本文へ移動

ノベリズ

書いて、読む

作品 新着 人気 タグ 作家 青空文庫 探す 棚 書く

国訳史記列伝 06 伍子胥列伝第六

司馬 遷 全2話 1.3万字 2025年2月10日

この画面をそのまま印刷(または PDF として保存)できます。 作品のページへ戻る

1. 国訳史記列伝 06 伍子胥列伝第六(1)

箭内亙による譯

伍子胥(ごししよ)は楚(そ)の人也(ひとなり)。名(な)は員(うん)。員(うん)の父(ちち)を伍奢(ごしや)と曰(い)ひ、員(うん)の兄(あに)を伍尚(ごしやう)と曰(い)ふ。其先(そのせん)を伍擧(ごきよ)と曰(い)ふ。(伍擧)直諫(ちよくかん)を以(もつ)て楚(そ)の莊王(さうわう)に事(つか)へて、(一)顯(けん)なる有(あ)り、故(ゆゑ)に其後世(そのこうせい)、楚(そ)に名(な)あり。楚(そ)の平王(へいわう)、太子(たいし)有(あ)り、名(な)を建(けん)と曰(い)ふ。伍奢(ごしや)をして太傅(たいふ)たらしめ、費無忌(ひぶき)をして少傅(せうふ)たらしむ。無忌(ぶき)、太子建(たいしけん)に忠(ちう)ならず。平王(へいわう)、無忌(ぶき)をして太子(たいし)の爲(た)めに婦(ふ)を秦(しん)に取(めと)らしむ。秦(しん)の女(ぢよ)、好(かほよ)し。無忌(ぶき)馳(は)せ歸(かへ)りて平王(へいわう)に報(はう)じて曰(いは)く、『秦(しん)の女(ぢよ)絶(はなは)だ美(び)なり。王(わう)、自(みづか)ら取(めと)りて更(さら)に太子(たいし)の爲(た)めに婦(ふ)を取(めと)る可(べ)し』と。平王(へいわう)遂(つひ)に自(みづか)ら秦(しん)の女(ぢよ)を取(めと)りて、絶(はなは)だ之(これ)を愛幸(あいかう)し、子(こ)軫(しん)を生(う)む。更(さら)に太子(たいし)の爲(た)めに婦(ふ)を取(めと)る。無忌(ぶき)既(すで)に秦(しん)の女(ぢよ)を以(もつ)て自(みづか)ら平王(へいわう)に媚(こ)び、因(よ)つて太子(たいし)を去(さ)りて平王(へいわう)に事(つか)ふ。一旦(たん)平王(へいわう)卒(しゆつ)して太子(たいし)立(た)たば己(おのれ)を殺(ころ)さんことを恐(おそ)れ、乃(すなは)ち因(よ)つて太子建(たいしけん)を讒(ざん)す。建(けん)の母(はは)は蔡(さい)の女也(ぢよなり)。平王(へいわう)に寵(ちよう)なし。平王(へいわう)稍(やうやく)益(ますます)建(けん)を疏(うと)んじ、建(けん)をして城父(じやうほ)(ノ地)を守(まも)り(二)邊兵(へんぺい)に備(そな)へしむ。之(これ)を頃(しばら)くして、無忌(ぶき)、又(また)、日夜(にちや)、太子(たいし)の(三)短(たん)を王(わう)に言(い)つて曰(いは)く、『太子(たいし)、秦(しん)の女(ぢよ)の故(ゆゑ)を以(もつ)て、(四)怨望(ゑんばう)無(な)き能(あた)はず。願(ねが)はくは王(わう)少(すこ)しく自(みづか)ら備(そな)へよ。太子(たいし)、城父(じやうほ)に居(を)りて兵(へい)に將(しやう)たりしより、外(ほか)、諸(しよこう)に交(まじ)はり、且(まさ)に入(い)りて亂(らん)を爲(な)さんと欲(ほつ)す』と。平王(へいわう)、乃(すなは)ち其太傅伍奢(そのたいふごしや)を召(め)して、之(これ)を(五)考問(かうもん)す。伍奢(ごしや)、無忌(ぶき)が太子(たいし)を平王(へいわう)に讒(ざん)するを知(し)る。因(よ)つて曰(いは)く、『王(わう)、獨(ひと)り奈何(いかん)ぞ(六)讒賊(ざんぞく)の小臣(せうしん)を以(もつ)て(七)骨肉(こつにく)の親(しん)を疏(うと)んずる』と。無忌(ぶき)曰(いは)く、『王(わう)、今(いま)(太子ヲ)制(せい)せずんば、其事(そのこと)成(な)り、王(わう)且(まさ)に(八)禽(とりこ)にせられんとす』と。是(ここ)に於(おい)て平王(へいわう)、怒(いか)つて伍奢(ごしや)を囚(とら)へて、(九)城父(じやうほ)の(一〇)司馬(しば)奮揚(ふんやう)をして往(ゆ)いて太子(たいし)を殺(ころ)さしむ。行(ゆ)きて未(いま)だ至(いた)らず、奮揚(ふんやう)、人(ひと)をして先(ま)づ太子(たいし)に告(つ)げしむらく、『太子(たいし)、急(きふ)に去(さ)れ、然(しか)らずんば將(まさ)に誅(ちう)せられんとす』と。太子建(たいしけん)、亡(に)げて宋(そう)に奔(はし)る。無忌(ぶき)、平王(へいわう)に言(い)つて曰(いは)く、『伍奢(ごしや)、二子(し)あり、皆(みな)賢(けん)なり。誅(ちう)せずんば且(まさ)に楚(そ)の憂(うれひ)を爲(な)さんとす。其父(そのちち)を以(もつ)て(一一)質(ち)として之(これ)を召(め)す可(べ)し、然(しか)らずんば且(まさ)に楚(そ)の患(うれひ)を爲(な)さんとす』と。王(わう)、使(つかひ)をして伍奢(ごしや)に謂(い)はしめて曰(いは)く、『能(よ)く汝(なんぢ)の二子(し)を(一二)致(いた)さば則(すなは)ち生(い)きん。能(あた)はずんば則(すなは)ち死(し)せん』と。伍奢(ごしや)曰(いは)く、『尚(しやう)の人(ひと)と爲(な)りや仁(じん)、呼(よ)ばば必(かなら)ず來(きた)らん。員(うん)の人(ひと)と爲(な)りや(一三)剛戻(がうれい)にして(一四)《はぢ》を忍(しの)び、能(よ)く大事(だいじ)を爲(な)す。彼(かれ)、來(きた)らば并(あは)せ禽(とりこ)にせらるるを見(み)て、其勢(そのいきほひ)必(かなら)ず來(きた)らざらん』と。王(わう)聽(き)かず。人(ひと)をして二子(し)を召(め)さしめて曰(いは)く、『來(きた)らば吾(われ)、汝(なんぢ)の父(ちち)を生(い)かさん。來(きた)らずんば今(いま)、奢(しや)を殺(ころ)さん』と。伍尚(ごしやう)、往(ゆ)かんと欲(ほつ)す。員(うん)曰(いは)く、『楚(そ)の・我(わ)が兄弟(けいてい)を召(め)すは、以(もつ)て我(わ)が父(ちち)を生(い)かさんと欲(ほつ)するに非(あら)ず。脱(のが)るる者(もの)有(あ)らば後(のち)患(うれひ)を生(しやう)ぜんことを恐(おそ)るるなり。故(ゆゑ)に父(ちち)を以(もつ)て質(ち)と爲(な)し、詐(いつは)つて二子(し)を召(め)すなり。二子(し)到(いた)らば則(すなは)ち父子(ふし)倶(とも)に死(し)せん。何(なん)ぞ父(ちち)の死(し)に益(えき)せん。(一五)往(ゆ)かば讎(あた)に報(はう)ずるを得(え)ざらしめん耳(のみ)。他國(たこく)に奔(はし)り力(ちから)を借(か)り以(もつ)て父(ちち)の恥(はぢ)を雪(すす)ぐに如(し)かず。倶(とも)に滅(ほろ)ぶるは(一六)爲(な)す無(な)き也(なり)』と。伍尚(ごしやう)曰(いは)く、『我(われ)、往(ゆ)くとも終(つひ)に父(ちち)の命(めい)を全(まつた)うする能(あた)はざるを知(し)る。然(しか)れども父(ちち)、我(われ)を召(め)し以(もつ)て生(せい)を求(もと)むるに、而(しか)も往(ゆ)かず、後(のち)、恥(はぢ)を雪(すす)ぐ能(あた)はずんば終(つひ)に・天下(てんか)の笑(わらひ)と爲(な)らんを恨(うら)む耳(のみ)』と。員(うん)に謂(い)ふ、『去(さ)る可(べ)し。汝(なんぢ)は能(よ)く父(ちち)を殺(ころ)すの讎(あた)に報(むく)いよ。我(われ)は將(まさ)に死(し)に歸(き)せんとす』と。尚(しやう)、既(すで)に(一七)執(とら)はれに就(つ)く。使者(ししや)、伍胥(ごしよ)を捕(とら)へんとす。伍胥(ごしよ)、弓(ゆみ)を貫(は)り矢(や)を執(と)りて使者(ししや)に嚮(むか)ふ。使者(ししや)、敢(あへ)て進(すす)まず。伍胥(ごしよ)、遂(つひ)に亡(に)げ、太子建(たいしけん)の・宋(そう)に在(あ)るを聞(き)き、往(ゆ)いて之(これ)に從(したが)ふ。奢(しや)、子胥(ししよ)の亡(に)ぐるを聞(き)くや、曰(いは)く、(一八)『楚國(そこく)の君臣(くんしん)、且(まさ)に兵(へい)に苦(くる)しまんとす』と。伍尚(ごしやう)、楚(そ)に至(いた)る。楚(そ)、奢(しや)と尚(しやう)とを并(あは)せ殺(ころ)せり。

伍胥(ごしよ)既(すで)に宋(そう)に至(いた)る。宋(そう)に(一九)華氏(くわし)の亂(らん)有(あ)り。乃(すなは)ち太子建(たいしけん)と倶(とも)に鄭(てい)に奔(はし)る。鄭人(ていひと)甚(はなは)だ之(これ)を(二〇)善(よ)くす。太子建(たいしけん)又(また)晉(しん)に適(ゆ)く。晉(しん)の頃公(けいこう)曰(いは)く、『太子(たいし)既(すで)に鄭(てい)に善(よ)し。鄭(てい)、太子(たいし)を信(しん)ず。太子(たいし)、能(よ)く我(わ)が爲(た)めに(二一)内應(ないおう)せよ。而(しかう)して我(われ)其外(そのそと)を攻(せ)めば、鄭(てい)を滅(ほろ)ぼすや必(ひつ)せり。鄭(てい)を滅(ほろ)ぼさば太子(たいし)を封(ほう)ぜん』と。太子(たいし)乃(すなは)ち鄭(てい)に還(かへ)る。事(こと)(二二)未(いま)だ會(くわい)せず。(太子建)會(たまたま)自(みづか)ら私(ひそか)に其從者(そのじうしや)を殺(ころ)さんと欲(ほつ)す。從者(じうしや)、(二三)其謀(そのはかりごと)を知(し)り、乃(すなは)ち之(これ)を鄭(てい)に告(つ)ぐ。鄭(てい)の定公(ていこう)、子産(しさん)と、太子建(たいしけん)を誅殺(ちうさつ)す。建(けん)、子(こ)有(あ)り、勝(しよう)と名(なづ)く。伍胥(ごしよ)懼(おそ)れ、乃(すなは)ち勝(しよう)と倶(とも)に呉(ご)に奔(はし)る。(二四)昭關(せうくわん)に到(いた)る。昭關(せうくわん)之(これ)を執(とら)へんと欲(ほつ)す。伍胥(ごしよ)、遂(つひ)に勝(しよう)と獨身(どくしん)歩走(ほそう)し、幾(ほと)んど脱(だつ)するを得(え)ざらんとす。追(お)ふ者(もの)、後(しりへ)に在(あ)り。江(かう)に至(いた)る。江上(かうじやう)、一漁父(ぎよふ)の・船(ふね)に乘(の)るあり、伍胥(ごしよ)の急(きふ)を知(し)り、乃(すなは)ち伍胥(ごしよ)を渡(わた)す。伍胥(ごしよ)、既(すで)に渡(わた)り、其劒(そのけん)を解(と)いて曰(いは)く、『此劒(このけん)は直(あたひ)百金(きん)。以(もつ)て(二五)父(ふ)に與(あた)ふ』と。父(ふ)曰(いは)く、『楚國(そこく)の法(はふ)、(二六)伍胥(ごしよ)を得(う)る者(もの)は、粟(ぞく)五萬石(まんせき)・(二七)爵執珪(しやくしつけい)を賜(たま)ふ。豈(あ)に徒(ただ)に百金(きん)の劒(けん)のみならんや』と。受(う)けず。伍胥(ごしよ)未(いま)だ呉(ご)に至(いた)らずして疾(や)み、中道(ちうだう)に止(とどま)り食(しよく)を乞(こ)ふ。呉(ご)に至(いた)る。(二八)呉王僚(ごわうれう)、方(まさ)に事(こと)を用(もち)ひ、公子光(こうしくわう)、將(しやう)たり。伍胥(ごしよ)乃(すなは)ち公子光(こうしくわう)に因(よ)つて以(もつ)て呉王(ごわう)に見(まみ)ゆるを求(もと)む。之(これ)を久(ひさ)しうして楚(そ)の平王(へいわう)、其邊邑(そのへんいふ)の鍾離(しようり)、呉(ご)の邊邑(へんいふ)の卑梁氏(ひりやうし)と倶(とも)に(二九)蠶(さん)し、(三〇)兩女子(りやうぢよし)桑(くは)を爭(あらそ)うて相攻(あひせ)むるを以(もつ)て、乃(すなは)ち大(おほい)に怒(いか)り、兩國(りやうこく)・兵(へい)を擧(あ)げて相伐(あひう)つに至(いた)る。呉(ご)、公子光(こうしくわう)をして楚(そ)を伐(う)たしむ。其鍾離(そのしようり)・(三一)居巣(きよさう)を拔(ぬ)いて歸(かへ)る。伍子胥(ごししよ)、呉王僚(ごわうれう)に説(と)いて曰(いは)く、『楚(そ)は破(やぶ)る可(べ)き也(なり)。願(ねが)はくは復(ま)た公子光(こうしくわう)を遣(や)れ』と。公子光(こうしくわう)、呉王(ごわう)に謂(い)つて曰(いは)く、『彼(か)の伍胥(ごしよ)の父兄(ふけい)、楚(そ)に戮(りく)せらる。而(しかう)して王(わう)に楚(そ)を伐(う)つを勸(すす)むるは、以(もつ)て自(みづか)ら其讎(そのあた)を報(むく)いんと欲(ほつ)する耳(のみ)。楚(そ)を伐(う)つとも未(いま)だ破(やぶ)る可(べ)からざらん』と。伍胥(ごしよ)、公子光(こうしくわう)の・(三二)内志(ないし)あり・王(わう)を殺(ころ)して自立(じりつ)せんと欲(ほつ)し・未(いま)だ説(と)くに外事(ぐわいじ)を以(もつ)てす可(べ)からざるを知(し)り、乃(すなは)ち(三三)專諸(せんしよ)を公子光(こうしくわう)に進(すす)め、退(しりぞ)いて太子建(たいしけん)の子(こ)勝(しよう)と與(とも)に野(や)に耕(たがや)す。

五年(ねん)にして楚(そ)の平王(へいわう)・卒(しゆつ)す。初(はじ)め平王(へいわう)の・太子建(たいしけん)より奪(うば)ふ所(ところ)の秦(しん)の女(ぢよ)、子(こ)軫(しん)を生(う)む。平王(へいわう)・卒(しゆつ)するに及(およ)んで、軫(しん)、竟(つひ)に立(た)つて後(のち)と爲(な)れり。是(こ)れを昭王(せうわう)とす。呉王僚(ごわうれう)、楚(そ)の喪(も)に因(よ)つて、二公子(こうし)をして兵(へい)に將(しやう)とし往(ゆ)いて楚(そ)を襲(おそ)はしむ。楚(そ)、兵(へい)を發(はつ)して呉(ご)の兵(へい)の後(うしろ)を絶(た)つ。(呉ノ兵)歸(かへ)るを得(え)ず。呉國(ごこく)、(三四)内(うち)空(むな)し。而(しかう)して公子光(こうしくわう)乃(すなは)ち專諸(せんしよ)をして呉王僚(ごわうれう)を襲(おそ)ひ刺(さ)さしめて自立(じりつ)す。是(こ)れを呉王闔廬(ごわうかふろ)となす。闔廬(かふろ)既(すで)に立(た)つて志(こころざし)を得(え)、乃(すなは)ち伍員(ごうん)を召(め)して以(もつ)て(三五)行人(かうじん)となし、而(しかう)して與(とも)に國事(こくじ)を謀(はか)る。楚(そ)、其大臣(そのだいじん)・郤宛(げきゑん)・伯州犂(はくしうれい)を誅(ちう)す。伯州犂(はくしうれい)の孫(まご)伯(はくひ)、亡(に)げて呉(ご)に奔(はし)る。呉(ご)、亦(また)、《ひ》を以(もつ)て大夫(たいふ)と爲(な)す。前(さき)に王僚(わうれう)の遣(や)る所(ところ)の二公子(こうし)の・兵(へい)に將(しやう)として楚(そ)を伐(う)ちし者(もの)、道(みち)絶(た)えて、歸(かへ)るを得(え)ず。後(のち)、闔廬(かふろ)が王僚(わうれう)を弑(し)して自立(じりつ)せりと聞(き)き、遂(つひ)に其兵(そのへい)を以(もつ)て楚(そ)に降(くだ)る。楚(そ)之(これ)を舒(じよ)に封(ほう)ず。闔廬(かふろ)立(た)つて三年(ねん)、乃(すなは)ち師(し)を興(おこ)し、伍胥(ごしよ)・伯(はくひ)と、楚(そ)を伐(う)つて舒(じよ)を拔(ぬ)き、遂(つひ)に故(もと)の呉(ご)の反(はん)せる二將軍(しやうぐん)を禽(とりこ)にす。因(よ)つて(三六)郢(えい)に至(いた)らんと欲(ほつ)す。將軍孫武(しやうぐんそんぶ)曰(いは)く、『民(たみ)勞(つか)る、未(いま)だ可(か)ならず。且(しばら)く之(これ)を待(ま)て』と。乃(すなは)ち歸(かへ)る。四年(よねん)、呉(ご)、楚(そ)を伐(う)つて六(りく)と潛(せん)とを取(と)る。五年(ねん)、越(ゑつ)を伐(う)つて之(これ)を敗(やぶ)る。六年(ねん)、楚(そ)の昭王(せうわう)、公子嚢瓦(こうしだうぐわ)をして兵(へい)を將(ひき)ゐて呉(ご)を伐(う)たしむ。呉(ご)、伍員(ごうん)をして迎(むか)へ撃(う)たしめ、大(おほい)に楚(そ)の軍(ぐん)を豫章(よしやう)に破(やぶ)り、楚(そ)の居巣(きよさう)を取(と)る。九年(ねん)、呉王闔廬(ごわうかふろ)、子胥(ししよ)・孫武(そんぶ)に謂(い)つて曰(いは)く、『始(はじ)め子(し)、郢(えい)の未(いま)だ入(い)る可(べ)からざるを言(い)へり、今(いま)果(はた)して何如(いかん)』と。二子(し)對(こた)へて曰(いは)く、『楚(そ)の將嚢瓦(しやうだうぐわ)貪(むさぼ)りて、(三七)唐(たう)・蔡(さい)皆(みな)之(これ)を怨(うら)む。王(わう)必(かなら)ず大(おほい)に之(これ)を伐(う)たんと欲(ほつ)せば、必(かなら)ず先(ま)づ唐(たう)・蔡(さい)を得(え)て乃(すなは)ち可(か)ならん』と。闔廬(かふろ)之(これ)を聽(き)き、悉(ことごと)く師(し)を興(おこ)して唐(たう)・蔡(さい)と與(とも)に楚(そ)を伐(う)つ。楚(そ)と漢水(かんすゐ)を夾(はさ)んで陳(ぢん)す。呉王(ごわう)の弟(おとうと)夫概(ふがい)、兵(へい)に將(しやう)たり、從(したが)はんと請(こ)ふ。王(わう)聽(き)かず。遂(つひ)に(三八)其屬(そのぞく)五千人(にん)を以(もつ)て、楚(そ)の將子常(しやうしじやう)を撃(う)つ。子常(しじやう)敗走(はいそう)して鄭(てい)に奔(はし)る。是(ここ)に於(おい)て、呉(ご)、勝(かち)に乘(じよう)じて前(すす)み、五(いつ)たび戰(たたか)つて遂(つひ)に郢(えい)に至(いた)る。(三九)己卯(きばう)、楚(そ)の昭王(せうわう)出奔(しゆつぽん)し、(四〇)庚辰(かうしん)、呉王(ごわう)、郢(えい)に入(い)る。昭王(せうわう)、(四一)出亡(しゆつばう)して雲夢(うんぼう)に入(い)る。盜(たう)、王(わう)を撃(う)つ。王(わう)、《うん》に走(はし)る。(四二)公(うんこう)の弟(おとうと)懷(くわい)曰(いは)く、『平王(へいわう)、我(わ)が父(ちち)を殺(ころ)せり。我(われ)、其子(そのこ)を殺(ころ)すも、亦(また)可(か)ならずや』と。公(うんこう)、其弟(そのおとうと)の・王(わう)を殺(ころ)さんことを恐(おそ)れ、王(わう)と隨(ずゐ)に奔(はし)る。呉(ご)の兵(へい)、隨(ずゐ)を圍(かこ)む。(呉 )隨人(ずゐひと)に謂(い)つて曰(いは)く、(四三)『(往昔)周(しう)の子孫(しそん)、漢川(かんせん)に在(あ)りし者(もの)は、楚(そ)、盡(ことごと)く之(これ)を滅(ほろ)ぼせり』と。隨人(ずゐひと)、王(わう)を殺(ころ)さんと欲(ほつ)す。王(わう)の子(こ)《き》、王(わう)を匿(かく)し、(四四)己(おのれ)自(みづか)ら王(わう)と爲(な)り、以(もつ)て之(これ)に當(あた)らんとす。隨人(ずゐひと)、王(わう)を呉(ご)に與(あた)へんことを卜(ぼく)す。不吉(ふきつ)なり。乃(すなは)ち呉(ご)に(四五)謝(しや)し、王(わう)を與(あた)へず。

始(はじ)め伍員(ごうん)、申包胥(しんはうしよ)と交(まじはり)を爲(な)す。員(うん)の亡(に)ぐるや、包胥(はうしよ)に謂(い)つて曰(いは)く、『我(われ)必(かなら)ず楚(そ)を覆(くつがへ)さん』と。包胥(はうしよ)曰(いは)く、『我(われ)必(かなら)ず之(これ)を(四六)存(そん)せん』と。呉(ご)の兵(へい)の・郢(えい)に入(い)るに及(およ)び、伍子胥(ごししよ)、昭王(せうわう)を求(もと)むれども、既(すで)に得(え)ず。即(すなは)ち楚(そ)の平王(へいわう)の墓(はか)を掘(あば)いて其尸(そのしかばね)を出(いだ)し、之(これ)を鞭(むちう)つこと三百、然(しか)る後(のち)已(や)む。申包胥(しんはうしよ)、山中(さんちう)に亡(に)げ、人(ひと)をして子胥(ししよ)に謂(い)はしめて曰(いは)く、『子(し)の・讎(あた)を報(はう)ずる、其(そ)れ(四七)以甚(はなは)だしき乎(かな)。吾(われ)之(これ)を聞(き)く、「人(ひと)衆(おほ)き者(もの)は天(てん)に勝(か)ち、天(てん)定(さだま)つて亦(また)能(よ)く人(ひと)を破(やぶ)る」と。今(いま)、子(し)は故平王(もとへいわう)の臣(しん)にして、親(した)しく北面(ほくめん)して之(これ)に事(つか)へたり。今(いま)、死人(しにん)を(四八)《りく》するに至(いた)る。此(こ)れ豈(あ)に其(そ)れ(四九)天道(てんだう)の極(きよく)なからんや』と。伍子胥(ごししよ)曰(いは)く、『我(わ)が爲(た)めに申包胥(しんはうしよ)に(五〇)謝(しや)して曰(い)へ、「吾(われ)、(五一)日(ひ)暮(く)れて塗(みち)遠(とほ)し、吾(われ)故(ゆゑ)に(五二)倒行(たうかう)して之(これ)を逆施(ぎやくし)するのみ」と。是(ここ)に於(おい)て申包胥(しんはうしよ)、秦(しん)に走(はし)りて急(きふ)を告(つ)げ、救(すく)ひを秦(しん)に求(もと)む。秦(しん)、許(ゆる)さず。包胥(はうしよ)、秦(しん)の廷(てい)に立(た)つて晝夜(ちうや)哭(こく)し、七日(じつ)七夜(や)、其聲(そのこゑ)を絶(た)たず。秦(しん)の哀公(あいこう)、之(これ)を憐(あはれ)んで曰(いは)く、『楚(そ)、無道(ぶだう)なりと雖(いへど)も、臣(しん)あること是(かく)の如(ごと)し。存(そん)する無(な)かる可(べ)けんや』と。乃(すなは)ち車(くるま)五百乘(じよう)を遣(や)り、楚(そ)を救(すく)うて呉(ご)を撃(う)つ。六月(ぐわつ)、呉(ご)の兵(へい)を稷(しよく)に敗(やぶ)る。

會(たまたま)呉王(ごわう)久(ひさ)しく楚(そ)に留(とど)まり昭王(せうわう)を求(もと)む、而(しかう)して闔廬(かふろ)の弟(おとうと)夫概(ふがい)、乃(すなは)ち亡(に)げ歸(かへ)り、自立(じりつ)して王(わう)と爲(な)る。闔廬(かふろ)、之(これ)を聞(き)き、乃(すなは)ち楚(そ)を釋(す)てて歸(かへ)り、其弟(そのおとうと)夫概(ふがい)を撃(う)つ。夫概(ふがい)敗走(はいそう)し、遂(つひ)に楚(そ)に奔(はし)れり。楚(そ)の昭王(せうわう)、呉(ご)に内亂(ないらん)あるを見(み)、乃(すなは)ち復(ま)た郢(えい)に入(い)り、夫概(ふがい)を堂谿(だうけい)に封(ほう)じて堂谿氏(だうけいし)と爲(な)す。楚(そ)、復(ま)た呉(ご)と戰(たたか)つて呉(ご)を敗(やぶ)る。呉王(ごわう)乃(すなは)ち歸(かへ)る。後(のち)二歳(さい)、闔廬(かふろ)、太子夫差(たいしふさ)をして兵(へい)を將(ひき)ゐて楚(そ)を伐(う)たしめ、番(は)を取(と)る。楚(そ)、呉(ご)の復(ま)た大(おほい)に來(きた)らんことを恐(おそ)れ、乃(すなは)ち郢(えい)を去(さ)つて《じやく》に徙(うつ)る。是時(このとき)に當(あた)り、呉(ご)は伍子胥(ごししよ)・孫武(そんぶ)の謀(はかりごと)を以(もつ)て、西(にし)は彊楚(きやうそ)を破(やぶ)り、北(きた)は齊晉(せいしん)を威(おど)し、南(みなみ)は越人(ゑつひと)を服(ふく)す。其後(そののち)四年(よねん)、孔子(こうし)、魯(ろ)に相(しやう)たり。後(のち)五年(ねん)、(呉王)越(ゑつ)を伐(う)つ。越王勾踐(ゑつわうこうせん)、迎(むか)へ撃(う)つて呉(ご)を姑蘇(こそ)に敗(やぶ)り、闔廬(かふろ)の指(ゆび)を傷(きずつ)く。(呉ノ)軍卻(ぐんしりぞ)く。闔廬(かふろ)、創(きず)を病(や)みて將(まさ)に死(し)せんとす。太子夫差(たいしふさ)に謂(い)つて曰(いは)く、『爾(なんぢ)、勾踐(こうせん)が爾(なんぢ)の父(ちち)を殺(ころ)ししを忘(わす)れんか』と。夫差(ふさ)對(こた)へて曰(いは)く、『敢(あへ)て忘(わす)れじ』と。是夕(このゆふべ)、闔廬(かふろ)・死(し)す。夫差(ふさ)既(すで)に立(た)つて王(わう)となる。伯(はくひ)を以(もつ)て太宰(たいさい)となし、(五三)戰射(せんしや)を習(なら)ふ。二年(ねん)の後(のち)、越(ゑつ)を伐(う)ち、越(ゑつ)を夫湫(ふせう)に敗(やぶ)る。越王勾踐(ゑつわうこうせん)、乃(すなは)ち餘兵(よへい)五千人(にん)を以(もつ)て、會稽(くわいけい)の上(うへ)に棲(す)み、(五四)大夫種(たいふしよう)をして幣(へい)を厚(あつ)くして呉(ご)の太宰(たいさいひ)に遺(おく)り・以(もつ)て和(わ)を請(こ)はしめ、(五五)國(くに)を委(ゐ)して(五六)臣妾(しんせふ)と爲(な)らんことを求(もと)む。呉王(ごわう)、將(まさ)に之(これ)を許(ゆる)さんとす。伍子胥(ごししよ)諫(いさ)めて曰(いは)く、『越王(ゑつわう)、人(ひと)と爲(な)り(五七)辛苦(しんく)に能(た)ふ。今(いま)、王(わう)滅(ほろ)ぼさずんば、後(のち)必(かなら)ず之(これ)を悔(く)いん』と。呉王(ごわう)聽(き)かず。太宰(たいさいひ)の計(はかりごと)を用(もち)ひて越(ゑつ)と(五八)平(たひら)ぐ。

其後(そののち)五年(ねん)にして呉王(ごわう)、齊(せい)の景公(けいこう)死(し)して大臣(だいじん)寵(ちよう)を爭(あらそ)ひ新君(しんくん)弱(わか)しと聞(き)き、乃(すなは)ち師(し)を興(おこ)して北(きた)のかた齊(せい)を伐(う)つ。伍子胥(ごししよ)諫(いさ)めて曰(いは)く、『勾踐(こうせん)、食(しよく)、(五九)味(あぢはひ)を重(かさ)ねず、(六〇)死(し)を弔(とむら)ひ病(やまひ)を問(と)ふ。且(まさ)に之(これ)を用(もち)ふる所(ところ)有(あ)らんと欲(ほつ)する也(なり)。此人(このひと)死(し)せずんば、必(かなら)ず呉(ご)の患(うれひ)を爲(な)さん。今(いま)、呉(ご)の・越(ゑつ)あるは、猶(な)ほ人(ひと)の・腹心(ふくしん)の疾(やまひ)有(あ)るがごとき也(なり)。而(しか)るに王(わう)、越(ゑつ)を先(さき)にせずして、乃(すなは)ち齊(せい)を務(つと)む。亦(また)謬(あやま)らずや』と。呉王(ごわう)聽(き)かず、齊(せい)を伐(う)ち、大(おほい)に齊(せい)の師(し)を艾陵(がいりよう)に敗(やぶ)り、遂(つひ)に(六一)鄒(すう)・魯(ろ)の君(きみ)を滅(ほろ)ぼして以(もつ)て歸(かへ)る。益(ますます)子胥(ししよ)の謀(はかりごと)を疏(うと)んず。

其後(そののち)四年(よねん)、呉王(ごわう)將(まさ)に北(きた)のかた齊(せい)を伐(う)たんとす。越王勾踐(ゑつわうこうせん)、子貢(しこう)の謀(はかりごと)を用(もち)ひ、乃(すなは)ち其衆(そのしう)を率(ひき)ゐて以(もつ)て呉(ご)を助(たす)け、而(しかう)して重寶(ちようはう)以(もつ)て太宰(たいさいひ)に獻遺(けんゐ)す。太宰(たいさいひ)既(すで)に數(しばしば)越(ゑつ)の(六二)賂(ろ)を受(う)け、其(そ)の越(ゑつ)を愛信(あいしん)すること殊(こと)に甚(はなはだ)しく、日夜(にちや)爲(た)めに呉王(ごわう)に言(い)ふ。呉王(ごわう)信(しん)じて《ひ》の計(はかりごと)を用(もち)ふ。伍子胥(ごししよ)諫(いさ)めて曰(いは)く、『夫(そ)れ越(ゑつ)は(六三)腹心(ふくしん)の病(やまひ)なり。今(いま)、其浮辭詐僞(そのふじさぎ)を信(しん)じて齊(せい)を貪(むさぼ)る。齊(せい)を破(やぶ)るは、譬(たと)へば猶(な)ほ石田(せきでん)のごとく、之(これ)を用(もち)ふる所(ところ)無(な)し。且(か)つ(六四)盤庚(はんかう)の誥(かう)に曰(いは)く、(六五)「顛越(てんゑつ)不恭(ふきよう)あらば、之(これ)を(六六)殄(ぎてん)滅(めつ)し、遺育(ゐいく)する無(な)からしめよ。種(しゆ)を茲(こ)の邑(いふ)に易(か)へしむる無(な)かれ」と。此(こ)れ(六七)商(しやう)の興(おこ)る所以(ゆゑん)なり。願(ねが)はくは王(わう)、齊(せい)を釋(す)てて越(ゑつ)を先(さき)にせよ。若(も)し然(しか)らずんば、後(のち)、將(まさ)に之(これ)を悔(く)ゆとも及(およ)ぶ無(な)からんとす』と。而(しか)るに呉王(ごわう)聽(き)かず、子胥(ししよ)を齊(せい)に使(つか)はす。子胥(ししよ)、行(ゆ)くに臨(のぞ)み、其子(そのこ)に謂(い)つて曰(いは)く、『吾(われ)數(しばしば)王(わう)を諫(いさ)む。王(わう)、用(もち)ひず。吾(われ)、今(いま)、呉(ご)の亡(ほろ)ぶるを見(み)ん。汝(なんぢ)、呉(ご)と倶(とも)に亡(ほろ)ぶるは、益(えき)無(な)き也(なり)』と。乃(すなは)ち其子(そのこ)を齊(せい)の(六八)鮑牧(はうぼく)に屬(しよく)して、還(かへ)つて呉(ご)に(六九)報(はう)ず。呉(ご)の太宰(たいさいひ)、既(すで)に子胥(ししよ)と隙(ひま)有(あ)り。因(よ)つて讒(ざん)して曰(いは)く、『子胥(ししよ)、人(ひと)と爲(な)り、剛暴(がうばう)にして恩(おん)少(すくな)く、(七〇)猜賊(さいぞく)なり。其怨望(そのゑんばう)、恐(おそ)らくは深禍(しんくわ)を爲(な)さん。前日(ぜんじつ)、王(わう)、齊(せい)を伐(う)たんと欲(ほつ)す。子胥(ししよ)、以(もつ)て不可(ふか)と爲(な)す。王(わう)卒(つひ)に之(これ)を伐(う)つて大功(たいこう)ありき。子胥(ししよ)、其計謀(そのけいぼう)の用(もち)ひられざりしを恥(は)ぢ、乃(すなは)ち反(かへ)つて怨望(ゑんばう)す。而(しかう)して今(いま)、王(わう)、又復(またま)た齊(せい)を伐(う)つ。子胥(ししよ)專(もつぱ)ら愎(もと)り彊(し)ひて諫(いさ)め(七一)事(こと)を用(もち)ふるを沮毀(しよき)す。徒(いたづら)に呉(ご)の敗(やぶ)れて以(もつ)て自(みづか)ら其計謀(そのけいぼう)に勝(か)たんことを(七二)幸(ねが)ふのみ。今(いま)、王(わう)自(みづか)ら行(ゆ)き、國中(こくちう)の武力(ぶりよく)を悉(つく)して以(もつ)て齊(せい)を伐(う)つ。而(しかう)して子胥(ししよ)諫(いさ)め用(もち)ひられず、因(よ)つて輟(や)め謝(しや)し(七三)佯病(やうびやう)して行(ゆ)かず。王(わう)、備(そな)へざる可(べ)からず。此(こ)れ禍(わざはひ)を起(おこ)すこと難(かた)からじ。且(か)つ《ひ》、人(ひと)をして微(ひそか)に之(これ)を伺(うかが)はしむるに、其(そ)の齊(せい)に使(つかひ)するや、乃(すなは)ち其子(そのこ)を齊(せい)の鮑氏(はうし)に屬(しよく)せり。夫(そ)れ人臣(じんしん)と爲(な)つて、内(うち)、意(い)を得(え)ず、外(そと)、諸(しよこう)に倚(よ)り、自(みづか)ら以(もつ)て先王(せんわう)の謀臣(ぼうしん)と爲(な)すに、今(いま)用(もち)ひられず、常(つね)に(七四)鞅鞅(あうあう)として怨望(ゑんばう)す。願(ねが)はくは王(わう)、早(はや)く(七五)之(これ)を圖(はか)れ』と、呉王(ごわう)曰(いは)く、『子(し)の言(げん)微(な)きも、吾(われ)も亦(また)之(これ)を疑(うたが)へり』と。乃(すなは)ち使(つかひ)をして伍子胥(ごししよ)に(七六)屬鏤(しよくる)の劍(けん)を賜(たま)はしめて曰(いは)く、『子(し)、此(これ)を以(もつ)て死(し)せよ』と。伍子胥(ごししよ)、天(てん)を仰(あふ)いで歎(たん)じて曰(いは)く、『嗟乎(ああ)、讒臣(ざんしんひ)、亂(らん)を爲(な)す。王(わう)、乃(すなは)ち反(かへ)つて我(われ)を誅(ちう)す。我(われ)、若(なんぢ)の父(ちち)をして霸(は)たらしむ。若(なんぢ)が未(いま)だ立(た)たざる時(とき)より、諸公子(しよこうし)立(た)つを爭(あらそ)ふ。我(われ)、死(し)を以(もつ)て之(これ)を先王(せんわう)に爭(あらそ)ふ。幾(ほと)んと立(た)つを得(え)ざらんとせり。若(なんぢ)、既(すで)に立(た)つを得(う)るや、呉國(ごこく)を分(わか)つて我(われ)に與(あた)へんと欲(ほつ)せり。我(われ)、顧(かへ)つて敢(あへ)て望(のぞ)まざりき。然(しか)るに今(いま)、若(なんぢ)、諛臣(ゆしん)の言(げん)を聽(き)き、以(もつ)て長者(ちやうしや)を殺(ころ)す』と。乃(すなは)ち其(その)(七七)舍人(しやじん)に告(つ)げて曰(いは)く、『必(かなら)ず我(わ)が墓上(ぼじやう)に樹(う)うるに(七八)梓(し)を以(もつ)てせよ、以(もつ)て(七九)器(き)を爲(つく)る可(べ)からしめん。而(しかう)して吾(わ)が眼(まなこ)を抉(ゑぐ)り、呉(ご)の東門(とうもん)の上(うへ)に懸(か)けよ。以(もつ)て越(ゑつ)の寇(こう)の入(い)つて呉(ご)を滅(ほろ)ぼすを觀(み)ん』と。乃(すなは)ち自剄(じけい)して死(し)す。呉王(ごわう)之(これ)を聞(き)いて大(おほい)に怒(いか)り、乃(すなは)ち子胥(ししよ)の尸(しかばね)を取(と)り、盛(も)るに(八〇)鴟夷(しい)の革(かは)を以(もつ)てし、之(これ)を江中(かうちう)に(八一)浮(うか)ぶ。呉人(ごひと)、之(これ)を憐(あはれ)み、爲(た)めに祠(し)を江上(かうじやう)(ノ山)に立(た)つ、因(よ)つて(其山ヲ)命(なづ)けて胥山(しよざん)と曰(い)ふ。

呉王(ごわう)、既(すで)に伍子胥(ごししよ)を誅(ちう)し、遂(つひ)に齊(せい)を伐(う)つ。齊(せい)の鮑氏(はうし)、其君悼公(そのきみたうこう)を殺(し)して陽生(やうせい)を立(た)つ。呉王(ごわう)、其賊(そのぞく)を討(う)たんと欲(ほつ)す、勝(か)たずして去(さ)る。其後(そののち)二年(ねん)、呉王(ごわう)、魯(ろ)・衞(ゑい)の君(きみ)を召(め)し、之(これ)を《たくかう》に會(くわい)す。其明年(そのみやうねん)、因(よ)つて北(きた)、大(おほい)に諸(しよこう)を黄池(くわうち)に會(くわい)し、(八二)以(もつ)て周室(しうしつ)に令(れい)す。越王勾踐(ゑつわうこうせん)、襲(おそ)うて(八三)呉(ご)の太子(たいし)を殺(ころ)し、呉(ご)の兵(へい)を破(やぶ)る。呉王(ごわう)之(これ)を聞(き)き、乃(すなは)ち歸(かへ)り、使(つかひ)を使(つか)はし幣(へい)を厚(あつ)うして越(ゑつ)と平(たひら)ぐ。後(のち)九年(ねん)、越王勾踐(ゑつわうこうせん)、遂(つひ)に呉(ご)を滅(ほろ)ぼして王夫差(わうふさ)を殺(ころ)し、而(しかう)して太宰(たいさいひ)を誅(ちう)す。其君(そのきみ)に不忠(ふちう)にして、外(そと)、(八四)重賂(ぢうろ)を受(う)け、(八五)己(おのれ)と比周(ひしう)せるを以(もつ)て也(なり)。

伍子胥(ごししよ)の初(はじ)め與(とも)に倶(とも)に亡(に)ぐる所(ところ)の故(もと)の楚(そ)の太子建(たいしけん)の子(こ)勝(しよう)といふ者(もの)、呉(ご)に在(あ)り。呉王夫差(ごわうふさ)の時(とき)、楚(そ)の惠王(けいわう)、勝(しよう)を召(め)して楚(そ)に歸(かへ)さんと欲(ほつ)す。葉公(せふこう)諫(いさ)めて曰(いは)く『勝(しよう)は勇(ゆう)を好(この)んで陰(ひそか)に死士(しし)を求(もと)む。殆(ほとん)ど(八六)私(わたくし)有(あ)らんか』と。惠王(けいわう)聽(き)かず。遂(つひ)に勝(しよう)を召(め)して楚(そ)の邊邑(へんいふえん)に居(を)らしめ、號(がう)して白公(はくこう)と爲(な)す。白公(はくこう)、楚(そ)に歸(かへ)つて三年(ねん)にして、呉(ご)、子胥(ししよ)を誅(ちう)す。白公勝(はくこうしよう)、既(すで)に楚(そ)に歸(かへ)り、鄭(てい)の其父(そのちち)を殺(ころ)ししを怨(うら)み、乃(すなは)ち陰(ひそか)に死士(しし)を養(やしな)ひ、鄭(てい)に報(むく)ゆるを求(もと)む。楚(そ)に歸(かへ)つて五年(ねん)、鄭(てい)を伐(う)たんと請(こ)ふ。楚(そ)の(八七)令尹子西(れいゐんしせい)、之(これ)を許(ゆる)す。兵(へい)未(いま)だ發(はつ)せざるに、晉(しん)、鄭(てい)を伐(う)つ。鄭(てい)、救(すく)ひを楚(そ)に請(こ)ふ。楚(そ)、子西(しせい)をして往(ゆ)いて救(すく)はしむ。(子西、鄭ト)與(とも)に盟(ちか)つて還(かへ)る。白公勝(はくこうしよう)怒(いか)つて曰(いは)く、(八八)『鄭(てい)は之(こ)れ仇(あた)に非(あら)ず、乃(すなは)ち子西(しせい)なり』と。勝(しよう)自(みづか)ら劍(けん)を礪(と)ぐ。人(ひと)問(と)うて曰(いは)く、『何(なに)をか以(もつ)て爲(な)す』と。勝(しよう)曰(いは)く、『以(もつ)て子西(しせい)を殺(ころ)さんと欲(ほつ)す』と。子西(しせい)、之(これ)を聞(き)き、笑(わら)つて曰(いは)く(八九)『勝(しよう)は卵(たまご)の如(ごと)き耳(のみ)、何(なに)をか能(よ)く爲(な)さんや』と。其後(そののち)四歳(さい)、白公勝(はくこうしよう)、石乞(せききつ)と與(とも)に襲(おそ)うて楚(そ)の令尹子西(れいゐんしせい)・司馬子(しばしき)を朝(てう)に殺(ころ)す。石乞(せききつ)曰(いは)く、『王(わう)を殺(ころ)さずんば不可(ふか)なり』と。乃(すなは)ち之(これ)を劫(おびやか)す。王(わう)、(九〇)高府(かうふ)に如(ゆ)く。(九一)石乞(せききつ)の從者(じうしや)屈固(くつこ)、楚(そ)の惠王(けいわう)を負(お)ひ、亡(に)げて昭夫人(せうふじん)の宮(きう)に走(はし)る。葉公(せふこう)、白公(はくこう)の・亂(らん)を爲(な)すを聞(き)き、其國人(そのこくじん)を率(ひき)ゐて白公(はくこう)を攻(せ)む。白公(はくこう)の徒(と)敗(やぶ)れ、亡(に)げて山中(さんちう)に走(はし)り、自殺(じさつ)す。而(しかう)して石乞(せききつ)を虜(とりこ)にして、白公(はくこう)の(九二)尸處(ししよ)を問(と)ふ。言(い)はず。將(まさ)に烹(に)んとす。石乞(せききつ)曰(いは)く、『事成(ことな)らば卿(けい)と爲(な)らん。成(な)らずして烹(に)らるるは、固(もと)より(九三)其職也(そのしよくなり)』と。終(つひ)に肯(あへ)て其尸處(そのししよ)を告(つ)げず。遂(つひ)に石乞(せききつ)を烹(に)る。而(しかう)して惠王(けいわう)を求(もと)めて復(ま)た之(これ)を立(た)つ。

太史公(たいしこう)曰(いは)く、怨毒(ゑんどく)の・人(ひと)に於(お)ける、甚(はなはだ)しいかな、(九四)王者(わうしや)尚(な)ほ之(これ)を臣下(しんか)に行(おこな)ふ能(あた)はず、況(いはん)や同列(どうれつ)をや。向(さき)に伍子胥(ごししよ)をして奢(しや)に從(したが)ひ倶(とも)に死(し)せしめば、何(なん)ぞ(九五)螻蟻(ろうぎ)に異(こと)ならんや。(九六)小義(せうぎ)を棄(す)てて大恥(たいち)を雪(すす)ぎ、名(な)を後世(こうせい)に垂(た)る。(九七)悲(かな)しい夫(かな)。子胥(ししよ)が(九八)江上(かうじやう)に窘(くるし)められ・道(みち)に食(しよく)を乞(こ)ふに方(あた)り、志(こころざし)、豈(あ)に嘗(かつ)て須臾(しばらく)も郢(えい)を忘(わす)れんや。故(ゆゑ)に(九九)隱忍(いんにん)して功名(こうめい)を就(な)せり。(一〇〇)烈丈夫(れつぢやうふ)に非(あら)ずんば、孰(た)れか能(よ)く此(これ)を致(いた)さん。(一〇一)白公(はくこう)如(も)し自立(じりつ)して君(きみ)と爲(な)らざりせば、其功謀(そのこうぼう)亦(また)道(い)ふに勝(た)ふ可(べ)からざる者(もの)ありしならんかな。

2. 国訳史記列伝 06 伍子胥列伝第六(2)

箭内亙による註

【一】顯なる有り。世に名を著はせるをいふ。

【二】邊兵。國境の兵。

【三】短。缺點。

【四】怨望。うらむ。

【五】考問。拷問に同じ。

【六】讒賊の小臣。費無忌をさす。

【七】骨肉の親。太子を指す。

【八】禽。擒に同じ。

【九】城父。地名。

【一〇】司馬奮揚。司馬は官名、奮揚は名。

【一一】質。人質。

【一二】致す。呼び寄せる也。

【一三】剛戻。剛情にして人に戻るをいふ。

【一四】。恥辱。詬と同じ。

【一五】太子已に出亡せり、故に員、楚王が過を悔ゆる意無く必ず其父を殺さんことを知る也。

【一六】爲す無きなり。何の用もなき事也。

【一七】執。捕縛。

【一八】楚國の君臣は、ゆくゆく兵難に苦しむことと爲るべし。

【一九】華氏の亂。宋世家を參照せよ。

【二〇】善くす。好遇する也。

【二一】内應。内部より裏切りするをいふ。

【二二】未だ會せず。未だ機會を得ざる也。

【二三】其謀。内應の謀也。

【二四】昭關。關所の名、下の昭關は其關守。

【二五】父。漁父を指す。

【二六】此に至りて始めて漁父が伍胥を識るを見はす。

【二七】爵執珪。爵位の名。

【二八】按ずるに原文の「事」の字は衍文なるべく、當に「呉王僚、方に公子光を用ひて將と爲す」と讀むべからん。下文の「呉王」は即ち僚をさすなり。

【二九】蠶。養蠶。

【三〇】兩女子。兩邑の女子。

【三一】居巣。楚の邑の名。

【三二】内志。國内に事を擧げんとする志也。

【三三】專諸。勇士の名。

【三四】内空し。國内に兵が居らぬ也。

【三五】行人。諸の國への使する官也。

【三六】郢。楚の都。

【三七】唐・蔡。楚に屬する二國の名。

【三八】其屬。夫概の私屬。

【三九】己卯。己卯の日。

【四〇】庚辰。庚辰の日、即ち己卯の翌日。

【四一】出亡。出奔也。雲夢。澤の名。

【四二】公。の令。

【四三】呉は姫姓にして、周と同姓なり、故に此を以て楚の罪を數(せ)むる也。

【四四】王子、楚王の身代りと爲りて殺されんを望めり。

【四五】謝。謝絶する也。

【四六】存。保存する也。

【四七】以甚。以は已と通ず、太だ也。

【四八】。辱むる也。

【四九】天道の循環の極即ち天定まり人を破る時無からんや。

【五〇】謝。答禮。

【五一】年老いて爲すべき事多きに喩ふ。

【五二】理に順うて行ふに遑あらざるを云ふ。

【五三】戰射を習ふ。兵士をして戰射を練習せしむ。

【五四】大夫種。大夫は位、種は名、其姓は文と曰ふ。幣を厚くす。鄭重なる贈物を贈る也。

【五五】國を委す。自國を差出すをいふ。

【五六】臣妾。越王は呉の臣となり、越王の夫人は呉の婢妾となるをいふ。

【五七】能は耐ふる也。辛苦艱難に耐へ忍ぶ也。

【五八】平。媾和する也。

【五九】一菜にて食するを云ふ。

【六〇】死を弔ひ病を問ふ。死者には祭祀料などを與へて之を弔慰し、病者には醫藥などを與へて之を見舞ふ。

【六一】此句甚だ疑ふべし、恐らくは誤あらん。

【六二】賂。賄賂。

【六三】腹心の病。深く臟腑を犯したる病也。

【六四】盤庚の誥。書經の盤庚の篇。

【六五】顛越。狂顛僭越。是非を顛倒し、法度を越ゆる也。

【六六】輕きは鼻を割く刑に處し重きは之を殺し盡して、生き殘らしむること無く、其不良の種を此土地に移して良民に傳染せしむること無かれ。

【六七】商。殷なり。

【六八】鮑牧。當に鮑氏に作るべし。鮑牧は此時已に死せり。

【六九】報。復命なり。

【七〇】猜賊。猜忌にして人を害ふ也。

【七一】事を用ふる者、即ち太宰の計を沮みそしる也。

【七二】幸。僥倖を希望する也。

【七三】佯病。僞つて病と稱する也。

【七四】鞅鞅。怏怏と同じ。楽まざる貌。

【七五】之を殺せの意。

【七六】屬鏤。劍の名。

【七七】舍人。家臣を云ふ。

【七八】梓。あづさ。棺材なり、國亡び王死せば、必ず用ふる所あり。

【七九】器。棺をいふ。

【八〇】鴟夷の革。馬革の嚢。

【八一】浮。投げ込みしをいふ。

【八二】以て周室に令す。原文「以令周室」は「令以周室」の倒置にして、「令するに周室を以てす」と讀むべきならん。呉、中國に霸たらんと欲し、周の天子の命令を以て諸に告ぐる也。

【八三】呉の太子。名は友。

【八四】重賂。重き賄賂。

【八五】己と比周。越の賂を受けて越王と徒黨を組むを云ふ。

【八六】私。陰謀也。

【八七】令尹。楚の官名、宰相也。

【八八】鄭は云云。今我が讎は鄭に非ず、乃ち子西なりとの意。左傳に云はく、鄭人、此に在り、讎遠からずと。其意略ぼ同じ。

【八九】勝は云云。勝は卵の如きものに過ぎず。何事をか仕出かすことを得んやとの意。此言、左傳に記する所と異なり。左傳には、「子西曰く、勝は卵の如し、翼けて之を長ぜり」とあり、是れ蓋し其の勝に恩あるを恃む也。

【九〇】高府。地名。

【九一】石乞の從者。徐廣曰く、一に「惠王の從者」に作ると。從ふべし。屈固。固の誤、即ち箴尹固なり。左傳哀公十八年に見ゆ。

【九二】尸處。死骸の在所。

【九三】其職なり。其本分なり。當然の事なりとの意。

【九四】王たる者が其臣下に對してすら怨心毒心を起させてはならぬ。

【九五】螻蟻。けら、あり、などの小蟲。言ふに足らざるをいふ。

【九六】小義を棄つ。父を質として召したれども行かざりしをいふ。大恥を雪ぐ。遂に父の讎を報いしをいふ。

【九七】伍胥の志の悲むべきをいふ。

【九八】江上に窘めらる。伍胥が歩走して江に至り、幾ど追ふ者に獲られんとせしをいふ。

【九九】堪へ難き艱苦を押し忍びて、遂に功名を成就せり。

【一〇〇】烈丈夫。義烈の男子。

【一〇一】白公も亦父の仇の報ぜられざるに因りて、怒りて子西を殺せり。壯烈の志氣無きにあらず。若し王を劫して自立せざりしならば、其功業謀略亦甚だ盛んなるもの有りしならん。白公が自立して君と爲りしを深く惜む也。

原文

伍子胥者。楚人也。名員。員父曰伍奢。員兄曰伍尚。其先曰伍擧。以直諫事楚莊王。有顯。故其後世有名於楚。楚平王有太子名曰建。使伍奢爲太傅。費無忌爲少傅。無忌不忠於太子建。平王使無忌爲太子取婦於秦。秦女好。無忌馳歸報平王曰。秦女絶美。王可自取而更爲太子取婦。平王遂自取秦女。而絶愛幸之。生子軫。更爲太子取婦。無忌既以秦女自媚於平王。因去太子而事平王。恐一旦平王卒。而太子立殺己。乃因讒太子建。建母蔡女也。無寵於平王。平王稍益疏建。使建守城父。備邊兵。頃之。無忌又日夜言太子短於王曰。太子以秦女之故。不能無怨望。願王少自備也。自太子居城父將兵。外交諸。且欲入爲亂矣。平王乃召其太傅伍奢考問之。伍奢知無忌讒太子於平王。因曰。王獨奈何以讒賊小臣。疏骨肉之親乎。無忌曰。王今不制。其事成矣。王且見禽。於是平王怒囚伍奢。而使城父司馬奮揚往殺太子。行未至。奮揚使人先告太子。太子急去。不然將誅。太子建亡奔宋。無忌言於平王曰。伍奢有二子皆賢。不誅。且爲楚憂。可以其父質而召之。不然。且爲楚患。王使使謂伍奢。曰。能致汝二子則生。不能則死。伍奢曰。尚爲人。仁。呼必來。員爲人。剛戻忍。能成大事。彼見來之并禽。其勢必不來。王不聽。使人召二子。曰。來吾生汝父。不來今殺奢也。伍尚欲往。員曰。楚之召我兄弟。非欲以生我父也。恐有脱者後生患。故以父爲質。詐召二子。二子到。則父子倶死。何益父之死。往而令讎不得報耳。不如奔他國。借力以雪父之恥。倶滅。無爲也。伍尚曰。我知往終不能全父命。然恨父召我以求生。而不往。後不能雪恥。終爲天下笑耳。謂員可去矣。汝能報殺父之讎。我將歸死。尚既就執。使者捕伍胥。伍胥貫弓執矢嚮使者。使者不敢進。伍胥遂亡。聞太子建之在宋。往從之。奢聞子胥之亡也。曰。楚國君臣且苦兵矣。伍尚至楚。楚并殺奢與尚也。伍胥既至宋。宋有華氏之亂。乃與太子建倶奔於鄭。鄭人甚善之。太子建又適晉。晉頃公曰。太子既善鄭。鄭信太子。太子能爲我内應。而我攻其外。滅鄭必矣。滅鄭而封太子。太子乃還鄭。事未會。會自私欲殺其從者。從者知其謀。乃告之於鄭。鄭定公與子産誅殺太子建。建有子名勝。伍胥懼。乃與勝倶奔呉。到昭關。昭關欲執之。伍胥遂與勝獨身歩走。幾不得脱。追者在後。至江。江上有一漁父乘船。知伍胥之急。乃渡伍胥。伍胥既渡。解其劒曰。此劒直百金。以與父。父曰。楚國之法。得伍胥者。賜粟五萬石爵執珪。豈徒百金劒邪。不受。伍胥未至呉而疾。止中道乞食。至於呉。呉王僚方用事公子光爲將。伍胥乃因公子光以求見呉王。久之。楚平王以其邊邑鍾離與呉邊邑卑梁氏倶蠶。兩女子爭桑相攻。乃大怒。至於兩國擧兵相伐。呉使公子光伐楚。拔其鍾離居巣而歸。伍子胥説呉王僚曰。楚可破也。願復遣公子光。公子光謂呉王曰。彼伍胥父兄爲戮於楚。而勸王伐楚者。欲以自報其讎耳。伐楚。未可破也。伍胥知公子光有内志。欲殺王而自立。未可説以外事。乃進專諸於公子光。退而與太子建之子勝耕於野。五年而楚平王卒。初平王所奪太子建秦女。生子軫。及平王卒。軫竟立爲後。是爲昭王。呉王僚因楚喪。使二公子將兵往襲楚。楚發兵絶呉兵之後。不得歸。呉國内空。而公子光乃令專諸襲刺呉王僚而自立。是爲呉王闔廬。闔廬既立得志。乃召伍員以爲行人。而與謀國事。楚誅其大臣郤宛。伯州犂。伯州犂之孫伯亡奔呉。呉亦以爲大夫。前王僚所遣二公子將兵伐楚者。道絶不得歸。後聞闔廬弑王僚自立。遂以其兵降楚。楚封之於舒。闔廬立三年。乃興師與伍胥伯伐楚拔舒。遂禽故呉反二將軍。因欲至郢。將軍孫武曰。民勞未可。且待之。乃歸。四年。呉伐楚取六與潛。五年。伐越敗之。六年。楚昭王使公子嚢瓦將兵伐呉。呉使伍員迎撃。大破楚軍於豫章。取楚之居巣。九年。呉王闔廬謂子胥孫武曰。始子言郢未可入。今果何如。二子對曰。楚將嚢瓦貪。而唐蔡皆怨之。王必欲大伐之。必先得唐蔡。乃可。闔廬聽之。悉興師與唐蔡伐楚。與楚夾漢水而陳。呉王之弟夫概將兵請從。王不聽。遂以其屬五千人撃楚將子常。子常敗走奔鄭。於是呉乘勝而前。五戰。遂至郢。己卯。楚昭王出奔。庚辰。呉王入郢。昭王出亡。入雲夢。盜撃王。王走。公弟懷曰。平王殺我父。我殺其子。不亦可乎。公恐其弟殺王。與王奔隨。呉兵圍隨。謂隨人曰。周之子孫在漢川者。楚盡滅之。隨人欲殺王。王子匿王。己自爲王以當之。隨人卜與王於呉。不吉。乃謝呉。不與王。始五員與申包胥爲交。員之亡也。謂包胥曰。我必覆楚。包胥曰。我必存之。及呉兵入郢。伍子胥求昭王。既不得。乃掘楚平王墓。出其尸。鞭之三百。然後已。申包胥亡於山中。使人謂子胥曰。子之報讎。其以甚乎。吾聞之。人衆者勝天。天定亦能破人。今子故平王之臣。親北面而事之。今至於死人。此豈其無天道之極乎。伍子胥曰。爲我謝申包胥曰。吾日暮塗遠。吾故倒行而逆施之。於是申包胥走秦告急。求救於秦。秦不許。包胥立於秦廷。晝夜哭。七日七夜。不絶其聲。秦哀公憐之曰。楚雖無道。有臣若是。可無存乎。乃遣車五百乘。救楚撃呉。六月。敗呉兵於稷。會呉王久留楚求昭王。而闔廬弟夫概乃亡歸。自立爲王。闔廬聞之。乃釋楚而歸。撃其弟夫概。夫概敗走。遂奔楚。楚昭王見呉有内亂。乃復入郢。封夫概於堂谿。爲堂谿氏。楚復與呉戰敗呉。呉王乃歸。後二歳。闔廬使太子夫差將兵伐楚取番。楚懼呉復大來。乃去郢徙於。當是時。呉以伍子胥孫武之謀。西破彊楚。北威齊晉。南服越人。其後四年。孔子相魯。後五年。伐越。越王勾踐迎撃。敗呉於姑蘇。傷闔廬指。呉軍卻。闔廬病創將死。謂太子夫差曰。爾忘勾踐殺爾父乎。夫差對曰。不敢忘。是夕闔廬死。夫差既立爲王。以伯爲太宰。習戰射。二年後伐越。敗越於夫湫。越王勾踐乃以餘兵五千人。棲於會稽之上。使大夫種厚幣遺呉太宰。以請和。求委國爲臣妾。呉王將許之。伍子胥諫曰。越王爲人。能辛苦。今王不滅。後必悔之。呉王不聽。用太宰計。與越平。其後五年。而呉王聞齊景公死。而大臣爭寵。新君弱。乃興師北伐齊。伍子胥諫曰。勾踐食不重味。弔死問疾。且欲有所用之也。此人不死。必爲呉患。今呉之有越。猶人之有腹心疾也。而王不先越而乃務齊。不亦謬乎。呉王不聽。伐齊大敗齊師於艾陵。遂滅鄒魯之君以歸。益疏子胥之謀。其後四年。呉王將北伐齊。越王勾踐用子貢之謀。乃率其衆以助呉。而重寶以獻遺太宰。太宰既數受越賂。其愛信越殊甚。日夜爲言於呉王。呉王信用之計。伍子胥諫曰。夫越腹心之病。今信其浮辭詐僞而貪齊。破齊譬猶石田。無所用之。且盤庚之誥曰。有顛越不恭。殄滅之。俾無遺育。無使易種于茲邑。此商之所以興。願王釋齊而先越。若不然。後將悔之無及。而呉王不聽。使子胥於齊。子胥臨行。謂其子曰。吾數諫王。王不用。吾今見呉之亡矣。汝與呉倶亡。無益也。乃屬其子於齊鮑牧。而還報呉。呉太宰既與子胥有隙。因讒曰。子胥爲人。剛暴少恩猜賊。其怨望。恐爲深禍也。前日王欲伐齊。子胥以爲不可。王卒伐之而有大功。子胥恥其計謀不用。乃反怨望。而今王又復伐齊。子胥專愎彊諫。沮毀用事。徒幸呉之敗。以自勝其計謀耳。今王自行。悉國中武力以伐齊。而子胥諫不用。因輟謝佯病不行。王不可不備。此起禍不難。且使人微伺之。其使於齊也。乃屬其子於齊之鮑氏。夫爲人臣。内不得意。外倚諸。自以爲先王之謀臣。今不見用。常鞅鞅怨望。願王早圖之。呉王曰。微子之言。吾亦疑之。乃使使賜伍子胥屬鏤之劍曰。子以此死。伍子胥仰天歎曰。嗟乎。讒臣爲亂矣。王乃反誅我。我令若父霸。自若未立時。諸公子爭立。我以死爭之於先王。幾不得立。若既得立。欲分呉國與我。我顧不敢望也。然今若聽諛臣言以殺長者。乃告其舍人曰。必樹吾墓上以梓。令可以爲器。而抉吾眼。縣呉東門之上。以觀越寇之入滅呉也。乃自剄死。呉王聞之。大怒。乃取子胥尸。盛以鴟夷革。浮之江中。呉人憐之。爲立祠於江上。因命曰胥山。呉王既誅伍子胥。遂伐齊。齊鮑氏殺其君悼公而立陽生。呉王欲討其賊。不勝而去。其後二年。呉王召魯衞之君。會之。其明年。因北大會諸於黄池。以令周室。越王勾踐襲殺呉太子。破呉兵。呉王聞之。乃歸。使使厚幣與越平。後九年。越王勾踐遂滅呉。殺王夫差。而誅太宰。以不忠於其君。而外受重賂。與己比周也。伍子胥初所與倶亡故楚太子建之子勝者。在於呉。呉王夫差之時。楚惠王欲召勝歸楚。葉公諫曰。勝好勇而陰求死士。殆有私乎。惠王不聽。遂召勝。使居楚之邊邑。號爲白公。白公歸楚三年。而呉誅子胥。白公勝既歸楚。怨鄭之殺其父。乃陰養死士求報鄭。歸楚五年。請伐鄭。楚令尹子西許之。兵未發。而晉伐鄭。鄭請救於楚。楚使子西往救。與盟而還。白公勝怒曰。非鄭之仇。乃子西也。勝自礪劍。人問曰。何以爲。勝曰。欲以殺子西。子西聞之。笑曰。勝如卵耳。何能爲也。其後四歳。白公勝與石乞襲殺楚令尹子西。司馬子於朝。石乞曰。不殺王。不可。乃劫之。王如高府。石乞從者屈固。負楚惠王。亡走昭夫人之宮。葉公聞白公爲亂。率其國人攻白公。白公之徒敗。亡走山中自殺。而虜石乞。而問白公尸處。不言將烹。石乞曰。事成爲卿。不成而烹。固其職也。終不肯告其尸處。遂烹石乞。而求惠王復立之。

太史公曰。怨毒之於人。甚矣哉。王者尚不能行之於臣下。況同列乎。向令伍子胥從奢倶死。何異螻蟻。棄小義雪大恥。名垂於後世。悲夫。方子胥窘於江上。道乞食。志豈甞須臾忘郢邪。故隱忍就功名。非烈丈夫孰能致此哉。白公如不自立爲君者。其功謀亦不可勝道者哉。

国訳史記列伝 06 伍子胥列伝第六 — 司馬 遷 — https://noveliz.cc/n/kagyb8ywv5

ノベリズ

作品の一覧 新しい話 よく読まれている 5分で読める 教科書で読んだ作品 タグから探す 書き手の一覧 青空文庫を読む 更新のフィード 書く人へ このサイトについて 決まりごと 扱うものについて 運営への連絡

書いて、読む。読みやすさを最優先に作っています。