病院の窓

1話 病院の窓(1)

7,543字 約15分 2008年11月11日 公開

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 野村良吉は平日(いつも)より少し早目に外交から帰つた。二月の中旬過(なかばすぎ)の、珍らしく寒さの緩んだ日で、街々の雪がザクザク融けかかつて来たから、指先に穴のあいた足袋が気持悪く濡れて居た。事務室に入つて、受付の広田に聞くと、同じ外勤の上島(うはしま)も長野も未だ帰つて来ないと云ふ。時計は一時十六分を示して居た。

 暫時(しばらく)其処の暖炉(ストーブ)にあたつて、濡れた足袋を赤くなつて燃えて居る暖炉(ストーブ)自暴(やけ)(こす)り付けると、シユッシユッと厭な音がして、変な臭気(にほひ)が鼻を()つ。苦い顔をして階段(はしご)(あが)つて、懐手をした儘耳を(そばだ)てて見たが、森閑として居る。右の手を出して、垢着いた毛糸の首巻と毛羅紗(けラシヤ)鳥打帽(とりうち)を打釘に懸けて、其手で(ドア)を開けて急がしく編輯局を見廻した。一月程前に来た竹山と云ふ編輯主任は、種々(いろいろ)の新聞を取散らかした中で(しき)りに何か書いて居る。主筆は例の如く少し曲つた広い背を此方(こつち)に向けて、暖炉(ストーブ)(わき)の窓際で新着の雑誌らしいものを読んで居る。「何も話して居なかつたナ。」と思ふと、野村は少し安堵した。今朝出社した時、此二人が何か密々(ひそひそ)話合つて居て、自分が入ると急に止めた。――それが少なからず(かれ)の心を悩ませて居たのだ。役所廻りをして、此間(こなひだ)やつた臨時種痘の成績調やら辞令やらを写して居ながらも、四六時中(しよつちう)それが気になつて、「何の話だらう? 俺の事だ、屹度俺の事に違ひない。」などと許り考へて居た。

 ホツと安堵すると妙な笑が顔に浮んだ。一足入つて、(ドア)を閉めて、

『今日は余程(よつぽど)道が融けましたねす。』

と、国訛りの、ザラザラした声で云つて、心持頭を下げると、竹山は

『早かつたですナ。』

『ハア、今日は何も珍らしい材料(たね)がありませんでした。』

と云ひ乍ら、野村は暖炉の(わき)にあつた椅子を引ずつて来て腰を下した。古新聞を取つて性急(そそくさ)に机の塵を払つたが、硯箱の蓋をとると、誰が使つたのか墨が()れて居る。「誰だらう?」と思ふと、何だか訳もなしに不愉快に感じられた。立つて行つて、片隅の本箱の上に積んだ原稿紙を五六十枚(つか)んで来て、懐から手帳を出して手早く頁を繰つて見たが、これぞと気乗(きのり)のする材料も無かつたので、「不漁(ふれふ)だ、不漁だ。」と呟いて机の上に放り出した。頭がまたクサクサし出す様な気がする。両の袂を探つたが煙草が一本も残つて居ない。野村は顔を曇らせて、磨れて居る墨を更に磨り出した。

 編輯局は左程広くもないが、西と南に二つ宛の窓、新築した許りの社なので、室の中が気持よく明るい。五尺に七尺程の粗末な椴松(とどまつ)の大机が据ゑてある南の窓には、午後一時過の日射(ひざし)が硝子の塵を白く染めて、机の上には東京やら札幌小樽やらの新聞が幾枚も幾枚も拡げたなりに散らかつて居て、恰度野村の前にある赤インキの大きな汚染(しみ)が、新らしい机だけに、胸が苛々する程血腥(ちなまぐさ)い厭な色に見える。主筆は別に一脚の塗机を西の左の窓際に据ゑて居た。

 此新聞は、昔貧小(ちつぽけ)な週刊であつた頃から、釧路の町と共に発達して来た長い歴史を持つて居て、今では千九百何号かに達して居る。誰やらが「新聞界の桃源」と評しただけあつて、主筆と上島と野村と、唯三人でやつて居た頃は随分暢気(のんき)なものであつたが、遠からず紙面やら販路やらを拡張すると云ふので、社屋の新築と共に竹山主任が来た。一週間許り以前に長野と云ふ男が助手といふ名で入社(はひ)つた。竹山が来ると同時に社内の空気も紙面の体裁も一新されて、野村も上島も怠ける訳にいかなくなつた。

 野村は四年程以前に竹山を知つて居た。其竹山が来ると聞いた時、アノ男が何故(こんな)釧路あたりまで来るのかと驚いた。と同時に、云ふに云はれぬ不安が起つて、口には出さなかつたが、悪い奴が来る事になつたもんだと思つて居た。野村は、仮令(たとへ)(どんな)に自分に好意を持つてる人にしても、自分の過去を知つた者には顔を見られたくない経歴を持つて居た。けれども、初めて逢つた時は流石に懐しく嬉しく感じた。

 野村の聞知つた所では、此社の社長の代議士が、(どう)した事情の下にか知れぬけれど、或実業家から金を出さして、去年の秋小樽に新聞を起した。急造(にはかづくり)の新聞だから種々(いろん)な者が集まつたので、一月経つか経たぬに社内に紛擾(さわぎ)が持上つた。社長は何方(どつち)かと云へば因循な人であるけれど、資本(ぬし)から迫られて、社の創業費を六百円近く着服(ちよろまか)したと云ふ主筆初め二三の者を追出して了つた。と、怎したのか知らぬが他の者まで動き出して、編輯局に(たつた)一人残つた。それは竹山であつたさうな。竹山は其時一週間許りも唯一人で新聞を出して見せたのが、社長に重んぜられる原因(もと)になつて、二度目の主筆が兎角竹山を邪魔にし出した時は、自分一人の為に折角の社を騒がすのは本意で無いと云つて、誰が留めても()かずに遂々(たうたう)退社の辞を草した。幸ひ此方(こつち)の社が拡張の機運に際して居たので、社長は随分と破格な自由と待遇を与へて竹山を()れて来たのだと云ふ事であつた。打見には二十七八に見える()けた所があるけれど、実際は漸々(やうやう)二十三だと云ふ事で、髯が一本も無く、烈しい気象が眼に輝いて、少年(こども)らしい活気の溢れた、何処か()うナポレオンの肖像画に肖通つた所のある顔立で、愛想一つ云はぬけれど、口元に絶やさぬ微笑に誰でも人好(ひとずき)がする。一段二段の長い記事を字一つ消すでなく、スラスラと淀みなく綺麗な原稿を書くので、文選小僧が先づ一番先に竹山を讃めた。社長が珍重してるだけに恐ろしく筆の立つ男で、野村もそれを認めぬではないが、年が上な(せゐ)(どう)しても心から竹山に服する気にはなれぬ。酒を(くら)つた時などは気が大きくなつて、思切つて竹山の蔭口を叩く事もある位で、殊に此男が馴々しく話をする時は、昔の事――強ひて自分で忘れて居る昔の事を云ひ出されるかと、それは/\人知れぬ苦労をして居た。

 野村は力が抜けた様に墨を磨つて居たが、眼は凝然(ぢつ)と竹山の筆の走るのを見た儘、種々(いろん)な事が胸の中に急がしく往来して居て、さらでだに不気味な顔が一層険悪になつて居た。竹山も主筆も(あたか)も知らぬ人同志が同じ汽車に乗り合した様に、互にそ知らぬ(さま)をして居る。何方(どつち)も傍に人が居ぬかの様に、見向くでもなければ一語を交すでもない。(かれ)(この)(さま)を見て居て又候(またぞろ)不安を感じ出して来た。屹度俺の来るまでは二人で何か――俺の事を話して居たに違ひない。()うと、今朝俺の出社したのは九時半……(いや)十時頃だつたが、それから三時間余も恁う黙つて居ると云ふ事はない。屹度話して居たのだ。不図すると俺の来る()き前まで……或は其時既に話が決つて了つて、恰度其処へ俺が入つたのぢやないか知ら。と、上島にも長野にも硯箱があるのに、俺ンのを使つたのは誰であらう。然うだ、此椅子も暖炉の所へ行つて居た。アレは社長の癖だ。社長が来たに違ひない。先刻(さつき)事務の広田に聞いて呉れば()かつたのにと考へたが、若しかすると、二人で相談して居た所へ社長が来て、三人になつて三人で俺の事を色々悪口し合つて、……()うだ、此事を云ひ出したのは竹山に違ひない。上島と云ふ奴酷い男だ。以前は俺と毎晩飲んで歩いた癖に、此頃は馬鹿に竹山の宿へ行く。行つて俺の事を喋つたに違ひない。好し、そんなら俺も彼奴(あいつ)の事を素破抜(すつぱぬ)いてやらう、と気が立つて来て、卑怯な奴等だ、何も然う狐鼠々々(こそこそ)相談せずと、退社しろなら退社しろと(きつぱ)り云つたら可いぢやないか、と自暴糞(やけくそ)な考へを起して見たが、退社といふ(ことば)が我ながらムカムカしてる胸に冷水(ひやみづ)を浴せた様に心に響いた。飢餓(うゑ)恐怖(おそれ)困憊(つかれ)悔恨(くい)と……真暗な洞穴(ほらあな)の中を真黒な衣を着てゾロゾロと行く乞食の群! 野村は目を(つぶ)つた。

 白く波立つ海の中から、(ほばしら)が二本出て居る様が見える。去年の秋、(かれ)が初めて此釧路に来たのは、丁度竹の浦丸といふ汽船が、(どう)した錯誤(あやまり)からか港内に碇泊した儘沈没した時で、二本の(ほばしら)だけが波の上に現はれて居た。風の寒い浜辺を、飢ゑて疲れて、古袷一枚で彷徨(うろつ)き乍ら、其檣を眺むるともなく眺めて「破船」といふことを考へた。そして渠は、濡れた巌に突伏して声を出して泣いた事があつた。……野村は一層堅く目を瞑つた。と、矢張其時の事、子供を伴れた夫婦者の乞食と一緒に、三晩続けて知人岬(しりとさき)の或神社(やしろ)に寝た事を思出した。キイと云ふ子供の夜泣の声。垢だらけの胸を(はだ)けて乳をやる母親は、鼻が推潰(おしつぶ)した様で、土に染みた髪は異な臭気を放つて居たが、……噫、浅間しいもんだ、(あんな)時でも那気を、と思ふと其(をつと)の、見るからに物凄い髭面が目に浮ぶ。心は直ぐ飛んで、遠い遠い小坂の鉱山へ行つた。物凄い髭面許りの坑夫に交つて、十日許りも坑道(しき)の中で鉱車(トロツコ)を推した事があつた。真黒な穴の口が見える。それは昇降機(エレヴエーター)を仕懸けた縦坑であつた。噫、俺はアノ穴を見る恐怖(おそろしさ)に耐へきれなくなつて、坑道の入口から少し上の、(ちつ)と許り草があつて女郎花(をみなへし)の咲いた所に半日寝転んだ。母、生みの母、上衝(のぼせ)で眼を悪くしてる母が、アノ時(どんな)に恋しくなつかしく思はれたらう! 母の額に大きな(きず)があつた。然うだ、父親(おやぢ)が酔払つて丼を投げた時、母は左の手で……血だらけになつた母の顔が目の前に……。

 ハツとして目を()いた野村は、微かな動悸を胸に覚えて、墨磨る手が動かなくなつて居た。母! と云ふ考へが又浮ぶ。母が(みづか)ら書く平仮名の、然も、二度三度繰返して推諒しなければ解らぬ手紙! 此間(こなひだ)返事をやつた時は、馬鹿に景気の()い様な事を書いた。景気の可い様な事を書いてやつて安心さしたのに、と思つて四辺(あたり)を見た。竹山は筆の軸で軽く机を敲き乍ら、書きさしの原稿を睨んで居る。不図したら今日締切後に宣告するかも知れぬ、と云ふ疑ひが(いなづま)の様に心を刺した。其顔面には例の痙攣(ひきつけ)が起つてピクピク顫へて居た。

 内心の断間(たえま)なき不安を表はすかの様に、ピクピク顔の肉を痙攣(ひきつ)けさせて居るのは(かれ)の癖であつた。色のドス黒い、光沢(つや)の消えた顔は、何方かと云へば輪廓の正しい、醜くない方であるけれども、硝子玉の様にギラギラ悪光りのする大きい眼と、キリリと結ばれる事のない(くちびる)とが、顔全体の調和を破つて、初めて逢つた時は前科者ぢやないかと思つたと主筆の云つた如く、何様(なにさま)物凄く不気味に見える。少し前に(こご)んだ中背の、齢は二十九で、髯は殆んど生えないが、六七本許りも真黒なのが(おとがひ)に生えて五分位に延びてる時は、其人相を一層険悪にした。

 渠が其地位に対する不安を抱き始めたのは(つひ)此頃の事で、以前(もと)郵便局に監視人とかを務めたといふ、主筆と同国生れの長野が、編輯助手として入つた日からであつた。今迄上島と二人で隔日に校正をやつて居た所へ、校正を一人入れるといふ竹山の話は嬉しかつたものの、逢つて見ると長野は三十の上を二つ三つ越した、牛の様な身体の、牛の様な顔をした、随分と不格好で気の利かない男であつたが、「私は木下さん(主筆)と同国の者で(ござ)いまして、」と云ふ挨拶を聞いた時、俺よりも確かな伝手(つて)があると思つて、先づ不快を催した。自分が(たつた)十五円なのに、長野の服装の自分より立派なのは、若しや俺より高く雇つたのぢやないかと云ふ疑ひを惹起(ひきおこ)したが、それは翌日になつて十三円だと知れて安堵した。が、三日目から今迄野村の分担だつた商況の材料取(たねとり)と警察廻りは長野に歩かせる事になつた。竹山は、「一日(いちんち)も早く新聞の仕事に慣れる様に、」と云つて、自分より二倍も身体の大きい長野を、手酷しく小言を云つては毎日々々使役(こきつか)ふ。校正係なら校正だけで沢山だと野村は思つた。加之(のみならず)、渠は(こんな)釧路の様な狭い所では、外交は上島と自分と二人で充分だと考へて居た。時々何も材料が無かつたと云つて、遠い所は廻らずに来る癖に。

 浮世の戦ひに疲れて、一刻と雖ども安心と云ふ気持を抱いた事の無い野村は、適切(てつきり)長野を入れたのは自分を退社させる準備だと推諒した。と云ふのは、自分が時々善からぬ事をしてゐるのを、渠自身さへ(たま)には思返して浅間しいと思つて居たので。

 渠は漸々(やうやう)筆を執上げて、其処此処手帳を翻反(ひつくらか)へして見てから、二三行書き出した。そして又手帳を見て、書いた所を読返したが、急がしく墨を塗つて、手の中に丸めて机の下に投げた。又書いて又消した。同じ事を三度続けると、何かしら鈍い圧迫が頭脳(あたま)に起つて来て、四辺(あたり)が明るいのに自分だけ陰気な所に居る様な気がする。これも平日(いつも)の癖で、頭を右左に少し振つて見たが、重くもなければ痛くもない。二三度やつて見ても矢張同じ事だ。が、今にも頭が堪へ難い程重くなつてズクズク(うづ)き出す様な気がして、渠は痛くもならぬ中から顔を顰蹙(しか)めた。そして、下唇を噛み乍らまた書出した。

『支庁長が居つたかえ、野村君?』

と、突然(だしぬけ)に主筆の声が耳に入つた。

『ハア、支庁長ですか? ハア居まし……一番で行きました。』

『今朝の一番汽車か?』

『ハア、札幌の道庁へ行きましたねす。』と急がしく手帳を見て、『一番で立ちました。』

『札幌は解つてるが、……戸川課長は居るだらう?』

『ハア居ります。』

 野村は我乍ら滑稽(をかし)い程狼狽(うろた)へたと思ふと、(かつ)と血が上つて顔が(ほと)り出して、沢山の人が自分の後に立つて笑つてる様な気がするので、自暴(やけ)に乱暴な字を、五六行息つかずに書いた。

『ぢや君、先刻(さつき)の話を一応戸川に打合せて来るから。』

と竹山に云つて、主筆は室を出て行つた。「先刻の話」と云ふ(ことば)は熱して居る野村の頭にも明瞭(はつきり)と聞えた。支庁の戸川に打合せる話なら俺の事ぢやない。ハテそれでは何の事だらうと頭を挙げたが、何故か心が臆して竹山に聞きもしなかつた。

『君は大変顔色が悪いぢやないか。』と竹山が云つた。

『ハア、(どう)も頭が痛くツて。』と云つて、野村は筆を()いて立つ。

『そらア良くない。』

『書いてると頭がグルグルして来ましてねす。』

と暖炉の方へ歩き出した。大袈裟に顔を顰蹙(しか)めて右の手で後脳を抑へて見せた。

『風邪でも引いたんぢやないですか?』と鷹揚に云ひ乍ら、竹山は煙草に火をつける。

『風邪かも知れませんが、……先刻支庁から出て坂を下りる時も、妙に悪寒(さむけ)がしましてねす。余程(よつぽど)(ぬく)い日ですけれどもねす。』と云つたが、竹山の鼻から出て頤の辺まで下つて、更に頬を撫でて昇つて行く柔かな煙を見ると、モウ耐らなくなつて『何卒(どうぞ)一本。』と竹山の煙草を取つた。『咽喉も少し変だどもねす。』

『そらア良くない。大事にし給へな。何なら君、今日の材料(たね)は話して貰つて僕が書いても可いです。』

『ハア、(ちつ)と許りですから。』

 込絡(こんがら)かつた足音が聞えて、上島と長野が連立つて入つて来た。上島は平日(いつ)にない元気で、

『愈々漁業組合が出来る事になつて、明日有志者の協議会を開くさうですな。』

と云ひ乍ら、直ぐ墨を磨り出した。

先刻(さつき)社長が見えて(そんな)事を云つて居た。二号標題(みだし)で成るべく景気をつけて書いて呉れ給へ。尤も、今日は単に報道に(とど)めて、此方(こつち)の意見は二三日待つて見て下さい。』

 長野が牛の様な身体を殷懃(いんぎん)に運んで机の前に出て、

『アノ商況で(ござ)いますな。』と揉手をする。

『ハ、野村君は今日頭痛がするさうだから僕が聞いて書きませう。』

『イヤソノ、今日は何にも材料がありませんので。』

『材料が無いツて、昨日と何も異動がないといふのかね?』

『え、異動がありませんでした。』

『越後米を積んで、雲海丸の入港(はひ)つたのは、昨日(きのふ)だつたか一昨日(おととひ)だつたか、野村君?』と竹山が云つた。長野が慣れるうち、取つて来た材料を話して野村が商況――と云つても小さい町だから十行二十行位のものだが――を書く事にしてあつたのだ。

『ハア、昨日の朝ですから、原田の店あたりでは輸出の豆粕が大分手打になつたらうと思ひますがねす。』

(つひ)聞きませんでしたな。』と云つて、長野はきまり悪げに先づ野村を見た目を竹山に移した。

『警察の方は?』

『違警罪が(たつた)一つ厶いました。今書いて差上げます。』と硯箱の蓋をとる。

 野村は眉間に深い皺を寄せて、其癖美味(うま)さうに煙草を吸つて居たが、時々頭を振つて見るけれど、(ちつ)とも重くもなければ痛くもない。咽喉にも何の変りがなかつた。(やが)てまた机に就いて、成るべく厭に見える様に顔を顰蹙(しか)めたり後脳を抑へて見たりし乍ら、手帳を繰り初めたが、不図髯を捻つて居る戸川課長の顔を思出した。課長は今日俺の顔を見るとから笑つて居て、何かの話の(ついで)にアノ事――三四日前に共立病院の看護婦に催眠術を()けた事を揶揄(からか)つた。課長は無論唯若い看護婦に()けたと云ふだけで揶揄つたので、実際又医者や薬剤師や(ほか)の看護婦の居た前で()けたのだから、何も(をか)しい事が無い。無いには無いが、若しアノ時アノ暗示を与へたら怎であつたらう、と思ふと、其梅野といふ看護婦がスツカリ眠つて了つて、横に(たふ)れた時、白い職服(きもの)の下から赤いものが()み出して、其の下から円く肥つた真白い脛の出たのが眼に浮んだ。渠は(くす)ぐられる様な気がして、(うつむ)いた儘変な笑を浮べて居た。

 上島は燐寸を擦つて煙草を吹かし出した。と、渠はまたもや喉から手が出る程喫みたくなつて、『君は何日(いつ)でも煙草を持つてるな。』と云ひ乍ら一本取つた。何故今日はアノ娘が居なかつたらう、と考へる。それは洲崎町のトある角の、渠が何日でも寄る煙草屋の事で、モウ大分借が溜つてるから、すぐ顔を赤くする銀杏返(いちやうがへ)しの娘が店に居れば格別、口喧(くちやかま)しやの老母(ばばあ)が居た日には(どう)しても貸して呉れぬ。今日何故娘が居なかつたらう? 俺が行くと娘は何日でも俯いて了ふが、恥かしいのだ、屹度恥かしいのだと思ふと、それにしても其娘が寄席で頻りに煎餅を喰べ乍ら落語を聞いて居た事を思出す。頭に被さつた鈍い圧迫が何時しか跡なく剥げて了つて、心は上の空、野村は眉間の皺を努めて深くし乍ら、それからそれと町の女の事を胸に数へて居た。

 兎角して渠は漸々(やうやう)三十行許り書いた。大儀さうに立上つて、その原稿を主任の前に出す時、我乍ら余り汚く書いたと思つた。

『目が眩む様なもんですから滅茶々々で、……』

(いや)、有難う。』と竹山は(いつ)になく礼を云つたが、平日(いつも)の癖で直ぐには原稿に目もくれぬ。渠も亦平日(いつも)の癖でそれを一寸不快に思つたが、

『あとは別に書く様な事もありませんが。』と竹山の顔色を見る。

(どう)も御苦労。何なら(うち)へ帰つて一つ汗でも取つて見給へ。大事にせんと良くないから。』

『ハア、それぢや今日だけ御免蒙りますからねす。』と云つて、出来るだけ元気の無い様に皆に挨拶して、編輯局を出た。眼をギラギラ光らして舌を出し乍ら、垢づいた首巻を巻いて居たが、階段(はしご)を降りる時は(また)顔を顰蹙(しか)めて、(ちよい)と時計を見上げたなり、事務の人々には言葉もかけず戸外(そと)へ出て了つた。と、鈍い歩調(あしどり)で二三十歩、俛首(うなだ)れて歩いて居たが、四角(よつかど)を右に曲つて、振顧(ふりかへ)つてもモウ社が見えない所に来ると、渠は(には)かに顔を上げて、融けかかつたザクザクの雪を蹴散し乍ら、勢ひよく足を急がせて、二町の先に二階の見ゆる共立病院へ………………。

 解雇される心配も、血だらけな母の顔も、鈍い圧迫と共に消えて了つて、勝誇つた様な(なまぐさ)い笑が其顔に漲つて居た。

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