17話 行人(17)
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二三週間はそれなり過ぎた。そのうち秋がだんだん深くなった。葉鶏頭の濃い色が庭を覗くたびに自分の眼に映った。
兄は俥で学校へ出た。学校から帰るとたいていは書斎へ這入って何かしていた。家族のものでも滅多に顔を合わす機会はなかった。用があるとこっちから二階に上って、わざわざ扉を開けるのが常になっていた。兄はいつでも大きな書物の上に眼を向けていた。それでなければ何か万年筆で細かい字を書いていた。一番我々の眼についたのは、彼の茫然として洋机の上に頬杖を突いている時であった。
彼は一心に何か考えているらしかった。彼は学者でかつ思索家であるから、黙って考えるのは当然の事のようにも思われたが、扉を開けてその様子を見た者は、いかにも寒い気がすると云って、用を済ますのを待ち兼ねて外へ出た。最も関係の深い母ですら、書斎へ行くのをあまりありがたいとは思っていなかったらしい。
「二郎、学者ってものは皆なあんな偏屈なものかね」
この問を聞いた時、自分は学者でないのを不思議な幸福のように感じた。それでただえへへと笑っていた。すると母は真面目な顔をして、「二郎、御前がいなくなると、宅は淋しい上にも淋しくなるが、早く好い御嫁さんでも貰って別になる工面を御為よ」と云った。自分には母の言葉の裏に、自分さえ新しい家庭を作って独立すれば、兄の機嫌が少しはよくなるだろうという意味が明らさまに読まれた。自分は今でも兄がそんな妙な事を考えているのだろうかと疑っても見た。しかし自分もすでに一家を成してしかるべき年輩だし、また小さい一軒の竈ぐらいは、現在の収入でどうかこうか維持して行かれる地位なのだから、かねてから、そういう考えはちらちらと無頓着な自分の頭をさえ横切ったのである。
自分は母に対して、「ええ外へ出る事なんか訳はありません。明日からでも出ろとおっしゃれば出ます。しかし嫁の方はそうちんころのように、何でも構わないから、ただ路に落ちてさえいれば拾って来るというような遣口じゃ僕には不向ですから」と云った。その時母は、「そりゃ無論……」と答えようとするのを自分はわざと遮った。
「御母さんの前ですが、兄さんと姉さんの間ですね。あれにはいろいろ複雑な事情もあり、また僕が固から少し姉さんと知り合だったので、御母さんにも御心配をかけてすまないようですけれども、大根をいうとね。兄さんが学問以外の事に時間を費すのが惜いんで、万事人任せにしておいて、何事にも手を出さずに華族然と澄ましていたのが悪いんですよ。いくら研究の時間が大切だって、学校の講義が大事だって、一生同じ所で同じ生活をしなくっちゃならない吾が妻じゃありませんか。兄さんに云わしたらまた学者相応の意見もありましょうけれども学者以下の我々にはとてもあんな真似はできませんからね」
自分がこんな下らない理窟を云い募っているうちに、母の眼にはいつの間にか涙らしい光の影が、だんだん溜って来たので、自分は驚いてやめてしまった。
自分は面の皮が厚いというのか、遠慮がなさ過ぎると云うのか、それほど宅のものが気兼をして、云わば敬して遠ざけているような兄の書斎の扉を他よりもしばしば叩いて話をした。中へ這入った当分の感じは、さすがの自分にも少し応えた。けれども十分ぐらい経つと彼はまるで別人のように快活になった。自分は苦い兄の心機をこう一転させる自分の手際に重きをおいて、あたかも己れの虚栄心を満足させるための手段らしい態度をもって、わざわざ彼の書斎へ出入した事さえあった。自白すると、突然兄から捕まって危く死地に陥れられそうになったのも、実はこういう得意の瞬間であった。
二十一
その折自分は何を話ていたか今たしかに覚えていない。何でも兄から玉突の歴史を聞いた上、ルイ十四世頃の銅版の玉突台をわざわざ見せられたような気がする。
兄の室へ這入っては、こんな問題を種に、彼の新しく得た知識を、はいはい聞いているのが一番安全であった。もっとも自分も御饒舌だから、兄と違った方面で、ルネサンスとかゴシックとかいう言葉を心得顔にふり廻す事も多かった。しかしたいていは世間離れのしたこう云う談話だけで書斎を出るのが例であったが、その折は何かの拍子で兄の得意とする遺伝とか進化とかについての学説が、銅版の後で出て来た。自分は多分云う事がないため、黙って聞いていたものと見える。その時兄が「二郎お前はお父さんの子だね」と突然云った。自分はそれがどうしたと云わぬばかりの顔をして、「そうです」と答えた。
「おれはお前だから話すが、実はうちのお父さんには、一種妙におっちょこちょいのところがあるじゃないか」
兄から父を評すれば正にそうであるという事を自分は以前から呑込んでいた。けれども兄に対してこの場合何と挨拶すべきものか自分には解らなかった。
「そりゃあなたのいう遺伝とか性質とかいうものじゃおそらくないでしょう。今の日本の社会があれでなくっちゃ、通させないから、やむをえないのじゃないですか。世の中にゃお父さんどころかまだまだたまらないおっちょこがありますよ。兄さんは書斎と学校で高尚に日を暮しているから解らないかも知れないけれども」
「そりゃおれも知ってる。お前の云う通りだ。今の日本の社会は――ことによったら西洋もそうかも知れないけれども――皆な上滑りの御上手ものだけが存在し得るように出来上がっているんだから仕方がない」
兄はこう云ってしばらく沈黙の裡に頭を埋めていた。それから怠そうな眼を上げた。
「しかし二郎、お父さんのは、お気の毒だけれども、持って生れた性質なんだよ。どんな社会に生きていても、ああよりほかに存在の仕方はお父さんに取ってむずかしいんだね」
自分はこの学問をして、高尚になり、かつ迂濶になり過ぎた兄が、家中から変人扱いにされるのみならず、親身の親からさえも、日に日に離れて行くのを眼前に見て、思わず顔を下げて自分の膝頭を見つめた。
「二郎お前もやっぱりお父さん流だよ。少しも摯実の気質がない」と兄が云った。
自分は癇癪の不意に起る野蛮な気質を兄と同様に持っていたが、この場合兄の言葉を聞いたとき、毫も憤怒の念が萌さなかった。
「そりゃひどい。僕はとにかく、お父さんまで世間の軽薄ものといっしょに見做すのは。兄さんは独りぼっちで書斎にばかり籠っているから、それでそういう僻んだ観察ばかりなさるんですよ」
「じゃ例を挙げて見せようか」
兄の眼は急に光を放った。自分は思わず口を閉じた。
「この間謡の客のあった時に、盲女の話をお父さんがしたろう。あのときお父さんは何とかいう人を立派に代表して行きながら、その女が二十何年も解らずに煩悶していた事を、ただ一口にごまかしている。おれはあの時、その女のために腹の中で泣いた。女は知らない女だからそれほど同情は起らなかったけれども、実をいうとお父さんの軽薄なのに泣いたのだ。本当に情ないと思った。……」
「そう女みたように解釈すれば、何だって軽薄に見えるでしょうけれども……」
「そんな事を云うところが、つまりお父さんの悪いところを受け継いでいる証拠になるだけさ。おれは直の事をお前に頼んで、その報告をいつまでも待っていた。ところがお前はいつまでも言葉を左右に託して、空恍けている……」
二十二
「空恍けてると云われちゃちっと可哀そうですね。話す機会もなし、また話す必要がないんですもの」
「機会は毎日ある。必要はお前になくてもおれの方にあるから、わざわざ頼んだのだ」
自分はその時ぐっと行きつまった。実はあの事件以後、嫂について兄の前へ一人出て、真面目に彼女を論ずるのがいかにも苦痛だったのである。自分は話頭を無理に横へ向けようとした。
「兄さんはすでにお父さんを信用なさらず。僕もそのお父さんの子だという訳で、信用なさらないようだが、和歌の浦でおっしゃった事とはまるで矛盾していますね」
「何が」と兄は少し怒気を帯びて反問した。
「何がって、あの時、あなたはおっしゃったじゃありませんか。お前は正直なお父さんの血を受けているから、信用ができる、だからこんな事を打ち明けて頼むんだって」
自分がこう云うと、今度は兄の方がぐっと行きつまったような形迹を見せた。自分はここだと思って、わざと普通以上の力を、言葉の裡へ籠めながらこう云った。
「そりゃ御約束した事ですから、嫂さんについて、あの時の一部始終を今ここで御話してもいっこう差支えありません。固より僕はあまり下らない事だから、機会が来なければ口を開く考えもなし、また口を開いたって、ただ一言で済んでしまう事だから、兄さんが気にかけない以上、何も云う必要を認めないので、今日まで控えていたんですから。――しかし是非何とか報告をしろと、官命で出張した属官流に逼られれば、仕方がない。今即刻でも僕の見た通りをお話します。けれどもあらかじめ断っておきますが、僕の報告から、あなたの予期しているような変な幻はけっして出て来ませんよ。元々あなたの頭にある幻なんで、客観的にはどこにも存在していないんだから」
兄は自分の言葉を聞いた時、平生と違って、顔の筋肉をほとんど一つも動かさなかった。ただ洋卓の前に肱を突いたなり、じっとしていた。眼さえ伏せていたから、自分には彼の表情がちっとも解らなかった。兄は理に明らかなようで、またその理にころりと抛げられる癖があった。自分はただ彼の顔色が少し蒼くなったのを見て、これは必竟彼が自分の強い言語に叩かれたのだと判断した。
自分はそこにあった巻莨入から煙草を一本取り出して燐寸の火を擦った。そうして自分の鼻から出る青い煙と兄の顔とを等分に眺めていた。
「二郎」と兄がようやく云った。その声には力も張もなかった。
「何です」と自分は答えた。自分の声はむしろ驕っていた。
「もうおれはお前に直の事について何も聞かないよ」
「そうですか。その方が兄さんのためにも嫂さんのためにも、また御父さんのためにも好いでしょう。善良な夫になって御上げなさい。そうすれば嫂さんだって善良な夫人でさあ」と自分は嫂を弁護するように、また兄を戒めるように云った。
「この馬鹿野郎」と兄は突然大きな声を出した。その声はおそらく下まで聞えたろうが、すぐ傍に坐っている自分には、ほとんど予想外の驚きを心臓に打ち込んだ。
「お前はお父さんの子だけあって、世渡りはおれより旨いかも知れないが、士人の交わりはできない男だ。なんで今になって直の事をお前の口などから聞こうとするものか。軽薄児め」
自分の腰は思わず坐っている椅子からふらりと離れた。自分はそのまま扉の方へ歩いて行った。
「お父さんのような虚偽な自白を聞いた後、何で貴様の報告なんか宛にするものか」
自分はこういう烈しい言葉を背中に受けつつ扉を閉めて、暗い階段の上に出た。
二十三
自分はそれから約一週間ほどというもの、夕食以外には兄と顔を合した事がなかった。平生食卓を賑やかにする義務をもっているとまで、皆なから思われていた自分が、急に黙ってしまったので、テーブルは変に淋しくなった。どこかで鳴く《こおろぎ》の音さえ、併んでいる人の耳に肌寒の象徴のごとく響いた。
こういう寂寞たる団欒の中に、お貞さんは日ごとに近づいて来る我結婚の日限を考えるよりほかに、何の天地もないごとくに、盆を膝の上へ載せて御給仕をしていた。陽気な父は周囲に頓着なく、己れに特有な勝手な話ばかりした。しかしその反響はいつものようにどこからも起らなかった。父の方でもまるでそれを予期する気色は見えなかった。
時々席に列ったものが、一度に声を出して笑う種になったのはただ芳江ばかりであった。母などは話が途切れておのずと不安になるたびに、「芳江お前は……」とか何とか無理に問題を拵えて、一時を糊塗するのを例にした。するとそのわざとらしさが、すぐ兄の神経に触った。
自分は食卓を退いて自分の室に帰るたびに、ほっと一息吐くように煙草を呑んだ。
「つまらない。一面識のないものが寄って会食するよりなおつまらない。他の家庭もみんなこんな不愉快なものかしら」
自分は時々こう考えて、早く家を出てしまおうと決心した事もあった。あまり食卓の空気が冷やかな折は、お重が自分の後を恋って、追いかけるように、自分の室へ這入って来た。彼女は何にも云わずにそこで泣き出したりした。ある時はなぜ兄さんに早く詫まらないのだと詰問するように自分を悪らしそうに睨めたりした。
自分は宅にいるのがいよいよ厭になった。元来性急のくせに決断に乏しい自分だけれども、今度こそは下宿なり間借りなりして、当分気を抜こうと思い定めた。自分は三沢の所へ相談に行った。その時自分は彼に、「君が大阪などで、ああ長く煩うから悪いんだ」と云った。彼は「君がお直さんなどの傍に長くくっついているから悪いんだ」と答えた。
自分は上方から帰って以来、彼に会う機会は何度となくあったが、嫂については、いまだかつて一言も彼に告げた例がなかった。彼もまた自分の嫂に関しては、いっさい口を閉じて何事をも云わなかった。
自分は始めて彼の咽喉を洩れる嫂の名を聞いた。またその嫂と自分との間に横わる、深くも浅くも取れる相互関係をあらわした彼の言葉を聞いた。そうして驚きと疑の眼を三沢の上に注いだ。その中に怒を含んでいると解釈した彼は、「怒るなよ」と云った。その後で「気狂になった女に、しかも死んだ女に惚れられたと思って、己惚れているおれの方が、まあ安全だろう。その代り心細いには違ない。しかし面倒は起らないから、いくら惚れても、惚れられてもいっこう差支えない」と云った。自分は黙っていた。彼は笑いながら「どうだ」と自分の肩を捕まえて小突いた。自分には彼の態度が真面目なのか、また冗談なのか、少しも解らなかった。真面目にせよ、冗談にせよ、自分は彼に向って何事をも説明したり、弁明したりする気は起らなかった。
自分はそれでも三沢に適当な宿を一二軒教わって、帰りがけに、自分の室まで見て帰った。家へ戻るや否や誰より先に、まずお重を呼んで、「兄さんもお前の忠告してくれた通り、いよいよ家を出る事にした」と告げた。お重は案外なようなまた予期していたような表情を眉間にあつめて、じっと自分の顔を眺めた。
二十四
兄妹として云えば、自分とお重とは余り仲の善い方ではなかった。自分が外へ出る事を、まず第一に彼女に話したのは、愛情のためというよりは、むしろ面当の気分に打勝たれていた。すると見る見るうちにお重の両方の眼に涙がいっぱい溜って来た。
「早く出て上げて下さい。その代り妾もどんな所でも構わない、一日も早くお嫁に行きますから」と云った。
自分は黙っていた。
「兄さんはいったん外へ出たら、それなり家へ帰らずに、すぐ奥さんを貰って独立なさるつもりでしょう」と彼女がまた聞いた。
自分は彼女の手前「もちろんさ」と答えた。その時お重は今まで持ち応えていた涙をぽろりぽろりと膝の上に落した。
「何だって、そんなに泣くんだ」と自分は急に優しい声を出して聞いた。実際自分はこの事件についてお重の眼から一滴の涙さえ予期していなかったのである。
「だって妾ばかり後へ残って……」
自分に判切聞こえたのはただこれだけであった。その他は彼女のむやみに引泣上げる声が邪魔をしてほとんど崩れたまま自分の鼓膜を打った。
自分は例のごとく煙草を呑み始めた。そうしておとなしく彼女の泣き止むのを待っていた。彼女はやがて袖で眼を拭いて立ち上った。自分はその後姿を見たとき、急に可哀そうになった。
「お重、お前とは好く喧嘩ばかりしたが、もう今まで通り啀み合う機会も滅多にあるまい。さあ仲直りだ。握手しよう」
自分はこう云って手を出した。お重はかえってきまり悪気に躊躇した。
自分はこれからだんだんに父や母に自分の外へ出る決心を打ち明けて、彼らの許諾を一々求めなければならないと思った。ただ最後に兄の所へ行って、同じ決心を是非共繰返す必要があるので、それだけが苦になった。
母に打ち明けたのはたしかその明くる日であった。母はこの唐突な自分の決心に驚いたように、「どうせ出るならお嫁でもきまってからと思っていたのだが。――まあ仕方があるまいよ」と云った後、憮然として自分の顔を見た。自分はすぐその足で、父の居間へ行こうとした。母は急に後から呼び留めた。
「二郎たとい、お前が家を出たってね……」
母の言葉はそれだけで支えてしまった。自分は「何ですか」と聞き返したため、元の場所に立っていなければならなかった。
「兄さんにはもう御話しかい」と母は急に即かぬ事を云い出した。
「いいえ」と自分は答えた。
「兄さんにはかえってお前から直下に話した方が好いかも知れないよ。なまじ、御父さんや御母さんから取次ぐと、かえって感情を害するかも知れないからね」
「ええ僕もそう思っています。なるたけ綺麗にして出るつもりですから」
自分はこう断って、すぐ父の居間に這入った。父は長い手紙を書いていた。
「大阪の岡田からお貞の結婚について、この間また問い合せが来たので、その返事を書こう書こうと思いながら、とうとう今日まで放っておいたから、今日は是非一つその義務を果そうと思って、今書いているところだ。ついでだからそう云っとくが、御前の書く拝啓の啓の字は間違っている。崩すならそこにあるように崩すものだ」
長い手紙の一端がちょうど自分の坐った膝の前に出ていた。自分は啓の字を横に見たが、どこが間違っているのかまるで解らなかった。自分は父が筆を動かす間、床に活けた黄菊だのその後にある懸物だのを心のうちで品評していた。
二十五