鞄らしくない鞄

1話 鞄らしくない鞄(1)

8,080字 約16分 2001年7月21日 公開

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   事件引継簿(ひきつぎぼ)

 或る冬の朝のことであった。

 重い鉄材とセメントのブロックである警視庁の建物は、昨夜来の寒波(かんぱ)のためにすっかり冷え切っていて、早登庁(はやとうちょう)の課員の靴の裏にうってつけてある(びょう)が床にぴったり(こお)りついてしまって、無理に放せば氷を踏んだときのようにジワリと音がするのであった。朝日は、今ようやく向いの建物の頭を(かす)めて、低いそしてほの温い日ざしを、南向きの厚い硝子(ガラス)の入った窓越しにこの部屋へ注入して来た。

 そのとき出入口の重い扉がぎいと内側に開いて、()えた(あか)ら顔の紳士が、折鞄を片手にぶら下げて入って来た。

 課員たちは一せいに立上って、その紳士に向って朝の挨拶(あいさつ)をのべた。みんなの口から一せいに白い息がはきだされて、部屋の方々に小さな(にじ)が懸った。紳士は一番奥まで行って、まだ誰も座っていない一番大きな机の上に鞄をぽんと投げ出し、それから後を向いて帽子掛に、鼠色の中折帽子をかけ、それから(くび)から白いマフラーをとってから、最後に鼠色(ねずみいろ)の厚いオーバァを脱いで引懸けた。それから身体をひねって、大机にくっついている回転椅子をすこし後にずらせて、その上に大きな尻を落着かせたのであった。かくして警視田鍋良平(たなべりょうへい)氏は、例日の如くちゃんと課長席におさまったのである。

 少女の給仕が、(ふち)のかけた大湯呑(おおゆのみ)に、げんのしょうこを(せん)じた代用茶を入れてほのぼのと湯気だったのを盆にのせ、それを目よりも上に高く捧げて持って来た。課長は彼女がその湯呑を、いつもと同じに、硯箱(すずりばこ)未決(みけつ)既決(きけつ)の書類(ばこ)との中間に置き終るまで、じっと見つめていた。

 少女の給仕が、振分け髪の先っぽに、猫じゃらしのように結んだ赤いリボンをゆらゆらふりながら、戸口近い彼女の席の方へ帰って行くのを見送っていた田鍋課長は、突然竹法螺(たけほら)のような声を放って、誰にいうともなく、

「あーア、昨夜から、何か変ったことはなかったかア」

 と、顔を正面に切っていった。そして手を延ばして大湯呑をつかむと、湯気のたつやつを唇へ持っていった。(やぶ)障子(しょうじ)に強い風が当ったような音をたてて彼は()()つのげんのしょうこを(すす)った。近来手強(てごわ)い事件がないせいか、どうも腸の工合がよろしくない。

 ばたんと机に音がして黒表紙の帳簿(ちょうぼ)が課長の前に置かれた。「事件引継簿(ひきつぎぼ)第七十六号」と題名がうってある。課長は大湯呑を左手に移し、右手の太い指を延ばして帳簿の天頂(てっぺん)から長くはみ出している仕切紙をたよりにして帳簿のまん中ほどをぽんと開いた。その頁には、昨日の日附と夕刻の数字とが欄外(らんがい)に書きこんであり、本欄の各項はそれぞれ小さい文字で(うま)っていた。

“――省線山手線内廻り線の池袋駅停り電車が、同駅ホーム停車中、四輌目客車内に、人事不省(じんじふせい)の青年(男)と、その所持品らしき鞄(スーツケースと呼ばれる種類のもの)の残留せるを発見し届出あり、目白署に保護保管中なり。住所姓名年齢不詳(ふしょう)なるも、その推定年齢は二十五歳前後、人相服装は左の如し……”

 課長はそのあとの文字を、目で一はけ、さっと()いただけでやめ太い指で紙をつまんで、次の頁をめくった。

 次の頁は空白(ブランク)だった。

(さっぱり商売にならんねえ)

 と、課長は、刑事時代からの口癖になっている言葉を、口の中でいってみた。ぽたりと(かす)かな音がした。茶色の(えき)の玉が空白の頁の上に盛上って一つ。課長は大湯呑を目よりも上にあげて、湯呑の尻を観察した。それからその尻を太い指でそっと()でてみた。指先は茶色の液ですこし()れた。課長はすこし周章(あわ)てて茶碗を下に置きかけたが、机に貼りつめている緑色の羅紗(ラシャ)の上へ置きかけて急にそれをやめ、大湯呑は硯箱(すずりばこ)の蓋の上に置かれた。

 課長の仕事は、まだ終っていなかった。事件引継簿の頁の上にはげんのしょうこの液の玉が盛上っていた。課長は、机の引出から赤い吸取紙を出して、茶色の水玉の上に置いた。吸取紙は丸く濡れた。その吸取紙を課長が取ってみると、帳簿の上の水玉は跡片(あとかた)なく消え失せていた。課長の当面の仕事は終った。

 おれの次の仕事は、何時になったら出来てくるのであろうか――と、課長は背のびをしながら、両手を頭の後に組んだ。

   失踪(しっそう)の博士

 いつもなら、そういう面会人は必ず応接室へ入れるのが例になっていたが、今日ばかりは特別の扱いで、課長はいそいそと席から立って指図(さしず)をし、その面会人を自分の机の横の席へ通させたのである。ちょうどその日のお昼前のことであった。

 面会人は臼井(うすい)藤吾という姓名の青年であり、この臼井青年を紹介して来たのは、課長と同郷の大先輩である元知事目賀野(めがの)俊道氏であった。しかし課長は、この大先輩に対し、あまり尊敬の念を持合わしてはいなかった。

「実は重大人物が行方不明となりましたものですから、特に課長さんの御尽力(ごじんりょく)(すが)りたいと存じまして、目賀野閣下(かっか)から紹介して頂いたような次第でございます」

 青年臼井は、ポマードで固めた長髪を奇妙に振りながら、近頃の青年にしては珍らしく鄭重(ていちょう)な言葉で挨拶をしたのだった。青年の赤いネクタイが、その睡眠不足らしい()れぼったい(まぶた)や、かさかさに乾いた黄色っぽい顔面とが不釣合に見えた。

(目賀野氏はもはや閣下ではない筈ですが……)と皮肉をいってやりたくなった田鍋課長だったけれど、それは差控(さしひか)えることにして、

「どういう人物だか、詳しくお話下さらんので、われわれには正体が分りませんが、とにかく家出人の捜査申請(そうさしんせい)は本庁でも毎日受付けて居りますから、どうぞ届書(とどけしょ)を出されたい」

 と返答をした。

「いや、これは失礼をいたしました。故意にその人物の素性(すじょう)などを隠そうとしたものではなく、その人物が如何なる人であるかを説明するには相当長い説明が()りますので、とりあえず重大人物と申上げたわけでありまするが……」

「お話中ですが、われわれは非常に多忙でありますし、(かつ)(また)非常に重大事件を数多抱えて居りますために、なるべくつまらんことでわれわれを(わずら)わさないように願いたい。いやもちろん目賀野先生の紹介状に対して敬意を表しないというわけではありませんが、とにかく本課では目下数多の重大事件を抱えこんでいる――今も申した通りですが、例えば某研究所から二百グラムという(おびただ)しいラジウムが盗難に遭い目下重大問題を惹起(じゃっき)していまして、本課は全力をあげて約四十日間捜索(そうさく)を継続していますが、今以て何の手懸りもない――迷宮(めいきゅう)入り事件くさいですがね、これは……、それだとか次は……」

「お話中を恐れ入りますが、他の重大事件には私は殆んど関心を持って居りませんので。はい、只々(ただただ)重大人物博士の失踪(しっそう)について非常なる憂慮(ゆうりょ)と不安と焦燥(しょうそう)とを覚えている次第でございます」

「失踪事件ならば、先刻も御教えしたとおり家出人捜査申請(しんせい)をせられたい」

「それは分って居ります。しかしですな、その博士はあまりに重大なる人物でありまして、普通の失踪捜査申請などをしていたのでは間に合わないのでございます。(いわ)んや博士に(おい)ては家出せられるほどの事情は痕跡(こんせき)ほども持って居られない。従ってこれは博士を誘拐(ゆうかい)したと見なければならない(はなは)だ重大刑事事件であります。(はた)して(しか)らば、刑事部捜査課長たる足下(そっか)が当然陣頭に立って捜査せらるべき筋合のものであると確信いたします」

一体(いったい)誰ですか、その重大人物博士とやらいうのは……」

赤見沢(あかみざわ)博士のことです。あの有名な実験物理学の権威(けんい)、そして赤見沢ラボラトリーの所長、万国(ばんこく)学士院会員、それから……いや、後は省略しましょう。ここまで申せば、課長さんも赤見沢博士の重大人物たることをよく御了解(ごりょうかい)になるでしょう」

「もちろんです」課長は勢い上、そう(こた)えなければならなかった。「赤見沢先生が失踪されたとは、これは初耳ですな。それは何時(いつ)のことですか」

「昨夜以来、お(やしき)へお帰りがない。お邸と申しましても、それはラボラトリーの一室ですが……。私は昨夜はお目に(かか)る約束になっていたので博士の御帰りを待って居りましたが、(つい)に博士はお帰りにならず、本日午前十時になっても姿をお現わしになりません。それ故にこれは大変だと思い――今までそんな約束ちがいは一度もありませんでしたからな――それで目賀野閣下に御相談をし、こちらへ駈付(かけつ)けましたような訳です。如何です。昨夜何か都下において血腥(ちなまぐさ)き事件でもございませんでしたでしょうか」

 臼井は(きり)のように鋭く問い迫る。

「昨夜は(きわ)めて静穏(せいおん)でしたな。報告するほどの事件は一つもなかった。いや、正確に申せば只一件だけあった。深夜(しんや)池袋駅(どま)りの省線電車の中に、人事不省になった一人の男が鞄と共に残っていたというだけのことです」

「えっ、鞄と仰有(おっしゃ)いましたか」

「ああ、鞄――それはスーツケースらしいですが、それが車内に残留していたので、その人事不省の人物の所持品じゃろうと……」

「その人事不省の男というのは、どんな男でしたか。年齢はどのくらい……」

「二十五前後の青年男子だと報告して来ています」

「ああ、それじゃ違う。赤見沢博士は(たし)か本年六十五歳になられる老体(ろうたい)なんですからね」

「それはお気の毒」

 と課長はいって、事件引継簿を書類(ばこ)既決(きけつ)の函の中へ、ばさりと投げ入れた。

   仔猫(こねこ)(かい)

 面会人臼井は、なかなか尻を上げようとはしなかった。

「これは一つ、今日只今課長さんによく認識して頂かねば、僕は帰れません。そもそも赤見沢博士の重大性なるものは……」

粗茶(そちゃ)ですが、どうぞ」

 少女の給仕が茶を入れて持って来て、臼井の前に置き課長の大湯呑にはげんのしょうこをつぎ足して来た、課長は客に粗茶をどうぞと(すす)めたわけだ。

「ああ結構です」と臼井は()のない茶に咽喉(のど)湿(しめ)し、「早く分って頂くために、そうですなあ、ああそうだ、仔猫(こねこ)のお話をしましょう」

「仔猫?」

「そうです。猫の子ですなあ」

 課長の前の既決書類函から書類を取出していた少女の給仕は、猫の子問答のおかしさに()えられなくなって、書類を抱えると大急ぎで後向きになって、すたすたと戸口の方へ駆出(かけだ)した。

「猫の子がどうしたというんです」

「課長さん。僕が博士を始めて訪問したときに、その部屋に仔猫がいたんです。僕はびっくりして腰を抜かしそうになりました」

「君はよほど猫ぎらいと見える。ははは」

「いや違う。総じて猫というものは僕は大好きなんです。だから普通では猫又(ねこまた)を見ようが腰を抜かす筈がない。だからそのときは(おどろ)きましたよ、実に……なぜといってその仔猫がですね、(ちゅう)にふらふら浮いているじゃないですか、びっくりしましたね」

「どうしてまたその仔猫は宙に浮いていたのですか。天井(てんじょう)から(ひも)でぶら下げてでもあったのですか」

「そんなことなら、僕はきゃッなどと(はず)かしい声を出しやしません。その仔猫たるや、紐でぶら下げられたのでもなく、風船で吊上(つりあ)げられているのでもなく、宙にふわふわと……」

「それは本当の猫じゃないのでしょう」

「本当の猫です。あとで僕はさわってみましたから、知っています。もっともこの仔猫は赤い腹掛(はらかけ)をしていましたがね」

「腹掛のせいじゃないでしょう、宙をふわふわやるのは……」

「さあどうですかなあ。とにかく赤見沢博士という大学者は仔猫を宙に浮かせるような奇妙な実験をしてみせる、恐るべき人物です」

「それは魔法かな、奇術(きじゅつ)かな」

「奇術でしょうな。博士はそのときいっていました。これは正しい学理に基く一つの実験なんだ。決してこの猫は化け猫ではないと説明されたんです」

「君はその種を知っているのでしょう。さあ聞かせて下さい」

 田鍋課長は、先刻(せんこく)とすっかり立場をかえ、臼井の語るのを催促(さいそく)した。

「僕には分りません」臼井はそういった。本当に知らないのか、それともわざと説明を逃げたのか分りかねる。「とにかくそういう重要人物なんですから、ぜひとも一刻も早く赤見沢博士を探し出して頂きたい」

「うーむ」

 課長は(うな)った。わが命令を出すのは極めて容易(ようい)であるが、そういう奇術師だか理学者だか分らない変な人物を探し出すのに大掛りなことをやって、後でもの(わら)いにならないであろうかどうかを心配した。

 課長の返事はなかなか出て来なかった。その間、臼井青年はしきりにかきくどいた。課員が、課長の前の未決書類函へ帳簿を入れていった。それは、さっきからそのへんをまごまごしている黒表紙の事件引継簿であった。

「とにかく……まあとにかく、私から係へよく話をして置きましょう。それで、博士の人相書や――写真があれば更にいいですね――それから失踪の時刻やそのときの服装、その他参考になる事柄を出来るだけたくさん書いて私の許まで提出されたい。私としては出来得るかぎりの御便宜を(はか)るでありましょう。どうぞ目賀野先生へよろしく」

 そういわれれば誰でも面会の(おわり)へ来たことに気がつくものである。臼井青年は、いい足りなさそうな顔付で、その部屋を出て行った。

 臼井の姿が部屋から消えると、課長はその途端(とたん)に彼から頼まれたことを一切忘れてしまった。これは永年に亙る課長の修養の力でもあったり且又(かつまた)習慣でもあった。“ものごとを記憶するよりは、出来るだけ忘れよ”という金言があったと確信している田鍋課長であった。

 だが課長は、間もなく臼井から頼まれたことをはっきり思い出さないわけにはいかない運命の(もと)にあった。それは彼が忠実に未決書類函へ手を延ばし、黒表紙の引継簿の仕切紙の挟まっているところを開いて読んだときに、そうなったからである。

 その頁は、昨夜の池袋駅事件につき、第二報告書が赤インキで書き入れてあって、

“――前記姓名未詳(みしょう)の男は、二十五歳前後の青年にあらずして、実は六十五歳前後の老人なること判明せり。かく判明せる原因は、(がい)要保護人を署内(目白署)に収容せる後に至りて、該人物が巧妙なる(かつら)(かむ)り居たることを発見せるに()る。(なお)、同人所有のものと思われる鞄は、赤革のスーツケースにして、大きさに不相応なる大型の金具及び把手(ハンドル)(そな)え居り、その蓋を開きみたるに、長さ二尺ばかりの杉角材が四本と古新聞紙が詰めありたる(ほか)めぼしきものも、手懸(てがか)りとなるものも見当らず。

 一方、前記要保護人は、収容後十時間を()るも未だ覚醒(かくせい)せず、体温三十五度五分、脈搏(みゃくはく)五十六、呼吸十四。その他著しき異状を見ず。引続き監視中なり。――”

 とあったので、課長はそれと気付き、立去った臼井青年の後を課員に追わせたが、遂に彼の姿を見つけることが出来なかった。課長としては、果して目白署に保護中の当人と赤見沢博士とが同一人だかどうかは不明だが、年齢(とし)がちょうど博士と合うので、(そん)と思っても、行ってみてはどうかと臼井にすすめるつもりだったのである。

   研究生すみれ嬢

 臼井は、ぼんくらではなかったと見え、その足ですぐ目白署を訪ねている。

 やっぱり、赤見沢博士であった。

 彼は署の電話を借りて、とりあえず目賀野に知らせた。目賀野は(おどろ)いて、すぐ博士を引取りに行くからといった。

 それから一時間ほどして、目賀野は医師やら博士の(めい)の秋元千草という麗人(れいじん)や博士の助手の仙波学士を伴い、自動車で駆けつけた。そして一札(いっさつ)を入れ、人事不省(じんじふせい)の博士と遺留(いりゅう)(かばん)とを内容物もろとも引取っていったのであった。

 博士を護って、一行は目黒(めぐろ)行人坂の博士邸へ入った。

 雑用係の川北老夫妻と、研究生小山すみれ嬢とがびっくりして博士の帰邸を迎えた。

 目賀野の指図(さしず)で、臼井は出迎えた人々を(つかま)えて話をした。

「わしは存じて居りましたでがす」と川北老はいった。「先生さまが変装なすって、そっとお出懸(でか)けになるところを(たし)かに見て居りました。はい、トランクをお持ちになっていましたなあ。おお、このトランクに違いありません。色といい形といい大きさといい……。先生さまは外出なされるとき必ず若い男になってお出懸けなさるんで、これは昨夜にかぎったことではございません。そのこみ入った理由(わけ)はわし如き者に分ろうはずはございません。お出懸け先でございますか、それは全く存じません。先生さまは、(じい)や、これからどこへ行ってくるぞなどと仰有(おっしゃ)るお方じゃございませんもんな。……坂をのぼって目黒駅の方へお出でなさったことだけは間違いねえでがす」

 博士の昨夜の行動について(しゃべ)ったのはこの川北老だけであった。他の妻君のお綱婆さんも、小山研究嬢も、共になんにも語らなかった。

 臼井は、目賀野の指図で、もう一つの重大申入れを留守番の人々に行った。

「実は、僕はこの前からしばしばこちらへ伺って博士に或る物の御製作をお願いしてあったんだ。昨日はその出来上ったものを僕の(もと)へお届け下さるお約束の日だった。博士はこのトランクに入れて、僕のところへ向われたんだが、その途中であのような病態(びょうたい)となられた……」

 そういっているときに、目賀野が連れていた医師が入って来て、博士の容態(ようだい)について報告した。目下麻痺(まひ)症状がつづいている。その原因は不明である。しかし急変はないと思うから、当分このままにそっと寝かして置くがよろしく、次第によって明日か明後日から滋養浣腸(じようかんちょう)などを始めることにしたいというのだった。目賀野は目くばせをして、医師をこの部屋から去らせた。そして臼井の腰の上を(ひじ)でついた。

「……そこでですね」と臼井は小山研究生と川北老夫妻へ気ぜわしく話しかけた。「このトランクとその中身とを、僕に預けていただきたいんですがなあ。もちろん博士が意識を回復されればそのとき改めて博士に申入れるつもりですが、それまでのところを、僕に預けておいて頂きたい。そしてかねがねその代償として博士にお支払いすることになっていた金十万円也を、今ここに置いて参りますから、それならあなた方も承諾して下されやすいと思う。ね、いいでしょう」

 そういって臼井は、十万円の紙幣束(さつたば)を三人の方へ差出した。三人は(とり)のようにびっくりして、(すみ)へ固まって相談をはじめた。

 やがて相談がまとまったと見え、三人は臼井の方へ戻って来た。川北老が代表者となって折衝(せっしょう)の任に()くものと見えた。果然彼は発言した。

「とりあえずわしら留守番の者が相談ぶったんですが、その大金はお預りしますまい。その代り品物の何と何とを持って行かれるか、その品目を書いた借用証を一札入れていって下せえ。小山さんもそういわっしゃるだ」

 臼井の眼が小山すみれ嬢の方へ動いた。すみれ嬢は猫のように大きな目をじっと()えて、臼井の顔を(にら)みかえした。

「承知しました。そうしましょう」臼井は目賀野の信号によって、そのように返事をした。それから小机の上に紙を延べて借用証を書き始めたが、その品目を書くについてトランクをあける必要にぶつかった。開いて中を見せれば、すみれ嬢の大きい目は臼井の脳髄を突き刺してしまうだろう。彼は、そうした。

「ええー、よくごらん下さい」

 すみれ嬢は、トランクの中を()めんばかりにして入念(にゅうねん)に改めた。彼女が用を終って顔をあげたのを見ると、その(おもて)にはほっとした色があった。

「よくごらんになりましたね。品書は、一つトランク、一つ木材四本、一つ新聞紙若干(じゃっかん)、以上――でいいですね」

 すみれ嬢が川北老に目配せをしたので、川北老が、「はい。それでようがす」

 と返事をした。

 臼井は記名捺印(なついん)をして、その預り証を川北老に手渡した。川北老はそれをすみれ嬢に見せ、嬢がうなずくと、それを八つに(たた)んで、胸のポケットに(しま)って(ボタン)をかけた。

 取引は終った。

 目賀野と臼井は挨拶をして、玄関を出た。待たせてあった自動車の中には、さっき活躍した医師と、若い男女が各一人待っていた。その若い男女は、さっき目白署において、博士の姪の秋元千草と博士の助手たる仙波学士と名乗った二人であったが、この二人はこのさわぎを他処(よそ)に自動車を下りもせず、ぽかんとしていた。それもその筈、実は両人は博士の姪でもなく助手でもなく、目賀野が便宜(べんぎ)上連れて来た脇役の人物であったのだ。その便宜とは、もちろん署から疑いを持たれることなしに、博士と鞄とを引取ることにあった。

 こうなると目賀野という人物は、なかなか油断のならない重要人物であることが知れて来るが、彼の本来の面目は次の章に(おい)て一層よく知れよう。

   秘密地下室

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