10話 星座(10)
読み方を変える
とに落ちこんでいかねばならぬものとなぜとはなく思いこんでいた。彼女の心の底をゆり動かす怖れといっては実際それだけだった。今おぬいの眼の前には、彼女の心の怖れを裏書きするような事実が語られているのだ。読んでゆくうちにおぬいの心は幾度となく悲しさと悩ましさとのために戦いた。あるところでは言葉が震え、あるところでは涙が溢れでようとしたけれども、おぬいは露ほどもそれを渡瀬さんに気取られたくはなかった。そういうところに来ると彼女は已むを得ず口を噤んで、解らないところに出遇したように装った(おお何という悪いことだろう、私はこのごろ人様の前で自分を偽らねばいられないようになってきた、とおぬいは心の中で嘆息するのだった)。
「そこですか。それは何んでもないじゃありませんか」
と渡瀬さんは無遠慮にいって、頭のいい人らしくはっきり解るように教えてくれた。おぬいはその間にようやく感情を抑えつけて、また先きを読みつづけてゆくことができた。そしてこういうことが二度三度と重なっていった。おぬいはまた烈しい感情で心を揺り動かされて、胸のところに酸っぱく衝き上げてくるようなものを感じながら黙ってしまった。しかし渡瀬さんは今度は即座には教えてくれなかった。不思議には思いながらも、しばらくたってから、ようやく顔を上げてみると、渡瀬さんは充血して、多少ぼんやりしたような顔つきで、おぬいの額ぎわをじっと見つめていたのだと知れた。おぬいは不思議にもそれを知ると本能的にはっと思った。渡瀬さんも日ごろの渡瀬さんに似合わず、少し慌てながら顔を紅くして、すぐに書物に眼を落したが、
「ええと、それは……どこでしたかね」
といいながら、やきもきと顔を書物の方につきだした。
おぬいはその時はからず母のいいおいていった言葉を思いだしていた。そして渡瀬さんに対して、恐ろしい不安を感じないではいられなくなった。渡瀬さんと向い合って人気のない家にいるのがたまらないほど無気味になった。おぬいは思わず「天にある父様」と念じながら(神様という言葉はきらいだった。父が亡くなってからは天にある父様という言葉がこの上もなくなつかしかった)、力でも求めるように、素早くあたりを見まわした。「もし私が知らずに渡瀬さんを誘惑しましたら、どうかどうかお許しくださいまし」
「正しい心がけで、そのほかは神様におまかせしておけば安心です」……その母の言葉、それがまた思いだされた。おぬいは眼がさめたように自分の今までの卑怯な態度を思い知った。自分の心の姿を渡瀬さんに見せまいとしていたのが間違いだったと気がついた。そこに気がつくと、きゅうにすがすがしく力を感じた、落着いてふたたび書物に向うことができた。読んでゆく間に、もちろん感情は昂められたけれども、口を噤むほどのことはなくて、しまいまで読みつづけた。渡瀬さんもそれからはかなり注意しておぬいの訳読を見ていてくれた。
読み終えるとおぬいは眼に涙をためていた。もうそれを渡瀬さんに隠そうとはしなかった。
「たびたび読みつかえたのをごめんくださいまし。意味が分らなかったのではないんですけれども、あんまり悲しいことが書いてあるものですから、つい黙ってしまいましたの。作り話ではどんな悲しいことが書いてあっても、私そんなに悲しいとは思いませんけれども、こんな本当のお話を読みますと……」
ハンケチで涙を拭いながら何事も打ち明けてこういった。
「これは本当の話ですか」
渡瀬さんは恥かしげもなくこう聞き返した。
「星野さんがそういうようにおっしゃってでしたけれども」
「本当であったところが要するに作り話ですよ。文学者なんて奴は、尾鰭をつけることがうまいですからね」
渡瀬さんはこだわりなさそうに笑ったが、やがていくらかまじめになって、
「今日はお母さんは……お留守ですか」
「診察に出かけました……よろしくと申していました」
正しい心がけで……おぬいは怖れることは露ほどもないと心を落ちつけた。
「じゃ先をやりますかな……」
渡瀬さんは書物を手に取り上げて、しばらくどこともなく頁をくっていたが、少し失礼だと思うほどまともにおぬいを見やりながら、
「おぬいさん」
といった。渡瀬さんから自分の名を呼ばれるのはおぬいには始めてだった。
「はい」
おぬいもまじろがずに渡瀬さんを見た。
「やあ困るな、そうまじめに出られちゃ……あなたは今の話で涙が出るといいましたが、……あなたにもそんな経験があったんですか」
「いいえ」
おぬいはここぞと思って、きっぱりと答えた。
「それで泣くというのは変ですねえ」
渡瀬さんは少し大ぎょうにこういいながら、立ち上ってストーヴに薪をくべに行こうとした。おぬいも反射的に立ち上ってその方に行きかけたが、二人が触れあわんばかりに互に近寄った時、渡瀬の全身から何か脅かすようなものが迸りでるのを感じて、急いで身をひるがえしてもとの座になおった。
渡瀬さんは薪をくべると手をはたき合せながら机の向うに帰った。
「経験のないところに感動するってわけはないでしょう」
この二の句を聞くと、おぬいはあまりに押しつけがましいと思った。噂のとおり少し無遠慮すぎると思った。
「これはただそう思うだけでございますけれども、恋というものは恐ろしい悲しいもののように思います。私にもそんな時が来るとしたら、私は死にはしないかと、今から悲しゅうございます。だもんですから、ああいうお話を読みますと、つい自分のように感じてしまうのでございましょうか」
「あなたは実際、たとえば星野か園かに恋を感じたことはないのかなあ」
おぬいはもうこの上我慢がしていられなかった。母がいてくれさえすればと思った。口惜涙を抑えようとしても抑えることができなかった。そしてハンケチを取りだす暇もないので、両方の中指を眼がしらのところにあてて、俯向いたままじっと涙腺を押えていた。
渡瀬さんはしばらくぼんやりしていたが、きゅうに慌てはじめたようだった。
「悪かったおぬいさん。僕が悪かった。……僕はどうもあなたみたいな人を取りあつかったことがないものだから……失敬しました。……僕はこんな乱暴者だが、今日という今日は、我を折りました。……許してください。僕はこうやって心からあやまるから」
おぬいは眼をふさいでいたけれども、渡瀬さんが坐りなおって、頭を下げているのがよくわかった。そして切れ切れにいいだされた今の言葉がけっして出まかせでないのが一つ一つ胸にこたえた。
しかしおぬいが一たび受けた感じは容易に散りそうにはなかった。で、しかたなしにはずみ上る言葉をようやく抑えつけながら、
「ええもう何んとも思ってはいませんから……いませんから、私をこそお許しくださいまし。けれども今日は、もうこれで、お帰りを願いとうございますの」
とだけようやくいって退けた。
「え、……帰ります」
渡瀬さんはそういったなり、立ち上って部屋を出た。おぬいは何かもっと和解の心を現わして、渡瀬さんの心をやすめたいと思ったけれども、何かいうのがどうしても不自然だったので何もいわないことにして、上り口まで送ってでた。
「どうか許してください」
下駄をはくと、渡瀬さんはこっちを向いてこう挨拶した。おぬいも好意をもって眼を上げた。渡瀬さんはにこにこしていた。そして意外だったのは、つぶれていない方の眼に涙がたまっているのではないかと思えたことだった。
たった一人になるとおぬいはほっと溜息が出た。何か自分が思いもかけない結果を渡瀬さんに与えたのではないかと思うと、自分というものが怖ろしいようだった。彼女の知らない力があって、ともすると願いもしないところに彼女を連れこんでいこうとするかにさえ感じられた。そういう時に父のいないのがこの上なく淋しかった。おぬいは障子を半ば締めたまま、こんこんと大降りになりだした往来の雪を、ぼんやりと瞬きもせずに眺めながら、渡瀬さんを送りだしたその姿勢から立ち上りえずにいた。
ややしばらくして、何という弱々しいことだと自分をたしなめて、おぬいは立ち上ると、障子を締め、その足でラムプを茶の間に運んで火をともした。時計はもう五時半近くになっていた。夕方の支度がおそくなりかけていた。
おぬいは大急ぎで書物をしまい、机を片づけ、台所に出て、白いエプロンを袂ごと胸高に締め、しばられた袂の中からようようの思いで襷をさぐりだすと、それをつむりに潜らせようとしたが、華やかなその色が、夕暗の中で痛いように眼に映った。おぬいは一度のばしたその襷を、ぐちゃぐちゃに丸めて、それを柱にあてがって顔を伏せると、誰のためにとも、誰にともなく祈りたい気持でいっぱいになった。
おぬいはそうしたまま、灯もともさない台所の隅で、しばらくの間慄えるような胸をじっと抑えて、何んとなくそこにつき上げてくるえたいの知れない不安を逐い退けようとして佇んでいた。
* * *
創成川を渡る時、一つ下の橋を自分と反対の方向に渡ってゆく婦人は、降りはじめた雪のためにいくらかぼんやりしていたけれども、三隅のおばさんに違いないと渡瀬は見て取った。今日こそはおぬいさん一人だぞという意識がすぐいたずららしい微笑となって彼の頬を擽った。
行ってみるとおぬいさん一人らしかった。脱ぎ取った帽子の雪をその人が丁寧に払ってくれた。いつものとおり茶の間はストーヴでいい加減に暖まっていた。そして女世帯らしい細やかさと香いとが、家じゅうに満ちていて、どこからどこまで乱雑で薄汚ない彼の家とは雲泥の相違だった。渡瀬はその茶の間にしめやかな落着きを感ずるよりも、ある強い誘惑を感じた。けれども机に向っておぬいさんと対坐すると、どうしてもいつもの彼の調子が出にくかった。道々彼が思いめぐらしてきたような気持は否応なしに押しひしゃがれそうだった。いつ見てもおぬいさんはきちんとしすぎるほどつつましく身だしなみをしていた。そんな気持でしているのではないかもしれないが、そしてそうでない証拠にはすべての挙止がいかにもこだわりのない自然さを持っているのだが、後れ毛一つ下げていないほどそれを清く守っているのを見ると、どこといってつけ入る隙もないように見えた。けれども、それが渡瀬にとってはかえって冒険心をそそる種になった。何、おぬいさんだって女一疋にすぎないんだ。びくびくしているがものはない。崩せるだけ崩してみてやれという気がむらむらと起ってきて、彼はいきなり胡坐をかきながら。
「いつものとおり胡坐をかきますよ。敲き大工の息子ですから、几帳面に長く坐っていると立てなくなりますよ」
といって思いきり彼らしい調子を上げて笑い崩した。おぬいさんはその時立って茶棚の前に行っていたが、肩越しにこちらを振り返って、別に驚きもしないようににこにこしながら「どうぞ」といった。
茶なんぞ飲むよりもおぬいさんと一分でも長く向い合っていたかった。茶はいらないというと、せっかく茶器を取りだしかけていたおぬいさんは素直にそのままそれをそこにおいて、机の座に戻ってきた。ここで彼は新井田の奥さんとおぬいさんとを眼まぐるしく心の中で比較していた。とてもだめだ、比べものなんぞになるものか。二十近い年までこんなに色気というものなしに育ってきた娘がいったいあるものだろうか。新井田の奥さんの方が顔の造作は立ち勝っているかもしれないが……待てよそういちがいにはいえないぞ。第一こっちはまるで化粧なしだ。おまけにコケトリなしだ。それだのにこの娘から滴り落ちる……滴り落ちる何んだな……滴り落ちるX、そのXの量ときたらどうだ。それがしかも今のところまるっきりむだになって滴り落ちているんだ。おぬいさんはそれを惜しいものとも思ってはいないのだ。そこにいくと新井田の奥さんの方はさもしさの限りだ。一滴落すにもこれ見よがしだ。あれで色気が出なかったら出る色気はない。中央寺の坊主のいい草ではないが珍重珍重だ。おぬいさんがあのXの全量を誰かに滴らす段になってみろ……。渡瀬は思わず身ぶるいを感じた。
まず作戦はあと廻わしにして、
「さてと、今日はどこから……」
といいながらおぬいさんを見ると、書物に見入っているとばかり思っていたその人は、潤いの細やかなその眼をぱっちりと開けて、探るように彼を見ているのだった。渡瀬はこの不意撃ちにちょっとどぎまぎしたが、すぐ立ちなおっていかなる機会をも掴もうとした。
「おやあなた僕の顔を見ていますね。ははは。僕の顔は出来損いですよ。それとも何かついていますか」
そういって彼は剽軽らしくわざと顔をつきだしてみせた。この場合あたりまえの娘ならば、真紅な顔になってはにかんでしまうか、おたけさん級の娘なら、低能じみた高笑いをして、男に隙を見せるか、悧巧を鼻にかけた娘なら、己惚れはよしてくださいといわんばかりにつんとするに極っているのだった。渡瀬はそのどれをも取りひしぐ自信を持っていた。ところがおぬいさんは顔をあからめもせず、すましもせず、高笑いもせずに、不断のとおりの心置きない表情に少しほほ笑みながら「いいえ」とだけいって、俯向き加減になった。
似而非物では断じてない。俺がいったんでは不似合だが、まず神々しい innocence《イノセンス》 だ。そういうことを許してもいい。十九……十九……まったくこれが十九という娘の仕業だろうか。渡瀬は少し憚りながらも、まじまじとおぬいさんを眺めなおさずにはいられなくなった。骨節の延び延びとした、やや痩せぎすのしなやかさは十六七の娘という方が適当かもしれないが、争われないのは胸のあたりの暖かい肉づき、小鼻と生えぎわの滑かな脂肪だった。そしてその顔にはちょっと見よりも堅実な思慮分別の色が明かに読まれた。それにしてもあまり自然に見える、子供のように神々しい無邪気。渡瀬は承知しながらもおぬいさんの齢を聞いてみたくなった。そして突然、
「失礼、あなたはいくつになりますね」
と尋ねてみた。さすがにおぬいさんは少し顔を赤らめたが、少しも隠し隔てなく、渡瀬を信頼しきっているように、
「もう十九になりますの」
とおとなしやかに答えた。Xはつねに滴り落ちている。しかしながら渡瀬は容易にそこに近寄れないのを知らねばならなかった。そして感歎のあまり、
「ふーむ、珍らしいな、奇体だなあ」
と口に出してしまった。実際考えてみると、渡瀬が今まで交渉を持ったのは、多少の程度こそあれ男というものを知った娘ばかりだった。本当に男を知らない女性が、こんなに不思議なものを秘していようとはまったく思いもかけなかった。渡瀬にはその宝に触れてみる資格が取り上げられているようにさえみえた。彼は少しあっけに取られた。
「それでは始めていただきます」
そうおぬいさんが凛々しく響くような声でいって、書物をぼんやりしかけた渡瀬の前にひろげたので渡瀬はようやく我に返った。おぬいさんの復習したのは、アーヴィングの「スケッチ・ブック」の中にある、ある甘ったるい失恋の場面を取りあつかったもので、渡瀬がこの前読んで聞かせた時には、くだらない夢のようなことを、男のくせによくこうのめのめ書いたものだと思ったのだが、今日おぬいさんがそれを復習しているのを聞いてみると、あながち夢のようなことには思えなかった。誰にもっぱら聞かそうというそれは声なのだろう。どこまでも澄みきっていながら、しかも震いつきたいほどの暖かみを持ったそのしなやかな声は、悲しい物語を、見るように渡瀬の耳の奥に運んできた。始めのうちは、おぬいさんがつかえるとすぐに見てやっていたが、だんだんそんな注意は遠退いて、ほれぼれとその声に聴き入らずにはいられなくなった。おぬいの声にもしだいに熱情が加わってくるようにみえた。渡瀬は知らず知らず書物から眼を離して、自分のすぐ前にあるおぬいさんの髪、額、鼻筋、細長い眉、睫毛、物いうごとにかすかに動くやや上気した頬の上部、それらを見るともなく見やりはじめた。すべてが何んという憎むべき蠱惑だろう。これはやりきれない御馳走だ。耳と眼とが酔ったくれていうことを聴かなくなってしまう、と渡瀬はわくわくしながら考えた。それが渡瀬には容易に専有することのできない宝だと考えれば考えるほど、無体な欲求は激しくなった。教師としてこれほど信頼されているのをという後ろめたさを彼は知らず知らずだんだんに踏み越えていった。しびれるような欲望の熱感が健康すぎるほどな彼の五体をめぐり始めた。
色慾の遊戯に慣れた渡瀬には、恋愛などというしゃら臭いものは、要するに肉の接触に衣をかけたまやかしものにすぎない。男女の間の情愛は肉をとおして後に開かれるのだと、今までの経験からも決めている渡瀬には、これほど嵩じてきた恐ろしい衝動を堰きとめる力はもうなくなりかけていた。彼は顔にまで充血を感じながら、「おぬいさん逃げるなら今のうちだ。早く逃げないと僕は何をするか、自分でも分らないよ」と憫れむがごとくに自分の前にうずくまる豊麗な新鮮な肉体に心の中でささやいたが、同時に、「逃げるなら逃げてみろ。逃げようとて逃がしてたまるか」と頑張るものがますます勢いを逞しくした。眼の前がかすみ始めた。
いつの間にかおぬいさんの声がしなくなっていた。それに気づくとさすがに渡瀬は我れに返った。そしてさすがに自分を恥じた。おぬいさんは渡瀬が今まで妄想していたところよりあまりかけ離れた清いところにいた。彼は書物の方に顔を寄せながら、ともかく、
「ええと、それは」
といったが、どこに不審の箇所があるのか皆目知れなかった。
「どこでしたかね」
自分ながら薄のろい声で彼はこう尋ねねばならなかった。
おぬいさんはきっとした、少し恨めしそうに青ざめた顔を心もち震わせながら、つかえたところを指さした。それがまたむやみにやさしいところだった。渡瀬は、今日はおぬいさんも変だなと思った。
復習を終えたおぬいさんはひどく顔色を青くしていた。しかも眼には涙がたまっていた。渡瀬はそれを見ると自分の心持が気取られたなと思った。できない相談には決っているが、たとえおぬいさんとの結婚をおばさんに打ちだしてみたところが、ひと弾きに弾かれるのは知れきっている。万が一おぬいさんを彼の力の下においてみたところが、どこまでいっしょにやっていけるかそれもおぼつかない。なぜというに渡瀬はおぬいさんのような人をどう取り扱えばいいかの自信がありえなかったから。それだからといって、この気持を捨てられないのも知れきっている。いっそう……そう思った時、おぬいさんが静かに、
「たびたび読みつかえたのをごめんくださいまし。意味が解らなかったのではないんですけれども、あんまり悲しいことが書いてあるものですから、つい黙ってしまいましたの」
といって、少し恥じらうようにこちらに瞳を定めた、渡瀬は背負投を喰ったように思った。たとえば憎悪でもかまわない、自分についておぬいさんが悩んでいてくれたら渡瀬は嬉しかったろう。彼は思い存分の皮肉がいい放ちたくなった。そしてわざと高笑いをしながら、
「文学者なんて奴は、尾鰭をつけることがうまいですからね」
といった。もちろんそれだけでは復讐がし足りなかった。何らの手管もなく、たった純潔一つで操られていると思うと渡瀬は心外でたまらなかった。純潔――そんなものの無力を心でつねに主張している彼には(そして彼は十七歳の時から立派に純潔を踏みにじってきているのだ)小癪にさわった。それにしても何んという可憐な動物だ。彼の酷たらしい抱擁の下に、死ぬほどに苦しみ悶えながら彼女の純潔が奪われていく瞬間を想像すると、渡瀬はふたたび眩惑するような欲望の衝動を感じないではいられなかった。その後に彼女が彼から離れてしまおうと、ますます牽きつけられてこようと、それはたいした問題ではなかった。
渡瀬は茶の間を見廻わした。そして真剣な準備を仮想的に目論見ながら、
「今日はお母さんはお留守ですか」
と尋ねてみた。この言葉はおぬいさんを(もし彼女があたり前の事を知った女なら)怖れさすに十分だと同時に、反抗か屈服かの覚悟を強いるに十分な言葉なはずだ。
ところがおぬいさんはその言葉にすら怖れる様子は見せなかった。そして自分の教師を頼みきっているように、
「診察に出かけました……よろしく申していました」
と他意なく母の留守を披露した。赤子の手をねじり上げることができようか。渡瀬はまた腰を折られてしょうことなしに机の上にある読本を取り上げて、いじくりまわした。
けれども渡瀬はどうしてもそのまま引き下る気にはなれなかった。彼は無恥らしい眼を挙げておぬいさんを見上げ見おろした。その時、ふと考えついたのは、おぬいさんがすでに意中の人を持っているなということだった。恋に酔っている女性ほど、他の男に対して無慾に見えるものはない。おぬいさんの無邪気らしさに欺かれかけたのはあまりばからしいことだった。十九の女に恋がない……彼は何を考えていたのだろうと思った。
彼はおぬいさんを見やりながら、
「おぬいさん」
と呼んだ。彼はばかばかしい嫉妬の情の中にも、自分の声に酔いしれたようになった。おぬいさんに向ってその名を呼びかけたのはこれが始めてなのだ。
「あなたは今の話で涙が出るといいましたが、……あなたにもそんな経験があったんですか」
今度はとっちめてみせるぞ。
即座に、
「いいえ」
と答えた彼女の答えは、少しの隠しだてもなく、きっぱりとしたものだった。渡瀬は明かにそれを感じないではいられなかった。何んという、簡単な敗北を見なければならないだろう。あまりに簡単だ。しかしあまりに明快だ。何もかも素直に投げだして、背水の陣を布いたらしく見える彼女を思うと、渡瀬はふと奇怪な涙ぐましさをさえ感じた。渡瀬はもとよりおぬいさんを憎んでいるのではない。けれども一日おきに向い合っているうちに、二人の距離と、彼自身の中に否応なしに育っていく無体な欲念との間に、ほとんど憎しみともいえそうな根深い執着を感じはじめていた。ある残虐な心さえ萌していた。けれどもおぬいさんと面と向って、その清々しい心の動きと、白露のような姿とに接すると、それを微塵に打ち壊そうとあせる自分の焦躁が恐ろしくさえあった。すべてが終ったあとにおぬいさんが受けるであろうその悩みと苦しみとを考えてみただけでも、心が寒くなった。不思議な女もあったものだと思うほかはなかった。不思議な自分の心だと思うほかはなかった。……それにつけても渡瀬はいらだった。
かまうものか、もっといじめてやれ。渡瀬は何んとなしに残虐なことをしてみたい心になっていた。そして自分で自分をけしかけるように、大ぎょうな表情を見せながら、
「それで泣くというのは変じゃありませんか」
とむりに追窮した。
「経験のないところに感動するってわけはないでしょう」
彼は自分ながら皮肉な気持の増長するのを感じた。
おぬいさんはほっと小さく気息をついた。そしてしばらくしてから、やや俯向いたまま震えた声で、しかしはっきりといいだした。
「これはただそう思うだけでございますけれども、恋というものは恐ろしい悲しいも