星座

13話 星座(13)

9,739字 約19分 2000年5月15日 公開

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 園はこれだけのことを読む間にも、幾度も自家の方のありさまを想像していた。想像したというよりは自分がずっと育ってきた東京郊外の田舎じみた景色や、父、母、兄などの面影(おもかげ)やが、見るように現われたり隠れたりしていた。そのために園は星野からの手紙を静かに読み終ることができないで、それを机の上に置いたなりで、細かく書連ねられた達者な字を見入りながら、だんだんと自分の家のことを思い(ふけ)りはじめた。

 あるかないかに薄い眉の上に、深い横皺を一本たたんで、黒白半ばするほどの髪毛のまだらに生え残った三分刈りの大きな頭を少し前こごみにして、じろりと横ざまに眼を走らしながら人の顔を見る父の顔……今年の夏休暇の終に見たその時の顔……その時、父と兄との間にはもう大きな亀裂(きれつ)が入っていて、いつも以上に不機嫌になっていた。兄は病気の加減もあったのかことさらに陰鬱(いんうつ)だった。若いくせに喘息(ぜんそく)(こう)じて肺気腫の気味になっていたが、ややともすると誰にも口をきかないで一日でも二日でも頑固に押し黙っているようなことがあった。園に対しては()めるような溺愛(できあい)を示すのに引きかえて、兄に対してはことごとに気持を悪るくしているらしい愛憎の烈しい母が、二人の中に挾まって、二人の間をかえってかき乱していた。いらいらしているのが指の先までも伝っているような様子で、驚くほど烈しく煙管(きせる)吐月峰(とげっぽう)をたたきつけながら、自分のすぐ後ろにある座敷金庫から十円札を二枚取りだし、乞食にでもやるように、それを園の前に(ほう)りだして苦がりきっていた父の顔、それを取り上げるまでに園は自分でも解らぬような複雑した気持を味わねばならなかった。園が黙ったままお辞儀一つして、それに手を延ばすまでの一挙一動はもとより、どういう風に気持が動いているかを厳しく看守しながら、いささかでも父の権威を冒すような風があったら、そのままにはしておかないぞというように見えた父の顔……自分の生みの父ながら、あの眉の上の深い横皺は園にはこの上なくいやなものだった。どうかして鏡に向うようなことのあるたびごとに、園は自分の顔にそれが現われではしないかと神経質に注意した。年のせいか園にはなかった。しかし兄には明かにそれが出ていた。そういう父の顔……それが何よりも色濃く園の眼の前を離れなかった。死顔などはどうしても現われては来なかった。父の死んだということが第一不思議なほど信ぜられなかった。毎日葬式や命日というような儀式は見慣れてきてはいたけれども、自分の家から死者の出たのは、園が生まれてから始めてのことなので、よけいそうした感じが起らないのかもしれなかった。母の顔も平生のとおりの母の顔、兄の顔も今年の夏別れる時に見たままの兄の顔。玄関からなだら上りになった所に、重い瓦を乗せてゆがみかかった寺門がある。その寺門の左に、やや黄になった葉をつけたまま、高々とそそり立つ名物の「香い桜」。朝の光の中で園がそれを見返った時、荒くれて(くろ)ずんだその幹に千社札が一枚斜に貼りつけられてあって、その上を一匹の毛虫が()っていた。そんなことまでが、夏見たままの姿で園の眼の前に髣髴(ほうふつ)と現われでた。

 しかもこれらのあまりといえば変化のなさすぎるような心の印象(イメージ)の後には、何か忌々(いまいま)しい動揺が起ろうとしているように思えた。実際をいうと、園は帰京せずに、札幌で静かに父の死を(とむ)らいもし、一家の善後ということも考えてみたかったのだが「スグカエレ」という電文に(そむ)くべき何らの理由もなかった。

 園は星野の手紙の下から父の手紙を取りだしてみた。封を切ろうとしたが何んのゆえともなくそれができなかった。どうもその中からは不意な事件が飛びだしてきて、準備のない園の心に、簡単に片づけることのできない混乱を与えそうでしかたがなかった。園はまた父の手紙を見つめたまま、右手の指で机の木端(こば)(たた)きながら長く考えつづけた。

「とにかく今夜すぐ帰ろう」

 ふっとそういう考えが断定的にその心に起った。それだけのことを決心するのに何んでこれほど長く考えねばならなかったかというようなそれは簡単な決心だった。

 しかしそう決心すると同時に、園は心臓がきゅうに激しく打ちだして、顔が火照(ほて)るまでに慌ただしい心持になっていた。彼はそれをいまいましく思いながらもすぐ立ち上って部屋の中を片づけはじめた。しかしそこには別に片づけるというようなものもなかった。ズック製の旅鞄に、二枚の着換えを入れて、四冊の書物と日記帳とを加えて、手拭の類を収めると、そのほかにすることといっては、鍵のかかるところに鍵をかって、本箱の上に自分のと別にしてならべてある借用の書物を人見か柿江に頼んで返却してもらえばそれでいいのだった。彼は心の中にわくわくするようないやな気分を持ちながらも、割合に落ち着いた挙止でそれだけの仕事をすませた。そして机の上にあった三通の手紙を洋服の内衣嚢(うちかくし)に大事にしまいこんだ。机の上にはラムプとインキ壷と硯箱とのほかに何んにもなかった。そこで園はもう一度思い落しはないかと考えてみた。欠席届があった。彼はふたたび机の引出の錠を開けて、半紙を取りだしてそれを書いた。そしてそのついでに星野にあてて一枚の葉書を書いた。

「兄の手紙今夕落手。同時に父死去の電報を受取ったので今夜発ちます。御返事はあとから」

 しかし園はそう書いてくると、もう一つ書き添うべき大事なことのあるのに気づいた。それはおぬいさんのことだった。しかしそれは葉書には書きうることではなかった。すべてのことを知らせるのはあとからにしよう、そう思いながら園は星野への葉書を破って屑籠に(ほう)りこんだ。

 隣の部屋では人見たちが盛んに笑いながら大きな声で議論めいた話をしている。それに引きかえて、ずっと見廻わしてみた園の部屋は森閑(しんかん)として、片づきすぎるほど隅まで片づいていた。それを見ると園は父の死んだという事実をちらっと実感した。何んの意味もなく胸の迫るのを覚えた。しかしそれはすぐ通り過ぎてしまった。

 隣の部屋をノックして急な帰京を知らせると、そこにい合わせた三人は等しく立ち上って、少し頓狂(とんきょう)なほど興奮して園を玄関まで送ってきた。婆やは、食事がもうできるから食べていったらいいだろうと勧めながら、(あわ)てて下駄を引っかけて門の外まで送ってでた。そして袖口を顔に押しあてながら、遠くなるまで見送っていた。

 園は鞄一つをぶら下げて、もう十分に踏み固まっている雪道を足早に東に向いて歩いた。(ひじ)を押しまげて頭の上から強く打ち下そうとする衝動が、鞄を不必要に前後に揺り動かさした。彼は今夜という今夜、すべてのことをおぬいさんとその母とに申しでようという決心をやすやすとしてしまっていたのだ。それは東京に帰ろうと決めたと同時に、特別な考慮を廻らさないでも自然にでき上った決心だった。園はもとよりおぬいさんが彼をどう考えているかも知らなかった。その母がどう考えるかも考えてはみなかった。園はただおぬいさんを愛していることをこの十日ほどの間にはっきりと発見したのだ。彼は幾度かできるだけ冷静になって自分の気持を考えてもみ、容赦なく解剖してもみた。しかしそこに何らか軽薄な気持が動いていることを認めることができなかった。渡瀬が酔ったまぎれに「おぬいさんに惚れろ」といい続けた時、園はそういう問題を取り上げる気持は少しもなかったが、その後四五日経ってから、どうした機会だったか、園はふとおぬいさんに対する自分の心持を徹底的に決めておかなければならぬという強い要求を感じ始めた。そのために昼は研究ができず、夜は眠ることのできない三日四日が続いたが、それには何らの焦燥も苦悩も(ともな)いはしなかった。彼はただ神聖な存在の前に引きだされたような気分で、何事をも偽ることなく心をこめて考えた。そして最後に彼はおぬいさんにこの上なく深い愛と親しみとを持っていることをはっきり見出だした。そうなることが園にとってはきわめて自然ないいことだった。この発見は園の心をかつて覚えのない暖かさと快さとに誘いこんだ。ふとその時星野のことを思い浮べてみた。しかしこれはもう園にとっていささかの暗らい影にもなってはいなかった。すべての良心においてこの上なく深く、この上なく暖かくおぬいさんを愛している、そのすがすがしい満足に(さわ)りとなるものは一つもなかった。おぬいさんが園を愛していない、その疑いすらも気にはならなかった。実際そうであったところが、園はおそらく平気だったろうと思われるほど園の心は静かに満ち足っていた。

 ただし、残された一つのことは、自分の気持をゆがめずに三隅母子に伝える時機と方法とをつくることだけだった。しかしそれさえ園にとっては格別むずかしいことではなくみえた。父死亡の電報を見た時でも、この場合その問題をどう片づけるかさえ考えはしなかったのだが、欠席届を書き終えた時、保証人なる槍田氏は三隅の小母さんの知り合いだから、通知かたがた三隅家に立ち寄ってその判を貰うように頼もうと思いつくと同時に、自分の心持もそのついでにいってしまおうと決心したのだ。

 園は往来を歩きながら、不思議な力が、(しず)かに、しかしたしかに自分の体じゅうに満ちてくるのを感じた。かつて知らなかった大きな事業、それが成功しようとも失敗しようとも、事業そのものの値打をいささかも傷つけないような大きな事業が、今眼の前に行われようとしているのだ。そしてこの事業に手をつけるについては、はたしてそれに当るだけの力量のあるなしは分らないとしても、あらゆる点において残るところなく考えぬき、しかも露ほどの心の後ろめたさも感じてはいないということにかけて、園の心は小ゆるぎもしなかった。一種の勇気をもってその五体は波打った。彼の眼に映る大通りの雪景色は、その広さと(いさぎよ)さにおいて彼の心に等しかった。夜の闇が(せま)り近づいて紫がかった雪の平面を、彼は親しみの吐息をもって果て遠く眺めやった。

 さっきのとおりに小母さんもおぬいさんも家にいて、台所で夕食の支度をしているところだった。二人はさっき帰ったばかりの園が、不意にまた訪ずれてきたのを驚きながらも喜ぶように、もつれ合って入口に走りでた。毎日同じようなことを繰り返しながら、淋しく暮している母子二人にとっては、これほどいささかな不意なことも、これほどに気を引き立たせるのだろう。少なくとも園がこの家で邪魔物あつかいにされていないのを知るのは彼にとっても限りなく快いことだった。

 おぬいさんは慌て気味に(たすき)とエプロンとを外ずしながら、茶の間に行ってラムプの(しん)をねじ上げた。その釣りラムプの下には彼の見慣れたチャブ台の上に、小さずくめの食器がつつましく準備されていた。小母さんを見、おぬいさんを見、その可憐なチャブ台の上の様を見ると、園の心は思いもかけず小さく激しく沸き立ちはじめた。

「その鞄は」

 と小母さんは怪しむように尋ねた。

「今お話します」

 園は小母さんの怪訝(けげん)そうな顔に曖昧(あいまい)な答えをしながら、美しい楕円の感じのする茶の間に通って、いつもの所に、……柱を背にして()りかかることのできる……胸の動悸(どうき)を気にしながら坐った。

「どうなすったのです……明りのせいかしらん、……お顔の色がお悪いようですが……」

 火鉢のわきに小母さんが、園からずっと離れて茶箪笥(ちゃだんす)の前におぬいさんが座をしめた時には、園の前にはチャブ台は片づけられていた。園は自分の顔が(みにく)いほど充血しているだろうとばかり信じていたのに、そう小母さんにいわれてみると、手の先までが寒さのためばかりでなく冷えきっているのを感じた。自分の気持をそのまま先方に移すことができるだろうか、そういう不安がかすかに動いた。彼はその場になって、かすかにでもそう感ぜねばならぬのが苦しかった。それゆえ彼は已むを得ずますます口少なになった。何もかも一度に二人に言いきってしまった時に感じるだろう心のすがすがしさと、それを曲って取られはしないかという不安とが、もどかしく心の中で戦い合った。

 いつものとおりの落ち着いたしとやかさでおぬいさんが茶を入れていた。小母さんは茶を飲み終るまでも、大事な問題は延ばしておこうとでもするように、途中が寒かったろうなどと、世間なみの口をきいていた。園は自分の気持が何んとなく小母さんに通じているのだなと思った。長い生活の経験と、親というものの力が美しく働いているらしいのを感じて、その月並な会話にもけっして不快は感じなかった。

 園はおぬいさんが進めてくれた茶を静かにすすった。少しそれは熱すぎた。彼は冷えた両手でほとぼりの()み残った茶碗を握りしめてみた。そこからも快い感触が神経の奥に暖かく移っていった。ふと眼を挙げるとそこにおぬいさんの眼があった。何んの恐れ気もなく、平和に、純潔な、そして園の心におのずと涙ぐましさを誘うような淋しさ、――淋しさではない。淋しさということはできない。淋しさに似てもっと深いもの、いい言葉はない――を籠めた、黒眼がちな眼。慎しみ深い顔の中にその眼だけがほのかにほほえんで、そこにつぎつぎに開けてゆく世界をより深く眺めようとするように見えた。おぬいさんのその眼があった。そしてそれがやわらかく、まともに園の方に寒いまでに澄んでしかもこの上なく暖かい光を送っていた。園はその眼を思わずじっと眺めやった。その瞬間に園の覚悟は定まった。彼は柱から身を起して端坐した。そして臆することなく小母さんの方に面を向けた。口を切ろうとする時、父のことをまずいいだそうとしたが、すぐそれが間違っているのを自分で悟った。

「こんなことをいうのはまだ早すぎはしないかと思いますのですけれども、事情がこれ以上躊躇(ちゅうちょ)するのを許さないようですから……」

 園は両手に握っている茶碗を感じた。そしてその茶碗の中にさらに一杯の茶を欲した。けれども彼は続けた。

「僕は自分としてはこれ以上は考えられないというところまで考えたつもりです。もし失礼に当ったら許してくださいまし。僕はおぬいさんとお約束をすることができたらと思うんです……そう願っています」

 園はおぬいさんに向っても同じことをいいたかったのだ。しかしそれを聞きつつあるおぬいさんの苦痛を察すると、どうしてもそちらに眼をやることができなかった。それにもかかわらずおぬいさんが処女らしい()じらいのために、深々と顔を伏せたのが痛むほどきびしく園の感覚に伝ってきた。

 小母さんは切れ切れな園の言葉を聞くと、思わずはっと胸をつかれたらしく、かすかに口をゆるめて、鋭い色を眼にひらめかしたが、やがて、というほどもなく、園をしげしげと見やりながら黙ったままで深くうなずいてみせた。そしてかすかな血の気をその疲れたような頬に現わした。自分は今答えようにも答えられないから、もっと何んとかいえとその顔は促がしていた。園は何か言おうとした。しかしそこには言うべき何事も残ってはいなかった。それ以上をいうのは冒涜(ぼうとく)にすら感じられた。

 園と小母さんとは無言のままで互いの眼から離れて下を向いてしまった。ストーヴの中の(まき)がゆるく燃えている。その音だけがしめやかに狭い部屋の中に拡がっていた。

 と、おぬいさんが無言のままで立ち上って、間の襖を開けて静かに隣の部屋に去った。小母さんはそのきっかけにおぬいさんに何かいおうとしたらしかったが、思い返したか、心(もと)なげな眼つきでその後姿を目送しただけで何もいわなかった。

 襖が静かに締まった。

 園はもう一つ言っておかねばならぬものを思いついた。それゆえふたたび顔を上げて小母さんを見た。小母さんは園を避けながら、いらだっているような風で火鉢の炭をせせっていた。しかしそれはいらだっているのではなく、少し心の落ち着きを失っているのだということが園にはよく解った。彼は小母さんの引きしまった横顔を見やりながら口を切った。

「僕ははじめこのことをあなただけの所で申しあげようか、おぬいさんだけに聞いていただこうかと迷いました……しかし結局お二人の前で申しあげるのが一番いいとおもいました。……本当は槍田さんにでもお願いするのがいいのかもしれません……けれども、そうお願いして万一僕の気持がそのまま現われないようなことがあると……苦しいことだと思ったものですから……どうか僕を信じてくださいまし。僕はどんな御返事をいただいても……それは十分に覚悟しています……」

 そういいだしてみると、今度は言っておきたいことが後から後からと無限にあるように感じられた。どこまで行っても果てしがあろうとは思われなかった。園は少し自分に(あき)れてまた黙ってしまった。そして気がついて、手にしていた茶碗を茶托(ちゃたく)に戻した。

 ややしばらく思案しているらしかった小母さんは、きゅうに居住まいをなおして園の方にまともに顔を向けた。

「園さん。おっしゃることはいちいち私にもよく解りました。それだけおっしゃってくださるのを私は親として誠にありがたく存じますけれども、娘は不束(ふつつ)かで、そういうことを考えてみたこともないようでございますし、……もっともゆっくりよく尋ねてはみましょうけれども、……それによく考えてみなければならないことでもございますししますから……今夜はそれを伺っておくだけにさせていただきとうございますが……悪るくお取りくださいますなよ……あなたのようにそう隠しだてなく言っていただくと、私は嬉しゅうございます、本当に。……どんな仕合せになりましょうとも、ぬいもあなたのお志はうれしく存じますでしょう」

 小母さんの声は意外にも曇って震えていた。園はもとより今夜の告白からすぐ結果を望もうとなどはしていなかったのだ。心の中では、もちろんそんなことを即座に伺おうなどとは思っていませんといいたかったけれども、それが言葉にはならなかった。

 隣の部屋でおぬいさんが忍び泣きをしている……それを園ははっきり感じた。彼は身の内が氷のように引き締まるのを覚えた。強い緊張のために、肩の凝りきった時のような感じが体全体に(みなぎ)った。自分の少しばかりの言葉がおぬいさんを泣くほどに苦しめたかと思うと、園は今夜の浅慮(せんりょ)を悔いるような気にもなった。しかしながらそれはけっして浅慮ではないと園は思い返した。おぬいさんを本当に愛するなら、おぬいさんの気持に絶対自由を与えなければならない。何らかの義務を感じさせておぬいさんを苦しめては忍んでいられない。そういう気持が何よりも先きに立った。

「何んだか僕は自分のしたことが乱暴すぎたかとも思いもします……もしそうでしたら、ごめんください。僕はけっしてどんな結果をも恐れてはいませんから、どうか十分自由なお気持で今までのことをお聞きくださいまし。……僕は今夜きゅうに東京に帰らなければなりません。少し思いがけない不幸に遇いましたから。そのことはいずれ手紙で申しあげます。……それではもう時間がありませんからお暇します。……英語の方をまた休まなければならなくなって……」

 とできるだけ冷静な言葉で言おうとしたが、自分ながら意気地なく声が震えを帯びた。もし事が破れたら、この家にはもう来られないのだ。ふと彼はそう思うと限りなく淋しかった。

 園は欠席届書を小母(おば)さんに(たく)し、不幸というのは父が頓死(とんし)したのだということを簡単に告げて、座を立つことになった。彼は見納めをするような気持で、きちんと整頓(せいとん)されたその茶の間を眼早く見まわした。時計の下の柱暦に小母さんとおぬいさんとの筆蹟(ひっせき)がならんでいるのも――彼が最初にその家に英語を教えるのを断りに来た時に気がついたものだけに――なつかしかった。彼は自分のしたことが、思った以上に彼にとって致命的であるのを知った。

「ぬいさん、園さんがお帰りだからお見送りなさいな。東京の方にお帰りだというから――」

 小母さんは立ち上って園を入口に送りだしながら、奥の方にこう声をかけた。けれどもおぬいさんの出てきそうな様子はなかった。園はそれがおぬいさんらしいと思った。そう思いはしたものの、言いようのない物足らなさが胸の奥底に濃く(よど)むのをどうすることもできなかった。

 園が編上靴を穿()き終って、外套を着て、もう一度小母さんに簡単な別れの挨拶をして格子戸を開けようとした時、おぬいさんが奥から出てくるのを感づいて、彼は思わず後を振り向いた。はたしておぬいさんが小刻みに駈けるようにして母の後ろまで来ると、その蔭に()りそって坐るが早いか頭を下げた。園も黙って帽子を取った。その時見えた小母さんの眼には涙がいっぱいたまっていた。

 園は格子戸を立ててから、未練だとは思いながらもちらっとおぬいさんを見た。おぬいさんは、畳についた両手をしゃんと延ばして寄せ合わせて、肩さえいつもより細々と見えるのに、襟足がのぞかれるまで顔を重く伏せていた。眼上のものに心から詫び入る姿のように。かと思うと死ぬほどの口惜しさをじっと堪らえる形のように。園にはもどかしいほどに、そのいずれであるかがどうしても分らなかった。

 園は歩きながら、我にもなくややともすると、熱い涙が眼に迫るのを感じた。そして振り払うように眼を(つむ)って、雪になるらしく曇った夜の空に、幾度も顔を仰向けねばならなかった。

 思いもかけぬ重い苦痛と疑惑とが、若い心を老いしめると思うほどに押し寄せてきた。彼は自分の腑甲斐(ふがい)なさに呆れるほどだった。市街のここかしこに立つ老いた(にれ)の樹を見るごとに、彼はそれによって自分の心を励まそうとした。……科学のために一身を(ささ)げようとするものに何んという不覚なことだ。昔から学者の生活が世の常の立場から見て、淋しく暗らいものであるのは知れきったことだ。それは始めからある誇りをもって覚悟していたことではなかったか。誰にも省みられないけれども、春が来るごとに黙って葉を連ねているあの楡の大樹、あの老木が一度でも分外な涙を流したか。貴様にはまだ文学者じみたセンティメンタリズムが影を潜めてはいないのだ。科学者らしい雄々しさを持て。真理の前には何事を犠牲(ぎせい)にしても、微笑していられるだけの熱情を持て。その熱情を誰にも見えない胸の深みに静かに抱いていろ。おぬいさんを愛するのを止めろというのではない。貴様の愛し方は間違っているとはいえない。その愛がその人の前に明かに表明された以上、貴様の心は(ほがらか)に晴れていかねばならぬはずだ。それだのに結果は反対ではないか。何んという愚かな苦しみを喜ぼうとしているのだ。……貴様の科学は今どこに行ってしまったのだ。そんな風に園はむちゃくちゃに停車場の方に向って歩きながら、自分で自分を(むちう)ってみた。

 そうだったと眼が覚めるように思い上る瞬間もあった。同時に、玄関で別れぎわに見たいたいたしいおぬいさんの姿が、手を延ばせば掴めそうに眼の前にちらついて離れない瞬間もあった。しまいには園は自分を憐みたくさえなった。しかもそれが父の死を知ったばかりの悲しみの中にあるべき身でありながら――園はさながら魍魎(もうりょう)の巣の中を喘ぎ喘ぎ歩いていくもののように歩いた。

 停車場には白官舎の書生だけが三人で送りに来ていてくれた。柿江は夜学校の日だというので顔を見せなかった。婆やも来てはいなかった。人見が「東京に行くとおもしろい議会が見られるね。伊藤が政友会を率いてどう元老輩をあやつるかが見ものだよ」といっていた。その言葉が特別に園に縁遠い言葉としてかえっていつまでも耳底に残った。

 三等車の中央部にあるまん丸な鋳鉄製のストーブは真赤に熱して、そのまわりには遠くから来た旅客がいぎたなく寝そべっていた。八時に札幌を()った列車は、雪さえ黒く見えるような闇の中を驀地(まっしぐら)に走りだした。園はストーブからかなり離れた席に腰かけて外套の襟を立てて、黙然として坐っていた。床の上を足を動かすたびに、先客の喰荒らした広東豆(南京豆のこと)の殻が気味悪くつぶれて音をたてた。車内の空気はもとより腐敗しきって、油燈の灯が震動に調子を合わせて明るくなったり暗くなったりした。

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