国訳史記列伝 06 伍子胥列伝第六

1話 国訳史記列伝 06 伍子胥列伝第六(1)

7,021字 約14分 2025年2月10日 公開

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箭内亙による譯

伍子胥(ごししよ)は楚(そ)の人也(ひとなり)。名(な)は員(うん)。員(うん)の父(ちち)を伍奢(ごしや)と曰(い)ひ、員(うん)の兄(あに)を伍尚(ごしやう)と曰(い)ふ。其先(そのせん)を伍擧(ごきよ)と曰(い)ふ。(伍擧)直諫(ちよくかん)を以(もつ)て楚(そ)の莊王(さうわう)に事(つか)へて、(一)顯(けん)なる有(あ)り、故(ゆゑ)に其後世(そのこうせい)、楚(そ)に名(な)あり。楚(そ)の平王(へいわう)、太子(たいし)有(あ)り、名(な)を建(けん)と曰(い)ふ。伍奢(ごしや)をして太傅(たいふ)たらしめ、費無忌(ひぶき)をして少傅(せうふ)たらしむ。無忌(ぶき)、太子建(たいしけん)に忠(ちう)ならず。平王(へいわう)、無忌(ぶき)をして太子(たいし)の爲(た)めに婦(ふ)を秦(しん)に取(めと)らしむ。秦(しん)の女(ぢよ)、好(かほよ)し。無忌(ぶき)馳(は)せ歸(かへ)りて平王(へいわう)に報(はう)じて曰(いは)く、『秦(しん)の女(ぢよ)絶(はなは)だ美(び)なり。王(わう)、自(みづか)ら取(めと)りて更(さら)に太子(たいし)の爲(た)めに婦(ふ)を取(めと)る可(べ)し』と。平王(へいわう)遂(つひ)に自(みづか)ら秦(しん)の女(ぢよ)を取(めと)りて、絶(はなは)だ之(これ)を愛幸(あいかう)し、子(こ)軫(しん)を生(う)む。更(さら)に太子(たいし)の爲(た)めに婦(ふ)を取(めと)る。無忌(ぶき)既(すで)に秦(しん)の女(ぢよ)を以(もつ)て自(みづか)ら平王(へいわう)に媚(こ)び、因(よ)つて太子(たいし)を去(さ)りて平王(へいわう)に事(つか)ふ。一旦(たん)平王(へいわう)卒(しゆつ)して太子(たいし)立(た)たば己(おのれ)を殺(ころ)さんことを恐(おそ)れ、乃(すなは)ち因(よ)つて太子建(たいしけん)を讒(ざん)す。建(けん)の母(はは)は蔡(さい)の女也(ぢよなり)。平王(へいわう)に寵(ちよう)なし。平王(へいわう)稍(やうやく)益(ますます)建(けん)を疏(うと)んじ、建(けん)をして城父(じやうほ)(ノ地)を守(まも)り(二)邊兵(へんぺい)に備(そな)へしむ。之(これ)を頃(しばら)くして、無忌(ぶき)、又(また)、日夜(にちや)、太子(たいし)の(三)短(たん)を王(わう)に言(い)つて曰(いは)く、『太子(たいし)、秦(しん)の女(ぢよ)の故(ゆゑ)を以(もつ)て、(四)怨望(ゑんばう)無(な)き能(あた)はず。願(ねが)はくは王(わう)少(すこ)しく自(みづか)ら備(そな)へよ。太子(たいし)、城父(じやうほ)に居(を)りて兵(へい)に將(しやう)たりしより、外(ほか)、諸(しよこう)に交(まじ)はり、且(まさ)に入(い)りて亂(らん)を爲(な)さんと欲(ほつ)す』と。平王(へいわう)、乃(すなは)ち其太傅伍奢(そのたいふごしや)を召(め)して、之(これ)を(五)考問(かうもん)す。伍奢(ごしや)、無忌(ぶき)が太子(たいし)を平王(へいわう)に讒(ざん)するを知(し)る。因(よ)つて曰(いは)く、『王(わう)、獨(ひと)り奈何(いかん)ぞ(六)讒賊(ざんぞく)の小臣(せうしん)を以(もつ)て(七)骨肉(こつにく)の親(しん)を疏(うと)んずる』と。無忌(ぶき)曰(いは)く、『王(わう)、今(いま)(太子ヲ)制(せい)せずんば、其事(そのこと)成(な)り、王(わう)且(まさ)に(八)禽(とりこ)にせられんとす』と。是(ここ)に於(おい)て平王(へいわう)、怒(いか)つて伍奢(ごしや)を囚(とら)へて、(九)城父(じやうほ)の(一〇)司馬(しば)奮揚(ふんやう)をして往(ゆ)いて太子(たいし)を殺(ころ)さしむ。行(ゆ)きて未(いま)だ至(いた)らず、奮揚(ふんやう)、人(ひと)をして先(ま)づ太子(たいし)に告(つ)げしむらく、『太子(たいし)、急(きふ)に去(さ)れ、然(しか)らずんば將(まさ)に誅(ちう)せられんとす』と。太子建(たいしけん)、亡(に)げて宋(そう)に奔(はし)る。無忌(ぶき)、平王(へいわう)に言(い)つて曰(いは)く、『伍奢(ごしや)、二子(し)あり、皆(みな)賢(けん)なり。誅(ちう)せずんば且(まさ)に楚(そ)の憂(うれひ)を爲(な)さんとす。其父(そのちち)を以(もつ)て(一一)質(ち)として之(これ)を召(め)す可(べ)し、然(しか)らずんば且(まさ)に楚(そ)の患(うれひ)を爲(な)さんとす』と。王(わう)、使(つかひ)をして伍奢(ごしや)に謂(い)はしめて曰(いは)く、『能(よ)く汝(なんぢ)の二子(し)を(一二)致(いた)さば則(すなは)ち生(い)きん。能(あた)はずんば則(すなは)ち死(し)せん』と。伍奢(ごしや)曰(いは)く、『尚(しやう)の人(ひと)と爲(な)りや仁(じん)、呼(よ)ばば必(かなら)ず來(きた)らん。員(うん)の人(ひと)と爲(な)りや(一三)剛戻(がうれい)にして(一四)《はぢ》を忍(しの)び、能(よ)く大事(だいじ)を爲(な)す。彼(かれ)、來(きた)らば并(あは)せ禽(とりこ)にせらるるを見(み)て、其勢(そのいきほひ)必(かなら)ず來(きた)らざらん』と。王(わう)聽(き)かず。人(ひと)をして二子(し)を召(め)さしめて曰(いは)く、『來(きた)らば吾(われ)、汝(なんぢ)の父(ちち)を生(い)かさん。來(きた)らずんば今(いま)、奢(しや)を殺(ころ)さん』と。伍尚(ごしやう)、往(ゆ)かんと欲(ほつ)す。員(うん)曰(いは)く、『楚(そ)の・我(わ)が兄弟(けいてい)を召(め)すは、以(もつ)て我(わ)が父(ちち)を生(い)かさんと欲(ほつ)するに非(あら)ず。脱(のが)るる者(もの)有(あ)らば後(のち)患(うれひ)を生(しやう)ぜんことを恐(おそ)るるなり。故(ゆゑ)に父(ちち)を以(もつ)て質(ち)と爲(な)し、詐(いつは)つて二子(し)を召(め)すなり。二子(し)到(いた)らば則(すなは)ち父子(ふし)倶(とも)に死(し)せん。何(なん)ぞ父(ちち)の死(し)に益(えき)せん。(一五)往(ゆ)かば讎(あた)に報(はう)ずるを得(え)ざらしめん耳(のみ)。他國(たこく)に奔(はし)り力(ちから)を借(か)り以(もつ)て父(ちち)の恥(はぢ)を雪(すす)ぐに如(し)かず。倶(とも)に滅(ほろ)ぶるは(一六)爲(な)す無(な)き也(なり)』と。伍尚(ごしやう)曰(いは)く、『我(われ)、往(ゆ)くとも終(つひ)に父(ちち)の命(めい)を全(まつた)うする能(あた)はざるを知(し)る。然(しか)れども父(ちち)、我(われ)を召(め)し以(もつ)て生(せい)を求(もと)むるに、而(しか)も往(ゆ)かず、後(のち)、恥(はぢ)を雪(すす)ぐ能(あた)はずんば終(つひ)に・天下(てんか)の笑(わらひ)と爲(な)らんを恨(うら)む耳(のみ)』と。員(うん)に謂(い)ふ、『去(さ)る可(べ)し。汝(なんぢ)は能(よ)く父(ちち)を殺(ころ)すの讎(あた)に報(むく)いよ。我(われ)は將(まさ)に死(し)に歸(き)せんとす』と。尚(しやう)、既(すで)に(一七)執(とら)はれに就(つ)く。使者(ししや)、伍胥(ごしよ)を捕(とら)へんとす。伍胥(ごしよ)、弓(ゆみ)を貫(は)り矢(や)を執(と)りて使者(ししや)に嚮(むか)ふ。使者(ししや)、敢(あへ)て進(すす)まず。伍胥(ごしよ)、遂(つひ)に亡(に)げ、太子建(たいしけん)の・宋(そう)に在(あ)るを聞(き)き、往(ゆ)いて之(これ)に從(したが)ふ。奢(しや)、子胥(ししよ)の亡(に)ぐるを聞(き)くや、曰(いは)く、(一八)『楚國(そこく)の君臣(くんしん)、且(まさ)に兵(へい)に苦(くる)しまんとす』と。伍尚(ごしやう)、楚(そ)に至(いた)る。楚(そ)、奢(しや)と尚(しやう)とを并(あは)せ殺(ころ)せり。

伍胥(ごしよ)既(すで)に宋(そう)に至(いた)る。宋(そう)に(一九)華氏(くわし)の亂(らん)有(あ)り。乃(すなは)ち太子建(たいしけん)と倶(とも)に鄭(てい)に奔(はし)る。鄭人(ていひと)甚(はなは)だ之(これ)を(二〇)善(よ)くす。太子建(たいしけん)又(また)晉(しん)に適(ゆ)く。晉(しん)の頃公(けいこう)曰(いは)く、『太子(たいし)既(すで)に鄭(てい)に善(よ)し。鄭(てい)、太子(たいし)を信(しん)ず。太子(たいし)、能(よ)く我(わ)が爲(た)めに(二一)内應(ないおう)せよ。而(しかう)して我(われ)其外(そのそと)を攻(せ)めば、鄭(てい)を滅(ほろ)ぼすや必(ひつ)せり。鄭(てい)を滅(ほろ)ぼさば太子(たいし)を封(ほう)ぜん』と。太子(たいし)乃(すなは)ち鄭(てい)に還(かへ)る。事(こと)(二二)未(いま)だ會(くわい)せず。(太子建)會(たまたま)自(みづか)ら私(ひそか)に其從者(そのじうしや)を殺(ころ)さんと欲(ほつ)す。從者(じうしや)、(二三)其謀(そのはかりごと)を知(し)り、乃(すなは)ち之(これ)を鄭(てい)に告(つ)ぐ。鄭(てい)の定公(ていこう)、子産(しさん)と、太子建(たいしけん)を誅殺(ちうさつ)す。建(けん)、子(こ)有(あ)り、勝(しよう)と名(なづ)く。伍胥(ごしよ)懼(おそ)れ、乃(すなは)ち勝(しよう)と倶(とも)に呉(ご)に奔(はし)る。(二四)昭關(せうくわん)に到(いた)る。昭關(せうくわん)之(これ)を執(とら)へんと欲(ほつ)す。伍胥(ごしよ)、遂(つひ)に勝(しよう)と獨身(どくしん)歩走(ほそう)し、幾(ほと)んど脱(だつ)するを得(え)ざらんとす。追(お)ふ者(もの)、後(しりへ)に在(あ)り。江(かう)に至(いた)る。江上(かうじやう)、一漁父(ぎよふ)の・船(ふね)に乘(の)るあり、伍胥(ごしよ)の急(きふ)を知(し)り、乃(すなは)ち伍胥(ごしよ)を渡(わた)す。伍胥(ごしよ)、既(すで)に渡(わた)り、其劒(そのけん)を解(と)いて曰(いは)く、『此劒(このけん)は直(あたひ)百金(きん)。以(もつ)て(二五)父(ふ)に與(あた)ふ』と。父(ふ)曰(いは)く、『楚國(そこく)の法(はふ)、(二六)伍胥(ごしよ)を得(う)る者(もの)は、粟(ぞく)五萬石(まんせき)・(二七)爵執珪(しやくしつけい)を賜(たま)ふ。豈(あ)に徒(ただ)に百金(きん)の劒(けん)のみならんや』と。受(う)けず。伍胥(ごしよ)未(いま)だ呉(ご)に至(いた)らずして疾(や)み、中道(ちうだう)に止(とどま)り食(しよく)を乞(こ)ふ。呉(ご)に至(いた)る。(二八)呉王僚(ごわうれう)、方(まさ)に事(こと)を用(もち)ひ、公子光(こうしくわう)、將(しやう)たり。伍胥(ごしよ)乃(すなは)ち公子光(こうしくわう)に因(よ)つて以(もつ)て呉王(ごわう)に見(まみ)ゆるを求(もと)む。之(これ)を久(ひさ)しうして楚(そ)の平王(へいわう)、其邊邑(そのへんいふ)の鍾離(しようり)、呉(ご)の邊邑(へんいふ)の卑梁氏(ひりやうし)と倶(とも)に(二九)蠶(さん)し、(三〇)兩女子(りやうぢよし)桑(くは)を爭(あらそ)うて相攻(あひせ)むるを以(もつ)て、乃(すなは)ち大(おほい)に怒(いか)り、兩國(りやうこく)・兵(へい)を擧(あ)げて相伐(あひう)つに至(いた)る。呉(ご)、公子光(こうしくわう)をして楚(そ)を伐(う)たしむ。其鍾離(そのしようり)・(三一)居巣(きよさう)を拔(ぬ)いて歸(かへ)る。伍子胥(ごししよ)、呉王僚(ごわうれう)に説(と)いて曰(いは)く、『楚(そ)は破(やぶ)る可(べ)き也(なり)。願(ねが)はくは復(ま)た公子光(こうしくわう)を遣(や)れ』と。公子光(こうしくわう)、呉王(ごわう)に謂(い)つて曰(いは)く、『彼(か)の伍胥(ごしよ)の父兄(ふけい)、楚(そ)に戮(りく)せらる。而(しかう)して王(わう)に楚(そ)を伐(う)つを勸(すす)むるは、以(もつ)て自(みづか)ら其讎(そのあた)を報(むく)いんと欲(ほつ)する耳(のみ)。楚(そ)を伐(う)つとも未(いま)だ破(やぶ)る可(べ)からざらん』と。伍胥(ごしよ)、公子光(こうしくわう)の・(三二)内志(ないし)あり・王(わう)を殺(ころ)して自立(じりつ)せんと欲(ほつ)し・未(いま)だ説(と)くに外事(ぐわいじ)を以(もつ)てす可(べ)からざるを知(し)り、乃(すなは)ち(三三)專諸(せんしよ)を公子光(こうしくわう)に進(すす)め、退(しりぞ)いて太子建(たいしけん)の子(こ)勝(しよう)と與(とも)に野(や)に耕(たがや)す。

五年(ねん)にして楚(そ)の平王(へいわう)・卒(しゆつ)す。初(はじ)め平王(へいわう)の・太子建(たいしけん)より奪(うば)ふ所(ところ)の秦(しん)の女(ぢよ)、子(こ)軫(しん)を生(う)む。平王(へいわう)・卒(しゆつ)するに及(およ)んで、軫(しん)、竟(つひ)に立(た)つて後(のち)と爲(な)れり。是(こ)れを昭王(せうわう)とす。呉王僚(ごわうれう)、楚(そ)の喪(も)に因(よ)つて、二公子(こうし)をして兵(へい)に將(しやう)とし往(ゆ)いて楚(そ)を襲(おそ)はしむ。楚(そ)、兵(へい)を發(はつ)して呉(ご)の兵(へい)の後(うしろ)を絶(た)つ。(呉ノ兵)歸(かへ)るを得(え)ず。呉國(ごこく)、(三四)内(うち)空(むな)し。而(しかう)して公子光(こうしくわう)乃(すなは)ち專諸(せんしよ)をして呉王僚(ごわうれう)を襲(おそ)ひ刺(さ)さしめて自立(じりつ)す。是(こ)れを呉王闔廬(ごわうかふろ)となす。闔廬(かふろ)既(すで)に立(た)つて志(こころざし)を得(え)、乃(すなは)ち伍員(ごうん)を召(め)して以(もつ)て(三五)行人(かうじん)となし、而(しかう)して與(とも)に國事(こくじ)を謀(はか)る。楚(そ)、其大臣(そのだいじん)・郤宛(げきゑん)・伯州犂(はくしうれい)を誅(ちう)す。伯州犂(はくしうれい)の孫(まご)伯(はくひ)、亡(に)げて呉(ご)に奔(はし)る。呉(ご)、亦(また)、《ひ》を以(もつ)て大夫(たいふ)と爲(な)す。前(さき)に王僚(わうれう)の遣(や)る所(ところ)の二公子(こうし)の・兵(へい)に將(しやう)として楚(そ)を伐(う)ちし者(もの)、道(みち)絶(た)えて、歸(かへ)るを得(え)ず。後(のち)、闔廬(かふろ)が王僚(わうれう)を弑(し)して自立(じりつ)せりと聞(き)き、遂(つひ)に其兵(そのへい)を以(もつ)て楚(そ)に降(くだ)る。楚(そ)之(これ)を舒(じよ)に封(ほう)ず。闔廬(かふろ)立(た)つて三年(ねん)、乃(すなは)ち師(し)を興(おこ)し、伍胥(ごしよ)・伯(はくひ)と、楚(そ)を伐(う)つて舒(じよ)を拔(ぬ)き、遂(つひ)に故(もと)の呉(ご)の反(はん)せる二將軍(しやうぐん)を禽(とりこ)にす。因(よ)つて(三六)郢(えい)に至(いた)らんと欲(ほつ)す。將軍孫武(しやうぐんそんぶ)曰(いは)く、『民(たみ)勞(つか)る、未(いま)だ可(か)ならず。且(しばら)く之(これ)を待(ま)て』と。乃(すなは)ち歸(かへ)る。四年(よねん)、呉(ご)、楚(そ)を伐(う)つて六(りく)と潛(せん)とを取(と)る。五年(ねん)、越(ゑつ)を伐(う)つて之(これ)を敗(やぶ)る。六年(ねん)、楚(そ)の昭王(せうわう)、公子嚢瓦(こうしだうぐわ)をして兵(へい)を將(ひき)ゐて呉(ご)を伐(う)たしむ。呉(ご)、伍員(ごうん)をして迎(むか)へ撃(う)たしめ、大(おほい)に楚(そ)の軍(ぐん)を豫章(よしやう)に破(やぶ)り、楚(そ)の居巣(きよさう)を取(と)る。九年(ねん)、呉王闔廬(ごわうかふろ)、子胥(ししよ)・孫武(そんぶ)に謂(い)つて曰(いは)く、『始(はじ)め子(し)、郢(えい)の未(いま)だ入(い)る可(べ)からざるを言(い)へり、今(いま)果(はた)して何如(いかん)』と。二子(し)對(こた)へて曰(いは)く、『楚(そ)の將嚢瓦(しやうだうぐわ)貪(むさぼ)りて、(三七)唐(たう)・蔡(さい)皆(みな)之(これ)を怨(うら)む。王(わう)必(かなら)ず大(おほい)に之(これ)を伐(う)たんと欲(ほつ)せば、必(かなら)ず先(ま)づ唐(たう)・蔡(さい)を得(え)て乃(すなは)ち可(か)ならん』と。闔廬(かふろ)之(これ)を聽(き)き、悉(ことごと)く師(し)を興(おこ)して唐(たう)・蔡(さい)と與(とも)に楚(そ)を伐(う)つ。楚(そ)と漢水(かんすゐ)を夾(はさ)んで陳(ぢん)す。呉王(ごわう)の弟(おとうと)夫概(ふがい)、兵(へい)に將(しやう)たり、從(したが)はんと請(こ)ふ。王(わう)聽(き)かず。遂(つひ)に(三八)其屬(そのぞく)五千人(にん)を以(もつ)て、楚(そ)の將子常(しやうしじやう)を撃(う)つ。子常(しじやう)敗走(はいそう)して鄭(てい)に奔(はし)る。是(ここ)に於(おい)て、呉(ご)、勝(かち)に乘(じよう)じて前(すす)み、五(いつ)たび戰(たたか)つて遂(つひ)に郢(えい)に至(いた)る。(三九)己卯(きばう)、楚(そ)の昭王(せうわう)出奔(しゆつぽん)し、(四〇)庚辰(かうしん)、呉王(ごわう)、郢(えい)に入(い)る。昭王(せうわう)、(四一)出亡(しゆつばう)して雲夢(うんぼう)に入(い)る。盜(たう)、王(わう)を撃(う)つ。王(わう)、《うん》に走(はし)る。(四二)公(うんこう)の弟(おとうと)懷(くわい)曰(いは)く、『平王(へいわう)、我(わ)が父(ちち)を殺(ころ)せり。我(われ)、其子(そのこ)を殺(ころ)すも、亦(また)可(か)ならずや』と。公(うんこう)、其弟(そのおとうと)の・王(わう)を殺(ころ)さんことを恐(おそ)れ、王(わう)と隨(ずゐ)に奔(はし)る。呉(ご)の兵(へい)、隨(ずゐ)を圍(かこ)む。(呉 )隨人(ずゐひと)に謂(い)つて曰(いは)く、(四三)『(往昔)周(しう)の子孫(しそん)、漢川(かんせん)に在(あ)りし者(もの)は、楚(そ)、盡(ことごと)く之(これ)を滅(ほろ)ぼせり』と。隨人(ずゐひと)、王(わう)を殺(ころ)さんと欲(ほつ)す。王(わう)の子(こ)《き》、王(わう)を匿(かく)し、(四四)己(おのれ)自(みづか)ら王(わう)と爲(な)り、以(もつ)て之(これ)に當(あた)らんとす。隨人(ずゐひと)、王(わう)を呉(ご)に與(あた)へんことを卜(ぼく)す。不吉(ふきつ)なり。乃(すなは)ち呉(ご)に(四五)謝(しや)し、王(わう)を與(あた)へず。

始(はじ)め伍員(ごうん)、申包胥(しんはうしよ)と交(まじはり)を爲(な)す。員(うん)の亡(に)ぐるや、包胥(はうしよ)に謂(い)つて曰(いは)く、『我(われ)必(かなら)ず楚(そ)を覆(くつがへ)さん』と。包胥(はうしよ)曰(いは)く、『我(われ)必(かなら)ず之(これ)を(四六)存(そん)せん』と。呉(ご)の兵(へい)の・郢(えい)に入(い)るに及(およ)び、伍子胥(ごししよ)、昭王(せうわう)を求(もと)むれども、既(すで)に得(え)ず。即(すなは)ち楚(そ)の平王(へいわう)の墓(はか)を掘(あば)いて其尸(そのしかばね)を出(いだ)し、之(これ)を鞭(むちう)つこと三百、然(しか)る後(のち)已(や)む。申包胥(しんはうしよ)、山中(さんちう)に亡(に)げ、人(ひと)をして子胥(ししよ)に謂(い)はしめて曰(いは)く、『子(し)の・讎(あた)を報(はう)ずる、其(そ)れ(四七)以甚(はなは)だしき乎(かな)。吾(われ)之(これ)を聞(き)く、「人(ひと)衆(おほ)き者(もの)は天(てん)に勝(か)ち、天(てん)定(さだま)つて亦(また)能(よ)く人(ひと)を破(やぶ)る」と。今(いま)、子(し)は故平王(もとへいわう)の臣(しん)にして、親(した)しく北面(ほくめん)して之(これ)に事(つか)へたり。今(いま)、死人(しにん)を(四八)《りく》するに至(いた)る。此(こ)れ豈(あ)に其(そ)れ(四九)天道(てんだう)の極(きよく)なからんや』と。伍子胥(ごししよ)曰(いは)く、『我(わ)が爲(た)めに申包胥(しんはうしよ)に(五〇)謝(しや)して曰(い)へ、「吾(われ)、(五一)日(ひ)暮(く)れて塗(みち)遠(とほ)し、吾(われ)故(ゆゑ)に(五二)倒行(たうかう)して之(これ)を逆施(ぎやくし)するのみ」と。是(ここ)に於(おい)て申包胥(しんはうしよ)、秦(しん)に走(はし)りて急(きふ)を告(つ)げ、救(すく)ひを秦(しん)に求(もと)む。秦(しん)、許(ゆる)さず。包胥(はうしよ)、秦(しん)の廷(てい)に立(た)つて晝夜(ちうや)哭(こく)し、七日(じつ)七夜(や)、其聲(そのこゑ)を絶(た)たず。秦(しん)の哀公(あいこう)、之(これ)を憐(あはれ)んで曰(いは)く、『楚(そ)、無道(ぶだう)なりと雖(いへど)も、臣(しん)あること是(かく)の如(ごと)し。存(そん)する無(な)かる可(べ)けんや』と。乃(すなは)ち車(くるま)五百乘(じよう)を遣(や)り、楚(そ)を救(すく)うて呉(ご)を撃(う)つ。六月(ぐわつ)、呉(ご)の兵(へい)を稷(しよく)に敗(やぶ)る。

會(たまたま)呉王(ごわう)久(ひさ)しく楚(そ)に留(とど)まり昭王(せうわう)を求(もと)む、而(しかう)して闔廬(かふろ)の弟(おとうと)夫概(ふがい)、乃(すなは)ち亡(に)げ歸(かへ)り、自立(じりつ)して王(わう)と爲(な)る。闔廬(かふろ)、之(これ)を聞(き)き、乃(すなは)ち楚(そ)を釋(す)てて歸(かへ)り、其弟(そのおとうと)夫概(ふがい)を撃(う)つ。夫概(ふがい)敗走(はいそう)し、遂(つひ)に楚(そ)に奔(はし)れり。楚(そ)の昭王(せうわう)、呉(ご)に内亂(ないらん)あるを見(み)、乃(すなは)ち復(ま)た郢(えい)に入(い)り、夫概(ふがい)を堂谿(だうけい)に封(ほう)じて堂谿氏(だうけいし)と爲(な)す。楚(そ)、復(ま)た呉(ご)と戰(たたか)つて呉(ご)を敗(やぶ)る。呉王(ごわう)乃(すなは)ち歸(かへ)る。後(のち)二歳(さい)、闔廬(かふろ)、太子夫差(たいしふさ)をして兵(へい)を將(ひき)ゐて楚(そ)を伐(う)たしめ、番(は)を取(と)る。楚(そ)、呉(ご)の復(ま)た大(おほい)に來(きた)らんことを恐(おそ)れ、乃(すなは)ち郢(えい)を去(さ)つて《じやく》に徙(うつ)る。是時(このとき)に當(あた)り、呉(ご)は伍子胥(ごししよ)・孫武(そんぶ)の謀(はかりごと)を以(もつ)て、西(にし)は彊楚(きやうそ)を破(やぶ)り、北(きた)は齊晉(せいしん)を威(おど)し、南(みなみ)は越人(ゑつひと)を服(ふく)す。其後(そののち)四年(よねん)、孔子(こうし)、魯(ろ)に相(しやう)たり。後(のち)五年(ねん)、(呉王)越(ゑつ)を伐(う)つ。越王勾踐(ゑつわうこうせん)、迎(むか)へ撃(う)つて呉(ご)を姑蘇(こそ)に敗(やぶ)り、闔廬(かふろ)の指(ゆび)を傷(きずつ)く。(呉ノ)軍卻(ぐんしりぞ)く。闔廬(かふろ)、創(きず)を病(や)みて將(まさ)に死(し)せんとす。太子夫差(たいしふさ)に謂(い)つて曰(いは)く、『爾(なんぢ)、勾踐(こうせん)が爾(なんぢ)の父(ちち)を殺(ころ)ししを忘(わす)れんか』と。夫差(ふさ)對(こた)へて曰(いは)く、『敢(あへ)て忘(わす)れじ』と。是夕(このゆふべ)、闔廬(かふろ)・死(し)す。夫差(ふさ)既(すで)に立(た)つて王(わう)となる。伯(はくひ)を以(もつ)て太宰(たいさい)となし、(五三)戰射(せんしや)を習(なら)ふ。二年(ねん)の後(のち)、越(ゑつ)を伐(う)ち、越(ゑつ)を夫湫(ふせう)に敗(やぶ)る。越王勾踐(ゑつわうこうせん)、乃(すなは)ち餘兵(よへい)五千人(にん)を以(もつ)て、會稽(くわいけい)の上(うへ)に棲(す)み、(五四)大夫種(たいふしよう)をして幣(へい)を厚(あつ)くして呉(ご)の太宰(たいさいひ)に遺(おく)り・以(もつ)て和(わ)を請(こ)はしめ、(五五)國(くに)を委(ゐ)して(五六)臣妾(しんせふ)と爲(な)らんことを求(もと)む。呉王(ごわう)、將(まさ)に之(これ)を許(ゆる)さんとす。伍子胥(ごししよ)諫(いさ)めて曰(いは)く、『越王(ゑつわう)、人(ひと)と爲(な)り(五七)辛苦(しんく)に能(た)ふ。今(いま)、王(わう)滅(ほろ)ぼさずんば、後(のち)必(かなら)ず之(これ)を悔(く)いん』と。呉王(ごわう)聽(き)かず。太宰(たいさいひ)の計(はかりごと)を用(もち)ひて越(ゑつ)と(五八)平(たひら)ぐ。

其後(そののち)五年(ねん)にして呉王(ごわう)、齊(せい)の景公(けいこう)死(し)して大臣(だいじん)寵(ちよう)を爭(あらそ)ひ新君(しんくん)弱(わか)しと聞(き)き、乃(すなは)ち師(し)を興(おこ)して北(きた)のかた齊(せい)を伐(う)つ。伍子胥(ごししよ)諫(いさ)めて曰(いは)く、『勾踐(こうせん)、食(しよく)、(五九)味(あぢはひ)を重(かさ)ねず、(六〇)死(し)を弔(とむら)ひ病(やまひ)を問(と)ふ。且(まさ)に之(これ)を用(もち)ふる所(ところ)有(あ)らんと欲(ほつ)する也(なり)。此人(このひと)死(し)せずんば、必(かなら)ず呉(ご)の患(うれひ)を爲(な)さん。今(いま)、呉(ご)の・越(ゑつ)あるは、猶(な)ほ人(ひと)の・腹心(ふくしん)の疾(やまひ)有(あ)るがごとき也(なり)。而(しか)るに王(わう)、越(ゑつ)を先(さき)にせずして、乃(すなは)ち齊(せい)を務(つと)む。亦(また)謬(あやま)らずや』と。呉王(ごわう)聽(き)かず、齊(せい)を伐(う)ち、大(おほい)に齊(せい)の師(し)を艾陵(がいりよう)に敗(やぶ)り、遂(つひ)に(六一)鄒(すう)・魯(ろ)の君(きみ)を滅(ほろ)ぼして以(もつ)て歸(かへ)る。益(ますます)子胥(ししよ)の謀(はかりごと)を疏(うと)んず。

其後(そののち)四年(よねん)、呉王(ごわう)將(まさ)に北(きた)のかた齊(せい)を伐(う)たんとす。越王勾踐(ゑつわうこうせん)、子貢(しこう)の謀(はかりごと)を用(もち)ひ、乃(すなは)ち其衆(そのしう)を率(ひき)ゐて以(もつ)て呉(ご)を助(たす)け、而(しかう)して重寶(ちようはう)以(もつ)て太宰(たいさいひ)に獻遺(けんゐ)す。太宰(たいさいひ)既(すで)に數(しばしば)越(ゑつ)の(六二)賂(ろ)を受(う)け、其(そ)の越(ゑつ)を愛信(あいしん)すること殊(こと)に甚(はなはだ)しく、日夜(にちや)爲(た)めに呉王(ごわう)に言(い)ふ。呉王(ごわう)信(しん)じて《ひ》の計(はかりごと)を用(もち)ふ。伍子胥(ごししよ)諫(いさ)めて曰(いは)く、『夫(そ)れ越(ゑつ)は(六三)腹心(ふくしん)の病(やまひ)なり。今(いま)、其浮辭詐僞(そのふじさぎ)を信(しん)じて齊(せい)を貪(むさぼ)る。齊(せい)を破(やぶ)るは、譬(たと)へば猶(な)ほ石田(せきでん)のごとく、之(これ)を用(もち)ふる所(ところ)無(な)し。且(か)つ(六四)盤庚(はんかう)の誥(かう)に曰(いは)く、(六五)「顛越(てんゑつ)不恭(ふきよう)あらば、之(これ)を(六六)殄(ぎてん)滅(めつ)し、遺育(ゐいく)する無(な)からしめよ。種(しゆ)を茲(こ)の邑(いふ)に易(か)へしむる無(な)かれ」と。此(こ)れ(六七)商(しやう)の興(おこ)る所以(ゆゑん)なり。願(ねが)はくは王(わう)、齊(せい)を釋(す)てて越(ゑつ)を先(さき)にせよ。若(も)し然(しか)らずんば、後(のち)、將(まさ)に之(これ)を悔(く)ゆとも及(およ)ぶ無(な)からんとす』と。而(しか)るに呉王(ごわう)聽(き)かず、子胥(ししよ)を齊(せい)に使(つか)はす。子胥(ししよ)、行(ゆ)くに臨(のぞ)み、其子(そのこ)に謂(い)つて曰(いは)く、『吾(われ)數(しばしば)王(わう)を諫(いさ)む。王(わう)、用(もち)ひず。吾(われ)、今(いま)、呉(ご)の亡(ほろ)ぶるを見(み)ん。汝(なんぢ)、呉(ご)と倶(とも)に亡(ほろ)ぶるは、益(えき)無(な)き也(なり)』と。乃(すなは)ち其子(そのこ)を齊(せい)の(六八)鮑牧(はうぼく)に屬(しよく)して、還(かへ)つて呉(ご)に(六九)報(はう)ず。呉(ご)の太宰(たいさいひ)、既(すで)に子胥(ししよ)と隙(ひま)有(あ)り。因(よ)つて讒(ざん)して曰(いは)く、『子胥(ししよ)、人(ひと)と爲(な)り、剛暴(がうばう)にして恩(おん)少(すくな)く、(七〇)猜賊(さいぞく)なり。其怨望(そのゑんばう)、恐(おそ)らくは深禍(しんくわ)を爲(な)さん。前日(ぜんじつ)、王(わう)、齊(せい)を伐(う)たんと欲(ほつ)す。子胥(ししよ)、以(もつ)て不可(ふか)と爲(な)す。王(わう)卒(つひ)に之(これ)を伐(う)つて大功(たいこう)ありき。子胥(ししよ)、其計謀(そのけいぼう)の用(もち)ひられざりしを恥(は)ぢ、乃(すなは)ち反(かへ)つて怨望(ゑんばう)す。而(しかう)して今(いま)、王(わう)、又復(またま)た齊(せい)を伐(う)つ。子胥(ししよ)專(もつぱ)ら愎(もと)り彊(し)ひて諫(いさ)め(七一)事(こと)を用(もち)ふるを沮毀(しよき)す。徒(いたづら)に呉(ご)の敗(やぶ)れて以(もつ)て自(みづか)ら其計謀(そのけいぼう)に勝(か)たんことを(七二)幸(ねが)ふのみ。今(いま)、王(わう)自(みづか)ら行(ゆ)き、國中(こくちう)の武力(ぶりよく)を悉(つく)して以(もつ)て齊(せい)を伐(う)つ。而(しかう)して子胥(ししよ)諫(いさ)め用(もち)ひられず、因(よ)つて輟(や)め謝(しや)し(七三)佯病(やうびやう)して行(ゆ)かず。王(わう)、備(そな)へざる可(べ)からず。此(こ)れ禍(わざはひ)を起(おこ)すこと難(かた)からじ。且(か)つ《ひ》、人(ひと)をして微(ひそか)に之(これ)を伺(うかが)はしむるに、其(そ)の齊(せい)に使(つかひ)するや、乃(すなは)ち其子(そのこ)を齊(せい)の鮑氏(はうし)に屬(しよく)せり。夫(そ)れ人臣(じんしん)と爲(な)つて、内(うち)、意(い)を得(え)ず、外(そと)、諸(しよこう)に倚(よ)り、自(みづか)ら以(もつ)て先王(せんわう)の謀臣(ぼうしん)と爲(な)すに、今(いま)用(もち)ひられず、常(つね)に(七四)鞅鞅(あうあう)として怨望(ゑんばう)す。願(ねが)はくは王(わう)、早(はや)く(七五)之(これ)を圖(はか)れ』と、呉王(ごわう)曰(いは)く、『子(し)の言(げん)微(な)きも、吾(われ)も亦(また)之(これ)を疑(うたが)へり』と。乃(すなは)ち使(つかひ)をして伍子胥(ごししよ)に(七六)屬鏤(しよくる)の劍(けん)を賜(たま)はしめて曰(いは)く、『子(し)、此(これ)を以(もつ)て死(し)せよ』と。伍子胥(ごししよ)、天(てん)を仰(あふ)いで歎(たん)じて曰(いは)く、『嗟乎(ああ)、讒臣(ざんしんひ)、亂(らん)を爲(な)す。王(わう)、乃(すなは)ち反(かへ)つて我(われ)を誅(ちう)す。我(われ)、若(なんぢ)の父(ちち)をして霸(は)たらしむ。若(なんぢ)が未(いま)だ立(た)たざる時(とき)より、諸公子(しよこうし)立(た)つを爭(あらそ)ふ。我(われ)、死(し)を以(もつ)て之(これ)を先王(せんわう)に爭(あらそ)ふ。幾(ほと)んと立(た)つを得(え)ざらんとせり。若(なんぢ)、既(すで)に立(た)つを得(う)るや、呉國(ごこく)を分(わか)つて我(われ)に與(あた)へんと欲(ほつ)せり。我(われ)、顧(かへ)つて敢(あへ)て望(のぞ)まざりき。然(しか)るに今(いま)、若(なんぢ)、諛臣(ゆしん)の言(げん)を聽(き)き、以(もつ)て長者(ちやうしや)を殺(ころ)す』と。乃(すなは)ち其(その)(七七)舍人(しやじん)に告(つ)げて曰(いは)く、『必(かなら)ず我(わ)が墓上(ぼじやう)に樹(う)うるに(七八)梓(し)を以(もつ)てせよ、以(もつ)て(七九)器(き)を爲(つく)る可(べ)からしめん。而(しかう)して吾(わ)が眼(まなこ)を抉(ゑぐ)り、呉(ご)の東門(とうもん)の上(うへ)に懸(か)けよ。以(もつ)て越(ゑつ)の寇(こう)の入(い)つて呉(ご)を滅(ほろ)ぼすを觀(み)ん』と。乃(すなは)ち自剄(じけい)して死(し)す。呉王(ごわう)之(これ)を聞(き)いて大(おほい)に怒(いか)り、乃(すなは)ち子胥(ししよ)の尸(しかばね)を取(と)り、盛(も)るに(八〇)鴟夷(しい)の革(かは)を以(もつ)てし、之(これ)を江中(かうちう)に(八一)浮(うか)ぶ。呉人(ごひと)、之(これ)を憐(あはれ)み、爲(た)めに祠(し)を江上(かうじやう)(ノ山)に立(た)つ、因(よ)つて(其山ヲ)命(なづ)けて胥山(しよざん)と曰(い)ふ。

呉王(ごわう)、既(すで)に伍子胥(ごししよ)を誅(ちう)し、遂(つひ)に齊(せい)を伐(う)つ。齊(せい)の鮑氏(はうし)、其君悼公(そのきみたうこう)を殺(し)して陽生(やうせい)を立(た)つ。呉王(ごわう)、其賊(そのぞく)を討(う)たんと欲(ほつ)す、勝(か)たずして去(さ)る。其後(そののち)二年(ねん)、呉王(ごわう)、魯(ろ)・衞(ゑい)の君(きみ)を召(め)し、之(これ)を《たくかう》に會(くわい)す。其明年(そのみやうねん)、因(よ)つて北(きた)、大(おほい)に諸(しよこう)を黄池(くわうち)に會(くわい)し、(八二)以(もつ)て周室(しうしつ)に令(れい)す。越王勾踐(ゑつわうこうせん)、襲(おそ)うて(八三)呉(ご)の太子(たいし)を殺(ころ)し、呉(ご)の兵(へい)を破(やぶ)る。呉王(ごわう)之(これ)を聞(き)き、乃(すなは)ち歸(かへ)り、使(つかひ)を使(つか)はし幣(へい)を厚(あつ)うして越(ゑつ)と平(たひら)ぐ。後(のち)九年(ねん)、越王勾踐(ゑつわうこうせん)、遂(つひ)に呉(ご)を滅(ほろ)ぼして王夫差(わうふさ)を殺(ころ)し、而(しかう)して太宰(たいさいひ)を誅(ちう)す。其君(そのきみ)に不忠(ふちう)にして、外(そと)、(八四)重賂(ぢうろ)を受(う)け、(八五)己(おのれ)と比周(ひしう)せるを以(もつ)て也(なり)。

伍子胥(ごししよ)の初(はじ)め與(とも)に倶(とも)に亡(に)ぐる所(ところ)の故(もと)の楚(そ)の太子建(たいしけん)の子(こ)勝(しよう)といふ者(もの)、呉(ご)に在(あ)り。呉王夫差(ごわうふさ)の時(とき)、楚(そ)の惠王(けいわう)、勝(しよう)を召(め)して楚(そ)に歸(かへ)さんと欲(ほつ)す。葉公(せふこう)諫(いさ)めて曰(いは)く『勝(しよう)は勇(ゆう)を好(この)んで陰(ひそか)に死士(しし)を求(もと)む。殆(ほとん)ど(八六)私(わたくし)有(あ)らんか』と。惠王(けいわう)聽(き)かず。遂(つひ)に勝(しよう)を召(め)して楚(そ)の邊邑(へんいふえん)に居(を)らしめ、號(がう)して白公(はくこう)と爲(な)す。白公(はくこう)、楚(そ)に歸(かへ)つて三年(ねん)にして、呉(ご)、子胥(ししよ)を誅(ちう)す。白公勝(はくこうしよう)、既(すで)に楚(そ)に歸(かへ)り、鄭(てい)の其父(そのちち)を殺(ころ)ししを怨(うら)み、乃(すなは)ち陰(ひそか)に死士(しし)を養(やしな)ひ、鄭(てい)に報(むく)ゆるを求(もと)む。楚(そ)に歸(かへ)つて五年(ねん)、鄭(てい)を伐(う)たんと請(こ)ふ。楚(そ)の(八七)令尹子西(れいゐんしせい)、之(これ)を許(ゆる)す。兵(へい)未(いま)だ發(はつ)せざるに、晉(しん)、鄭(てい)を伐(う)つ。鄭(てい)、救(すく)ひを楚(そ)に請(こ)ふ。楚(そ)、子西(しせい)をして往(ゆ)いて救(すく)はしむ。(子西、鄭ト)與(とも)に盟(ちか)つて還(かへ)る。白公勝(はくこうしよう)怒(いか)つて曰(いは)く、(八八)『鄭(てい)は之(こ)れ仇(あた)に非(あら)ず、乃(すなは)ち子西(しせい)なり』と。勝(しよう)自(みづか)ら劍(けん)を礪(と)ぐ。人(ひと)問(と)うて曰(いは)く、『何(なに)をか以(もつ)て爲(な)す』と。勝(しよう)曰(いは)く、『以(もつ)て子西(しせい)を殺(ころ)さんと欲(ほつ)す』と。子西(しせい)、之(これ)を聞(き)き、笑(わら)つて曰(いは)く(八九)『勝(しよう)は卵(たまご)の如(ごと)き耳(のみ)、何(なに)をか能(よ)く爲(な)さんや』と。其後(そののち)四歳(さい)、白公勝(はくこうしよう)、石乞(せききつ)と與(とも)に襲(おそ)うて楚(そ)の令尹子西(れいゐんしせい)・司馬子(しばしき)を朝(てう)に殺(ころ)す。石乞(せききつ)曰(いは)く、『王(わう)を殺(ころ)さずんば不可(ふか)なり』と。乃(すなは)ち之(これ)を劫(おびやか)す。王(わう)、(九〇)高府(かうふ)に如(ゆ)く。(九一)石乞(せききつ)の從者(じうしや)屈固(くつこ)、楚(そ)の惠王(けいわう)を負(お)ひ、亡(に)げて昭夫人(せうふじん)の宮(きう)に走(はし)る。葉公(せふこう)、白公(はくこう)の・亂(らん)を爲(な)すを聞(き)き、其國人(そのこくじん)を率(ひき)ゐて白公(はくこう)を攻(せ)む。白公(はくこう)の徒(と)敗(やぶ)れ、亡(に)げて山中(さんちう)に走(はし)り、自殺(じさつ)す。而(しかう)して石乞(せききつ)を虜(とりこ)にして、白公(はくこう)の(九二)尸處(ししよ)を問(と)ふ。言(い)はず。將(まさ)に烹(に)んとす。石乞(せききつ)曰(いは)く、『事成(ことな)らば卿(けい)と爲(な)らん。成(な)らずして烹(に)らるるは、固(もと)より(九三)其職也(そのしよくなり)』と。終(つひ)に肯(あへ)て其尸處(そのししよ)を告(つ)げず。遂(つひ)に石乞(せききつ)を烹(に)る。而(しかう)して惠王(けいわう)を求(もと)めて復(ま)た之(これ)を立(た)つ。

太史公(たいしこう)曰(いは)く、怨毒(ゑんどく)の・人(ひと)に於(お)ける、甚(はなはだ)しいかな、(九四)王者(わうしや)尚(な)ほ之(これ)を臣下(しんか)に行(おこな)ふ能(あた)はず、況(いはん)や同列(どうれつ)をや。向(さき)に伍子胥(ごししよ)をして奢(しや)に從(したが)ひ倶(とも)に死(し)せしめば、何(なん)ぞ(九五)螻蟻(ろうぎ)に異(こと)ならんや。(九六)小義(せうぎ)を棄(す)てて大恥(たいち)を雪(すす)ぎ、名(な)を後世(こうせい)に垂(た)る。(九七)悲(かな)しい夫(かな)。子胥(ししよ)が(九八)江上(かうじやう)に窘(くるし)められ・道(みち)に食(しよく)を乞(こ)ふに方(あた)り、志(こころざし)、豈(あ)に嘗(かつ)て須臾(しばらく)も郢(えい)を忘(わす)れんや。故(ゆゑ)に(九九)隱忍(いんにん)して功名(こうめい)を就(な)せり。(一〇〇)烈丈夫(れつぢやうふ)に非(あら)ずんば、孰(た)れか能(よ)く此(これ)を致(いた)さん。(一〇一)白公(はくこう)如(も)し自立(じりつ)して君(きみ)と爲(な)らざりせば、其功謀(そのこうぼう)亦(また)道(い)ふに勝(た)ふ可(べ)からざる者(もの)ありしならんかな。

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