11話 山の秘密 一
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U夫人は語る。
わたくしは女のことで、探偵趣味のお話の材料などを持ち合わせていよう筈もございません。ほんの申し訳ばかりに、こんなことで御免を蒙りたいと存じます。その場所もその関係の方たちのお名前も、はっきりとは申し上げられませんが、わたくしが学校を出ました翌年の夏の事でございました。わたくしは東京から五時間ばかりの汽車旅行をして、お友達の吉川三津子さんをおたずね申したのでございます。勿論これは仮りの名と御承知ください。三津子さんは学校を卒業する前から、関井さんというかたとお約束が取りかわされていて、卒業すると間もなく東京で結婚式をあげて、すぐにそのかたの勤め先きへ一緒に連れてゆかれることになったのでございます。
わたくしは三津子さんと同期生で、一緒に卒業式につらなったのですが、家庭の事情や何かでその翌年まで自分の家にまだぶらぶらしていますと、その年の夏の初めに三津子さんから手紙が来て、ことしの暑中にはぜひ一度遊びに来てくれということでした。三津子さんのお連合いは林学士で、ある地方の小林区署長を勤めていらっしゃるのでございます。その官舎はなんでも山の中の寂しいところで、近所に人家などは一軒もないような、寂しいのを通り越してなんだか物凄いようなところだと聞いていました。しかしわたくしはこの通り陰気な質で、賑かなところへ出るのは大嫌い、寂しいところならば大抵は我慢の出来る方ですから、その寂しいということはさのみに恐れもしませんでした。そんなところならば、夏は定めて涼しいに相違あるまい。もう一つには、多年仲よく御交際をしていた三津子さんが、そんな山の中でどんな新家庭を作っているかということにも一種の興味――と申しては、ちっと穏当でございませんが、まあどんな様子か、一度は見て置きたいような心持にもなったので、とうとう思い切ってこの夏はおたずね申しますという返事を出しますと、三津子さんの方からまた折り返して手紙が来て、それではかならず訪ねてくれ、お目にかかって是非お話し申したいこともあるからということでしたから、わたくしも母や兄の許可をうけて、七月の末になったらばきっと行くことに約束してしまいました。
七月の初めに、三津子さんから又ぞろ長い手紙がとどいて、きっと約束を守ってくれと諄いように念を押して来ましたので、わたくしもすぐに返事を書いて、この月の廿五日の午前何時には東京を出発するといって、汽車の時間までも報らせてやりました。わたくしの一家はみんな旅行好きで、わたくしも子供の時からたびたび方々へ連れてゆかれたこともありますので、今度の旅もさのみ億劫には思いませんでした。しかしどうしても半月以上は先方に滞在する予定ですから、女としては相当の準備をしなければなりません。殊にそんな山の中では、三津子さんも定めて食べ物にも不自由しているだろうと思ったので、いろいろの罐詰物などを買いあつめて、バスケットへいっぱいに詰め込みました。
出発の朝はどんより陰って、なんだか霧のような細雨が時々に降って来るらしいので、どうしようかと一旦は躇したのですが、汽車の時間まで先方へ報らせてあることでもあり、却ってこんな日の方が涼しくていいかも知れないとも思ったので、わたくしは思い切って家を出ました。荷物が少し多いので、中学へ通っている弟が停車場まで送って来てくれました。汽車は北の方角へむかって行くのでしたが、途中から陰った空はすっかり剥げてしまって、汽車みちの両側では油蝉の声が熬り付くようにきこえました。強い日光は鎧戸の外まで容赦なく迫って来て、約五時間の汽車旅行にはわたくしもかなり疲れました。気味の悪いあぶら汗が襟もとにねばり付いて、絶えずそれを拭いているハンカチーフが絞るように湿れてしまいました。
「三津子さんの住んでいる山の中はさぞ涼しかろう。」
そんなことを考えて、努めて涼しそうな気分をよび出すようにして、わたくしはどうにかこうにかこの暑苦しい汽車旅行を終って、小さい田舎の停車場に降り立ったのは、午後一時に近い頃でした。停車場の前には百日紅の大きい枝がさながら日除けのように拡がっていましたが、そのたくさんの花が白昼の日にあかあかと照らされているのが、まぶしいほどに暑苦しく見えました。
「村上さん。」
よびかけられて振り向くと、三津子さんはパラソルをつぼめて、その百日紅の木かげに立っていました。三津子さんはわたくしと同い年の廿一で、年よりも若くみえる質の人でしたが、一年あまり逢わないうちにめっきりと老けたようで、眼の美しい下膨れの顔が少し痩せたようにも見えました。なにしろ久し振りで逢ったのですから、おたがいに懐かしさは胸いっぱいで、しばらくは碌々に挨拶も出来ないくらいでした。
「よく来て下すってね。」と、三津子さんはほんとうに嬉しそうに言いました。「あなたのことですから、よもや嘘じゃあるまいと思っていましたけれど、こうしてお目にかかるまでは、まだどうだろうかと危ぶんでいたのでございますわ。途中はずいぶんお暑かったでしょう。」
「わざわざお出迎えで恐れ入りました。おことばにあまえてお邪魔に出ました。」
「どうぞごゆっくり御逗留なすってください。田舎も田舎、そりゃ大変な山奥のようなところですけれど、折角いらしって下すったもんですから、ひと月でも二月でも……。あなたが帰ると仰しゃっても、わたくしの方で無理にお引き留め申しますわ。」
どの道、先方へゆき着けば、ゆっくりとお話が出来るのですけれど、大抵のことはここで言ってしまわなければならないように、それからそれと話題は尽きないのが女の癖でございましょうか。それでも三津子さんはやがて気がついたように百日紅の樹の蔭を離れました。そうして、もう前から誂えてあったらしい二台の人車を呼びました。ここらの車夫は百姓の片手間なので、前から頼んで置かないと乗りはぐれることがあるそうです。案内者の三津子さんが前の人車に、わたくしが後の人車に乗せられて、木賃宿のようなきたない旅籠屋や茅葺き屋根の下に小さい床几を出している氷屋などがならんでいる、さびしい停車場前を横に切れて、黍畑のつづいている長い田圃みちを駈けぬけて行きました。停車場から山の裾までは二里あまりで、その山路へ差しかかってから更に一里半ほども登るのだということをたった今、三津子さんから聞かされているので、この道中はなかなか容易でないことをわたくしも内々覚悟していますと、田圃をぬけると又すこし人家のつづいている村里にはいって、それから再び田圃にさしかかって、再び人家のまばらな村にはいる。こうした単調な道中を幾度もくり返しているので、田舎めずらしいわたくしも少し倦んで来ました。
二台の人車は西北の方角へ走ってゆくようでした。その方角にはかなりに高い山が牛を臥かしたように横たわっていて、人車はそれを目標にして行くように思われました。あの山のなかに三津子さんの家がある――それを思うと、わたくしはなんだか寂しい心持にもなりました。いくらお連合いと一緒に暮らしているとはいいながら、東京のまんなかで不自由なしに育って来た三津子さんが、こんなところに新しい家庭を作っている――それが又わたくしには何だか嘘のようにも思われました。
山路へさしかかっても、一里ばかりの間はどうにか斯うにか人車がかようのでありました。もっともその途中、狭い嶮しい崖みちで人車からおろされたことが二、三度ありました。麓で見あげた時にはたいそう優しげな山の形でしたが、さて踏み込んでみると、ずいぶん嶮しい山坂で、こんなところに住んでいては日常生活が定めて不便なことであろうと、わたくしはつくづく思いやりました。途中でたった一人、芒のようなものをたくさんにたばねて馬の背に積んで来る男にゆき逢いましたが、そのほかには往来の人も見えませんでした。路が下り坂になろうとして、どこやらで水の音が聞こえるところで、わたくし共は人車から降ろされました。これから先きはもう人車がかよわないというのです。車夫は二台の人車を路ばたの樹の下に置き捨てたままで、わたくしの荷物をかついで送って来てくれました。
「あなた、あるけますか。」と、三津子さんは微笑みながらわたくしを見かえりました。
もし歩けなければ、車夫に負ぶってもらうというのでしたが、わたくしは断わりました。下り坂を降りると、熊笹の一面に生いしげっている底に水の音がきこえました。山川の習いで、かなりに瀬が早いらしいと思っているうちに、五、六間もあろうかと思われる山川が眼の前にあらわれました。川の中にはところどころに大きい石が聳えている。ぐゎうぐゎうという響きを立ててむせび落ちて来る清らかな水は、そこにもここにも白い泡を噴いています。その川べりを縫って、およそ一町あまりも歩いたかと思うときに、ふと見るとひとりの小さい人間が川の中の平たい石の上に身をかがめていました。わたくしは思わず立ち停まって、あの人は何をしているのかと眺めていますと、そばにいる車夫が教えてくれました。
「あれは山女という魚を捕っているのです。」
「男の児でしょうか。」と、わたくしは小声で訊きました。
その人間の姿がどうも男か女かよく判らなかったからでございます。
「女でしょうよ。」と、車夫はまた言いました。
そういわれれば、なるほど女であるらしくも思われました。うしろ向きになっているので、その人相は判りませんけれども、長い髪の毛を藤蔓のようなものでぐるぐると巻き付けて、肩のあたりに垂れていました。着物は縞目も判らないように汚れている筒袖のようなものを着て、腰にはやはり藤蔓のようなものを巻いていましたが、裳が短いので腰から下はむき出しになっていました。身体は小作りで、まだようよう十三四の子供であるらしく、なんだか山猿に着物をきせたのではないかとも思われるような形で、一心に水の底をうかがっているらしく思われました。藤蔓をわがねて、流れて来る魚を不意に引っかけて、片手で素早く掴んでしまうのだと車夫がまた説明しました。
その説明を聴きながら川上の方へのぼって行こうとすると、わたくしどもの足音を聞きつけたらしく、かがんでいた女の児は水の上から眼を離して、じっとこちらを見つめました。山の中に住んでいるせいか、その児の色の白いのが、わたくしの眼につきました。容貌も悪くはない方でした。唯その眼付きがなんだか人間らしくない、その姿とおなじように山猿を連想させるような一種の強い光りをもっているのが、わたくしに言い知れない不安と不快の感じをあたえました。その眼が三津子さんの眼と出逢った時に、三津子さんの眼の色も俄かに変わったように思われました。しかし三津子さんはなんにも言わないで、わたくしの先きに立って歩いてゆきました。女の児は石の上でいつまでもこっちを睨むように見送っていました。川をつたってゆくと、芒の茂っている山路は再び上り坂になりました。