獏鸚

1話 獏鸚(1)

8,732字 約17分 2005年12月28日 公開

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     1

 一度トーキーの撮影を見たいものだと、例の私立探偵帆村荘六が口癖のように云っていたものだから、その日――というと五月一日だったが――私は早く彼を誘いだしに小石川のアパートへ行った。

 彼の仕事の性質から云って、正に白河夜船か或いは春眠(しゅんみん)(あかつき)を覚えずぐらいのところだろうと思っていったが、ドアを叩くが早いか、彼が兎のように飛び出してきたのには(すくな)からず(おどろ)いた。

 私は直ぐさま、彼をトーキー撮影所へ誘った。二つ返辞で喜ぶかと思いの外、帆村はいやいやと首を振って、

「トーキーどころじゃないんだ。僕はとうとう昨夜徹夜をしてしまったのだよ」

「ほほう、また事件で引張り出されたね」

「そうじゃないんだ。うちで考えごとをしていたんだ。ちょっと上って呉れないか」

 と、帆村は私の腕をとって引張りこんだ。

 考えごと――徹夜の考えごとというのは何だろう。

「君に訊ねるが、君は『獏鸚』というものを知らんかね」

 と、帆村がいきなり突拍子もない質問をした。

「バクオウ?――バクオウて何だい」

 と、うっかり私の方が逆に質問してしまった。

 彼は苦が笑いをして暫く私の顔を見詰めていたが、やがて乱雑に書籍や書類の散らばっている机の上から、小さい三角形の紙片を摘みあげると、私の前に差出した。

「なんだね、これは?」

 と私はその小さい紙片を受取って、仔細に表と裏とを調べた。裏は白かったが、表の方には、次のような切れぎれの文字が(したた)められてあった。

……0042……奇蹟的幸運により……獏鸚……

 どうやらこれは、手紙かなにかの一端をひきちぎった断片らしかった。なるほど「獏鸚」という二字が見えるが、何のことだか見当がつかない。

「一体これは何所で手に入れたのかネ」

「そんなことを()かれては、まるで事件を説明してやるために君を引張りあげたようなものじゃないか」

 と帆村は皮肉(ひにく)を云ったが、でも私が入ってきたときよりもずっと朗かさを加えたのだった。彼は今、話し相手が欲しくてたまらないのだ。

「これは或る密書の一部分なんだよ」と帆村は遠いところを見つめるような眼をして云った。

「そこには、たった三つの違った字句しか発見できない。昨夜一と晩考えつづけて、はじめの二つの字句は、まず意味を察することができたのだ」

 密書を解いたと聞くと、私は急に興味を覚えた。

「まず数字の0042だが、これをよく見ると、この四桁の数字の前後が切れているところから見てまだ前後に他の数字があるかも知れないと想像できるのだ。僕は大胆にこれを()いた。これは昭和十年四月二十何日という日附なのだ。この日附を横に書いてみると判る。1042X――ところで月は十二月という二桁の月もあるから、桁数を合わせるためには四月を(ただ)4だけではなく、04と書かねばならない。そうして置いて年月日の数字を間隔なしに詰めると10042Xとなる。だからこの紙片には、初めの1が抜け、最後の疑問数字Xが抜けているが、日附を示しているのだ。これは所謂六桁数字式の日附法といって、ちかごろ科学者の間に流行っているものだ。そして注意しなければいけないことは、昭和十年四月二十何日というと、今日は五月一日だから、いまから三日乃至十一日前だということだ。極めて新しい日附が記されているところが重大なのだ」

 私は久振りに聞く友人の能弁に、ただ黙って(うなず)くより外なかった。

「もう一つの字句『奇蹟的幸運により』は一見平凡な文字だ」と帆村は続けた。「しかし僕は、この一見平凡な字句の裏に(こも)っている物凄い大緊張を感得せずにはいられない。すなわち単なる幸運ではない、九十九パーセント或いはそれ以上に不可能だと思われていた或る事が、実に際どいところで見事に達成されたのだ。この字句の中には、爆薬が破裂するその一週間前に導火線をもみ消すことができたとでもいうか、遂に開かないと思った落下傘が僅か地上百メートルで開いたとでもいうか、とにかく大困難を一瞬間に征服したというような凱歌(がいか)が籠っている。正に奇想天外の一大事件がもちあがったのだ。それは如何なる大事件であろうか? ところがその後が難解だ。残っているタッタ一つのものは、曰く『獏鸚!』こいつが手懸(てがか)りなのだ。なんという奇妙な手懸り! なんという難解な手懸り!……」

 帆村は机の上に(ひじ)をついて、広い額に手を当てた。私はもうすっかり帆村の悩んでいる事件の中に引き入れられてしまった。

「ねえ帆村君」と私は自信もないのに呼びかけた。「ほら昔のことだが、源三位頼政が退治をした(ぬえ)という動物が居たね」

「ああ、君も今それを考えているのか」帆村は憐むような眼眸(まなざし)を私の方に向けて云った。「鵺なんて文化の発達しなかったときのナンセンスだよ。一九三五年にそんなナンセンス科学は存在しない」

「そうでもあるまい。最近ネス湖の怪物というのが新聞にも出たじゃないか」

「怪物の正体が確かめられないうちは、ネス湖の怪物もナンセンスだ。君は頭部が獏で、胴から下が鸚鵡(おうむ)の動物が、銀座通りをのこのこ歩いている姿を想像できるかい」

 友人は真剣な顔付で私に詰めよった。私はすこし恐くなって目を(そら)した。そのとき向いの壁に、帆村が描いたらしく、獏と鸚鵡とが胴中のところで継ぎ合わされているペン画が尤もらしく掛けてあるのを発見した。私はその奇妙な恰好が可笑しくなって思わず吹きだしてしまった。

 わが友人も、嫌な画を見られて失敗ったという表情をして、にやにや笑いだしながら、

「正にあの絵のとおりだとすると、実に滑稽じゃないか。しかしこの密書の断片は冗談じゃないんだよ。厳然として獏鸚なるものは存在するのだ。しかも、つい二三日前の日附でこの奇獣――だか奇鳥だか知らぬが――存在するのだ。ただいくら『奇蹟的幸運によった』としても、そんな獣類と鳥類の結婚は考えられない」

「手術なら、どうだ」

 と私は不図思い出して云ってみた。

「なに手術? そりゃどんな名外科医があって気紛(きまぐ)れにやらないとも限らないが、獏の方は身長二メートル半だし、鸚鵡は大きいものでもその五分の一に達しない。それではどこで接合するのだろう。もし接合できたとしても何の目的で獏と鸚鵡とを接合させるのだろう」

「目的だって? それは密書事件の状況から推して考え出せないこともなかろうと思うんだが……」

「そうだ」と帆村はいきなり椅子から立って部屋をぶらぶら歩きだした。「じゃ、君に、この密書に(まつ)わる事件を一と通り話をしよう……」

 それは私の最も望むところだった。

     2

 帆村はポケットに両手をつっこんでぶらぶら室内を散歩しながら、誰に話しかけるともなしに密書事件を次のように語りだした。

「昭和十年四月二十四日の朝刊に、上野公園の動物園前の(もり)の中で、一人の若い男が刺し殺されていたことが出ていた。被害者の身許(みもと)を調べてみると、もと『暁団』という暴力団にいた(いかり)健次こと橋本健次(二八)だということが判明した。暁団といえば、古い伝統を引いた江戸()えぬきの遊人(あそびにん)の団体だったが、今日ではモダン化されて若い連中ばかり。当時の団長は江戸昌(えどまさ)といってまだ三十を二つ三つ越した若者だった。――そこで錨健次は誰に殺されたか、何故殺されたかという問題になったが、ちょっと見当がつきかねた。ところが丁度僕が警察へ行っているときに名前を名乗らぬ不思議な人物から重大な密告の電話がかかっていた。『錨健次は、もとの指揮者江戸昌の命令で団員の誰かに刺し殺されたのだ。錨健次は暁団から足を洗って、江東のアイス王と呼ばれている変人金満家田代金兵衛の用心棒になっていた。ところが暁団では田代金兵衛の一億円を越えるという財宝に目をつけて、その手引を昔の縁故で健次に頼んだのだが、彼は拒絶してしまった。それでとうとう江戸昌が命じて刺殺させたのだ』というのだ。この電話の(うち)に警察では直ちに手配して、電話を掛けている密告者の逮捕を(くわだ)てたが、向うもさる者で、僅か二分間で電話を切ってしまった。交番の巡査が(かけ)つけたときには、公衆電話函は塔の中のように静かだったという。……どうだ、聴いているかね」

 と帆村は私の前にちょっと立ち停った。私が黙って肯くと、彼はまたのそのそと室内の散歩を始めながら、先を続けた。

「謎の密告者については、戸沢という警視庁きっての不良少年係の名刑事がずばりと断定を下した。それは黄血社(こうけつしゃ)という秘密結社の一味に違いないというのだ。黄血社といえば国際的なギャングで、首領のダムダム(ちん)というのが中々の腕利(うできき)であるため、その筋には尻尾(しっぽ)をつかまれないで悪事をやっている。その上不良団をどんどん併合して党勢をぐんぐん拡張している。いまに何か戦慄すべき大事件を起すつもりとしか見えない。しかし流石(さすが)の黄血社のダムダム珍も、帝都へ入ってきては思うように振舞えないので(ごう)を煮やしている。それは例の江戸昌の率いている暁団が、若い連中の寄りあつまりながらなかなか頭脳(あたま)のいいことをやるので、いつも肝腎のところで邪魔をされてしまう。黄血社対暁団の対立がたいへん激烈になっているその最中に、あの錨健次の殺害についての重大なる密告があったのだ。戸沢名刑事は、密告者をこんなわけで黄血社の一味と断定したものらしい。僕も戸沢氏の断定について大体の賛成を表した。僕とて錨健次の前身やら両不良団の対立を知らないではなかったから……。しかしもっとはっきりしたところを確かめたいと思ったので、二十九日の夜、自身で江東へ出かけていったのだ。亀戸天神の裏の狭い横丁にある喫茶店ギロンというのが、かねて暁団員の連絡場所だと知っていたから……」

 帆村とくると、彼は江東の辺の事情に土地の誰よりも精通していた。帝都の暗黒中心地といわれた浅草は、関東の大震災によって完全に潰滅し、それがこの江東地帯に移ったと彼は云う。その点新宿などは新興街で只賑やかなだけで、不良仲間からはてんで認められていないそうである――帆村は卓子(テーブル)の上から一本の紙巻煙草をとってそれを口に(くわ)えた。

「喫茶店ギロンでね、僕は恰好の団員が張りこんでいるのを、いち早く見つけてしまったのだよ。それはちょっと見るとダンサーのような洋装の少女だった。年齢の頃は二十二三と見たが、いい体をしているのだ。胸の(ふく)らみだの、腰のあたりの曲線などが、男を引きつけずには居ないという悩ましい女さ。しかし器量の方はあまり美しいとは云えない。むしろ身嗜(みだしな)みで不器量をカムフラージュしているという方だ。僕はその女を認めると、つかつかと傍によって、ちょっとサインをした。これは相手の身体にぴったり寄り添ってする暁団一流のサインなのだ。君は(さぞ)知りたいだろうが、遺憾ながらこいつばかりは教えられないよ、ふふふふ。……すると果して反応があった。女はポケットから手を出して、僕の()の中に入れた。なにか西洋紙のようなものが当る。それを女は渡そうとしたのだ……」

 帆村はそこで急に黙ってしまった。コトコトと部屋を一周したけれど、まだ黙っているのであった。

「それからどうしたんだい?」と私は不満そうに話の続きを催促した。

「……イヤア失敗だ。こっちがつい固くなったものだから、女の手から西洋紙――つまりそれが密書だった――それを受取るのに暁団の作法を間違えてしまった。女は(おどろ)いて、一旦渡した密書をふんだくる、僕は周章(あわ)てて、腕を後に引く……結局、さっき君が見たあの三角形の小さい紙片だけが手の中に残っただけ……。僕は生命からがら喫茶店ギロンから脱出したというわけさ……」

 と云って帆村は、まだ火もつけていない紙巻煙草をポツンポツンと《むし》りちらした。が、急にくるりと私の方に振向いて、

「どうだい、君の力で以上の話の中から、何か『獏鸚』らしきものを引張りだせるかい」

「ノン――」私は首を左右に振った。「BAKUOOのBAの字もありはしない」

「やっぱり駄目だね。なんという六ヶ敷(むずかし)い連立方程式だろう。もっとも方程式の数が、まだ足りないのかも知れない」

「おい、帆村君。君は獏とか鸚鵡についても研究してみたかい」

「それはやってみたよ」と彼は不服そうに云った。「獏は哺乳類のうちの奇蹄目(きていもく)で獏科の動物だ。形は(さい)に似て、全身短毛をもって(おお)われ、尾は短く、鼻及び上唇は合して短き象鼻(ぞうび)の如くサ。前肢(まえあし)に四()、後肢に三趾を有す。胴部より腰部にかけて灰白色の一大斑あり、その他は殆んど黒色をなす。――この一大斑というのが、ちょっと気になるのだ。絵で見ると判るが(と彼は壁にかけた獏の写真を指さしながら)、胴のところで丁度接ぎあわせたようになっているじゃないか」

「うん。それから……」

「それから?……獏は性(きょう)にして、深林に孤棲(こせい)し、夜間出でて草木の芽などを食す。いやまだ食うものがある。人間が夜見る夢を食うことを忘れちゃいけない。産地は馬来地方……」

「もう沢山だ」と私は悲鳴をあげた。

「では鸚鵡は鳥類の杜鵑目(とけんもく)に属し、鸚鵡科である。鸚鵡と呼ぶ名の鳥はいないけれど、その種類はセキセイインコ、カルカヤインコ、サトウチョウ、オオキボウシインコ、アオボウシインコ、コンゴウインコ、オカメインコ、キバタン、コバタン、オオバタン、モモイロインコなどがある。この中でよく人語を解し、物真似(ものまね)をするのはオオキボウシインコ、アオボウシインコ、コバタン、オオバタン、モモイロインコである。おのおの形態を比較するに、まずセキセイインコについて云えば、頭及び(つばさ)は黄色で……」

「わ、判ったよ。君の動物学についての造詣(ぞうけい)は百二十点と認める――」

 私は耳を抑えて立ち上った。私には鸚鵡の種類などを暗記する趣味はない。

「なアに、まだ三十五点くらいしか喋りはしないのに……」

「もう沢山だ。……しかし動物学の造詣で探偵学の試験は通らない。獏といえば夢を喰うことと鸚鵡といえば人語を真似ることだけ知っていれば、充分だよ」

「そうだ、君の云うとおりだ」と帆村は手を()った。「そんなわけで、だいぶん僕もくしゃくしゃしているところだから、そうだ君のお誘いに敬意を表して、トーキーの撮影を観に連れていって貰おう」

「大いに、よろしい」

 私は(よろこ)んで立ち上った。獏鸚に悩むよりは綺麗な女優の顔を見て悩む方がどのくらい楽しいかしれやしないと思った。しかし帆村をトーキー撮影所に誘ったばかりに、生命からがらの大事件に巻きこまれようなどとは神ならぬ身の知るよしもなかったのである。

     3

 桜の名所の玉川べりも、花はすっかり散って、葉桜が涼しい蔭を堤の上に落していた。そうだ、きょうからもう五月に入ったのだ。

 帆村を案内しようという東京キネマの撮影所は、ちかごろトーキー用の防音大スタディオを建設したが、それが堤の上からよく見えた。

 門を入ると、馴染(なじみ)の門衛が、(にわ)かに笑顔を作りながら出て来た。

「お連れさんは?」

「これは俺の大の親友だ。帆村という……」

「よろしゅうございます。……ところで貴方に御注意しときますがな、どうも余り深入りするとよくありませんぜ」

 と門衛は改まった顔で意味深長なことをいった。

「なんだい、深入りなんて?」

「……」彼はこれでも判らないかというような顔をしたのち「あれですよ、三原玲子さんのことです。貴方の御贔屓(ごひいき)の……」

「これこれ」

 私は帆村の方をちらと見たが、彼はスタディオの巨大なる建物に見惚(みと)れているようであった。

「三原玲子がどうかしたかい」

「この間、刑事がここへずかずかと入ってきましてね。あの娘を裸にして調べていったのですよ」

「そりゃ越権だナ。裸にするなんて……」

「尤も是非署へ引張ってゆくといったんですが、所長が今離せないからと頼みこんだのです。その代り、桐花カスミさんなどの女連が立ち合って裸の検査ですよ」

「ど、何うしたというんだ」

「よくは判りませんが、何か探すものがあったらしいのですよ。でも、まア三原さんの体からは発見されないで済んだようですが外に二人ほど男優とライト係とが拘引(こういん)されちまって、まだ帰ってこないのです。とにかくあっしは三原玲子さんばかりはお止しなさいと云いますよ」

「変なことを云うなよ、はっはっはっ」

 私は帆村の待っている方へ行って、彼を撮影場の方へ誘った。

「いまの三原レイ子とかいうのは、何うしたのだ」帆村はもうちゃんと聞いていた。

 私はすっかり()れてしまった。が、隠してももう隠しきれないと思ったので、彼に一と通り説明をした――三原玲子というのは、この東キネの幹部女優桐花カスミの弟子に当る新進のインテリ女優だった、彼女は私と一緒にL大学の理科の聴講生だったことがあって、それで旧知の仲だった。その玲子はあまり美人とは云えない方で、スクリーンに出ることはまず稀で、もっぱら桐花カスミの身の周りの世話をして重宝がられていた。蒼蠅(うるさ)い世間は、玲子の殊遇(しゅぐう)が桐花カスミとの同性愛によるものだろうと、噂していたが、それは嘘に違いない。……私の知っていることはそれだけだというと、帆村はひとの顔を穴の明くほど見詰めて、やがてにやりと(わら)った……。

 厳重ないくつかの関所を通って、私達は漸くトーキースタディオに入ることができた。中へ入ると、一切の騒音は、厚いフェルトの壁に吸いとられて、耳ががあんとなったような感じがした。声を出してみると、ばさばさという音しか出ず、変な工合だった。ホールの真中には、銀座の四つ角のセットが立っていて、その前で現代劇の撮影が始まっていた。大勢の男女優が、いろいろの服装をして、シャツ一枚の撮影監督の指揮に従って、あっちへ行ったり、こっちへ来たりしていた。――虫籠のようなマイクロホンが、まるで深淵(しんえん)に釣を垂れているように、あっちに一つ、こっちに一つとぶら下っている。

「見給え、あれが桐花カスミだ」

 と私は帆村に主役の女優を教えた。

 帆村は一向気がないような顔をして、トーキー撮影場の天井ばかり見上げていた。

「それからついでに紹介するが、あすこでルージュを使っているのが、例の三原玲子さ」

「三原玲子?」帆村は初めて眼を天井から、群衆の方に移した。「おお、あの女が……」

 帆村はなにに駭いたか、私の腕をしっかり握って目を(みは)った。私はその場の事情を解しかねたが、彼はどうやら玲子を前から知っていたらしい。

「おい出よう」

 いま入ったばかりなのに、帆村は私を無理やりに引張って外へ連れ出した。

 私はすくなからず不満だった。それを云うと、帆村は私を(なだ)めていった。

「興奮してはいけないよ。あの三原玲子という女は、例の暁団の一味なんだ。何を隠そう、ギロンで僕に密書を渡そうとしたのは正しくあの女なんだ」

「何だって? 玲子が暁団員……」

 何という意外なことだろう。人もあろうに玲子が暁団に関係しているとは。私はさっき門衛から聞き込んだことを思い合せた。こうなれば、早く帆村に知らせてやるほかない。

「僕は今暫く玲子に見られたくないのだ」と帆村は深刻な表情をして云った。「しかし彼女が例の女に違いないということをもっと確かめたい。どこかで写真を見せて呉れないかしら」

「さあ、――」

「とてものことに、動いているやつ――つまり活動写真で見たいね。試写室はどうだろう」

 試写室というわけにも行くまい。私は考えて、彼をフィルムの編集室へ連れてゆくのが一番簡単であり、そして自由が利くと思った。――それを云うと、帆村は満足げに、大きく肯いた。

 フィルム編集室は、スタディオからかなり離れたところにあった。そこに働いている連中とは前々からよく知り合っていた。

「桐花さんのフィルムを映してみせてくれないか、この人が見たいというので……」

 というと、木戸という編集員が出てきて、

「じゃあ、いま撮影中だけれど『銀座に()ぐむ』の前半を見せましょうか」と気軽に引受けてくれた。

 帆村と私とは、狭い編集用の試写室の中に入って黒いカーテンを下ろした。

「スタディオが出来て、録音がとてもよくなりましたよ……」

 木戸氏は映写函の中から、私たちに自慢をした。やがて小さいスクリーンに、ぶっつけるような音が起ると、現代劇「銀座に芽ぐむ」が字幕ぬきでいきなり映りだした。

 帆村は私の隣りで熱心に画面を見ているようだったが、三原玲子はなかなか現われてこなかった。そして暫くすると口を私の耳のところに寄せて(ささや)いた。

「ちょっと可笑しいことがあるぜ。……桐花カスミの声は実物より(とて)も良すぎるじゃないか。さっき聴いて知っているが、これはどうも桐花カスミの声ではないようだ」

 この質問には、実のところ私は、帆村の注意力の鋭いのに駭かされてしまった。

 本当のことを云えば――これは会社の大秘密であるけれども……、桐花カスミの悪声について一つのカラクリが行われているのだった。トーキー時代が来ると、桐花カスミの如きはまさに映画界から転落すべき悪声家だった。しかし実を云えば彼女は某重役の(かこ)い者であったから、そこを無理を云って、辛うじて転落から免れた。さりながら重役とても、会社の映画の人気がみすみす墜落してゆくのを傍観していられないから、そこでこのカラクリの手を考えた。――三原玲子は、実は桐花カスミの「声の代演者」だったのである。

 声の俳優――そして三原玲子は、会社の秘密の役を演じ、桐花カスミを助けていたのであった。それは何という奇異な役柄であったろう。そんなわけで、三原玲子の存在は、一般ファンには殆んど知られていなかったのである。――そのことを手短かに帆村に語ってやると、流石(さすが)の彼も感にたえかねたか、首を左右にふりながら、

「姿なき女優――はて、どこかで聴いた様な言葉だが……」

 と(つぶや)いた。

     4

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