1話 火葬国風景(1)
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甲野八十助
「はアて、――」
と探偵小説家の甲野八十助は、夜店の人混みの中で、不審のかぶりを振った。
実は、この甲野八十助は探偵小説家に籍を置いてはいるものの、一向に栄えない万年新進作家だった。およそ小説を書くにはタネが要った。殊に探偵小説と来ては、タネなしに書けるものではなかった。ところで彼は或る雑誌社から一つの仕事を頼まれているのであるが、彼の貧弱な頭脳の中には、当時タネらしいものが一つも在庫していなかった。逆さに振ってものみ一匹出てこないという有様だった。苦しまぎれに、彼はいつもの手で、フラリと新宿の夜店街へ彷徨いいでた。いつだったか彼はその夜店街で、素晴らしいタネを拾った経験があったので、今夜ももしやというはかない望みをつないでいたのだった。
「はアて、あいつは誰だったかナ」
甲野八十助は、寒い夜風に、外套の襟を立てながら、また独言をいった。
彼はいまそこの人混みの中で、どこかで知り合ったに違いない男と不図擦れちがったのだった。その男というのがまた奇妙な人物だった。非常に背が高くて、しかも猫背で、骨と皮とに痩せていた。眼の下には黒い隈が太くついていて、頬には猿を思わせるような小じわが三四本もアリアリと走っていた。そして頭には、宗匠の被るような茶頭巾を載せ、そのくせ下は絹仕立らしい長い中国服のような外套を着ていた。そして右手には杖をつき、歩くたびにヒョックリヒョックリと足をひいていた。
「やあ、――」
と甲野八十助は、そのときこの奇妙な男に声をかけたのだった。彼は至って顔まけのしない性質だったから……。
「いよオ――」
と相手は口辺に更に多数の醜いしわの数を増しながら、ガクガクする首を前後に振り、素直に応じたのだった。
八十助はそれで満足だった。それ以上、何を喋ろうという気もなかった。そのまま、この知人と別れて、同じ人混みをズンズンと四谷見附の方へ流れていったのだった。
(あいつは、誰だったかナ)
八十助には、いま挨拶を交した奇妙な男の素性を思い出すことが、何だか大変楽しく思われて来た。それでソロソロこの楽しい一人ゲームを始めたのだった。
だが、思う相手の素性は、いつまで経っても、彼の脳裏に浮びあがりはしなかった。
「誰だったか。あいつの素性よ、出てこい、――」
八十助は、小学校の友人から出発して、中学時代、大学時代、恋愛時代、それから結婚時代、さらに進んで妻と死別した後の遊蕩時代、それから今の探偵小説家時代までの、ことごとくの時代の中に、彼の奇妙な男の姿を探し求めたけれど、どうもうまく思い出せなかった。ついそこまで出ているだが、どうも出て来ないのであった。彼はすこしジリジリとして来た。
そのとき彼は、大きな飾窓の前を通りかかった。そしてそこに並べてある時事写真の一つに眼を止めた。「逝ける一宮大将」とあって、太い四角な黒枠に入っている厳めしい正装の将軍の写真だった。その黒枠を見たとき、彼は電光の如く、さっきの奇妙な男の正体を掴んだのだった。
「うん、彼奴だッ。――」
そう叫んだ彼は、不思議にも、叫び終ると共に、なぜかサッと顔色を変えた。何故何故?
鼠谷仙四郎
「そうだ、彼奴だ。彼奴に違いない!」
螳螂男への古い記憶が電光のようにサッと脳裏に映じた。黒枠写真を見たときに、どうして彼奴のことを思い出したのであろうか。それはいわゆる第六感というものであろうが、不思議なこととて気になった。しかし後日になってその不思議が解ける日がやってきたとき、八十助は呼吸の止まるような驚愕を経験しなければならなかったのである。
「そうだ、彼奴は姿こそ変り果てているが、鼠谷仙四郎に違いない!」
鼠谷仙四郎――という名前を口のなかで繰返していると、八十助は小学校へ上ったばかりのあの物珍らしさに満ちた時代を思い出す。木の香新しい、表面がツルツル光っている机の前に始めて座った時、その隣りに並んでいるオズオズした少年が鼠谷仙四郎君だった。そのころの鼠谷は、顔色は青かったが、涼しいクリクリする大きい眼を持ち、色は淡いが可愛い小さい唇を持った美少年だった。たまたま机を並び合ったというので、二人の少年はすぐ仲善しになってしまった。この仲善しは、年と共に濃厚になり、軈て大学を卒業すると二人はこれまでのように毎日会えなくなるだろうというので、女学生もやらないだろうと思われるほどの大騒ぎを起したのだった。
その揚句、八十助と鼠谷とは一つのうまい方法を考えた。そのころ二人とも勤め先が決っていて、八十助は丸の内の保険会社に、鼠谷の方は築地の或る化粧品会社へ通勤することになっていた。それで申し合わせをして午後の五時ごろ、二人が勤め先を退けるが早いか、距離から云ってほぼ等しい銀座裏のジニアという喫茶店で落合い、そこで紅茶を啜りながら積もる話を交わすことにしたのだった。これは大変名案だった。二人はすっかり朗かになり、卒業のときに大騒ぎをしたのが可笑しく思われてならなかった。
ところがこの名案ジニアのランデヴー(?)は名案には違いなかったが、彼等二人の交際に思いがけない破局を齎すことになったのも運命の悪戯であろうか。それはこの喫茶店に、露子という梅雨空の庭の一隅に咲く紫陽花のように楚々たる少女が二人の間に入ってきたからであった。
「鼠谷さんは、そりゃ親切で、温和しいからあたし好きだわ」
と朋輩にいう露子だったが、また或るときは
「甲野の八十助さんは、明るいお坊ちゃんネ。あたしと違って何の苦労もしてないのよ、いいわねエ」
とも云った。
昨日の親友は今日の仇敵となり、二人は互に露子の愛をかちえようと急ったが、結局恋の凱歌は八十助の方に揚がった。八十助と露子とが恋の美酒に酔って薔薇色の新家庭を営む頃、失意のドン底に昼といわず夜といわず喘ぎつづけていた鼠谷仙四郎は何処へともなく姿を晦ましてしまった。そのことは八十助と露子との耳にも入らずにいなかった。流石に気になったので、探偵社に頼んで出来るだけの探索を試みたりしたが、鼠谷の消息は皆目知れなかった。これは屹度、人に知れない場所で失恋の自殺をしているのかも知れないと、二人は別々に同じことを思ったのだった。
ところがそれから三年経って、八十助は妙な噂を耳にした。それは鼠谷仙四郎が生きているというニュースだった。しかも彼は、同じ東京の屋根の下に、同じ空気を吸って生きていたのである。彼の勤め先というのは、花山火葬場の罐係であった。
当分は、彼は勤めに出ても、鼠谷のことが気になって仕事が手につかなかったが鼠谷は、別に彼等夫妻に危害を加えようとする気配もないばかりか、次の年にはチャンと人並な年賀状を寄越したりした。そんなことから八十助夫妻は、始めに持った驚愕と警戒の心をいつともなく解いていった。一年二年三年と経ち、それから五年過ぎた今日では、八十助にとって鼠谷仙四郎はもう路傍の人に過ぎなかった。それには外にもう一つの理由があった。というのは、八十助の恋女房の露子が、この春かりそめの患いからポツンと死んでしまったため、彼は亡妻を争った敵手のことなんかいよいよ忘れてしまったのである。
その鼠谷仙四郎が、こうして久し振りで目の前に現われたりしなければ、八十助は一生涯彼のことを思い出すことなどはなかったであろうのに……。
「ハテナ……」
と、そのとき何に駭いたのか、八十助は舗道の上に棒立ちとなった。彼はつい今まで忘れていた重大なことを思い出したのだった。
「ハテ……、鼠谷仙四郎なら、あいつは確か死んでしまった筈だったが……」
暗鬼は躍る
「鼠谷仙四郎なら、生きている筈がない!」
八十助が顔の色を変えたのも無理はなかった。なぜなれば、いまから二三ヶ月ほど前、彼はハガキに印刷した鼠谷仙四郎の死亡通知を受取ったことを思い出したからだ。なぜそのような重大なことを度忘れしていたのだろう?
その文面には、たしかに次のような文句があったと思った。
「……鼠谷仙四郎儀、療養叶わず、遂に永眠仕候間、此段謹告候也。
追而来る××日×時、花山祭場に於て仏式を以て告別式を相営み、のち同火葬場に於て荼毘に附し申可く候……」
この文面から推せば、彼はたしかに病気で死亡し、その屍体はたしかに火葬せられたのだった。しかも皮肉なことに、彼が生前世話を焼いていた花山火葬場の罐の中で焼かれ、灰になってしまった筈だった。尤も稀には死人がお葬の最中に甦って大騒ぎをすることもないではないが、それは極めて珍らしいことで、もしそんなことがあれば、鵜の目鷹の目で珍ダネを探している新聞記者が逸する筈はなかった。しかし最近の新聞記事にはそんな朗かな報道がなかったことから推して、かれ鼠谷の死体は順調に焼場の煙突から煙になって飛散したに違いあるまい。すると……?
すると八十助は、今しがた其処の夜店街の人込みの中で、旧友鼠谷仙四郎の、幽霊を見たことになる。
「ううッ――」
彼はガタガタ慄えだした。そして外套の襟を咽喉のまえで無暗に掻きあわせた。もうこうなっては小説のタネのことなどを考えている余裕はなかった。なんだか脳貧血に襲われそうな不安な気持になった。そこで彼は、通りかかった一軒の酒場の扉をグンと押して、中へ飛びこんだ。
「ブランデーを……。早くブランデーを……」
給仕の小娘を怒鳴りつけるようにして、洋酒の壜を催促した。彼の前にリキュール杯が並ぶまでの僅かな時間さえ、数時間経ったように永く感ぜられた。ブランデーの栓を抜こうとする小娘の手を払いのけて、彼は自らグラスに注いだ。ドロドロと盛りあがってくる液体をグッグッと、立てつづけに四五杯もあおった。腸の中がカッと熱くなってきて、やがて全身に火のような熱い流れが拡がっていった。
「ふーッ」
と彼は溜息をついた。
(ああ、助かった!)
と彼は心の中で叫んだ。そしてまたしてもグラスを手に取上げた。気が次第に落着いて来て、始めてあたりの閑寂な空気に気がついた。
八十助の座席の隣では、二人の男が物静かな会話をつづけていたそれを聞くともなしに、彼は聴いた。
「……というわけでネ」と紋付羽織の男が言った。「どうも変なのだ一宮大将ともあろうものがサ、まさか株に手を出しやしまいし、死の直前に不動産を全部金に換え、しかもそいつを全部使途不明にしてしまい、遺族は生活費の外に一文も余裕がないというのだからネ」
「それに変だといえば、大将の急死がおかしい。いくらなんでも、あんなに早く逝くものかネ」
「僕は大将の邸で、変な男を見かけたことがある。肺病やみのカマキリみたいなヒョロ長く、そして足をひいている男さ。あいつが何か一役やっているに違いない」
「でもあいつは其後死んじゃったという話じゃないか……」
二人の話をここまで聴いていた八十助は、そこから先をもう聞くに堪えなかった。話題に上っているカマキリのような男というのは、あの鼠谷仙四郎のことに相違ない。この二人も彼奴が死んじまったといっているではないか。
八十助は何がしかの銀貨を卓子の上に置くと、酒場から飛び出したのだった。
幽霊男
酒場を出てみると、そこは賑かな夜店街の切れ目だった。そこから先は夜店がなくなって、急に日が暮れた様な寂しい通りだった。彼は当てもなく、足を早めた。
そのときだった。丁度そのとき、彼の背後から声を懸けたものがあった。
「モシモシ、甲野君……」
突然わが名を呼ばれて八十助はギョッとその場に立ち竦んだ。背後を見てはならない――誰かが警告しているように感じた。といって呼ばれて振り向かずに居られようか。
「モシモシ、甲野君じゃないか……」
「あ――」
彼は思い切って、満身の力を込めて、背後を振りかえった。
「呀ッ」
そこには背のヒョロ高い、眼の下に黒い隈の濃いカマキリのような男――あの鼠谷仙四郎の幽霊が突っ立っていた。
「やア甲野君」
とその怪物はニヤニヤ笑いながら声をかけた。
「キ、キミは誰ですウ――」
「誰だとは、弱ったネ」と怪物は一向弱っていなそうな顔で云った。「僕は君と中学校で机を並べていた鼠谷……」
「鼠谷君なら、もう死んだ筈だッ」
「そいつを知っていりゃ、これからの話がしよいというものさ。はッはッはッ」と彼は妙なことを云った。「なぜ死んだ人間が、生き返って君達に逢うことができるのか――そいつは暫らく預かっておくとして、もしそんなことが出来るとしたら、君はそれがどんなに素晴らしい思いつきだと考えないか」
「くだらんことを云うな。幽霊なら、ちと幽霊らしくしたらどうだ」
と八十助は云ったものの、自分の方が随分下らんことを云ったものだと呆れた。
「まアいい。僕が幽霊だか、それとも生きているか、それは君の認識に待つこととして、僕は一つ君に聞いてみたいことがある」
幽霊にしては非常にしっかりしたことを云うので、八十助はもう何がなんだか判らなくなった。そして応える言葉も見当らなかった。
「いいかネ。君は細君を亡くしたネ。たしか君たちは熱烈な恋をして一緒になったのだネ。君は輝かしい恋の勝利者だった。……」
「ナ、なにを今頃云ってるんだい」
「うん、……そこでダ、君に訊いてみたいのは、君は亡くなった細君――露子さんと云ったネ、あの露子さんに逢いたかないかネ」
「露子に?」
露子に逢いたくないかといっても、露子は亡くなったのだ。そして火葬に附して、僅かばかりの白骨を持ってかえって、今それを多摩墓地に埋めてある。骨になった者に逢いたくないかというのは、盆の中の水を地面にザッとあけてその水を再び盆の上に取り戻してみせる以上に難いことだった。このカマキリ奴は、幽霊である上に御丁寧にもおかしいのだと思った。
「いいかネ。死んだ筈の僕が斯うして君の前に立っているのだ。見たまえ、ここはすこし淋しいが、たしかに四谷の通りだよ。僕は生きていることを認めて貰えるなら首を横にちょっと廻して、君の恋女房の露子さんが生きているかもしれないことを考えないかネ」
(首を横にちょっと廻して……)と云われた八十助は、ハッと驚いて、幽霊男の両側をジロジロと眺めまわした。
「やっぱり気になると見えるネ。ふふふふッ」
と鼠谷と名乗る男は、煙草の脂で真黒に染まった歯を剥きだして笑った。
八十助は赤くなった。しかし彼の眼には、死んだ女房の幽霊らしいものは見えなかった。
怪人怪語
「イッヒッヒッ。……いくら探しても、まさか此処には居やしないよ」
鼠谷はますます機嫌がよかった。それだけ八十助は腹が立ってたまらなかった。
「君はこの僕を嬲るつもりだナ。卑劣なことはよし給え」
「ナニ俺が君のことを嬲るって?」鼠谷はわざと大袈裟に駭いてみせた。「それア飛んでもない言いがかりだよ。俺の言うことは大真面目なんだ。それを信じない君こそ実に失敬じゃないか……とは云うものの、君が一寸信じないのも無理がないと思うよ。余りに俺の云うことが突飛だものネ」
鼠谷は怒るかと見せ、その後で直ぐ顔色を和らげて八十助の機嫌をとるのだった。八十助はようやく気持を直した、それが策略であるかも知れないとは思いながら……。
「とにかく君は大嘘吐きだネ」と八十助は相手の顔にぶつけるように云った。「チャンと生きている癖に死亡通知をだしたのだからネ。僕としても、もし今夜君にめぐり逢わなかったとしたら、君は火葬場で焼かれて骨になっていることとばかり思っているだろうよ。君は何故、死んだと詐ったんだい」
「詐っちゃいないよ、俺は。あの死亡通知は本当なのだ。まア落着いて俺の言うことを一通り訊いてくれよ。全く奇々怪々な話なんだから。……」
鼠谷は八十助の腕をとらえて放そうとしなかった。そして此処では話ができないから、何か飲みながら話そうといった。そして馴染のいい酒場を知っているからといって、逡巡している八十助を無理に引張って行った。
それは確かに新宿裏にある酒場で、名前もギロチンという店だったが、その辺の地理に明るい八十助もそんな店のあるのを知ったのがその夜始めてだった。扉を押して入ってみると、土間は陰気にだだ広く、そして正面には赤や青や黄のレッテルの貼ってある洋酒の壜が駭くばかりの多種に亘って、重なり合った棚の上に並べてあり、その前のスタンドはいやに背が高く、そしてその間に挟まって店の方を向いているバアテンダーはまるで蝋人形のような陰影をもっていた。
「いらっしゃいまし。……貴方のお席はチャンとあれに作ってございます」
バアテンダーはゼンマイの動き出した人形のように白いガウンの腕だけを静かにあげて、隅の席を指した。そこには白バラの活けてある花瓶が載っていた。観察すればするほど奇妙な酒場だった。八十助はいつか西洋の妖怪図絵の中に、こんな感じのする家が出ていたのを思い出した。
鼠谷はカクテルを註文すると、すぐに話の続きを始めた。
「……いいかネ、甲野君。俺は一旦死んで、たしかにあの花山火葬場の炉の中に入れられたんだ。それを見たという証人もいくらでもあるよ。その人達にとっては、俺の生きていることを信ずることよりも、死んだことの方を信ずる方が容易だろうと思う。本当に俺は死んだのだ。一旦死んだ世界へ行ってきて、それから再びこの世に現れたのだ。思いちがいをしてはいけないよ。君には俺がよく見えるだろうけれど、俺はとくの昔に、この世の人ではないのだ」
「莫迦莫迦しい。もうそんなくだらん話は止し給え。誰が君を死人の国から来た男だと思うだろうか。それよりも、君の生きていたことを祝福して、一つ乾杯しようじゃないか」
八十助は鼠谷がおかしいのだと思ったので、いい加減にその相手から遁れるために、乾杯をすすめた。
「ナニ祝杯をあげて呉れるというのかい。そいつは嬉しい。では――」
カチンと洋盃を触れあわせると、二人は別々の盃からグッと飲み乾した。
「やあ、これで俺の勝利だ。今度は俺が君のために乾杯することにしよう」
といってバーテンダーに合図をした。
「君の勝利だって、何を云っているんだ――」
八十助は相手の言葉を聞き咎めた。
「それはこっちの話さ。いまに判るがネ。つまり君は俺がこの世の者でないという俺の説を信じてくれる見込がついたからさ。……さあ酒が来た。君のために乾杯だ」
「なんだって? 君は……」
八十助はそこまで云ったときに、俄かに酔いが発したのを覚えた。彼の前にある世界が、酒場が、そして鼠谷が、一緒になってスーッと遠くへ退いてゆくように思われた。
(呀ッ。これはしっかりしなくては……)
と卓子の上に手を突張ろうとしたが、どうしたのかこのときに彼の上体は意志に反してドタンと卓子の上に崩れかかった。
火焔下の金魚