4話 福翁自伝 02 福翁自伝(4)
読み方を変える
それから長崎に出掛けた。頃は安政元年二月、即ち私の年二十一歳(正味十九歳三箇月)の時である。その時分には中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。都会の地には洋学と云うものは百年も前からありながら、中津は田舎の事であるから、原書は扨置き、横文字を見たことがなかった。所がその頃は丁度ペルリの来た時で、亜米利加の軍艦が江戸に来たと云うことは田舎でも皆知て、同時に砲術と云うことが大変喧しくなって来て、ソコデ砲術を学ぶものは皆和蘭流に就て学ぶので、その時私の兄が申すに、「和蘭の砲術を取調べるには如何しても原書を読まなければならぬと云うから、私には分らぬ。「原書とは何の事ですと兄に質問すると、兄の答に、「原書と云うは、和蘭出版の横文字の書だ。今、日本に飜訳書と云うものがあって、西洋の事を書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本の蘭文の書を読まなければならぬ。夫れに就ては貴様はその原書を読む気はないかと云う。所が私は素と漢書を学んで居るとき、同年輩の朋友の中では何時も出来が好くて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然頼にする気があったと思われる。「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょうと、ソコデ兄弟の相談は出来て、その時丁度兄が長崎に行く序に任せ、兄の供をして参りました。長崎に落付き、始めて横文字の abc と云うものを習うたが、今では日本国中到る処に、徳利の貼紙を見ても横文字は幾許もある。目に慣れて珍しくもないが、始めての時は中々六かしい。廿六文字を習うて覚えて仕舞うまでには三日も掛りました。けれども段々読む中には又左程でもなく、次第々々に易くなって来たが、その蘭学修業の事は扨置き、抑も私の長崎に往たのは、唯田舎の中津の窮屈なのが忌で/\堪らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば難有いと云うので出掛けたことだから、故郷を去るに少しも未練はない、如斯処に誰が居るものか、一度出たらば鉄砲玉で、再び帰て来はしないぞ、今日こそ宜い心地だと独り心で喜び、後向て唾して颯々と足早にかけ出したのは今でも覚えて居る。
活動の始まり夫れから長崎に行て、そうして桶屋町の光永寺と云うお寺を便ったと云うのは、その時に私の藩の家老の倅で奥平壹岐と云う人はそのお寺と親類で、其処に寓居して居るのを幸いに、その人を使ってマアお寺の居候になって居るその中に、小出町に山本物次郎と云う長崎両組の地役人で砲術家があって、其処に奥平が砲術を学んで居るその縁を以て、奥平の世話で山本の家に食客に入込みました。抑も是れが私の生来活動の始まり。有らん限りの仕事を働き、何でもしない事はない。その先生が眼が悪くて書を読むことが出来ないから、私が色々な時勢論など、漢文で書いてある諸大家の書を読んで先生に聞かせる。又その家に十八、九の倅が在て独息子、余りエライ少年でない、けれども本は読まなければならぬと云うので、ソコでその倅に漢書を教えて遣らなければならぬ。是れが仕事の一つ。それから家は貧乏だけれども活計は大きい。借金もある様子で、その借金の云延し、新に借用の申込みに行き、又金談の手紙の代筆もする。其処の家に下婢が一人に下男が一人ある。〔所で〕動もするとその男が病気とか何とか云う時には、男の代をして水も汲む。朝夕の掃除は勿論、先生が湯に這入る時は背中を流したり湯を取たりして遣らなければならぬ。又その内儀さんが猫が大好き、狆が大好き、生物が好きで、猫も狆も犬も居るその生物一切の世話をしなければならぬ。上中下一切の仕事、私一人で引受けて遣て居たから、酷く調法な男だ、何とも云われない調法な血気の少年であり乍ら、その少年の行状が甚だ宜しい、甚だ宜しくて甲斐々々しく働くと云うので、ソコデ以て段々その山本の家の気に入て、仕舞には先生が養子にならないかと云う。私は前にも云う通り中津の士族で、遂ぞ自分は知りはせぬが少さい時から叔父の家の養子になって居るから、その事を云うと、先生が夫れなら尚更ら乃公の家の養子になれ、如何でも乃公が世話をして遣るからと度々云われた事がある。
その時の一体の砲術家の有様を申せば、写本の蔵書が秘伝で、その本を貸すには相当の謝物を取て貸す。写したいと云えば、写す為めの謝料を取ると云うのが、先ず山本の家の臨時収入で、その一切の砲術書を貸すにも写すにも、先生は眼が悪いから皆私の手を経る。それで私は砲術家の一切の元締になって、何もかも私が一切取扱て居る。その時分の諸藩の西洋家、例えば宇和島藩、五島藩、佐賀藩、水戸藩などの人々が来て、或は出島の和蘭屋敷に行て見たいとか、或は大砲を鋳るから図を見せて呉れとか、そんな世話をするのが山本家の仕事で、その実は皆私が遣る。私は本来素人で、鉄砲を打つのを見た事もないが、図を引くのは訳けはない。颯々と図を引いたり、説明を書いたり、諸藩の人が来れば何に付けても独り罷り出て、丸で十年も砲術を学んで立派に砲術家と見られる位に挨拶をしたり世話をしたりすると云う調子である。処で私を山本の居候に世話をして入れて呉れた人、即ち奥平壹岐だ。壹岐と私とは主客処を易えて、私が主人見たようになったから可笑しい。壹岐は元来漢学者の才子で局量が狭い。小藩でも大家の子だから如何も我儘だ。もう一つは私の目的は原書を読むに在て、蘭学医の家に通うたり和蘭通詞の家に行ったりして一意専心原書を学ぶ。原書と云うものは始めて見たのであるが、五十日、百日とおい/\日を経るに従て、次第に意味が分るようになる。所が奥平壹岐はお坊さん、貴公子だから、緻密な原書などの読める訳けはない。その中に此方は余程エラクなったのが主公と不和の始まり。全体奥平と云う人は決して深い巧みのある悪人ではない。唯大家の我儘なお坊さんで智恵がない度量がない。その時に旨く私を籠絡して生捕って仕舞えば譜代の家来同様に使えるのに、却てヤッカミ出したとは馬鹿らしい。歳は私より十ばかり上だが、何分気分が子供らしくて、ソコデ私を中津に還えすような計略を運らしたのが、私の身には一大災難。
長崎に居ること難しソリャ斯う云う次第になって来た。その奥平壹岐と云う人に与兵衛と云う実父の隠居があって、私共は之を御隠居様と崇めて居た。ソコデ私の父は二十年前に死んで居るのですけれども、私の兄が成長の後に父のするような事をして、又大阪に行て勤番をして居て、中津には母一人で何もない。姉は皆嫁いて居て、身寄りの若い者の中には私の従兄の藤本元岱と云う医者が唯一人、能く事が分り書も能く読める学者であるが、そこで中津に在る彼の御隠居様が無法な事をしたと云うは、何れ長崎の倅壹岐の方から打合のあったものと見えて、その隠居が従兄の藤本を呼に来て、隠居の申すに、諭吉を呼還せ、アレが居ては倅壹岐の妨げになるから早々呼還せ、但しソレに就ては母が病気だと申遣わせと云う御直の厳命が下ったから、固より否むことは出来ず、唯畏りましたと答えて、母にもそのよしを話して、ソレカラ従兄が私に手紙を寄送して、母の病気に付き早々帰省致せと云う表向の手紙と、又別紙に、実は隠居から斯う/\云う次第、余儀なく手紙を出したが、決して母の身を案じるなと詳に事実を書いて呉れたから、私は之を見て実に腹が立った。何だ、鄙劣千万な、計略を運らして母の病気とまで偽を云わせる、ソンナ奴があるものか、モウ焼けだ、大議論をして遣ろうかと思たが、イヤ/\左様でない、今アノ家老と喧嘩をした所が、負けるに極って居る、戦わずして勝負は見えてる、一切喧嘩はしない、アンナ奴と喧嘩をするよりも自分の身の始末が大事だと思直して、夫れからシラバクレて胆を潰した風をして奥平の処に行て、扨中津から箇様申して参りました、母が俄に病気になりました、平生至極丈夫な方でしたが、実に分らぬものです、今頃は如何云う容体でしょうか、遠国に居て気になりますなんて、心配そうな顔してグチャ/\述立てると、奥平も大に驚いた顔色を作り、左様か、ソリャ気の毒な事じゃ、嘸心配であろう、兎に角に早く帰国するが宜かろう、併し母の病気全快の上は又再遊の出来るようにして遣るからと、慰さめるように云うのは、狂言が旨く行われたと心中得意になって居るに違いない。ソレカラ又私は言葉を続けて、唯今御指図の通り早々帰国しますが、御隠居様に御伝言は御在ませんか、何れ帰れば御目に掛ります、又何か御品があれば何でも持て帰りますと云て、一ト先ず別れて翌朝又行て見ると、主公が家に遣る手紙を出して、之を屋敷に届けて呉れ、親仁に斯う/\伝言をして呉れと云い、又別に私の母の従弟の大橋六助と云う男に遣る手紙を渡して、これを六助の処に持て行け、爾うすると貴様の再遊に都合が宜かろうと云て、故意とその手紙に封をせずに明けて見よがしにしてあるから、何もかも委細承知して丁寧に告別して、宿に帰て封なしの手紙を開て見れば、「諭吉は母の病気に付き是非帰国と云うからその意に任せて還すが、修業勉強中の事ゆえ再遊の出来るようその方にて取計らえと云う文句。私は之を見てます/\癪に障る。「この猿松め馬鹿野郎めと独り心の中で罵り、ソレカラ山本の家にも事実は云われぬ、若し是れが顕われて奥平の不面目にもなれば、禍は却て私の身に降て来て如何な目に逢うか知れない、ソレガ怖いから唯母の病気とばかり云て暇乞をしました。
江戸行を志す丁度そのとき中津から鉄屋惣兵衛と云う商人が長崎に来て居て、幸いその男が中津に帰ると云うから、兎も角も之と同伴と約束をして置て、ソコデ私の胸算は固より中津に帰る気はない。何でも人間の行くべき処は江戸に限る、是れから真直に江戸に行きましょうと決心はしたが、この事に就ては誰かに話して相談をせねばならぬ。所が江戸から来た岡部同直と云う蘭学書生がある。是れは医者の子で至極面白い慥かな人物と見込んだから、この男に委細の内情を打明けて、「斯う/\云う次第で僕は長崎に居られぬ、余り癪に障るからこのまゝ江戸に飛出す積りだが、実は江戸に知る人はなし、方角が分らぬ。君の家は江戸ではないか、大人は開業医と開いたが、君の家に食客に置て呉れる事は出来まいか。僕は医者でないが丸薬を丸める位の事は屹と出来るから、何卒世話をして貰いたいと云うと、岡部も私の身の有様を気の毒に思うたか、私と一緒になって腹を立てゝ容易く私の云う事を請合い、「ソレは出来よう、何でも江戸に行け。僕の親仁は日本橋檜物町に開業して居るから、手紙を書いて遣ろうと云て、親仁名当の一封を呉れたから私は喜んで之を請取り、「ソコデ今この事が知れると大変だ、中津に帰らなければならぬようになるから、是ればかりは奥平にも山本にも一切誰にも云わずに、君一人で呑込んで居て外に洩らさぬようにして、僕は是れから下ノ関に出て船に乗て先ず大阪に行く、凡そ十日か十五日も掛れば着くだろう。その時を見計ろうて中村(諭吉、当時は中村の姓を冒す)は初めから中津に帰る気はなかった、江戸に行くと云て長崎を出たと、奥平にも話して呉れ。是れも聊か面当だと互に笑て、朋友と内々の打合せは出来た。
諫早にて鉄屋と別るそれから奥平の伝言や何かをすっかり手紙に認めて仕舞い、是れは例の御隠居様に遣らなければならぬ。「私は長崎を出立して中津に帰る所存で諫早まで参りました処が、その途中で不図江戸に行きたくなりましたから、是れから江戸に参ります。就ては壹岐様から斯様々々の御伝言で、お手紙は是れですからお届け申すと丁寧に認めて遣って、ソレカラ封をせずに渡した即ち大橋六助に宛た手紙を本人に届ける為めに、私が手紙を書添えて、「この通りに封をせぬのは可笑しい、こんな馬鹿な事はないがこの儘御届け申します。原はと云えば自分の方で呼還すように企てゝ置きながら、表べに人を欺くと云うのは卑劣至極な奴だ。私はもう中津に帰らず江戸に行くからこの手紙を御覧下さいと云うような塩梅に認めて、万事の用意は出来て、鉄屋惣兵衛と一処に長崎を出立して諫早まで――この間は七里ある――来た。丁度夕方着たが何でも三月の中旬、月の明るい晩であった。「扨鉄屋、乃公は長崎を出る時は中津に帰る所存であったが、是れから中津に帰るは忌になった。貴様の荷物と一処に乃公のこの葛籠も序に持て帰て呉れ。乃公はもう着換が一、二枚あれば沢山だ。是れから下ノ関に出て大阪へ行て、夫れから江戸に行くのだと云うと、惣兵衛殿は呆れて仕舞い、「それは途方もない、お前さんのような年の若い旅慣れぬお坊さんが一人で行くと云うのは。「馬鹿云うな、口があれば京に上る、長崎から江戸に一人行くのに何のことがあるか。「けれども私は中津に帰てお母さんにいい様がない。「なあに構うものか、乃公は死も何もせぬから内のおッ母さんに宜しく云て呉れ、唯江戸に参りましたと云えば夫れで分る。鉄屋も何とも云うことが出来ぬ。「時に鉄屋、乃公は是から下ノ関に行こうと思うが、実は下ノ関を知らぬ。貴様は諸方を歩くが下ノ関に知てる船宿はないか。「私の懇意な内で船場屋寿久右衛門と云う船宿があります、其処へお入来なされば宜しいと云う。抑もこの事を態々鉄屋に聞かねばならぬと云うのは、実はその時私の懐中に金がない。内から呉れた金が一歩もあったか、その外に和蘭の字引の訳鍵と云う本を売て、掻集めた所で二歩二朱か三朱しかない。それで大阪まで行くには如何しても船賃が足らぬと云う見込だから、そこで一寸と船宿の名を聞て置て、夫れから鉄屋に別れて、諫早から丸木船と云う船が天草の海を渡る。五百八十文出してその船に乗れば明日の朝佐賀まで着くと云うので、その船に乗た所が、浪風なく朝佐賀に着て、佐賀から歩いたが、案内もなければ何もなく真実一身で、道筋の村の名も知らず宿々の順も知らずに、唯東の方に向て、小倉には如何行くかと道を聞て、筑前を通り抜けて、多分太宰府の近所を通ったろうと思いますが、小倉には三日めに着た。
贋手紙を作るその間の道中と云うものは随分困りました。一人旅、殊に何処の者とも知れぬ貧乏そうな若侍、若し行倒になるか暴れでもすれば宿屋が迷惑するから容易に泊めない。もう宿の善悪は択ぶに暇なく、只泊めて呉れさえすれば宜しいと云うので無暗に歩行いて、何か斯か二晩泊って三日目に小倉に着きました。その道中で私は手紙を書いて即ち鉄屋惣兵衛の贋手紙を拵えて、「この御方は中津の御家中、中村何様の若旦那で、自分は始終そのお屋敷に出入して決して間違なき御方だから厚く頼むと鹿爪らしき手紙の文句で、下ノ関船場屋寿久右衛門へ宛て鉄屋惣兵衛の名前を書いてちゃんと封をして、明日下ノ関に渡てこの手紙を用に立てんと思い、小倉までたどり付て泊った時はおかしかった。彼方此方マゴマゴして、小倉中、宿を捜したが、何処でも泊めない。ヤット一軒泊めて呉れた所が薄汚ない宿屋で、相宿の同間に人が寝て居る。スルト夜半に枕辺で小便する音がする。何だと思うと中風病の老爺が、しびんに遣てる。実は客ではない、その家の病人でしょう。その病人と並べて寝かされたので、汚くて堪らなかったのは能く覚えて居ます。
それから下ノ関の渡場を渡て、船場屋を捜し出して、兼て用意の贋手紙を持て行た所が、成程鉄屋とは懇意な家と見える、手紙を一見して早速泊めて呉れて、万事能く世話をして呉れて、大阪まで船賃が一分二朱、賄の代は一日若干、ソコデ船賃を払うた外に二百文か三百文しか残らぬ。併し大阪に行けば中津の倉屋敷で賄の代を払う事にして、是れも船宿で心能く承知して呉れる。悪い事だが全く贋手紙の功徳でしょう。
馬関の渡海小倉から下ノ関に船で来る時は怖い事がありました。途中に出た所が少し荒く風が吹て浪が立て来た。スルトその纜を引張て呉れ、其方の処を如何して呉れと、船頭が何か騒ぎ立て乗組の私に頼むから、ヨシ来たと云うので纜を引張たり柱を起したり、面白半分に様々加勢をして先ず滞りなく下ノ関の宿に着て、「今日の船は如何したのか、斯う/\云う浪風で、斯う云う目に遇た、潮を冠って着物が濡れたと云うと、宿の内儀さんが「それはお危ない事じゃ、彼れが船頭なら宜いが実は百姓です。この節暇なものですから内職にそんな事をします。百姓が農業の間に慣れぬ事をするから、少し浪風があると毎度大きな間違いを仕出来しますと云うのを聞て、実に怖かった。成程奴等が一生懸命になって私に加勢を頼んだのも道理だと思いました。
馬関より乗船夫れから船場屋寿久右衛門の処から乗た船には、三月の事で皆上方見物、夫れは/\種々様々な奴が乗て居る。間抜けな若旦那も乗て居れば、頭の禿た老爺も乗て居る、上方辺の茶屋女も居れば、下ノ関の安女郎も居る。坊主も、百姓も、有らん限りの動物が揃うて、其奴等が狭い船の中で、酒を飲み、博奕をする。下らぬ事に大きな声をして、聞かれぬ話をして、面白そうにしてる中に、私一人は真実無言、丸で取付端がない。船は安芸の宮島へ着た。私は宮島に用はない。唯来たから唯島を見に上る。外の連中はお互に朋友だから宜いだろう。皆酒を飲む。私も飲みたくて堪らぬけれども、金がないから只宮島を見たばかりで、船に帰て来てむしゃ/\船の飯を喰てるから、船頭もこんな客は忌やだろう、妙な顔をして私を睨んで居たのは今でも覚えて居る。その前に岩国の錦帯橋も余儀なく見物して、夫れから宮島を出て讃岐の金比羅様だ。多度津に船が着て金比羅まで三里と云う。行きたくないことはないが、金がないから行かれない。外の奴は皆船から出て行て、私一人で船の番をして居る。爾うすると一晩泊て、どいつもこいつもグデン/\に酔て陽気になって帰て来る。癪に障るけれども何としても仕様がない。
明石より上陸爾う云う不愉快な船中で、如何やら斯うやら十五日目に播州明石に着た。朝五ツ時、今の八時頃、明旦順風になれば船が出ると云う、けれどもコンナ連中のお供をしては際限がない。是れから大阪までは何里と聞けば、十五里と云う。「ヨシ、それじゃ乃公は是れから大阪まで歩いて行く。就ては是迄の勘定は、大阪に着たら中津の倉屋敷まで取りに来い、この荷物だけは預けて行くからと云うと、船頭が中々聞かない。「爾う旨くは行かぬ、一切勘定を払て行けと云う。云われても払う金は懐中にない。その時に私は更紗の着物と絹紬の着物と二枚あって、それを風呂敷に包んで持て居るから、「茲に着物が二枚ある、是れで賄の代位はあるだろう、外に書籍もあるが、是れは何にもならぬ。この着物を売ればその位の金にはなるではないか。大小を預ければ宜いが、是れは挟して行かねばならぬ。何時でも宜しい、船が大阪に着次第に中津屋敷で払て遣るから取りに来いと云うも、船頭は頑張て承知しない。「中津屋敷は知てるが、お前さんは知らぬ人じゃ。何でも船に乗て行きなさい。賄の代金は大阪で請取ると云う約束がしてあるからそれは宜しい。何日掛ても構わぬ、途中から上ることは出来ぬと云う。此方は只管頼むと小さくなって訳けを云えば、船頭は何でも聞かぬと剛情を張て段々声が大きくなる。喧嘩にもならず実に当惑して居た処に、同船中、下ノ関の商人風の男が出て来て、乃公が請合うと先ず発言して船頭に向い、「コレお前も爾う、いんごうな事を云うものじゃない。賄代の抵当に着物があるじゃないか。このお方はお侍じゃ、貴様達を騙す所存ではないように見受ける。若し騙したら乃公が払う、サアお上りなさいと云て、船頭も是れに安心して無理も云わず、ソレカラ私はその下ノ関の男に厚く礼を述て船を飛出し、地獄に仏と心の中にこの男を拝みました。
そこで明石から大阪まで十五里の間と云うものは、私は泊ることが出来ぬ。財布の中はモウ六、七十文、百に足らぬ銭で迚も一晩泊ることは出来ぬから、何でも歩かなければならぬ。途中何と云う処か知らぬが、左側の茶店で、一合十四文の酒を二合飲んで、大きな筍の煮たのを一皿と、飯を四、五杯喰て、夫れからグン/″\歩いて、今の神戸辺は先だか後だか、どう通たか少しも分らぬ。爾うして大阪近くなると、今の鉄道の道らしい川を幾川も渡て、有難い事にお侍だから船賃は只で宜かったが、日は暮れて暗夜で真暗、人に逢わなければ道を聞くことが出来ず、夜中淋しい処で変な奴に逢えば却て気味が悪い。その時私の指してる大小は、脇差は祐定の丈夫な身であったが、刀は太刀作りの細身でどうも役に立ちそうでなくて心細かった。実を云えば大阪近在に人殺しの無暗に出る訳けもない、ソンナに怖がる事はない筈だが、独旅の夜道、真暗ではあるし臆病神が付いてるから、ツイ腰の物を便りにするような気になる。後で考えれば却て危ない事だと思う。ソレカラ始終道を聞くには、幼少の時から中津の倉屋敷は大阪堂島玉江橋と云うことを知てるから、唯大阪の玉江橋へはどう行くかとばかり尋ねて、ヤット夜十時過ぎでもあろう、中津屋敷に着て兄に逢たが、大変に足が痛かった。
大阪着大阪に着て久振で兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼ない時から私を知てる者が沢山ある。私は三歳の時に国に帰て二十二歳に再び行たのですから、私の生れた時に知てる者は沢山。私の面が何処か幼顔に肖て居ると云うその中には、私に乳を呑まして呉れた仲仕の内儀さんもあれば、又今度兄の供をして中津から来て居る武八と云う極質朴な田舎男は、先年も大阪の私の家に奉公して私のお守をした者で、私が大阪に着た翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の処を通ると、男の云うに、お前の生れる時に我身夜中にこの横町の彼の産婆さんの処に迎いに行たことがある、その産婆さんは今も達者にし居る、それからお前が段々大きくなって、此身お前をだいて毎日々々湊の部屋(勧進元)に相撲の稽古を見に行た、その産婆さんの家は彼処じゃ湊の稽古場は此処の方じゃと、指をさして見せたときには、私も旧を懐うて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。都て如斯な訳けで私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷に帰た通りで誠に宜い心地。それから兄が私に如何して貴様は出し抜けに此処に来たのかという。兄の事であるから構わず斯う云う次第で参りましたと云たら、「乃公が居なければ宜いが、道の順序を云て見れば貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。その中津を横に見ておッ母さんの処を避て来たではないか。それも乃公が此処に居なければ兎も角、乃公が此処で貴様に面会しながら之を手放して江戸に行けと云えば兄弟共謀だ。如何にも済まぬではないか。おッ母さんは夫程に思わぬだろうが、如何しても乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ、大阪で蘭学を学ぶが宜いと云うので、兄の処に居て先生を捜したら緒方と云う先生のある事を聞出した。
長崎遊学中の逸事鄙事多能は私の独得、長崎に居る間は山本先生の家に食客生と為り、無暗に勉強して蘭学も漸く方角の分るようになるその片手に、有らん限り先生家の家事を勤めて、上中下の仕事なんでも引請けて、是れは出来ない、其れは忌だと云たことはない。丁度上方辺の大地震のとき、私は先生家の息子に漢書の素読をして遣た跡で、表の井戸端で水を汲んで、大きな荷桶を担いで一足跡出すその途端にガタ/″\と動揺て足が滑り、誠に危ない事がありました。
寺の和尚、今は既に物故したそうですが、是れは東本願寺の末寺、光永寺と申して、下寺の三ヶ寺も持て居る先ず長崎では名のある大寺、そこの和尚が京に上って何か立身して帰て来て、長崎の奉行所に廻勤に行くその若党に雇われてお供をした所が、和尚が馬鹿に長い衣か装束か妙なものを着て居て、奉行所の門で駕籠を出ると、私が後からその裾を持てシヅ/″\と附いて歩いて行く。吹出しそうに可笑しい。又その和尚が正月になると大檀那の家に年礼に行くそのお供をすれば、坊さんが奥で酒でも飲でる供待の間に、供の者にも膳を出して雑煮など喰わせる。是れは難有く戴きました。
又節分に物貰いをしたこともある。長崎の風に、節分の晩に法螺の貝を吹て何か経文のような事を怒鳴って廻わる、東京で云えば厄払い、その厄払をして市中の家の門に立てば、銭を呉れたり米を呉れたりすることがある。所が私の居る山本の隣家に杉山松三郎(杉山徳三郎の実兄)と云う若い男があって、面白い人物。「どうだ今夜行こうじゃないかと私を誘うから、勿論同意。ソレカラ何処かで法螺の貝を借りて来て、面を隠して二人で出掛けて、杉山が貝を吹く、お経の文句は、私が少年の時に暗誦して居た蒙求の表題と千字文で請持ち、王戎簡要天地玄黄なんぞ出鱈目に怒鳴り立てゝ、誠に上首尾、銭だの米だの随分相応に貰て来て、餅を買い鴨を買い雑煮を拵えてタラフク喰た事がある。
師弟アベコベ私が始めて長崎に来て始めて横文字を習うと云うときに、薩州の医学生に松崎鼎甫と云う人がある。その時に藩主薩摩守は名高い西洋流の人物で、藩中の医者などに蘭学を引立て、松崎も蘭学修業を命ぜられて長崎に出て来て下宿屋に居るから、その人に頼んで教えて貰うが宜かろうと云うので行た所が、松崎が abc を書いて仮名を附けて呉れたのには先ず驚いた。是れが文字とは合点が行かぬ。二十何字を覚えて仕舞うにも余程手間が掛たが、学べば進むの道理で、次第々々に蘭語の綴も分るようになって来た。ソコデ松崎と云う先生の人相を見て応対の様子を察するに、決して絶倫の才子でない。依て私の心中窃に、「是れは高の知れた人物だ。今でも漢書を読で見ろ、自分の方が数等上流の先生だ。漢蘭等しく字を読み義を解することゝすれば、左までこの先生を恐るゝことはない。如何かしてアベコベにこの男に蘭書を教えて呉れたいものだと、生々の初学生が無鉄砲な野心を起したのは全く少年の血気に違いない。ソレはそれとしてその後私は大阪に行き、是れまで長崎で一年も勉強して居たから緒方でも上達が頗る速くて、両三年の間に同窓生八、九十人の上に頭角を現わした。所が人事の廻り合せは不思議なもので、その松崎と云う男が九州から出て来て緒方の塾に這入り、私はその時ズット上級で、下級生の会頭をして居るその会読に、松崎も出席することになって、三、四年の間に今昔の師弟アベコベ。私の無鉄砲な野心が本当な事になって、固より人には云われず、又云うべきことでないから黙て居たが、その時の愉快は堪らない。独り酒を飲で得意がって居ました。左れば軍人の功名手柄、政治家の立身出世、金持の財産蓄積なんぞ、孰れも熱心で、一寸と見ると俗なようで、深く考えると馬鹿なように見えるが、決して笑うことはない。ソンナ事を議論したり理窟を述べたりする学者も、矢張り同じことで、世間並に俗な馬鹿毛た野心があるから可笑しい。