して、いよ/\大丈夫と安心して、ソレからその翌日両人を連れて日比谷の屋敷に行た、所が屋敷の役所見たような処には罪人、大童、松倉の旧時の属官ばかりが列んで居るだろう、罪人の方が余程エライ、オイ貴様はドウして居るのだと云うような調子で、私は側から見て可笑しかった。夫れから宇田川町の仙台屋敷の長屋の二階に八十日居て、ソレで事が済んで、ソレから二人は晴天白日、外を歩くようになって、その後は今日に至るまでも旧の通りに交際して互に文通して居ます。生涯変らぬ事でしょう。只この事たるや仙台藩の無気力残酷を憤ると同時に、藩中稀有の名士が不幸に陥りたるを気の毒に感じたからのことで、随分彼方此方と歩き廻りましたが、口で云えば何でもないけれども、人力車のある時節ではなし、一切歩いて行かなければならぬから中々骨が折れました。
夫れから榎本(当年の釜次郎、今の武揚)の話をしましょう。前に申す通りに古川節蔵は私の家から脱走したようなもので、後で聞て見れば榎本よりか先きに脱走したそうで、房州鋸山とか何処とかに居た佐幕党の人を長崎丸に乗せて、ソレを箱根山に上げて、ソレで箱根の騒動が起たので、あれは古川節蔵が遣たのだと申します。節蔵が脱走した後で以て、脱走艦は追々函館に行て、夫れから古川の長崎丸と一処に又此方へ侵しに来た、と云うのは官軍方の東艦、即ち私などが亜米利加から持て来た東艦が官軍の船になって居る、ソレを分捕りしようと云うことを企てゝ、そうして奥州宮古と云う港で散々戦た所が、負けて仕舞て到頭降参して、夫れから東京へ護送せられて、その時は法律も裁判所も何もないときで、糺問所と云う牢屋のようなものがあって、その糺問所の手に掛って古川節蔵と、前年、私が米国に同行した小笠原賢蔵と云う海軍士官と、二人連れで霞ヶ関の芸州の屋敷に監禁されて居る。ソコで私は前には馬鹿をするなと云て止めたのであるけれども、監禁されて居ると云えば可哀想だ。幸い芸州の屋敷に懇意な医者が居るから、その医者の処に行て、ドウかして古川に遇いたいものだが遇わして呉れぬかと云たらば、番人も何も居ないようであったが、その医者の取計いで、遇わして呉れました。夫れから長屋の暗いような処に行て見ると二人がチャンと這入て居るから、私が先ず言葉を掛けて、「ザマア見ろ、何だ、仕様がないじゃないか。止めまいことか、あれ程乃公が止めたじゃないか。今更ら云たって仕方はないが、何しろ喰物が不自由だろう、着物が足りなかろうと云て、夫れから宅に帰て毛布を持て行て遣たり、牛肉の煮たのを持て行て遣たり、戦争中の様子や監禁の苦しさ加減を聞たりした事があるので、私は〔能く〕糺問所の有様を知て居ます。
所が榎本釜次郎だ。釜次郎は節蔵よりか少し遅れて此方に帰て来て同じく糺問所の手に掛て居る。所が頓と音づれが分らない、と云うのは私は榎本と云う男は知て居ることは知て居る、途中で遇て一寸挨拶したぐらいな事はあるが、一緒に相対して共に語り共に論ずると云うような深い交際はない。だから余り気に止めて居なかった。所がこの榎本と云う一体の大本を云うと、あの阿母さんと云う人は素と一橋家の御馬方で林代次郎と云う日本第一乗馬の名人と云われた大家の娘で、この婦人が幕府の御徒士の榎本円兵衛と云う人に嫁して設けた次男が榎本釜次郎です。ソコでその林の家と私の妻の里の家とは回縁の遠い続合いになって居るから、ソレで前年中は榎本の家内の者も此方に来たことがある。又私の妻も小娘のときには祖母さんに連れられて榎本の家に行たことがあると云うので、少し往来の道筋が通て居て全く知らぬ人でない。所が榎本が今度糺問所の手に掛て居て、その節、榎本の阿母さんも姉さんもお内儀さんも静岡に居るが、一向釜次郎の処から便りがないので大に案じて居ると、丁度その時に榎本の妹の良人に江連加賀守と云う人があって、この人は素と幕府の外国奉行を勤めて居て私は外国方の飜訳方であったから能く知て居る。ソコで江連が静岡から私の処に手紙を寄越して、榎本はこの節どうして居るだろうか、頓と便りがないので母も姉も家内も日夜案じて居る、何でも江戸に来て居ると云う噂は風の便りに聞たけれども、ソレも確めることが出来ない、其れに就て江戸に親戚身寄の者に問合せたけれども、嫌疑を恐れてか只の一度も返辞を寄越した者がない、ソコで君の処に聞きに遣たら何か様子が分るだろうと思うが、ドウぞ知らして呉れぬかと云うことを縷々と書て来ました。所で私はその手紙を見て先ず立腹したと申すは、榎本は兎も角も、その親戚身寄の者が江戸に居ながら嫌疑を恐れて便りをしないとは卑劣な奴だ、薄情な奴だ、実に幕府の人間は皆こんな者だ、好し乃公が一人で引受けて遣ると云う心が頭に浮んで来て、加うるに私は古川節蔵の一件で糺問所の様子を知て居るから、スグ江連の方へ返辞を出し、榎本は今糺問所に這入て居る、殺されるか助かるかソリャどうも分らない、分らないけれども何しろ煩いもしなければ何もせずに無事に居るので御座る、その事を阿母さん始め皆さんへ伝えて呉れよと云て遣ると、又重ねて手紙を寄越して、老母と姉が東京に出たいと云うが上京しても宜しかろうかと云て来たから、颯々と御出なさい、私方に嫌疑もなんにもない、公然と出て御出でなさいと返辞をすると、間もなく老人と姉さんと母子二人出京して、ソレから糺問所の様子も分り差入物などして居る中に、阿母さんが是非釜次郎に逢いたいと云出した。所が法律も何もない世の中で、何処に訴えて如何しようと云う方角が分らない。ソコで私が一案を工風して、老母から哀願書を差出すことにして、私が認めた案文のその次第は、云々今般倅釜次郎犯罪の儀、誠に以て恐れ入ります、同人事は実父円兵衛存命中斯様々々、至極孝心深き者で、父に事えて平生は云々、又その病中の看病は云々、私は現在ソレを見て居ます、この孝行者にこの不忠を犯す筈はない、彼れに限て悪い根性の者では御在ません、ドウゾ御慈悲に御助けを願います、私はモウ余命もない者で御座るから、いよ/\釜次郎を刑罰とならばこの母を身代りとして殺して下さいと云う趣意で、分らない理窟を片言交りにゴテ/\厚かましく書て、姉さんのお楽さんに清書をさせて、ソレからお婆さんが杖をついて哀願書を持て糺問所に出掛けた処が、コレは余程監守の人を感動さしたと見え、固よりこんな事で罪人の助かる訳けはないが、とう/\仕舞に獄窓を隔てゝ母子面会だけは叶いました。夫れ是れする中に爰に妙な都合の宜い事が出来ましたその次第は、榎本が箱館で降参のとき、自分が嘗て和蘭在留中学び得たる航海術の講義筆記を秘蔵して居るその筆記の蘭文の書を、国の為めにとて官軍に贈て、その書が官軍の将官黒田良助(黒田清降)の手にあると云うことを聞きました。所で人は誰か忘れたが、或日その書を私方に持参して、何の書だか分らぬがこの蘭文を飜訳して貰いたいと云うから、之を見れば兼て噂に聞た榎本の講義筆記に違いない。是れは面白いと思い、蘭文飜訳は易いことであるのを、私は先方に気を揉ませる積りで態と手を着けない。初めの方四、五枚だけ丁寧に分るように飜訳して、原本に添えて返して遣て、是れは如何にも航海にはなくてはならぬ有益な書に違いない、巻初の四、五枚を見ても分る、所が版本の原書なれば飜訳も出来るが、講義筆記であるからその講義を聴聞した本人でなければ何分にも分り兼ねる、誠に可惜い宝書で御座ると云て、私は榎本の筆記と知りながら知らぬ風をして唯飜訳の云々で気を揉まして、自然に榎本の命の助かるように、云わば伏線の計略を運らした積りである。又その時代には黒田も私方に来れば、私も黒田の家に行たこともある。何時か何処か時も処も忘れましたが、払が黒田に写真を贈たことがあるその写真は、亜米利加の南北戦争、南部敗北のとき、南部の大統領か大将か何でも有名の人が婦人の着物を着て逃げ掛けて居る写真で、私がその前年、亜米利加から持て帰て一枚あったから黒田に贈て、是れは亜米利加の南部の何と云う人で、逃げる時に斯う云う姿で逃げたと云う、敢て命を惜むでもなかろうけれども、又一方から云えば命は大切な者だ、何としても助かろうと思えば斯く見苦しい姿をしても逃げるのが当然の道である。人間と云うものは一度び命を取れば後で幾ら後悔しても取返しが付かない。ドウも榎本は大変な騒ぎをした男であるが、命だけは取らぬようにした方が得じゃないか、何しろこの写真を進上するから御覧なさいと云て、濃に話したこともある。爾うした所で、ドウやら斯うやらする間にいよ/\助かることになった、けれどもその助かると云うのは固より私の周旋したばかりで助かったと云う訳けではない、その時の真実内情の噂を聞けば長州勢はドウも榎本等を殺すような勢があった、ソコで薩州の藩士がソレを助けようと云う意味があったと云うから、長州勢に任かせたら或は殺されたかも知れぬ。何れ大西郷などがリキンでとう/\助かるようになったのでしょう。是れは私の為めには大童信太夫よりか余程骨の折れた仕事でした。彼れ此れする中に私が煩い付て、その事は病後まで引張て居て、病気全快に及ぶと云うときだから、明治三年にいよ/\放免になりましたが、唯残念で気の毒なのは、阿母さんは愛子の出獄前に病死しました。
所が前申す通り榎本釜次郎と私とは刎頸の交と云う訳けではなし、何もそんなに力を入れる程の親切のあろう訳けもない、只仙台藩士の腰抜けを憤ったと同じ事で、幕府の奴の如何にも無気力不人情と云うことが癪に障たので、ソコでどうでも斯うでも助けて遣ろうと思て駈廻わりましたが、その節、毎度妻と話をして今でも覚えて居ます、私の申すに、扨榎本の為めに今日はこの通りに骨を折て居るが、是れは唯人間一人の命を助けるばかりの志で外になんにも趣意はない、元来榎本と云う男は深く知らないが随分何かの役に立つ人物に違いはない、少し気色の変た男ではあるが、何分にも出身が幕府の御家人だから殿様好きだ、今こそ牢に這入て居るけれども、是れが助かって出るようになれば、後日或は役人になるかも知れぬ、その時は例の通りの殿様風でぴん/\するような事があるかも知れない、その時になって殿様のぴん/\を見たり聞たりして、ヤレ昔を忘れて厚かましいだの可笑しいだのと云う念が兎の毛ほども腹の底にあっては、是れは榎本の悪いのでなく此方の卑劣と云うものだから、そんな事なら私は今日唯今から一切の周旋を止めるがドウだと妻に語れば、妻も私と同説で、左様な浅ましい卑しい了簡は決してないと申して、夫妻固く約束したことがあるが、後日に至て私の云た通りになったのが面白い。榎本が段々立身して公使になったり大臣になったりして立派な殿様になったのは、私が占八卦の名人のようだけれども、私の処にはチャント説が極まって居て、一切の事情を知る者は私と妻と両人より外にないから、榎本がドウなろうと私の家で噂をする者もない、子供などは今度のこの速記録を見て始めて合点するでしょう。