探偵夜話

2話 火薬庫 二

2,520字 約5分 2012年8月17日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 司令部の門を出ると、佐山君と相前後して戸塚特務曹長が出て行った。特務曹長とも平素から懇意にしているので、佐山君は一緒にあるきながら又訊いた。

「ほんとうですか。火薬庫の一件は……。」

「ほんとうです。」と、特務曹長は真面目にうなずいた。「わたしは大尉殿に化けているところも見ました。」

「狐が大尉殿に化けたのですか。」

「そうであります。司令部にかつぎ込んだ時には、たしかに大尉殿であったのです。それがいつの間にか狐に変わってしまったのです。」

「たしかに大尉殿であったのですか。」と、佐山君は念を押した。

「そうであります。わたしも確かに見ました。」

 一方の大尉が無事である以上、殺された大尉殿は狐でなければならない。しかしそれがどうしても佐山君には信じられなかった。昔話ならば格別、実際に於いてそんな事実が決してあり得べき筈がないと彼は思った。戸塚特務曹長はこれからその件に就いて火薬庫まで行くというので、佐山君もかれと一緒に行って現場の様子を見とどけ、あわせて昨夜の出来事の真相を知りたいと思って、かの川べりの丘の方へ肩をならべて歩き出した。

「で、いったいゆうべの事件というのはどうしたのですか。狐が大尉どのに化けて、何かいたずらでもしたのですか。」

「それはこういう訳です。」と、特務曹長は薄い口髭をひねりながら、重い口でぽつりぽつりと話し出した。「ゆうべ、いや今朝の一時頃です。あの火薬庫の草むらの中にぼんやりと灯のかげが見えたのです。あの辺は灌木やすすきが一面に生い茂っている所で、その中から灯が見えたかと思ううちに、ひとりの人間が提灯を持って火薬庫の前へ近寄って来ました。哨兵がよく見ると、それは向田大尉殿でありました。哨兵はむろん大尉殿の顔を識っています。ことに大尉殿は軍服を着て、司令部の提灯を持っているのですから、なんにも疑うところはないのであるが、軍隊の規律としてただ見逃がすわけには行かないので、哨兵は銃剣をかまえて『誰かッ』と声をかけたのです。けれども相手はなんにも返事をしない。哨兵は再び声をかけて『停まれッ』といったのですが、やはり停まらない。三度目に声をかけても、やはり黙っているので、哨兵はもう猶予するわけには行かなくなったのです。」

「でも、見す見す向田大尉殿だったのでしょう。」と、佐山君はさえぎるように言った。

「軍隊の規律ですから已むを得ません。」と、特務曹長はおごそかに答えた。「殊に火薬庫の歩哨は重大の勤務であります。三度まで声をかけても答えない以上、それが見す見す向田大尉殿であっても打っちゃっては置かれません。哨兵は駈け寄って、その銃剣でひと突きに突き殺してしまったのです。そうして、その次第を報告すると、司令部の方でも大騒ぎになって、当直の将校たちもすぐに駈け付けてみると、死んでいるのは確かに向田大尉殿でありました。」

「あなたも現場へ出向かれたのですか。」と、佐山君は(くち)をいれた。

「いや、わたしは行きませんでした。しかしその死体を運び込んで来るのは見ました。大尉殿は軍服を着て、顔の上に軍帽が乗せてありました。そこで、まず大尉殿の自宅へ通知すると、大尉どのはちゃんと自宅に寝ているのです。大尉殿が無事に生きているというのを聞いて、みんなも又おどろいて再びその死体をあらためると、それはどうしても大尉殿に相違ないのです。そうして、たしかに大尉殿の軍服と軍帽を着けているのです。ただ、帯剣だけはなかったのです。そのうちに、ほんとうの大尉どのが司令部に出て来て、自分でも呆れている始末です。」

 この奇怪な出来事の説明をきかされながら、佐山君はあかるい秋の日の下をあるいているのであった。大空は青々と澄み切って、火薬庫の秘密をつつんだ雑木林の丘は、砂のように白く流れて行く雲の下に青黒く沈んでいた。特務曹長はひと息ついて又語り出した。

「なにしろ、大尉の服装をした人間が火薬庫の付近を徘徊していたのは事実で、しかも今は戦時であるから、問題はいよいよ重大になったのであります。で、その怪しい死体を一室にかつぎ込んで、今井副官殿と、安村中尉殿と、本人の向田大尉殿とが厳重に張番して、ともかくも夜の明けるのを待っていたのです。すると、不思議なことには、夜がだんだんに白んで来ると、その死体がいつの間にか狐に変わってしまったのです。軍服はやはりそのままで、軍帽を乗せられていた人間の顔が狐になっているのです。靴はどうなったのか判りません。かれが持っていたという司令部の提灯も、普通の白張りの提灯に変わっているのです。これにはみんなも又おどろかされて、大勢の人達を呼びあつめて立会いの上でよく検査すると、かれはどうしても人間でない、たしかに古狐であるということが判ったのです。その狐はわたしも見ました。由来、火薬庫の付近には古狐がたくさん棲んでいると伝えられているのですが、その狐が何かのいたずらをするつもりで、かえって哨兵に突き殺されたのだろうというのです。余り奇怪な話で、われわれには殆んど信じられないことですが、何をいうにも論より証拠で、そこに一匹の狐の死体が横たわっているのであるから仕方がない。どう考えても不思議なことであります。」

「実に不思議です。」と、佐山君も溜め息をついた。ゆうべ逢った魚釣りの人もやはりその狐ではなかったかとも思われた。

 戸塚特務曹長が平素から非常にまじめな人物であることを佐山君はよく知っていた。口では信じられないと言いながらも、特務曹長は()のあたりに見せ付けられたこの不思議を、あくまでも不思議の出来事として素直に承認するよりほかはないらしかった。話はこれでひとまず途切れて、二人は黙って丘の裾までゆき着いた。すすきや茅が一面に生い茂っている中に、ただひと筋の細い路が蛇のようにうねっているのを、二人はやはり黙って登って行った。頭の上からは枯れた木の葉が時々ひらひらと落ちて来た。

「大尉殿に化けた狐が殺されたのは、この辺だそうです。」

 特務曹長は指さして教えた。それは火薬庫の門前で、枯れたすすきが大勢の足あとに踏みにじられて倒れているほかには、なんにも新しい発見はなさそうであった。

目次に戻る

目次