星座

8話 星座(8)

9,534字 約19分 2000年5月15日 公開

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を較べなどしていた。その時頭のすぐ上で突然音がした。ちょっと驚いて見上げてみると玄関のつきあたりの少しすすけた白壁に、金縁の大きな丸時計がかかっていて、その金色の針がちょうど九時を指していた。玄関に時計をおくとは変な贅沢(ぜいたく)をしたもんだなあと思いながら、渡瀬はまじまじと大ぎょうな金色に輝くその懸時計を見守って値ぶみをしていた。

 間もなく新井田氏が奥さんにつきまとわれるようにして出てきた。渡瀬が夕食の馳走になった部屋のドアが開けぱなしにしてあるので、生暖かい空気とともに、今まで女がいたらしいなまめかしい匂いが、遠慮なく寒い玄関の空気の中に漂いでてきた。

「どうもお待たせしてすみませんでした」

 新井田氏の口調は、第三者の前でいつでも新井田氏が渡瀬に対してみせるあの尊大で同時に慇懃(いんぎん)な調子になっていた。

「今月の何んです、今月のお礼ですが、都合がいいから今夜お渡ししておきます。で、と、明日はおいでのない日でしたな。ところが明後日は私ちょっとはずせない用があるんですが、どうでしょう明日に繰り上げていただいちゃ、おさしさわりになりますか」

「ははん、活動写真は明日から廃業だな。先生ウスキーで夢中になっているな。子供だなあ」

 月末にはまだ三日もある今夜報酬(ほうしゅう)をくれるというのもそれで読めた。ところで俺の方からいうと、報酬を貰った以上、今月はもう来ないというのは予定の行動だ。

「ええ差支えありません。来ますとも」

「どうぞいらしってちょうだいね」

 奥さんが……主人の加勢をするように主人には聞こえ、渡瀬を誘惑するように渡瀬には聞こえるそんな調子で。

「何しろ新井田は果報者だて」

 渡瀬は往来に出て、寒い空気に触れるにつけて、暖かそうな奥さんの笑顔と肉体とを実感的に想像して、こう心の中で呟いた。けれども同時に、彼の懐ろの内も暖いのを彼は拒むことができなかった。あれだけをおっかあに渡して、あれだけを卯三公にやって、あれだけであの本を買って……と、残るぞ。二晩は遊べるな。……と、待てよ。きゅうにさっきまで考えつめていた計算のことが頭に浮んだ。ふむ……待てよ。渡瀬はたちまちすべてを忘れてしまった。数字の連なりが眼の前で躍りはじめた。渡瀬はしたり顔に一度首をかしげると、堅く腕を胸高に組合せて霜の花でもちらちら飛び交わしているかと冴えた寒空の下を、深く考えこみながら、南に向いてこつりこつりと歩いていった。

     *    *    *

 ガンベが「園にそうたびたびねだるのだけはやめろ、よ。あんなお坊ちゃんをいじめるのは貴様可哀そうじゃねえか。貴様ああんまりけちだぞそれじゃ。俺なんざあこれで一度だって園にせびったことはないんだ。それに、まさかという時の用意に一人くらいとっときを作っておかないとうそだぞ貴様、はははは」といって笑ったことがあった。人見は隣りの園の部屋に行こうかと思って座を立ちかけた瞬間にこれを思いだした。しかし今の場合、園の所に行って話を持ちかけるほかに道がないのだ。

 人見は痩せてひょろ長い体を机の前に立ちあがらせると、気持の悪い生欠伸(なまあくび)をした。彼は自体、園にこんなことをたびたび頼むのは、自分の見識からいっても、いかがなものだとは知っていたんだが、まず何んといっても一番無事に話のつきそうなのは、園のほかにはないのだからしかたがない。取りあってくれない奴だの、ばかにして話に乗らない奴だの、自分の金の不足になったことだけを知っていて、油を(しぼ)ろうとする奴だのにかかってはまったく面倒だ……それとももう一度婆やを泣かせようかとも思ったが、はした金にありつくのに、婆やの長たらしい泣き言を辛抱して聞いているのはやりきれない。やはり園が一番いい。すべての点において抵抗力が最も少ない。よかろう……人見は自分の部屋を出て、隣りの部屋のドアに手をかけた。また生欠伸が出た。

「園君いる?」

「ああ、はいりたまえ」

 すぐこういう返事が小さく響いたが、机に向いたままでいっているらしく、声がゆがんで聞こえてきた。勉強をしているなとおもいながら、人見はそっと戸を開いた。

 きちんと整頓(せいとん)した広い部屋の一隅に小さな机があって、ホヤの綺麗に掃除された置ラムプの光の下で、園ははたして落ち着いて書見していた。戸外では雨も雪もまじえない風がもの凄く吹きすさんでいたが、この部屋はしんみりとなごいていた。人見は音のしないように戸をたてると、静かに机の方によっていった。やがて園ははじめて顔を挙げて人見を見かえった。光に背いて暗らくはあったけれどもその顔には格別不快らしい色は見えないようにみえた。そして「ひどい風になったねえ」といいながら、静かに座を立って、座蒲団の上に敷きそえていた、毛布の畳んだのを火鉢の向うにおきなおした。人見はちょっと遠慮するような恰好でそれに坐った、それは園の体温でちょうどよく暖たまっていた。

 綺麗に掃除されたラムプの油壷は瑠璃色(るりいろ)のガラスで、その下には乳色のガラスの台がついていた。ありきたりの品物だけれども、大事に取り扱われているためか、その瑠璃色の部分が透明で、美しい光沢を持っていた。骨を入れて蝙蝠傘(こうもりがさ)のような形に作った白紙の笠、これとてもありきたりのものだが、何んとなく清々(すがすが)しくって、注意してみると、一カ所、針の先でいくつとなく(あな)を明けた所があった。園が何か深く考えこみながら、無意識にその辺にあった縫針でいたずらをしたものに違いない。あの子供のように澄んだ眼でじっとラムプを見つめながら、ぷつりぷつりと乾いた西洋紙に孔を明けている園の様子が見えるようだった。

「何を勉強しているの」

 園に対してはどうもひとりでに人見は声を柔らげなければならなかった。

「僕には少し方面ちがいのものだけれども、星野君が家に帰る時、読んでみろっておいていったものだから」と答えながら園は書物を裏返して表紙を人見に見せた。濃い藍の表紙に、金文字でたんに“Mutual《ミューチュアル》 Aid《エイド》”とだけ書いてあった。

「倫理学の問題でも取りあつかったものかい」

「著者は Prince P. Kropotkin という人で……」

「何、クロポトキン……それじゃ君、それは露西亜(ロシア)の有名な無政府主義者だ」

 人見は星野や西山たちが議論する座に加わって、この人の名はたびたび耳に入れたのだが、自分は学校で「農政および農業経済科」を選んでいるくせに、その人にどんな著書があるかをさえ調べてみたことはなかったのだ。

「そうだってね。僕にはその無政府主義のことはよく分らないけれども、この本の序文で見るとダーウン派の生物学者が極力主張する生存競争のほかに、動物界にはこの mutual aid ……何んと訳すんだろう、とにかくこの現象があって、それはダーウンもいっているのだそうだ。……そうだ、いってはいるね。『種の起源』にも『旅行記』にも僕は書いてあったと思うが……。それがこの本の第一編にはかなり綿密に書いてあるようだよ」

「科学的にも価値がありそうかい」

「ずいぶんダータはよく集めてあるよ」

 そういいながら園はそこにあった葉書をしおりにはさんで書物を伏せた。柿江――彼は驚くべき多読者だが――などが書物を読んでいるのを見ても、そうは思わないが、園の前に書物があるのを見ると、人見はある圧迫を感じないわけにはいかなかった。園はあの落ち着いた態度で書物の言葉の重さを一つずつ計りながら、そこに蓄えられている滋養分を綺麗に吸い取ってしまいそうに見えた。そして読み終えられた書物には少しの油気も残ってはいまいと思わされた。実際園が書物に見入っているところを傍から見ていると、一刻一刻園が成長してゆくのが見えるようで、人見はおいてきぼりを喰いそうで、不安になるくらいだった。といって彼の書見に反対を(とな)える理由はさらにないのだ。

 話題が途切れると、園は静かな口調で、今まで読んだところを人見に話し始めたが、人見にとっては初耳で珍らしい事実が次から次へと語りだされるのだった。そして園は著者の提供した議論に対しても相当に見識があると思われる批評を下すのを忘れなかった。生娘のように単純らしく思われる園の頭がよくこれだけのことを吸収しうるものだ。つまりあいつの頭は学者という特別な仕事に向くようにできているんだと人見は(自分の持っている実際的の働きにある自信を加えて)思った。したがって園の話すところは、珍らしく、驚くべき事実であるには相違ないけれども、人見にとっては直接何んの関係もないことだった。そんなことを覚えていたところが、それは彼にとっては鶏肋(けいろく)のようなもので、捨てるにもあたらないけれども、しまいこんでおくにはどこにおくにも始末の悪い代物だった。結局その場のばつを合わせるために、そうかといって聞いておけば、それですむような事柄なのだ。で、人見は聞きながらもだんだん興味からは遠ざかっていった。それよりも機を見計らってこっちから切りだそうとする問題が、ややともすると彼の頭をよけい支配した。

 人見の顔からは興味の薄らいでゆくのを見て取ってか、園はやがて話を途中で切って黙ってしまった。それがしかし人見を軽蔑しての上のことでないのはその顔色にもよく(うかが)われるし、かえって自分で出すぎたことをいって退()けたと反省して遠慮するらしい様子が見えた。

 この辺でこっちが今度は切りだす番だ。ちょうどいい潮時だと人見は思ったが、園に向っていると変にぎごちない気分が先き立った。彼は自分を(うなが)したてるように、明日に迫る月末の苦しさを一度に思い起してみた。それと同時に、何度も園からせびり取りながら、そして一時的な融通を頼むようなことをいつでもいいながら、一度も返済したことのない後ろめたさが思い起されるのだった。今度借りたら、今度こそは一度でも綺麗に返金しておかないとまずいことになる。そうしよう。そうして借りようととうとう人見は腹をきめた。

 人見は星野の真似をして襟首に巻いていた古ぼけたハンケチに手をやって結びなおしながら上眼で園を見やった。

「時に園君どうだろう。君の所に少しでもよぶんの金はないだろうか。(おっかぶせるように)じつは君にはたびたび迷惑をかけているのですまないんだが、またすっかり行きつまっちゃったもんだから……西山か星野でもいるとどうにかさせるんだが(こりゃ少しうそがすぎたかなと思ったが園がその言葉には無関心らしく見えるのですぐ追っかけて)ちょうどいないもんだから切羽(せっぱ)つまったのさ。本屋の払いが(かさ)みすぎて……もう三月ほど支払を滞らしているから今度は払っておいてやらないとあとがきかなくなるんだ。……そうだねえ五円もあれば(五円といえば一カ月の食費だが少し大きくいいすぎたかしらんと思って人見はまた園の様子を(うかが)った)……何、それだけがむずかしければ内輪(うちわ)になってもかまわないんだが……」

 園は人見の眼に射られると、かえって自分で恥じるように視線をそらして、火鉢の火のあたりを見やったが、じっとそれを見やってしばらく考えているらしく、返事をしなかった。

 人見は園が格別裕福な書生であるとは思われなかった。が、少なくとも白官舎にまがりこまねばならぬほどの書生ではなく、ここに来たのは星野がいっしょにいようと勧めたからのことであるのを知っていた。それにしても、足りないながらも国許から毎月自分に送ってくる学資をよそに消費しておいて――消費するというと大きく聞こえるが、ほんの少しばかりをおたけとクレオパトラのために消費するだけなのだ――不足を園にぶちかけるのは少し虫がよすぎるようだ。しかしこの場合金がいることだけはたしかなのだ。園が何んと返事をするかと人見はそれに興味をさえかけた。

「だいぶ切迫して必要なの」

 とややしばらくして園がはじめて顔を上げて静かに人見を見た。これはまた園があまり真剣に考えすぎたなと思うと、人見には即座に返事をするのが躊躇(ちゅうちょ)された。その時ふっと考えついた思案をすぐ実行に移した。彼は懐中を(さぐ)って蟇口(がまぐち)を取りだした。そしてその中からありったけの一円五十銭だけ、大小の銀貨を取りまぜて掴みだした。

「もっともこれだけはあるんだが、これは何んの足しにもならないが、僕の君に対する借金の返済の一部とするつもりで取っておいたんだ。ところが昨日本屋の奴が来やがって、いやに催促がましいことをいうもんだから、ひとまず君にはすまないが――そっちを綺麗にして鼻をあかしてやれという気になったのさ。で、これをまず君の方に納めて、あらためて五円にして貸してくれるわけにはいくまいかな」

「いいとも」

 園はその長口上を少しまどろこしそうに聞いているらしかったが、人見の言葉が終るとすぐにこういって、机の方に向きなおった。園は例のとおり、ポッケットの中から、机の抽出しから、手帳の間から、札びらや銀貨を取りだした。あの几帳面(きちょうめん)に見える園には不思議な現象だと人見の思うのはこのことだけだった。あれで園はいつどこにいくら入れたということをちゃんと諳記(あんき)しているのかもしれないとも思った。園は取りだした金を机の上で下手糞(へたくそ)に勘定していたが、やがてちょうど五円だけにしてそれを人見の前においた。そして自分の方が金を借りでもしたかのように、男には珍らしい(なめ)らかな頬の皮膚をやや紅くした。

「どうもすまないよ。どうもありがとう」

 人見は思わずせきこんでこういったが、何か自分の言葉が下品に響いたようだった。

 戸外では寒いからっ風が勢いこんで吹きすさんでいるらしく、建てつけの悪るい障子が()りへらされた溝ときしり合って、けたたましい音を立てていた。この時始めてそれに気がつくと、人見は話の糸目を探りあてたように思って、落着きを見せて畳の上の金を蟇口にしまいこみながら、

「こりゃいよいよ冬が来るんだよ。また今年も天長節(てんちょうせつ)には大雪だろうね。星野はどうしているかしらん」

 と園の心を占めているらしくみえる名前の方に漕ぎ寄せていった。

「星野君からは昨日手紙を貰ったっけ。すっかり冬が来るまでは千歳にいるのだそうだ。別に健康が悪いというのでもなさそうだが、気候の変り目はあの病気にやはりよくないのだろうね」

 そういって園は静かに人見を見上げたが、その眼は人見を見ているというよりも、遠い千歳の方を見すかしているように見えた。人見は人見で、今蟇口をしまいこんだポッケットの中に、おたけから来た手紙が二つに折ってしまいこまれてあるのを意識していた。彼はそれを()でてみた。園に対して感じるとはまったく違った暖かい、ふくよかな感じが、みるみる胸いっぱいに(みなぎ)ってきた。

「君はこのごろはどうなの」

 園がしばらくしてからこういった。園の眼は今度はまさしく人見を見やっていた。人見は不意を衝かれたように思って、ちょっと尻ごみをしていたが、慌て気味に手が襟巻のところに行ったと思うと、今まで少しも出なかった咳が軽く喉許を(くすぐ)るのを覚えた。しかし人見はわざとその咳を呑みこんでしまった。

「なあに、僕のはたいしたことはないんだよ」

 まったく医者が見てくれるたびごと、たいしたことはないというのだが、それが何か物足らないのだけれども、この場合やはり医者がいうようにいうのが恰好だと人見は思ったのだ。そして園という男は変にストイックじみた奴だなと思った。

     *    *    *

 紺の上っぱりを着て、古ぼけた手拭で姉さんかぶりをした母が、後ろ向きに店の隅に立って、素麺(そうめん)箱の中をせせりながら、

「またこの寒いにお前どこかに出けるのけえ」

 というのを聞き流しにして清逸は家を出た。

 夕方だった。道を隔てて眼の前にふさがるように切り立った高い(がけ)の上に、やや黄味を帯びた青空が寒々と()えて、ガラス板を張りつめたように平らに広がっていた。家の中にいても火種の足りない火鉢にしがみついて、しきりに盗風(すきまかぜ)の忍びこむのに震えていなければならぬ清逸にとっては、屋外の寒さもそう気にならなかったが、とにかく冬が紙一重に(せま)ってきた山間の空気は針を刺すように身にこたえた。彼は首をすくめ、(ふとこ)ろ手をしながら、落葉や朽葉とともにぬかるみになった粘土質の県道を、難渋(なんじゅう)し抜いて孵化場(ふかじょう)の方へと川沿いを(さかのぼ)っていった。

 風は死んだようにおさまっている。それだのに枝頭を離れて地に落ちる木の葉の音は繁かった。かさこそと雑木の葉が、ばさりと(ほう)の木の広葉が、……朴の木の葉は雪のように白く()らされていた。

 自分の家からやや一町も離れた所まで来ると、清逸は川べりの方に自分で踏みならした細道を見出して、その方へと下りていった。赤に、黄に、紫に、からからに乾いて蝕まれた野葡萄(のぶどう)の葉と、枯(よもぎ)とが虫の音も絶えはてた地面の上に干からびて縦横に折り重なっていた。常住湿(しめ)り気の乾ききらないような黒土と混って、大小の丸石が歩む人の足を妨げるようにおびただしく(ころ)がっていた。その高低を体の中心を取りながら辿(たど)っていくと、水嵩(みずかさ)の減った千歳川が、四間ほどの幅を眼まぐるしく流れていた。清逸はいつもの所に行って落葉をかきのけた。一夜の間に落ちる木の葉の数はそれほどおびただしかった。(たもと)の中から紙屑をつぎつぎに取りだしてそれをそこの穴に捨てた。夕方のかすかな光の中に青白い印象を清逸の眼に残して、その紙屑は一つ一つ地に落ちた。喀痰(かくたん)の中に新鮮な血の交ったのがいくつも出てくるのを見ると、知らず知らず溜息が出た。古い紙屑の上に新しい紙屑がぼろぼろと白く重なっていった。清逸はやがて大儀そうにその上をまた落葉で(おお)うて立ち上った。そして何んということもなくそこに(たたず)んで川面を眺めやった。半年という長い眠りにはいりこもうとするような自然は、それを眺める人の心を、寒く閉ざしていく静かさをもって、静かに最後の呼吸をしているようだった。枝を離れた一枚の木の葉が、流れに漂う小舟のように、その重く(よど)んだ空気の中を落ちもせず、ひらひらと(すべ)っていくのを見た。清逸はふとそれに気を取られて、どこまでもその静かに動いていく行く手を見とどけようとした。たくさんな落葉の中でその木の葉だけは、動くともなく岸から遠ざかっていったが、およそ十間近くも下流の方に下って、一つの瀬に近づいたとおもうころ、その瀬によって()き起される空気の動揺に捲きこまれたのだろうか、たちまち(あわた)だしく動き始め、もんどりを打って、横さまに二三度閃いたと思うと、みるみる水の方へと吸いこまれて見えなくなった。そこまで見とどけると清逸は胸の奥に何かなしに淋しいほほ笑みを感じた。そしてまた溜息が出た。

 どこもここも住み憂い所のようにこのごろ清逸は感ずるのだった。札幌にいて、入らざる費用をかけていながら学校に出ないのはばからしいし、学校に出るのもばからしかった。彼が専門に研究している農政の講義などは、一日引籠って読書すれば、半月分の講義の材料ができるほど稀薄(きはく)なものだった。自然科学の研究なども、プレパラートと見取り図とを作ることに彼は不器用だったが、それさえ除けば、あまり分りきった事実の排列(はいれつ)にすぎなかった。応用農学は学というべきものではなかった。百姓のしていることに秩序を立てて、それに章節を加えたまでのものと思われた。語学だの数学だのという基礎学は、癇癪(かんしゃく)にさわるほど同級の者たちが呑込みがおそいのでただもどかしさをそそられるばかりだった。それゆえ彼は第一学期の試験が来るまで、じっと自分の家にいて養生をしながら過ごそうと思いついたのだ。しかしながらここも住みよい所ではなかった。あの父、あの母、あの弟。父は暇さえあれば母をつかまえて小言と自慢話ばかりしているし、弟は誰の神経でもいらだたせずにはおかないような鈍いしぶとさを臆面もなくはだけて、一日三界人々の侮蔑(ぶべつ)と嘆きとの種になっている。そしてその上に、健康を(いちじる)しく(そん)じて、自分でさえかなり我儘で気むずかしくなったと思うような清逸自身が加わるのだ。自分の家に帰ると、清逸は一人の高慢な無用の長物にすぎないのだ。しかもそれは恐ろしい伝染性の血を吐く危険な厄介物(やっかいもの)でもあるのだ。朋友の間には畏敬(いけい)をもって迎えられる清逸だけれども、自分の家では掃除(そうじ)一つしようともしない怠け者になってしまうのだ。彼の帰ったのは彼の家にどれだけの不愉快な動揺を与える結果になったか。そのために父の酒はまずくなる。母と弟とはいい争いをする。これまでとにもかくにも(よど)んだなりで静かだった家の内が、きゅうにいらいらした気分でかき乱されはじめた。清逸はその不愉快な気持を舌の上に乗せているように思った。彼の口は自然に唾を吐いて捨てたいような衝動を感じた。

 といって彼は即刻(そっこく)東京に出かけてゆく手段を持ってはいないのだ。神経衰弱の養生のために、家族を挙げて亜米利加(アメリカ)に行っている戸田教授でもいたら、相談に乗ってくれるかもしれない。新井田氏でも、三隅のおばさんでも頼んでみたら、考えてくれないこともないかもしれないが、清逸としてはかりにもそんな所に頼むのはいやだった。それにつけて、清逸はその瞬間ふと農学校の一人の先輩の出世談なるものを思いだした。品川弥二郎が農商務大臣をしていたころ、その人は省の門の側に立って大臣の退出を待っていた。大臣が勢いよく馬車に乗って出てくるのを見ると、すぐ駈けだしていって、否応(いやおう)なしにその馬車に飛び乗った。そして馬車が官舎に着くまで滔々(とうとう)と意見を披露して大臣に口をきく暇をさえ与えなかった。官舎に着くと大臣に先立って官舎に駈けこんで、自分がその家の主人ででもあるように大臣を迎えた。そして自分の意見の続きをしゃべりこくった。大臣もとうとう根気負けがして、注意深くその人のいうことを傾聴するようになったが、その結果としてその人は欧米への視察旅行を命ぜられ、帰朝すると、すぐいわゆる要路(ようろ)の位置についたというのだ。清逸はそれを聞いた時、木下藤吉郎の出世談と甲乙のないほど卑劣不愉快(ひれつふゆかい)なものだと思った。実力がないのではない、実力があればこそ、そんな突飛な冒険にも成功したのだ。けれども藤吉郎もその人も、自分の実力を認めさせないで、認められようとした。それが悪いことだとはいわれない。結局認めさせるのも、認められるのも同じようなことだ。それにもかかわらず、清逸にはそれがとても我慢のできない悪い趣味だとより思えなかった。この気持は三隅にも新井田氏にも彼自身を訴えてみる(くわだ)てをどこまでも否定させた。渡瀬にでもさせておけば似合わしいことかもしれないと清逸は思った。清逸は、どんどん夜になっていこうとする河の面をじっと見つめ続けながら考えた。

「俺は世話を焼くのも嫌いだ。世話を焼かれるのも嫌いだ。……俺はエゴイストに違いない。ところが俺のエゴイズムは、俺の頭が少し優れているというところから来ていると誰もが考えそうなことだが、そんな浅薄なものではないんだ。たとえ頭は少しは優れていようとも、俺は貧乏でしかも死病に取りつかれているんだから、喜んで世話を焼いてもらう資格は十分にあるんだ。それにもかかわらず、俺は世話を焼かれるのはいやだ。……俺はもっと自然に近くありたいのだ。自然は俺をこんなに生みつけた、こんなに病気にした。しかもそれは自然の知ったことじゃないんだ。自然というものは心憎い姿を持っている」

 清逸はどんどん流れてゆく河の水を見つめながらこんなことを考えた。そしてそのとたん、気がついたように眼をあげてあたりを眺めまわした。実際清逸に見やられる自然は、清逸とは何んのかかわりもな

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