7話 坑夫(7)
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から、振り向くと、長蔵さんと赤毛布が草鞋を脱いでいる。二人共腰から手拭を出して、ばたばた足をはたいている。そうして、すぐ上がって来た。足を洗うのが面倒だと見える。ところへ主人が次の間から茶と煙草盆を持って来た。
主人だの、次の間だの、茶だの、煙草盆だの、と云うとすこぶる尋常に聞えるが、その実名ばかりで、一々説明すると、大変な誤解をしていたんだねと呆れ返るものばかりである。がとにかく主人が次の間から、茶と煙草盆を持って来たには違いない。そうして長蔵さんと談話をし始めた。談話の筋は忘れたが、その様子から察すると、二人はもとからの知合で、御互の間には貸や借があるらしい。何でも馬の事をしきりに云ってた。自分だの、赤毛布だの、小僧などの事はまるで聞きもしない。まるで眼中にない訳でもあるまいが、さっき長蔵さんが一人で談判に這入った時に、残らず聞いてしまったんだろう。それとも長蔵さんはたびたびこんな呑気屋を銅山へ連れて行くんで、自然その往き還りにはこの主人の厄介になりつけてるから、別段気にも留めないのかも知れない。
自分は、長蔵さんと主人との話を聞きながら、居眠を始めた。いつから始めたか知らない。馬を売損って、どうとかしたと云うところから、だんだん判然しなくなって、自然と長蔵さんが消える。赤毛布が消える。小僧が消える。主人と茶と煙草盆が消えて、破屋までも消えた時、こくりと眠が覚めた。気がつくと頭が胸の上へ落ちている。はっと思って、擡げるとはなはだ重い。主人はやっぱり馬の話をしている。まだ馬かと思ってるうちに、また気が遠くなった。気が遠くなったのを、遠いままにして打遣って置くと、忽然ぱっと眼があいた。薄暗い部屋の中に、影のような長蔵さんと亭主が膝を突き合せている。ちょうど、借がどうとかしてハハハハと亭主が笑ったところだった。この亭主は額が長くって、斜に頭の天辺まで引込んでるから、横から見ると切通しの坂くらいな勾配がある。そうして上になればなるほど毛が生えている。その毛は五分くらいなのと一寸くらいなのとが交って、不規則にしかも疎にもじゃもじゃしている。自分が居眠りからはっと驚いて、急に眼を開けると、第一にこの頭が眸の底に映った。ランプが煤だらけで暗いものだから、この頭も煤だらけになって映って来た。その癖距離は近い。だから映った影は明瞭である。自分はこの明瞭でかつ朦朧なる亭主の頭を居眠りの不知覚から我に返る咄嗟にふと見たんである。この時はあまり好い心持ではなかった。それがため、居眠りもしばらく見合せるような気になって、部屋中を見廻すと、向うの隅に小僧が倒れている。こちらの横に茨城県が長く伸びている。毛布の下から大きな足が見える。突当りが壁で、壁の隅に穴が開いて、穴の奥が真黒である。上は一面の屋根裏で、寒いほど黒くなってる所へ、油煙とともにランプの灯があたるから、よく見ていると、藁葺の裏側が震えるように思われた。
それからまた眠くなった。また頭が落ちる。重いから上げるとまた落ちる。始めのうちは、上げた頭が落ちながらだんだんうっとりして、うっとりの極、胸の上へがくりと落ちるや否や、一足飛に正気へ立ち戻ったが、三回四回と重なるにつけて、眼だけ開けても気は判然しない。ぼんやりと世界に帰って、またぞろすぐと不覚に陥っちまう。それから例のごとく首が落ちる。微に生きてるような気になる。かと思うとまた一切空に這入る。しまいには、とうとう、いくら首がのめって来ても、動じなくなった。あるいはのめったなり、頭の重みで横にぶっ倒れちまったのかも知れない。とにかく安々と夜明まで寝て、眼が覚めた時は、もう居眠りはしていなかった。通例のごとく身体全体を畳の上につけて長くなっていた。そうして涎を垂れている。――自分は馬の話を聞いて居眠りを始めて、眼をあけて借金の話を聞いて、また居眠りの続を復習しているうちに、とうとう居眠りを本式に崩して長くなったぎり、魂の音沙汰を聞かなかったんだから、眼が覚めて、夜が明けて、世の中が土台から陰と陽に引ッ繰り返ってるのを見るや否や、眼をあいて涎を垂れて、横になったまま、じっとしていた。自覚があって死んでたらこんなだろう。生きてるけれども動く気にならなかった。昨夜の事は一から十までよく覚えている。しかし昨夜の一から十までが自然と延びて今日まで持ち越したとは受け取れない。自分の経験はすべてが新しくって、かつ痛切であるが、その新しい痛切の事々物々が何だか遠方にある。遠方にあると云うよりも、昨夜と今日の間に厚い仕切りが出来て、截然と区別がついたようだ。太陽が出ると引き込むだけの差で、こう心に連続がなくなっては不思議なくらい自分で自分が当にならなくなる。要するに人世は夢のようなもんだ。とちょっと考えたもんだから、涎も拭かずに沈んでいると、長蔵さんが、ううんと伸をして、寝たまま握り拳を耳の上まで持ち上げた。握り拳がぬっと真直に畳の上を擦って、腕のありたけ出たところで、勢がゆるんで、ぐにゃりとした。また寝るかと思ったら、今度は右の手を下へさげて、凹んだ頬っぺたをぼりぼり掻き出した。起きてるのかも知れない。そのうち、むにゃむにゃ何か云うんで、やっぱり眼が覚めていないなと気がついた時、小僧がむくりと飛び起きた。これは真正の意味において飛起きたんだから、どしんと音がして、根太が抜けそうに響いた。すると、さすが長蔵さんだけあって、むにゃむにゃをやめて、すぐ畳についた方の肩を、肘の高さまで上げた。眼をぱちつかせている。
こうなると、自分もいつまで沈んでいたって際限がないから、起き上った。長蔵さんも全く起きた。小僧は立ち上がった。寝ているものは赤毛布ばかりである。これはまた呑気なもんで、依然として毛布から大きな足を出してぐうぐう鼾声をかいて寝ている。それを長蔵さんが起す。――
「御前さん。おい御前さん。もう起きないと御午までに銅山へ行きつけないよ」
御前さんが三四返繰返されたが、毛布はよく寝ている。仕方がないから長蔵さんは毛布の肩へ手を懸けて、
「おい、おい」
と揺り始めたんで、やむを得ず、毛布の方でも「おい」と同じような返事をして、中途半端に立ち上った。これでみんな起きたようなものの、自分は顔も洗わず、飯も食わず、どうして好いか迷ってると、長蔵さんが、
「じゃ、そろそろ出掛けよう」
と云って、真先に土間へ降りかけたには驚いた。小僧がつづいて降りる。毛布も不得要領に土間へ大きな足をぶら下げた。こうなると自分も何とか片をつけなくっちゃならないから、一番あとから下駄を突掛けて、長蔵さんと赤毛布が草鞋の紐を結ぶのを、不景気な懐手をして待っていた。
土間へ下りた以上は、顔を洗わないのかの、朝飯を食わないのかのと、当然の事を聞くのが、さも贅沢の沙汰のように思われて、とんと質問して見る気にならない。習慣の結果、必要とまで見做されているものが、急に余計な事になっちまうのはおかしいようだが、その後この顛倒事件を布衍して考えて見たら、こんな、例はたくさんある。つまり世の中では大勢のやってる事が当然になって、一人だけでやる事が余計のように思われるんだから、当然になろうと思ったら味方を大勢拵えて、さも当然であるかの容子で不当な事をやるに限る。やっては見ないがきっと成功するだろう。相手が長蔵さんと赤毛布でさえ自分にはこれほどの変化を来たしたんでも分る。
すると長蔵さんは草鞋の紐を結んで、足元に用がなくなったもんだから、ふいと顔を上げた。そうして自分を見た。そうして、こんな事を云う。
「御前さん、飯は食わなくっても好いだろうね」
飯を食わなくって好い法はないが、わるいと云ったって、始まりようがないから、自分はただ、
「好いです」
と答えて置いた。すると長蔵さんは、
「食いたいかね」
と云って、にやにやと笑った。これは自分の顔に飯が食いたいような根性が幾分かあらわれたためか、または十九年来の予期に反した起きたなり飯抜きの出立に、自然不平の色が出ていたためだろう。それでなければ草鞋の紐を結んでしまってから、こんな事を聞く訳がない。現に長蔵さんは、赤毛布にも小僧にもこの質問を呈出しなかったんでも分る。今考えると、ちょっと両人にも同じ事を聞いて見れば善かったような気もする。朝飯を食わないで五里十里と歩き出すものは宿無しか、または準宿無しでなくっちゃならない。目が醒めて、夜が明けてるのに、汁の煙も、漬物の香も、いっこう連想に乗って来ないからは、行きなり放題に、今日は今日の命を取り留めて、その日その日の魂の供養をする呑気屋で、世の中にあしたと云うものがないのを当り前と考えるほどに不幸なまた幸な人間である。自分は十九年来始めて、こう云う人間と一つ所に泊って、これからまたいっしょに歩き出すんだなと思った。赤毛布と小僧の顔色を伺って見ると少しも朝飯を予期している様子がないんで、双方共朝飯を食い慣けていない一種の人類だと勘づいて見ると、自分の運命は坑夫にならない先から、もう、坑夫以下に摺り落ちていたと云う事が分った。しかし分ったと云うばかりで別に悲しくもなかった。涙は無論出なかった。ただ長蔵さんが、この朝飯の経験に乏しい人間に向って、「御前さん達も飯が食いたいかね」と尋ねてくれなかったのを、今では残念に思ってる。食った事が少いから、今までの習慣性で、「食わないでも好い」と答えるか、それとも、たまさかに有りつけるかも知れないと云う意外の望に奨励されて「食いたい」と答えるか。――つまらん事だがどっちか聞いて見たい。
長蔵さんは土間へ立って、ちょっと後ろを振り返ったが、
「熊さん、じゃ行ってくる。いろいろ御世話様」
と軽く力足を二三度踏んだ。熊さんは無論亭主の名であるが、まだ奥で寝ている。覗いて見ると、昨夕うつつに気味をわるくした、もじゃもじゃの頭が布団の下から出ている。この亭主は敷蒲団を上へ掛けて寝る流儀と見える。長蔵さんが、このもじゃもじゃの頭に話しかけると、頭は、むくりと畳を離れた。そうして熊さんの顔が出た。この顔は昨夜見たほど妙でもなかった。しかし額がさかに瘠けて、脳天まで長くなってる事は、今朝でも争われない。熊さんは床の中から、
「いや、何にも御構申さなかった」
と云った。なるほど何にも構わない。自分だけ布団をかけている。
「寒かなかったかね」
とも云った。気楽なもんだ。長蔵さんは
「いいえ。なあに」
と受けて、土間から片足踏み出した時、後から、熊さんが欠伸交りに、
「じゃ、また帰りに御寄り」
と云った。
それから長蔵さんが往来へ出る。自分も一足後れて、小僧と赤毛布の尻を追っ懸けて出た。みんな大急ぎに急ぐ。こう云う道中には慣れ切ったものばかりと見える。何でも長蔵さんの云うところによると、これから山越をするんだが、午までには銅山へ着かなくっちゃならないから急ぐんだそうだ。なぜ午までに着かなくっちゃならないんだか、訳が分らないが、聞いて見る勇気がなかったから、黙って食っついて行った。するとなるほど登になって来た。昨夕あれほど登ったつもりだのに、まだ登るんだから嘘のようでもあるが実際見渡して見ると四方は山ばかりだ。山の中に山があって、その山の中にまた山があるんだから馬鹿馬鹿しいほど奥へ這入る訳になる。この模様では銅山のある所は、定めし淋しいだろう。呼息を急いて登りながらも心細かった。ここまで来る以上は、都へ帰るのは大変だと思うと、何の酔興で来たんだか浅間しくなる。と云って都におりたくないから出奔したんだから、おいそれと帰りにくい所へ這入って、親親類の目に懸からないように、朽果ててしまうのはむしろ本望である。自分は高い坂へ来ると、呼息を継ぎながら、ちょっと留っては四方の山を見廻した。するとその山がどれもこれも、黒ずんで、凄いほど木を被っている上に、雲がかかって見る間に、遠くなってしまう。遠くなると云うより、薄くなると云う方が適当かも知れない。薄くなった揚句は、しだいしだいに、深い奥へ引き込んで、今までは影のように映ってたものが、影さえ見せなくなる。そうかと思うと、雲の方で山の鼻面を通り越して動いて行く。しきりに白いものが、捲き返しているうちに、薄く山の影が出てくる。その影の端がだんだん濃くなって、木の色が明かになる頃は先刻の雲がもう隣りの峰へ流れている。するとまた後からすぐに別の雲が来て、せっかく見え出した山の色をぼうとさせる。しまいには、どこにどんな山があるかいっこう見当がつかなくなる。立ちながら眺めると、木も山も谷もめちゃめちゃになって浮き出して来る。頭の上の空さえ、際限もない高い所から手の届く辺まで落ちかかった。長蔵さんは、
「こりゃ、雨だね」
と、歩きながら独言を云った。誰も答えたものはない。四人とも雲の中を、雲に吹かれるような、取り捲かれるような、また埋められるような有様で登って行った。自分にはこの雲が非常に嬉しかった。この雲のお蔭で自分は世の中から隠したい身体を十分に隠すことが出来た。そうして、さのみ苦しい思いもしずにその中を歩いて行ける。手足は自由に働いて、閉じ籠められたような窮屈も覚えない上に、人目にかからん徳は十分ある。生きながら葬られると云うのは全くこの事である。それが、その時の自分には唯一の理想であった。だからこの雲は全くありがたい。ありがたいという感謝の念よりも、雲に埋められ出してから、まあ安心だと、ほっと一息した。今考えると何が安心だか分りゃしない。全くの気違だと云われても仕方がない。仕方がないが、こう云う自分が、時と場合によれば、翌が日にも、また雲が恋しくならんとも限らない。それを思うと何だか変だ。吾が身で吾が身が保証出来ないような、また吾が身が吾が身でないような気持がする。
しかしこの時の雲は全く嬉しかった。四人が離れたり、かたまったり、隔てられたり、包まれたりして雲の中を歩いて行った時の景色はいまだに忘れられない。小僧が雲から出たり這入ったりする。茨城の毛布が赤くなったり白くなったりする。長蔵さんの、どてらが、わずか五六間の距離で濃くなったり薄くなったりする。そうして誰も口を利かない。そうして、むやみに急ぐ。世界から切り離された四つの影が、後になり先になり、殖もせず減もせず、四つのまま、引かれて合うように、弾かれて離れるように、またどうしても四つでなくてはならないように、雲の中をひたすら歩いた時の景色はいまだに忘れられない。
自分は雲に埋まっている。残る三人も埋まっている。天下が雲になったんだから、世の中は自分共にたった四人である。そうしてその三人が三人ながら、宿無である。顔も洗わず朝飯も食わずに、雲の中を迷って歩く連中である。この連中と道伴になって登り一里、降り二里を足の続く限り雲に吹かれて来たら、雨になった。時計がないんで何時だか分らない。空模様で判断すると、朝とも云われるし、午過とも云われるし、また夕方と云っても差支ない。自分の精神と同じように世界もぼんやりしているが、ただちょっと眼についたのは、雨の間から微かに見える山の色であった。その色が今までのとは打って変っている。いつの間にか木が抜けて、空坊主になったり、ところ斑の禿頭と化けちまったんで、丹砂のように赤く見える。今までの雲で自分と世間を一筆に抹殺して、ここまでふらつきながら、手足だけを急がして来たばかりだから、この赤い山がふと眼に入るや否や、自分ははっと雲から醒めた気分になった。色彩の刺激が、自分にこう強く応えようとは思いがけなかった。――実を云うと自分は色盲じゃないかと思うくらい、色には無頓着な性質である。――そこでこの赤い山が、比較的烈しく自分の視神経を冒すと同時に、自分はいよいよ銅山に近づいたなと思った。虫が知らせたと云えば、虫が知らせたとも云えるが、実はこの山の色を見て、すぐ銅を連想したんだろう。とにかく、自分がいよいよ到着したなと直覚的に――世の中で直覚的と云うのは大概このくらいなものだと思うが――いわゆる直覚的に事実を感得した時に、長蔵さんが、
「やっと、着いた」
と自分が言いたいような事を云った。それから十五分ほどしたら町へ出た。山の中の山を越えて、雲の中の雲を通り抜けて、突然新しい町へ出たんだから、眼を擦って視覚をたしかめたいくらい驚いた。それも昔の宿とか里とか云う旧幕時代に縁のあるような町なら、まだしもだが、新しい銀行があったり、新しい郵便局があったり、新しい料理屋があったり、すべてが苔の生えない、新しずくめの上に、白粉をつけた新しい女までいるんだから、全く夢のような気持で、不審が顔に出る暇もないうちに通り越しちまった。すると橋へ出た。長蔵さんは橋の上へ立って、ちょっと水の色を見たが、
「これが入口だよ。いよいよ着いたんだから、そのつもりでいなくっちゃ、いけない」
と注意を与えた。しかし自分には、どんなつもりでいなくっちゃいけないんだか、ちっとも分らなかったから、黙って橋の上へ立って、入口から奥の方を見ていた。左が山である。右も山である。そうして、所々に家が見える。やっぱり木造の色が新しい。中には白壁だか、ペンキ塗だか分らないのがある。これも新しい。古ぼけて禿げてるのは山ばかりだった。何だかまた現実世界に引き摺り込まれるような気がして、少しく失望した。長蔵さんは自分が黙って橋の向を覗き込んでるのを見て、
「好いかね、御前さん、大丈夫かい」
とまた聞き直したから、自分は、
「好いです」
と明瞭に答えたが、内心あまり好くはなかった。なぜだかしらないが、長蔵さんはただ自分にだけ懸念がある様子であった。赤毛布と小僧には「好いかね」とも「大丈夫かい」とも聞かなかった。頭からこの両人は過去の因果で、坑夫になって、銅山のうちに天命を終るべきものと認定しているような気色がありありと見えた。して見ると不信用なのは自分だけで、だいぶ長蔵さんからこいつは危ないなと睨まれていたのかも知れない。好い面の皮だ。
それから四人揃って、橋を渡って行くと、右手に見える家にはなかなか立派なのがある。その中で一番いかめしい奴を指して、あれが所長の家だと長蔵さんが教えてくれた。ついでに左の方を見ながら
「こっちがシキだよ、御前さん、好いかね」
と云う。自分はシキと云う言葉をこの時始めて聞いた。
よっぽど聞き返そうかと思ったが、大方これがシキなんだろうと思って黙っていた。あとから自分もこのシキと云う言葉を明瞭に理解しなければならない身分になったが、やっぱり始めにぼんやり考えついた定義とさした違もなかった。そのうち左へ折れていよいよシキの方へ這入る事になった。鉄軌についてだんだん上って行くと、そこここに粗末な小さい家がたくさんある。これは坑夫の住んでる所だと聞いて、自分も今日から、こんな所で暮すのかと思ったが、それは間違であった。この小屋はどれも六畳と三畳二間で、みんな坑夫の住んでる所には違ないが、家族のあるものに限って貸してくれる規定であるから、自分のような一人ものは這入りたくたって這入れないんだった。こう云う小屋の間を縫って、飽きずに上って行くと、今度は石崖の下に細長い横幅ばかりの長屋が見える。そうして、その長屋がたくさんある。始めはわずか二三軒かと思ったら、登るに従って続々あらわれて来た。大きさも長さも似たもんで、みんな崖下にあるんだから位地にも変りはないが、向だけは各々違ってる。山坂を利用して、なけなしの地面へ建てることだから、東だとか西だとか贅沢は言っていられない。やっとの思いで、ならした地面へ否応なしに、方角のお構なく建ててしまったんだから不規則なものだ。それに、第一、登って行く道がくねってる。あの長屋の右を歩いてるなと思うと、いつの間にかその長屋の前へ出て来る。あれは、すぐ頭の上だがと心待ちに待っていると、急に路が外れて遠くへ持ってかれてしまう。まるで見当がつかない。その上この細長い家から顔が出ている。家から顔が出ているのが珍らしい事もないんだが、その顔がただの顔じゃない。どれも、これも、出来ていない上に、色が悪い。その悪さ加減がまた、尋常でない。青くって、黒くって、しかも茶色で、とうてい都会にいては想像のつかない色だから困る。病院の患者などとはまるで比較にならない。自分が山路を登りながら、始めてこの顔を見た時は、シキと云う意味をよく了解しない癖に、なるほどシキだなと感じた。しかしいくらシキでも、こう云う顔はたくさんあるまいと思って、登って行くと、長屋を通るたんびに顔が出ていて、その顔がみんな同じである。しまいにはシキとは恐ろしい所だと思うまで、いやな顔をたくさん見せられて、また自分の顔をたくさん見られて――長屋から出ている顔はきっと自分らを見ていた。一種獰悪な眼つきで見ていた。――とうとう午後の一時に飯場へ着いた。
なぜ飯場と云うんだか分らない。焚き出しをするから、そう云う名をつけたものかも知れない。自分はその後飯場の意味をある坑夫に尋ねて、箆棒め、飯場たあ飯場でえ、何を云ってるんでえ、とひどく剣突を食った事がある。すべてこの社会に通用する術語は、シキでも飯場でもジャンボーでも、みんな偶然に成立して、偶然に通用しているんだから、滅多に意味なんか聞くと、すぐ怒られる。意味なんか聞く閑もなし