国訳史記列伝 06 伍子胥列伝第六
1. 国訳史記列伝 06 伍子胥列伝第六(1)
箭内亙による譯
伍子胥は楚の人也。名は員。員の父を伍奢と曰ひ、員の兄を伍尚と曰ふ。其先を伍擧と曰ふ。(伍擧)直諫を以て楚の莊王に事へて、(一)顯なる有り、故に其後世、楚に名あり。楚の平王、太子有り、名を建と曰ふ。伍奢をして太傅たらしめ、費無忌をして少傅たらしむ。無忌、太子建に忠ならず。平王、無忌をして太子の爲めに婦を秦に取らしむ。秦の女、好し。無忌馳せ歸りて平王に報じて曰く、『秦の女絶だ美なり。王、自ら取りて更に太子の爲めに婦を取る可し』と。平王遂に自ら秦の女を取りて、絶だ之を愛幸し、子軫を生む。更に太子の爲めに婦を取る。無忌既に秦の女を以て自ら平王に媚び、因つて太子を去りて平王に事ふ。一旦平王卒して太子立たば己を殺さんことを恐れ、乃ち因つて太子建を讒す。建の母は蔡の女也。平王に寵なし。平王稍益建を疏んじ、建をして城父(ノ地)を守り(二)邊兵に備へしむ。之を頃くして、無忌、又、日夜、太子の(三)短を王に言つて曰く、『太子、秦の女の故を以て、(四)怨望無き能はず。願はくは王少しく自ら備へよ。太子、城父に居りて兵に將たりしより、外、諸に交はり、且に入りて亂を爲さんと欲す』と。平王、乃ち其太傅伍奢を召して、之を(五)考問す。伍奢、無忌が太子を平王に讒するを知る。因つて曰く、『王、獨り奈何ぞ(六)讒賊の小臣を以て(七)骨肉の親を疏んずる』と。無忌曰く、『王、今(太子ヲ)制せずんば、其事成り、王且に(八)禽にせられんとす』と。是に於て平王、怒つて伍奢を囚へて、(九)城父の(一〇)司馬奮揚をして往いて太子を殺さしむ。行きて未だ至らず、奮揚、人をして先づ太子に告げしむらく、『太子、急に去れ、然らずんば將に誅せられんとす』と。太子建、亡げて宋に奔る。無忌、平王に言つて曰く、『伍奢、二子あり、皆賢なり。誅せずんば且に楚の憂を爲さんとす。其父を以て(一一)質として之を召す可し、然らずんば且に楚の患を爲さんとす』と。王、使をして伍奢に謂はしめて曰く、『能く汝の二子を(一二)致さば則ち生きん。能はずんば則ち死せん』と。伍奢曰く、『尚の人と爲りや仁、呼ばば必ず來らん。員の人と爲りや(一三)剛戻にして(一四)《はぢ》を忍び、能く大事を爲す。彼、來らば并せ禽にせらるるを見て、其勢必ず來らざらん』と。王聽かず。人をして二子を召さしめて曰く、『來らば吾、汝の父を生かさん。來らずんば今、奢を殺さん』と。伍尚、往かんと欲す。員曰く、『楚の・我が兄弟を召すは、以て我が父を生かさんと欲するに非ず。脱るる者有らば後患を生ぜんことを恐るるなり。故に父を以て質と爲し、詐つて二子を召すなり。二子到らば則ち父子倶に死せん。何ぞ父の死に益せん。(一五)往かば讎に報ずるを得ざらしめん耳。他國に奔り力を借り以て父の恥を雪ぐに如かず。倶に滅ぶるは(一六)爲す無き也』と。伍尚曰く、『我、往くとも終に父の命を全うする能はざるを知る。然れども父、我を召し以て生を求むるに、而も往かず、後、恥を雪ぐ能はずんば終に・天下の笑と爲らんを恨む耳』と。員に謂ふ、『去る可し。汝は能く父を殺すの讎に報いよ。我は將に死に歸せんとす』と。尚、既に(一七)執はれに就く。使者、伍胥を捕へんとす。伍胥、弓を貫り矢を執りて使者に嚮ふ。使者、敢て進まず。伍胥、遂に亡げ、太子建の・宋に在るを聞き、往いて之に從ふ。奢、子胥の亡ぐるを聞くや、曰く、(一八)『楚國の君臣、且に兵に苦しまんとす』と。伍尚、楚に至る。楚、奢と尚とを并せ殺せり。
伍胥既に宋に至る。宋に(一九)華氏の亂有り。乃ち太子建と倶に鄭に奔る。鄭人甚だ之を(二〇)善くす。太子建又晉に適く。晉の頃公曰く、『太子既に鄭に善し。鄭、太子を信ず。太子、能く我が爲めに(二一)内應せよ。而して我其外を攻めば、鄭を滅ぼすや必せり。鄭を滅ぼさば太子を封ぜん』と。太子乃ち鄭に還る。事(二二)未だ會せず。(太子建)會自ら私に其從者を殺さんと欲す。從者、(二三)其謀を知り、乃ち之を鄭に告ぐ。鄭の定公、子産と、太子建を誅殺す。建、子有り、勝と名く。伍胥懼れ、乃ち勝と倶に呉に奔る。(二四)昭關に到る。昭關之を執へんと欲す。伍胥、遂に勝と獨身歩走し、幾んど脱するを得ざらんとす。追ふ者、後に在り。江に至る。江上、一漁父の・船に乘るあり、伍胥の急を知り、乃ち伍胥を渡す。伍胥、既に渡り、其劒を解いて曰く、『此劒は直百金。以て(二五)父に與ふ』と。父曰く、『楚國の法、(二六)伍胥を得る者は、粟五萬石・(二七)爵執珪を賜ふ。豈に徒に百金の劒のみならんや』と。受けず。伍胥未だ呉に至らずして疾み、中道に止り食を乞ふ。呉に至る。(二八)呉王僚、方に事を用ひ、公子光、將たり。伍胥乃ち公子光に因つて以て呉王に見ゆるを求む。之を久しうして楚の平王、其邊邑の鍾離、呉の邊邑の卑梁氏と倶に(二九)蠶し、(三〇)兩女子桑を爭うて相攻むるを以て、乃ち大に怒り、兩國・兵を擧げて相伐つに至る。呉、公子光をして楚を伐たしむ。其鍾離・(三一)居巣を拔いて歸る。伍子胥、呉王僚に説いて曰く、『楚は破る可き也。願はくは復た公子光を遣れ』と。公子光、呉王に謂つて曰く、『彼の伍胥の父兄、楚に戮せらる。而して王に楚を伐つを勸むるは、以て自ら其讎を報いんと欲する耳。楚を伐つとも未だ破る可からざらん』と。伍胥、公子光の・(三二)内志あり・王を殺して自立せんと欲し・未だ説くに外事を以てす可からざるを知り、乃ち(三三)專諸を公子光に進め、退いて太子建の子勝と與に野に耕す。
五年にして楚の平王・卒す。初め平王の・太子建より奪ふ所の秦の女、子軫を生む。平王・卒するに及んで、軫、竟に立つて後と爲れり。是れを昭王とす。呉王僚、楚の喪に因つて、二公子をして兵に將とし往いて楚を襲はしむ。楚、兵を發して呉の兵の後を絶つ。(呉ノ兵)歸るを得ず。呉國、(三四)内空し。而して公子光乃ち專諸をして呉王僚を襲ひ刺さしめて自立す。是れを呉王闔廬となす。闔廬既に立つて志を得、乃ち伍員を召して以て(三五)行人となし、而して與に國事を謀る。楚、其大臣・郤宛・伯州犂を誅す。伯州犂の孫伯、亡げて呉に奔る。呉、亦、《ひ》を以て大夫と爲す。前に王僚の遣る所の二公子の・兵に將として楚を伐ちし者、道絶えて、歸るを得ず。後、闔廬が王僚を弑して自立せりと聞き、遂に其兵を以て楚に降る。楚之を舒に封ず。闔廬立つて三年、乃ち師を興し、伍胥・伯と、楚を伐つて舒を拔き、遂に故の呉の反せる二將軍を禽にす。因つて(三六)郢に至らんと欲す。將軍孫武曰く、『民勞る、未だ可ならず。且く之を待て』と。乃ち歸る。四年、呉、楚を伐つて六と潛とを取る。五年、越を伐つて之を敗る。六年、楚の昭王、公子嚢瓦をして兵を將ゐて呉を伐たしむ。呉、伍員をして迎へ撃たしめ、大に楚の軍を豫章に破り、楚の居巣を取る。九年、呉王闔廬、子胥・孫武に謂つて曰く、『始め子、郢の未だ入る可からざるを言へり、今果して何如』と。二子對へて曰く、『楚の將嚢瓦貪りて、(三七)唐・蔡皆之を怨む。王必ず大に之を伐たんと欲せば、必ず先づ唐・蔡を得て乃ち可ならん』と。闔廬之を聽き、悉く師を興して唐・蔡と與に楚を伐つ。楚と漢水を夾んで陳す。呉王の弟夫概、兵に將たり、從はんと請ふ。王聽かず。遂に(三八)其屬五千人を以て、楚の將子常を撃つ。子常敗走して鄭に奔る。是に於て、呉、勝に乘じて前み、五たび戰つて遂に郢に至る。(三九)己卯、楚の昭王出奔し、(四〇)庚辰、呉王、郢に入る。昭王、(四一)出亡して雲夢に入る。盜、王を撃つ。王、《うん》に走る。(四二)公の弟懷曰く、『平王、我が父を殺せり。我、其子を殺すも、亦可ならずや』と。公、其弟の・王を殺さんことを恐れ、王と隨に奔る。呉の兵、隨を圍む。(呉 )隨人に謂つて曰く、(四三)『(往昔)周の子孫、漢川に在りし者は、楚、盡く之を滅ぼせり』と。隨人、王を殺さんと欲す。王の子《き》、王を匿し、(四四)己自ら王と爲り、以て之に當らんとす。隨人、王を呉に與へんことを卜す。不吉なり。乃ち呉に(四五)謝し、王を與へず。
始め伍員、申包胥と交を爲す。員の亡ぐるや、包胥に謂つて曰く、『我必ず楚を覆さん』と。包胥曰く、『我必ず之を(四六)存せん』と。呉の兵の・郢に入るに及び、伍子胥、昭王を求むれども、既に得ず。即ち楚の平王の墓を掘いて其尸を出し、之を鞭つこと三百、然る後已む。申包胥、山中に亡げ、人をして子胥に謂はしめて曰く、『子の・讎を報ずる、其れ(四七)以甚だしき乎。吾之を聞く、「人衆き者は天に勝ち、天定つて亦能く人を破る」と。今、子は故平王の臣にして、親しく北面して之に事へたり。今、死人を(四八)《りく》するに至る。此れ豈に其れ(四九)天道の極なからんや』と。伍子胥曰く、『我が爲めに申包胥に(五〇)謝して曰へ、「吾、(五一)日暮れて塗遠し、吾故に(五二)倒行して之を逆施するのみ」と。是に於て申包胥、秦に走りて急を告げ、救ひを秦に求む。秦、許さず。包胥、秦の廷に立つて晝夜哭し、七日七夜、其聲を絶たず。秦の哀公、之を憐んで曰く、『楚、無道なりと雖も、臣あること是の如し。存する無かる可けんや』と。乃ち車五百乘を遣り、楚を救うて呉を撃つ。六月、呉の兵を稷に敗る。
會呉王久しく楚に留まり昭王を求む、而して闔廬の弟夫概、乃ち亡げ歸り、自立して王と爲る。闔廬、之を聞き、乃ち楚を釋てて歸り、其弟夫概を撃つ。夫概敗走し、遂に楚に奔れり。楚の昭王、呉に内亂あるを見、乃ち復た郢に入り、夫概を堂谿に封じて堂谿氏と爲す。楚、復た呉と戰つて呉を敗る。呉王乃ち歸る。後二歳、闔廬、太子夫差をして兵を將ゐて楚を伐たしめ、番を取る。楚、呉の復た大に來らんことを恐れ、乃ち郢を去つて《じやく》に徙る。是時に當り、呉は伍子胥・孫武の謀を以て、西は彊楚を破り、北は齊晉を威し、南は越人を服す。其後四年、孔子、魯に相たり。後五年、(呉王)越を伐つ。越王勾踐、迎へ撃つて呉を姑蘇に敗り、闔廬の指を傷く。(呉ノ)軍卻く。闔廬、創を病みて將に死せんとす。太子夫差に謂つて曰く、『爾、勾踐が爾の父を殺ししを忘れんか』と。夫差對へて曰く、『敢て忘れじ』と。是夕、闔廬・死す。夫差既に立つて王となる。伯を以て太宰となし、(五三)戰射を習ふ。二年の後、越を伐ち、越を夫湫に敗る。越王勾踐、乃ち餘兵五千人を以て、會稽の上に棲み、(五四)大夫種をして幣を厚くして呉の太宰に遺り・以て和を請はしめ、(五五)國を委して(五六)臣妾と爲らんことを求む。呉王、將に之を許さんとす。伍子胥諫めて曰く、『越王、人と爲り(五七)辛苦に能ふ。今、王滅ぼさずんば、後必ず之を悔いん』と。呉王聽かず。太宰の計を用ひて越と(五八)平ぐ。
其後五年にして呉王、齊の景公死して大臣寵を爭ひ新君弱しと聞き、乃ち師を興して北のかた齊を伐つ。伍子胥諫めて曰く、『勾踐、食、(五九)味を重ねず、(六〇)死を弔ひ病を問ふ。且に之を用ふる所有らんと欲する也。此人死せずんば、必ず呉の患を爲さん。今、呉の・越あるは、猶ほ人の・腹心の疾有るがごとき也。而るに王、越を先にせずして、乃ち齊を務む。亦謬らずや』と。呉王聽かず、齊を伐ち、大に齊の師を艾陵に敗り、遂に(六一)鄒・魯の君を滅ぼして以て歸る。益子胥の謀を疏んず。
其後四年、呉王將に北のかた齊を伐たんとす。越王勾踐、子貢の謀を用ひ、乃ち其衆を率ゐて以て呉を助け、而して重寶以て太宰に獻遺す。太宰既に數越の(六二)賂を受け、其の越を愛信すること殊に甚しく、日夜爲めに呉王に言ふ。呉王信じて《ひ》の計を用ふ。伍子胥諫めて曰く、『夫れ越は(六三)腹心の病なり。今、其浮辭詐僞を信じて齊を貪る。齊を破るは、譬へば猶ほ石田のごとく、之を用ふる所無し。且つ(六四)盤庚の誥に曰く、(六五)「顛越不恭あらば、之を(六六)殄滅し、遺育する無からしめよ。種を茲の邑に易へしむる無かれ」と。此れ(六七)商の興る所以なり。願はくは王、齊を釋てて越を先にせよ。若し然らずんば、後、將に之を悔ゆとも及ぶ無からんとす』と。而るに呉王聽かず、子胥を齊に使はす。子胥、行くに臨み、其子に謂つて曰く、『吾數王を諫む。王、用ひず。吾、今、呉の亡ぶるを見ん。汝、呉と倶に亡ぶるは、益無き也』と。乃ち其子を齊の(六八)鮑牧に屬して、還つて呉に(六九)報ず。呉の太宰、既に子胥と隙有り。因つて讒して曰く、『子胥、人と爲り、剛暴にして恩少く、(七〇)猜賊なり。其怨望、恐らくは深禍を爲さん。前日、王、齊を伐たんと欲す。子胥、以て不可と爲す。王卒に之を伐つて大功ありき。子胥、其計謀の用ひられざりしを恥ぢ、乃ち反つて怨望す。而して今、王、又復た齊を伐つ。子胥專ら愎り彊ひて諫め(七一)事を用ふるを沮毀す。徒に呉の敗れて以て自ら其計謀に勝たんことを(七二)幸ふのみ。今、王自ら行き、國中の武力を悉して以て齊を伐つ。而して子胥諫め用ひられず、因つて輟め謝し(七三)佯病して行かず。王、備へざる可からず。此れ禍を起すこと難からじ。且つ《ひ》、人をして微に之を伺はしむるに、其の齊に使するや、乃ち其子を齊の鮑氏に屬せり。夫れ人臣と爲つて、内、意を得ず、外、諸に倚り、自ら以て先王の謀臣と爲すに、今用ひられず、常に(七四)鞅鞅として怨望す。願はくは王、早く(七五)之を圖れ』と、呉王曰く、『子の言微きも、吾も亦之を疑へり』と。乃ち使をして伍子胥に(七六)屬鏤の劍を賜はしめて曰く、『子、此を以て死せよ』と。伍子胥、天を仰いで歎じて曰く、『嗟乎、讒臣、亂を爲す。王、乃ち反つて我を誅す。我、若の父をして霸たらしむ。若が未だ立たざる時より、諸公子立つを爭ふ。我、死を以て之を先王に爭ふ。幾んと立つを得ざらんとせり。若、既に立つを得るや、呉國を分つて我に與へんと欲せり。我、顧つて敢て望まざりき。然るに今、若、諛臣の言を聽き、以て長者を殺す』と。乃ち其(七七)舍人に告げて曰く、『必ず我が墓上に樹うるに(七八)梓を以てせよ、以て(七九)器を爲る可からしめん。而して吾が眼を抉り、呉の東門の上に懸けよ。以て越の寇の入つて呉を滅ぼすを觀ん』と。乃ち自剄して死す。呉王之を聞いて大に怒り、乃ち子胥の尸を取り、盛るに(八〇)鴟夷の革を以てし、之を江中に(八一)浮ぶ。呉人、之を憐み、爲めに祠を江上(ノ山)に立つ、因つて(其山ヲ)命けて胥山と曰ふ。
呉王、既に伍子胥を誅し、遂に齊を伐つ。齊の鮑氏、其君悼公を殺して陽生を立つ。呉王、其賊を討たんと欲す、勝たずして去る。其後二年、呉王、魯・衞の君を召し、之を《たくかう》に會す。其明年、因つて北、大に諸を黄池に會し、(八二)以て周室に令す。越王勾踐、襲うて(八三)呉の太子を殺し、呉の兵を破る。呉王之を聞き、乃ち歸り、使を使はし幣を厚うして越と平ぐ。後九年、越王勾踐、遂に呉を滅ぼして王夫差を殺し、而して太宰を誅す。其君に不忠にして、外、(八四)重賂を受け、(八五)己と比周せるを以て也。
伍子胥の初め與に倶に亡ぐる所の故の楚の太子建の子勝といふ者、呉に在り。呉王夫差の時、楚の惠王、勝を召して楚に歸さんと欲す。葉公諫めて曰く『勝は勇を好んで陰に死士を求む。殆ど(八六)私有らんか』と。惠王聽かず。遂に勝を召して楚の邊邑に居らしめ、號して白公と爲す。白公、楚に歸つて三年にして、呉、子胥を誅す。白公勝、既に楚に歸り、鄭の其父を殺ししを怨み、乃ち陰に死士を養ひ、鄭に報ゆるを求む。楚に歸つて五年、鄭を伐たんと請ふ。楚の(八七)令尹子西、之を許す。兵未だ發せざるに、晉、鄭を伐つ。鄭、救ひを楚に請ふ。楚、子西をして往いて救はしむ。(子西、鄭ト)與に盟つて還る。白公勝怒つて曰く、(八八)『鄭は之れ仇に非ず、乃ち子西なり』と。勝自ら劍を礪ぐ。人問うて曰く、『何をか以て爲す』と。勝曰く、『以て子西を殺さんと欲す』と。子西、之を聞き、笑つて曰く(八九)『勝は卵の如き耳、何をか能く爲さんや』と。其後四歳、白公勝、石乞と與に襲うて楚の令尹子西・司馬子を朝に殺す。石乞曰く、『王を殺さずんば不可なり』と。乃ち之を劫す。王、(九〇)高府に如く。(九一)石乞の從者屈固、楚の惠王を負ひ、亡げて昭夫人の宮に走る。葉公、白公の・亂を爲すを聞き、其國人を率ゐて白公を攻む。白公の徒敗れ、亡げて山中に走り、自殺す。而して石乞を虜にして、白公の(九二)尸處を問ふ。言はず。將に烹んとす。石乞曰く、『事成らば卿と爲らん。成らずして烹らるるは、固より(九三)其職也』と。終に肯て其尸處を告げず。遂に石乞を烹る。而して惠王を求めて復た之を立つ。
太史公曰く、怨毒の・人に於ける、甚しいかな、(九四)王者尚ほ之を臣下に行ふ能はず、況や同列をや。向に伍子胥をして奢に從ひ倶に死せしめば、何ぞ(九五)螻蟻に異ならんや。(九六)小義を棄てて大恥を雪ぎ、名を後世に垂る。(九七)悲しい夫。子胥が(九八)江上に窘められ・道に食を乞ふに方り、志、豈に嘗て須臾も郢を忘れんや。故に(九九)隱忍して功名を就せり。(一〇〇)烈丈夫に非ずんば、孰れか能く此を致さん。(一〇一)白公如し自立して君と爲らざりせば、其功謀亦道ふに勝ふ可からざる者ありしならんかな。
2. 国訳史記列伝 06 伍子胥列伝第六(2)
箭内亙による註
【一】顯なる有り。世に名を著はせるをいふ。
【二】邊兵。國境の兵。
【三】短。缺點。
【四】怨望。うらむ。
【五】考問。拷問に同じ。
【六】讒賊の小臣。費無忌をさす。
【七】骨肉の親。太子を指す。
【八】禽。擒に同じ。
【九】城父。地名。
【一〇】司馬奮揚。司馬は官名、奮揚は名。
【一一】質。人質。
【一二】致す。呼び寄せる也。
【一三】剛戻。剛情にして人に戻るをいふ。
【一四】。恥辱。詬と同じ。
【一五】太子已に出亡せり、故に員、楚王が過を悔ゆる意無く必ず其父を殺さんことを知る也。
【一六】爲す無きなり。何の用もなき事也。
【一七】執。捕縛。
【一八】楚國の君臣は、ゆくゆく兵難に苦しむことと爲るべし。
【一九】華氏の亂。宋世家を參照せよ。
【二〇】善くす。好遇する也。
【二一】内應。内部より裏切りするをいふ。
【二二】未だ會せず。未だ機會を得ざる也。
【二三】其謀。内應の謀也。
【二四】昭關。關所の名、下の昭關は其關守。
【二五】父。漁父を指す。
【二六】此に至りて始めて漁父が伍胥を識るを見はす。
【二七】爵執珪。爵位の名。
【二八】按ずるに原文の「事」の字は衍文なるべく、當に「呉王僚、方に公子光を用ひて將と爲す」と讀むべからん。下文の「呉王」は即ち僚をさすなり。
【二九】蠶。養蠶。
【三〇】兩女子。兩邑の女子。
【三一】居巣。楚の邑の名。
【三二】内志。國内に事を擧げんとする志也。
【三三】專諸。勇士の名。
【三四】内空し。國内に兵が居らぬ也。
【三五】行人。諸の國への使する官也。
【三六】郢。楚の都。
【三七】唐・蔡。楚に屬する二國の名。
【三八】其屬。夫概の私屬。
【三九】己卯。己卯の日。
【四〇】庚辰。庚辰の日、即ち己卯の翌日。
【四一】出亡。出奔也。雲夢。澤の名。
【四二】公。の令。
【四三】呉は姫姓にして、周と同姓なり、故に此を以て楚の罪を數むる也。
【四四】王子、楚王の身代りと爲りて殺されんを望めり。
【四五】謝。謝絶する也。
【四六】存。保存する也。
【四七】以甚。以は已と通ず、太だ也。
【四八】。辱むる也。
【四九】天道の循環の極即ち天定まり人を破る時無からんや。
【五〇】謝。答禮。
【五一】年老いて爲すべき事多きに喩ふ。
【五二】理に順うて行ふに遑あらざるを云ふ。
【五三】戰射を習ふ。兵士をして戰射を練習せしむ。
【五四】大夫種。大夫は位、種は名、其姓は文と曰ふ。幣を厚くす。鄭重なる贈物を贈る也。
【五五】國を委す。自國を差出すをいふ。
【五六】臣妾。越王は呉の臣となり、越王の夫人は呉の婢妾となるをいふ。
【五七】能は耐ふる也。辛苦艱難に耐へ忍ぶ也。
【五八】平。媾和する也。
【五九】一菜にて食するを云ふ。
【六〇】死を弔ひ病を問ふ。死者には祭祀料などを與へて之を弔慰し、病者には醫藥などを與へて之を見舞ふ。
【六一】此句甚だ疑ふべし、恐らくは誤あらん。
【六二】賂。賄賂。
【六三】腹心の病。深く臟腑を犯したる病也。
【六四】盤庚の誥。書經の盤庚の篇。
【六五】顛越。狂顛僭越。是非を顛倒し、法度を越ゆる也。
【六六】輕きは鼻を割く刑に處し重きは之を殺し盡して、生き殘らしむること無く、其不良の種を此土地に移して良民に傳染せしむること無かれ。
【六七】商。殷なり。
【六八】鮑牧。當に鮑氏に作るべし。鮑牧は此時已に死せり。
【六九】報。復命なり。
【七〇】猜賊。猜忌にして人を害ふ也。
【七一】事を用ふる者、即ち太宰の計を沮みそしる也。
【七二】幸。僥倖を希望する也。
【七三】佯病。僞つて病と稱する也。
【七四】鞅鞅。怏怏と同じ。楽まざる貌。
【七五】之を殺せの意。
【七六】屬鏤。劍の名。
【七七】舍人。家臣を云ふ。
【七八】梓。あづさ。棺材なり、國亡び王死せば、必ず用ふる所あり。
【七九】器。棺をいふ。
【八〇】鴟夷の革。馬革の嚢。
【八一】浮。投げ込みしをいふ。
【八二】以て周室に令す。原文「以令周室」は「令以周室」の倒置にして、「令するに周室を以てす」と讀むべきならん。呉、中國に霸たらんと欲し、周の天子の命令を以て諸に告ぐる也。
【八三】呉の太子。名は友。
【八四】重賂。重き賄賂。
【八五】己と比周。越の賂を受けて越王と徒黨を組むを云ふ。
【八六】私。陰謀也。
【八七】令尹。楚の官名、宰相也。
【八八】鄭は云云。今我が讎は鄭に非ず、乃ち子西なりとの意。左傳に云はく、鄭人、此に在り、讎遠からずと。其意略ぼ同じ。
【八九】勝は云云。勝は卵の如きものに過ぎず。何事をか仕出かすことを得んやとの意。此言、左傳に記する所と異なり。左傳には、「子西曰く、勝は卵の如し、翼けて之を長ぜり」とあり、是れ蓋し其の勝に恩あるを恃む也。
【九〇】高府。地名。
【九一】石乞の從者。徐廣曰く、一に「惠王の從者」に作ると。從ふべし。屈固。固の誤、即ち箴尹固なり。左傳哀公十八年に見ゆ。
【九二】尸處。死骸の在所。
【九三】其職なり。其本分なり。當然の事なりとの意。
【九四】王たる者が其臣下に對してすら怨心毒心を起させてはならぬ。
【九五】螻蟻。けら、あり、などの小蟲。言ふに足らざるをいふ。
【九六】小義を棄つ。父を質として召したれども行かざりしをいふ。大恥を雪ぐ。遂に父の讎を報いしをいふ。
【九七】伍胥の志の悲むべきをいふ。
【九八】江上に窘めらる。伍胥が歩走して江に至り、幾ど追ふ者に獲られんとせしをいふ。
【九九】堪へ難き艱苦を押し忍びて、遂に功名を成就せり。
【一〇〇】烈丈夫。義烈の男子。
【一〇一】白公も亦父の仇の報ぜられざるに因りて、怒りて子西を殺せり。壯烈の志氣無きにあらず。若し王を劫して自立せざりしならば、其功業謀略亦甚だ盛んなるもの有りしならん。白公が自立して君と爲りしを深く惜む也。
原文
伍子胥者。楚人也。名員。員父曰伍奢。員兄曰伍尚。其先曰伍擧。以直諫事楚莊王。有顯。故其後世有名於楚。楚平王有太子名曰建。使伍奢爲太傅。費無忌爲少傅。無忌不忠於太子建。平王使無忌爲太子取婦於秦。秦女好。無忌馳歸報平王曰。秦女絶美。王可自取而更爲太子取婦。平王遂自取秦女。而絶愛幸之。生子軫。更爲太子取婦。無忌既以秦女自媚於平王。因去太子而事平王。恐一旦平王卒。而太子立殺己。乃因讒太子建。建母蔡女也。無寵於平王。平王稍益疏建。使建守城父。備邊兵。頃之。無忌又日夜言太子短於王曰。太子以秦女之故。不能無怨望。願王少自備也。自太子居城父將兵。外交諸。且欲入爲亂矣。平王乃召其太傅伍奢考問之。伍奢知無忌讒太子於平王。因曰。王獨奈何以讒賊小臣。疏骨肉之親乎。無忌曰。王今不制。其事成矣。王且見禽。於是平王怒囚伍奢。而使城父司馬奮揚往殺太子。行未至。奮揚使人先告太子。太子急去。不然將誅。太子建亡奔宋。無忌言於平王曰。伍奢有二子皆賢。不誅。且爲楚憂。可以其父質而召之。不然。且爲楚患。王使使謂伍奢。曰。能致汝二子則生。不能則死。伍奢曰。尚爲人。仁。呼必來。員爲人。剛戻忍。能成大事。彼見來之并禽。其勢必不來。王不聽。使人召二子。曰。來吾生汝父。不來今殺奢也。伍尚欲往。員曰。楚之召我兄弟。非欲以生我父也。恐有脱者後生患。故以父爲質。詐召二子。二子到。則父子倶死。何益父之死。往而令讎不得報耳。不如奔他國。借力以雪父之恥。倶滅。無爲也。伍尚曰。我知往終不能全父命。然恨父召我以求生。而不往。後不能雪恥。終爲天下笑耳。謂員可去矣。汝能報殺父之讎。我將歸死。尚既就執。使者捕伍胥。伍胥貫弓執矢嚮使者。使者不敢進。伍胥遂亡。聞太子建之在宋。往從之。奢聞子胥之亡也。曰。楚國君臣且苦兵矣。伍尚至楚。楚并殺奢與尚也。伍胥既至宋。宋有華氏之亂。乃與太子建倶奔於鄭。鄭人甚善之。太子建又適晉。晉頃公曰。太子既善鄭。鄭信太子。太子能爲我内應。而我攻其外。滅鄭必矣。滅鄭而封太子。太子乃還鄭。事未會。會自私欲殺其從者。從者知其謀。乃告之於鄭。鄭定公與子産誅殺太子建。建有子名勝。伍胥懼。乃與勝倶奔呉。到昭關。昭關欲執之。伍胥遂與勝獨身歩走。幾不得脱。追者在後。至江。江上有一漁父乘船。知伍胥之急。乃渡伍胥。伍胥既渡。解其劒曰。此劒直百金。以與父。父曰。楚國之法。得伍胥者。賜粟五萬石爵執珪。豈徒百金劒邪。不受。伍胥未至呉而疾。止中道乞食。至於呉。呉王僚方用事公子光爲將。伍胥乃因公子光以求見呉王。久之。楚平王以其邊邑鍾離與呉邊邑卑梁氏倶蠶。兩女子爭桑相攻。乃大怒。至於兩國擧兵相伐。呉使公子光伐楚。拔其鍾離居巣而歸。伍子胥説呉王僚曰。楚可破也。願復遣公子光。公子光謂呉王曰。彼伍胥父兄爲戮於楚。而勸王伐楚者。欲以自報其讎耳。伐楚。未可破也。伍胥知公子光有内志。欲殺王而自立。未可説以外事。乃進專諸於公子光。退而與太子建之子勝耕於野。五年而楚平王卒。初平王所奪太子建秦女。生子軫。及平王卒。軫竟立爲後。是爲昭王。呉王僚因楚喪。使二公子將兵往襲楚。楚發兵絶呉兵之後。不得歸。呉國内空。而公子光乃令專諸襲刺呉王僚而自立。是爲呉王闔廬。闔廬既立得志。乃召伍員以爲行人。而與謀國事。楚誅其大臣郤宛。伯州犂。伯州犂之孫伯亡奔呉。呉亦以爲大夫。前王僚所遣二公子將兵伐楚者。道絶不得歸。後聞闔廬弑王僚自立。遂以其兵降楚。楚封之於舒。闔廬立三年。乃興師與伍胥伯伐楚拔舒。遂禽故呉反二將軍。因欲至郢。將軍孫武曰。民勞未可。且待之。乃歸。四年。呉伐楚取六與潛。五年。伐越敗之。六年。楚昭王使公子嚢瓦將兵伐呉。呉使伍員迎撃。大破楚軍於豫章。取楚之居巣。九年。呉王闔廬謂子胥孫武曰。始子言郢未可入。今果何如。二子對曰。楚將嚢瓦貪。而唐蔡皆怨之。王必欲大伐之。必先得唐蔡。乃可。闔廬聽之。悉興師與唐蔡伐楚。與楚夾漢水而陳。呉王之弟夫概將兵請從。王不聽。遂以其屬五千人撃楚將子常。子常敗走奔鄭。於是呉乘勝而前。五戰。遂至郢。己卯。楚昭王出奔。庚辰。呉王入郢。昭王出亡。入雲夢。盜撃王。王走。公弟懷曰。平王殺我父。我殺其子。不亦可乎。公恐其弟殺王。與王奔隨。呉兵圍隨。謂隨人曰。周之子孫在漢川者。楚盡滅之。隨人欲殺王。王子匿王。己自爲王以當之。隨人卜與王於呉。不吉。乃謝呉。不與王。始五員與申包胥爲交。員之亡也。謂包胥曰。我必覆楚。包胥曰。我必存之。及呉兵入郢。伍子胥求昭王。既不得。乃掘楚平王墓。出其尸。鞭之三百。然後已。申包胥亡於山中。使人謂子胥曰。子之報讎。其以甚乎。吾聞之。人衆者勝天。天定亦能破人。今子故平王之臣。親北面而事之。今至於死人。此豈其無天道之極乎。伍子胥曰。爲我謝申包胥曰。吾日暮塗遠。吾故倒行而逆施之。於是申包胥走秦告急。求救於秦。秦不許。包胥立於秦廷。晝夜哭。七日七夜。不絶其聲。秦哀公憐之曰。楚雖無道。有臣若是。可無存乎。乃遣車五百乘。救楚撃呉。六月。敗呉兵於稷。會呉王久留楚求昭王。而闔廬弟夫概乃亡歸。自立爲王。闔廬聞之。乃釋楚而歸。撃其弟夫概。夫概敗走。遂奔楚。楚昭王見呉有内亂。乃復入郢。封夫概於堂谿。爲堂谿氏。楚復與呉戰敗呉。呉王乃歸。後二歳。闔廬使太子夫差將兵伐楚取番。楚懼呉復大來。乃去郢徙於。當是時。呉以伍子胥孫武之謀。西破彊楚。北威齊晉。南服越人。其後四年。孔子相魯。後五年。伐越。越王勾踐迎撃。敗呉於姑蘇。傷闔廬指。呉軍卻。闔廬病創將死。謂太子夫差曰。爾忘勾踐殺爾父乎。夫差對曰。不敢忘。是夕闔廬死。夫差既立爲王。以伯爲太宰。習戰射。二年後伐越。敗越於夫湫。越王勾踐乃以餘兵五千人。棲於會稽之上。使大夫種厚幣遺呉太宰。以請和。求委國爲臣妾。呉王將許之。伍子胥諫曰。越王爲人。能辛苦。今王不滅。後必悔之。呉王不聽。用太宰計。與越平。其後五年。而呉王聞齊景公死。而大臣爭寵。新君弱。乃興師北伐齊。伍子胥諫曰。勾踐食不重味。弔死問疾。且欲有所用之也。此人不死。必爲呉患。今呉之有越。猶人之有腹心疾也。而王不先越而乃務齊。不亦謬乎。呉王不聽。伐齊大敗齊師於艾陵。遂滅鄒魯之君以歸。益疏子胥之謀。其後四年。呉王將北伐齊。越王勾踐用子貢之謀。乃率其衆以助呉。而重寶以獻遺太宰。太宰既數受越賂。其愛信越殊甚。日夜爲言於呉王。呉王信用之計。伍子胥諫曰。夫越腹心之病。今信其浮辭詐僞而貪齊。破齊譬猶石田。無所用之。且盤庚之誥曰。有顛越不恭。殄滅之。俾無遺育。無使易種于茲邑。此商之所以興。願王釋齊而先越。若不然。後將悔之無及。而呉王不聽。使子胥於齊。子胥臨行。謂其子曰。吾數諫王。王不用。吾今見呉之亡矣。汝與呉倶亡。無益也。乃屬其子於齊鮑牧。而還報呉。呉太宰既與子胥有隙。因讒曰。子胥爲人。剛暴少恩猜賊。其怨望。恐爲深禍也。前日王欲伐齊。子胥以爲不可。王卒伐之而有大功。子胥恥其計謀不用。乃反怨望。而今王又復伐齊。子胥專愎彊諫。沮毀用事。徒幸呉之敗。以自勝其計謀耳。今王自行。悉國中武力以伐齊。而子胥諫不用。因輟謝佯病不行。王不可不備。此起禍不難。且使人微伺之。其使於齊也。乃屬其子於齊之鮑氏。夫爲人臣。内不得意。外倚諸。自以爲先王之謀臣。今不見用。常鞅鞅怨望。願王早圖之。呉王曰。微子之言。吾亦疑之。乃使使賜伍子胥屬鏤之劍曰。子以此死。伍子胥仰天歎曰。嗟乎。讒臣爲亂矣。王乃反誅我。我令若父霸。自若未立時。諸公子爭立。我以死爭之於先王。幾不得立。若既得立。欲分呉國與我。我顧不敢望也。然今若聽諛臣言以殺長者。乃告其舍人曰。必樹吾墓上以梓。令可以爲器。而抉吾眼。縣呉東門之上。以觀越寇之入滅呉也。乃自剄死。呉王聞之。大怒。乃取子胥尸。盛以鴟夷革。浮之江中。呉人憐之。爲立祠於江上。因命曰胥山。呉王既誅伍子胥。遂伐齊。齊鮑氏殺其君悼公而立陽生。呉王欲討其賊。不勝而去。其後二年。呉王召魯衞之君。會之。其明年。因北大會諸於黄池。以令周室。越王勾踐襲殺呉太子。破呉兵。呉王聞之。乃歸。使使厚幣與越平。後九年。越王勾踐遂滅呉。殺王夫差。而誅太宰。以不忠於其君。而外受重賂。與己比周也。伍子胥初所與倶亡故楚太子建之子勝者。在於呉。呉王夫差之時。楚惠王欲召勝歸楚。葉公諫曰。勝好勇而陰求死士。殆有私乎。惠王不聽。遂召勝。使居楚之邊邑。號爲白公。白公歸楚三年。而呉誅子胥。白公勝既歸楚。怨鄭之殺其父。乃陰養死士求報鄭。歸楚五年。請伐鄭。楚令尹子西許之。兵未發。而晉伐鄭。鄭請救於楚。楚使子西往救。與盟而還。白公勝怒曰。非鄭之仇。乃子西也。勝自礪劍。人問曰。何以爲。勝曰。欲以殺子西。子西聞之。笑曰。勝如卵耳。何能爲也。其後四歳。白公勝與石乞襲殺楚令尹子西。司馬子於朝。石乞曰。不殺王。不可。乃劫之。王如高府。石乞從者屈固。負楚惠王。亡走昭夫人之宮。葉公聞白公爲亂。率其國人攻白公。白公之徒敗。亡走山中自殺。而虜石乞。而問白公尸處。不言將烹。石乞曰。事成爲卿。不成而烹。固其職也。終不肯告其尸處。遂烹石乞。而求惠王復立之。
太史公曰。怨毒之於人。甚矣哉。王者尚不能行之於臣下。況同列乎。向令伍子胥從奢倶死。何異螻蟻。棄小義雪大恥。名垂於後世。悲夫。方子胥窘於江上。道乞食。志豈甞須臾忘郢邪。故隱忍就功名。非烈丈夫孰能致此哉。白公如不自立爲君者。其功謀亦不可勝道者哉。