20話 行人(20)
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反橋を渡る所で、先の人が何かに支えて一同ちょっととまった機会を利用して、自分はそっと岡田のフロックの尻を引張った。
「岡田さんは実に呑気だね」と云った。
「なぜです」
彼は自ら媒妁人をもって任じながら、その細君を連れて来ない不注意に少しも気がついていないらしかった。自分から呑気の訳を聞いた時、彼は苦笑して頭を掻きながら、「実は伴れて来ようと思ったんですがね、まあどうかなるだろうと思って……」と答えた。
反橋を降りて奥へ這入ろうという入口の所で、花嫁は一面に張り詰められた鏡の前へ坐って、黒塗の盥の中で手を洗っていた。自分は後から背延をして、お貞さんの姿を見た時、なるほどこれで列が後れるんだなと思うと同時に吹き出したくなった。せっかく丹精して塗り立てた彼女の手も、この神聖な一杓の水で、無残に元のごとく赤黒くされてしまったのである。
神殿の左右には別室があった。その右の方へ兄が佐野さんを伴れて這入った。その左の方へ嫂がお貞さんを伴れて這入った。それが左右から出て来て着座するのを見ると、兄夫婦は真面目な顔をして向い合せに坐っていた。花嫁花婿も無論の事、謹んだ姿で相対していた。
式壇を正面に、後の方にずらりと並んだ父だの母だの自分達は、この二様の意味をもった夫婦と、絵の具で塗り潰した綺麗な太鼓と、何物を中に蔵しているか分らない、御簾を静粛に眺めた。
兄は腹のなかで何を考えているか、よそ目から見ると、尋常と変るところは少しもなかった。嫂は元より取り繕った様子もなく、自然そのままに取り済ましていた。
彼らはすでに過去何年かの間に、夫婦という社会的に大切な経験を彼らなりに甞めて来た、古い夫婦であった。そうして彼らの甞めた経験は、人生の歴史の一部分として、彼らに取っては再びしがたい貴いものであったかも知れない。けれどもどっちから云っても、蜜に似た甘いものではなかったらしい。この苦い経験を有する古夫婦が、己れ達のあまり幸福でなかった運命の割前を、若い男と若い女の頭の上に割りつけて、また新しい不仕合な夫婦を作るつもりなのかしらん。
兄は学者であった。かつ感情家であった。その蒼白い額の中にあるいはこのくらいな事を考えていたかも知れない。あるいはそれ以上に深い事を考えていたかも知れない。あるいはすべての結婚なるものを自ら呪詛しながら、新郎と新婦の手を握らせなければならない仲人の喜劇と悲劇とを同時に感じつつ坐っていたかも知れない。
とにかく兄は真面目に坐っていた。嫂も、佐野さんも、お貞さんも、真面目に坐っていた。そのうち式が始まった。巫女の一人が、途中から腹痛で引き返したというので介添がその代りを勤めた。
自分の隣に坐っていたお重が「大兄さんの時より淋しいのね」と私語いた。その時は簫や太鼓を入れて、巫女の左右に入れ交う姿も蝶のように翩々と華麗に見えた。
「御前の嫁に行く時は、あの時ぐらい賑かにしてやるよ」と自分はお重に云った。お重は笑っていた。
式が済んでみんなが控所へ帰った時、お貞さんは我々が立っているのに、わざわざ絨氈の上に手を突いて、今まで厄介になった礼を丁寧に述べた。彼女の眼には淋しそうな涙がいっぱい溜っていた。
新夫婦と岡田は昼の汽車で、すぐ大阪へ向けて立った。自分は雨のプラットフォームの上で、二三日箱根あたりで逗留するはずのお貞さんを見送った後、父や兄に別れて独り自分の下宿へ帰った。そうして途々自分にも当然番の廻ってくるべき結婚問題を人生における不幸の謎のごとく考えた。
三十七
お貞さんが攫われて行くように消えてしまった後の宅は、相変らずの空気で包まれていた。自分の見たところでは、お貞さんが宅中で一番の呑気ものらしかった。彼女は永年世話になった自分の家に、朝夕箒を執ったり、洗い洒ぎをしたりして、下女だか仲働だか分らない地位に甘んじた十年の後、別に不平な顔もせず佐野といっしょに雨の汽車で東京を離れてしまった。彼女の腹の中も日常彼女の繰り返しつつ慣れ抜いた仕事のごとく明瞭でかつ器械的なものであったらしい。一家団欒の時季とも見るべき例の晩餐の食卓が、一時重苦しい灰色の空気で鎖された折でさえ、お貞さんだけはその中に坐って、平生と何の変りもなく、給仕の盆を膝の上に載せたまま平気で控えていた。結婚当日の少し前、兄から書斎へ呼ばれて出て来た時、彼女の顔を染めた色と、彼女の瞼に充ちた涙が、彼女の未来のために、何を語っていたか知らないが、彼女の気質から云えば、それがために長い影響を受けようとも思えなかった。
お貞さんが去ると共に冬も去った。去ったと云うよりも、まず大した事件も起らずに済んだと評する方が適当かも知れない。斑らな雪、枯枝を揺ぶる風、手水鉢を鎖ざす氷、いずれも例年の面影を規則正しく自分の眼に映した後、消えては去り消えては去った。自然の寒い課程がこう繰返されている間、番町の家はじっとして動かずにいた。その家の中にいる人と人との関係もどうかこうか今まで通り持ち応えた。
自分の地位にも無論変化はなかった。ただお重が遊び半分時々苦情を訴えに来た。彼女は来るたびに「お貞さんはどうしているでしょうね」と聞いた。
「どうしているでしょうって、――お前の所へ何とも云って来ないのか」
「来る事は来るわ」
聞いて見ると、結婚後のお貞さんについて、彼女は自分より遥に豊富な知識をもっていた。
自分はまた彼女が来るたびに、兄の事を聞くのを忘れなかった。
「兄さんはどうだい」
「どうだいって、あなたこそ悪いわ。家へ来ても兄さんに逢わずに帰るんだから」
「わざわざ避けるんじゃない。行ってもいつでも留守なんだから仕方がない」
「嘘をおっしゃい。この間来た時も書斎へ這入らずに逃げた癖に」
お重は自分より正直なだけに真赤になった。自分はあの事件以後どうかして兄と故の通り親しい関係になりたいと心では希望していたが、実際はそれと反対で、何だか近寄り悪い気がするので、全くお重の云うごとく、宅へ行って彼に挨拶する機会があっても、なるべく会わずに帰る事が多かった。
お重にやり込められると、自分は無言の降意を表するごとくにあははと笑ったり、わざと短い口髭を撫でたり、時によると例の通り煙草に火を点けて瞹眛な煙を吐いたりした。
そうかと思うとかえってお重の方から突然「大兄さんもずいぶん変人ね。あたし今になって全くあなたが喧嘩して出たのも無理はないと思うわ」などと云った。お重から藪から棒にこう驚かされると、自分は腹の底で自分の味方が一人殖えたような気がして嬉しかった。けれども表向彼女の意見に相槌を打つほどの稚気もなかった。叱りつけるほどの衒気もなかった。ただ彼女が帰った後で、たちまち今までの考えが逆まになって、兄の精神状態が周囲に及ぼす影響などがしきりに苦になった。だんだん生物から孤立して、書物の中に引き摺り込まれて行くように見える彼を平生よりも一倍気の毒に思う事もあった。
三十八
母も一二遍来た。最初来た時は大変機嫌が好かった。隣の座敷にいる法学士はどこへ出て何を勤めているのだなどと、自分にも判然解らないような事を、さも大事らしく聞いたりした。その時彼女は宅の近況について何にも語らずに、「この頃は方々で風邪が流行るから気をおつけ。お父さんも二三日前から咽喉が痛いって、湿布をしてお出でだよ」と注意して去った。自分は彼女の去った後、兄夫婦の事を思い出す暇さえなかった。彼らの存在を忘れた自分は、快よい風呂に入って、旨い夕飯を食った。
次に訪ねてくれた時の母の調子は、前に較べると少し変っていた。彼女は大阪以後、ことに自分が下宿して以後、自分の前でわざと嫂の批評を回避するような風を見せた。自分も母の前では気が咎めるというのか、必要のない限り、嫂の名を憚って、なるべく口へ出さなかった。ところがこの注意深い母がその折卒然と自分に向って、「二郎、ここだけの話だが、いったいお直の気立は好いのかね悪いのかね」と聞いた。はたして何か始まったのだと心得た自分は冷りとした。
下宿後の自分は、兄についても嫂についても不謹慎な言葉を無責任に放つ勇気は全くなかったので、母は自分から何一つ満足な材料を得ずして去った。自分の方でも、なぜ彼女がこの気味の悪い質問を自分に突然とかけたかついに要領を得ずに母を逸した。「何かまた心配になるような事でもできたのですか」と聞いても、彼女は「なに別にこれと云って変った事はないんだがね……」と答えるだけで、後は自分の顔を打守るに過ぎなかった。
自分は彼女が帰った後、しきりにこの質問に拘泥し始めた。けれども前後の事情だの母の態度だのを綜合して考えて見て、どうしても新しい事件が、わが家庭のうちに起ったとは受取れないと判断した。
母もあまり心配し過ぎて、とうとう嫂が解らなくなったのだ。
自分は最後にこう解釈して、恐ろしい夢に捉えられたような気持を抱いた。
お重も来、母も来る中に、嫂だけは、ついに一度も自分の室の火鉢に手を翳さなかった。彼女がわざと遠慮して自分を尋ねない主意は、自分にも好く呑み込めていた。自分が番町へ行ったとき、彼女は「二郎さんの下宿は高等下宿なんですってね。お室に立派な床があって、庭に好い梅が植えてあるって云う話じゃありませんか」と聞いた。しかし「今度拝見に行きますよ」とは云わなかった。自分も「見にいらっしゃい」とは云いかねた。もっとも彼女の口に上った梅は、どこかの畠から引っこ抜いて来て、そのままそこへ植えたとしか思われない無意味なものであった。
嫂が来ないのとは異様の意味で、また同様の意味で、兄の顔はけっして自分の室の裡に見出されなかった。
父も来なかった。
三沢は時々来た。自分はある機会を利用して、それとなく彼にお重を貰う意があるかないかを探って見た。
「そうだね。あのお嬢さんももう年頃だから、そろそろどこかへ片づける必要が逼って来るだろうね。早く好い所を見つけて嬉しがらせてやりたまえ」
彼はただこう云っただけで、取り合う気色もなかった。自分はそれぎり断念してしまった。
永いようで短い冬は、事の起りそうで事の起らない自分の前に、時雨、霜解、空っ風……と既定の日程を平凡に繰り返して、かように去ったのである。
塵労
一
陰刻な冬が彼岸の風に吹き払われた時自分は寒い窖から顔を出した人のように明るい世界を眺めた。自分の心のどこかにはこの明るい世界もまた今やり過ごした冬と同様に平凡だという感じがあった。けれども呼息をするたびに春の匂が脈の中に流れ込む快よさを忘れるほど自分は老いていなかった。
自分は天気の好い折々室の障子を明け放って往来を眺めた。また廂の先に横わる蒼空を下から透すように望んだ。そうしてどこか遠くへ行きたいと願った。学校にいた時分ならもう春休みを利用して旅へ出る支度をするはずなのだけれども、事務所へ通うようになった今の自分には、そんな自由はとても望めなかった。偶の日曜ですら寝起の悪い顔を一日下宿に持ち扱って、散歩にさえ出ない事があった。
自分は半ば春を迎えながら半ば春を呪う気になっていた。下宿へ帰って夕飯を済ますと、火鉢の前へ坐って煙草を吹かしながら茫然自分の未来を想像したりした。その未来を織る糸のうちには、自分に媚びる花やかな色が、新しく活けた佐倉炭の焔と共にちらちらと燃え上るのが常であったけれども、時には一面に変色してどこまで行っても灰のように光沢を失っていた。自分はこういう想像の夢から突然何かの拍子で現在の我に立ち返る事があった。そうしてこの現在の自分と未来の自分とを運命がどういう手段で結びつけて行くだろうと考えた。
自分が不意に下宿の下女から驚かされたのは、ちょうどこんな風に現実と空想の間に迷ってじっと火鉢に手を翳していた、ある宵の口の出来事であった。自分は自分の注意を己れ一人に集めていたというものか、実際下女の廊下を踏んで来る足音に気がつかなかった。彼女が思いがけなくすうと襖を開けた時自分は始めて偶然のように眼を上げて彼女と顔を見合せた。
「風呂かい」
自分はすぐこう聞いた。これよりほかに下女が今頃自分の室の襖を開けるはずがないと思ったからである。すると下女は立ちながら「いいえ」と答えたなり黙っていた。自分は下女の眼元に一種の笑いを見た。その笑いの中には相手を翻弄し得た瞬間の愉快を女性的に貪りつつある妙な閃があった。自分は鋭く下女に向って、「何だい、突立ったまま」と云った。下女はすぐ敷居際に膝を突いた。そうして「御客様です」とやや真面目に答えた。
「三沢だろう」と自分が云った。自分はある事で三沢の訪問を予期していたのである。
「いいえ女の方です」
「女の人?」
自分は不審の眉を寄せて下女に見せた。下女はかえって澄ましていた。
「こちらへ御通し申しますか」
「何という人だい」
「知りません」
「知りませんって、名前を聞かないでむやみに人の室へ客を案内する奴があるかい」
「だって聞いてもおっしゃらないんですもの」
下女はこう云って、また先刻のような意地の悪い笑を目元で笑った。自分はいきなり火鉢から手を放して立ち上った。敷居際に膝を突いている下女を追い退けるようにして上り口まで出た。そうして土間の片隅にコートを着たまま寒そうに立っていた嫂の姿を見出した。
二
その日は朝から曇っていた。しかも打ち続いた好天気を一度に追い払うように寒い風が吹いた。自分は事務所から帰りがけに、外套の襟を立てて歩きながら道々雨になるのを気遣った。その雨が先刻夕飯の膳に向う時分からしとしとと降り出した。
「好くこんな寒い晩に御出かけでした」
嫂は軽く「ええ」と答えたぎりであった。自分は今まで坐っていた蒲団の裏を返して、それを三尺の床の前に直して、「さあこっちへいらっしゃい」と勧めた。彼女はコートの片袖をするすると脱ぎながら「そうお客扱いにしちゃ厭よ」と云った。自分は茶器を洒がせるために電鈴を押した手を放して、彼女の顔を見た。寒い戸外の空気に冷えたその頬はいつもより蒼白く自分の眸子を射た。不断から淋しい片靨さえ平生とは違った意味の淋しさを消える瞬間にちらちらと動かした。
「まあ好いからそこへ坐って下さい」
彼女は自分の云う通りに蒲団の上に坐った。そうして白い指を火鉢の上に翳した。彼女はその姿から想像される通り手爪先の尋常な女であった。彼女の持って生れた道具のうちで、初から自分の注意を惹いたものは、華奢に出来上ったその手と足とであった。
「二郎さん、あなたも手を出して御あたりなさいな」
自分はなぜか躊躇して手を出しかねた。その時雨の音が窓の外で蕭々とした。昼間吹募った西北の風は雨と共にぱったりと落ちたため世間は案外静かになっていた。ただ時を区切って樋を叩く雨滴の音だけがぽたりぽたりと響いた。嫂は平生の通り落ちついた態度で、室の中を見廻しながら「なるほど好い御室ね、そうして静だ事」と云った。
「夜だから好く見えるんです。昼間来て御覧なさい、ずいぶん汚ならしい室ですよ」
自分はしばらく嫂と応対していた。けれども今自白すると腹の中は話の調子で示されるほど穏かなものではけっしてなかった。自分は嫂がこの下宿へ訪ねて来ようとはその時までけっして予期していなかったのである。空想にすら描いていなかったのである。彼女の姿を上り口の土間に見出した時自分ははっと驚いた。そうしてその驚きは喜びの驚きよりもむしろ不安の驚きであった。
「何で来たのだろう。何でこの寒いのにわざわざ来たのだろう。何でわざわざ晩になって灯が点いてから来たのだろう」
これが彼女を見た瞬間の疑惑であった。この疑惑に初手からこだわった自分の胸には、火鉢を隔てて彼女と相対している日常の態度の中に絶えざる圧迫があった。それが自分の談話や調子に不愉快なそらぞらしさを与えた。自分はそれを明かに自覚した。それからその空々しさがよく相手の頭に映っているという事も自覚した。けれどもどうする訳にも行かなかった。自分は嫂に「冴え返って寒くなりましたね」と云った。「雨の降るのに好く御出かけですね」と云った。「どうして今頃御出かけです」と聞いた。対話がそこまで行っても自分の胸に少しの光明を投げなかった時、自分は硬くなった、そうしてジョコンダに似た怪しい微笑の前に立ち竦まざるを得なかった。
「二郎さんはしばらく会わないうちに、急に改まっちまったのね」と嫂が云い出した。
「そんな事はありません」と自分は答えた。
「いいえそうよ」と彼女が押し返した。
三
自分はつと立って嫂の後へ廻った。彼女は半間の床を背にして坐っていた。室が狭いので彼女の帯のあたりはほとんど杉の床柱とすれすれであった。自分がその間へ一足割り込んだ時、彼女は窮屈そうに体躯を前の方へ屈めて「何をなさるの」と聞いた。自分は片足を宙に浮かしたまま、床の奥から黒塗の重箱を取り出して、それを彼女の前へ置いた。
「一つどうです」
こう云いながら蓋を取ろうとすると、彼女は微かに苦笑を洩らした。重箱の中には白砂糖をふりかけた牡丹餅が行儀よく並べてあった。昨日が彼岸の中日である事を自分はこの牡丹餅によって始めて知ったのである。自分は嫂の顔を見て真面目に「食べませんか」と尋ねた。彼女はたちまち吹き出した。
「あなたもずいぶんね、その御萩は昨日宅から持たせて上げたんじゃありませんか」
自分はやむをえず苦笑しながら一つ頬張った。彼女は自分のために湯呑へ茶を注いでくれた。
自分はこの牡丹餅から彼女が今日墓詣りのため里へ行ってその帰りがけにここへ寄ったのだと云う事をようやく確めた。
「大変御無沙汰をしていますが、あちらでも別にお変りはありませんか」
「ええありがとう、別に……」
言葉寡な彼女はただ簡単にこう答えただけであったが、その後へ、「御無沙汰って云えば、あなた番町へもずいぶん御無沙汰ね」と付け加えて、ことさらに自分の顔を見た。
自分は全く番町へは遠ざかっていた。始めは宅の事が苦になって一週に一度か二度行かないと気が済まないくらいだったが、いつか中心を離れてよそからそっと眺める癖を養い出した。そうしてその眺めている間少くとも事が起らずに済んだという自覚が、無沙汰を無事の原因のように思わせていた。
「なぜ元のようにちょくちょくいらっしゃらないの」
「少し仕事の方が忙しいもんですから」
「そう? 本当に? そうじゃないでしょう」
自分は嫂からこう追窮されるのに堪えなかった。その上自分には彼女の心理が解らなかった。他の人はどうあろうとも、嫂だけはこの点において自分を追窮する勇気のないものと今まで固く信じていたからである。自分は思い切って「あなたは大胆過ぎる」と云おうかと思った。けれども疾に相手から小胆と見縊られている自分はついに卑怯であった。
「本当に忙がしいのです。実はこの間から少し勉強しようと思って、そろそろその準備に取りかかったもんですから、つい近頃はどこへも出る気にならないんです。僕はいつまでこんな事をしてぐずぐずしていたってつまらないから、今のうち少し本でも読んでおいて、もう少ししたら外国へでも行って見たいと思ってるんだから」
この答えの後半は本当に自分の希望であった。自分は何でもいいからただ遠くへ行きたい行きたいと願っていた。
「外国って、洋行?」と嫂が聞いた。
「まあそうです」
「結構ね。御父さんに願って早くやって御頂きなさい。妾話して上げましょうか」
自分も無駄と知りながらそんな事を幻のように考えていたのだが、彼女の言葉を聞いた時急に、「お父さんは駄目ですよ」と首を振って見せた。彼女はしばらく黙っていた。やがて物憂そうな調子で「男は気楽なものね」と云った。
「ちっとも気楽じゃありません」
「だって厭になればどこへでも勝手に飛んで歩けるじゃありませんか」
四