天鵞絨

5話

3,056字 約6分 2008年11月11日 公開

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 夕方、一寸でも他所(よそ)ながら暇乞に、学校の藤田を訪ねようと思つたが、(その)(ひま)もなく、農家の常とて夕餉は日が暮れてから済ましたが、お定は明日着て行く衣服を畳み直して置くと云つて、手ランプを持つた儘、寝室(ねま)にしてゐる四畳半許りの板敷に入つた。間もなくお八重が訪ねて来て、さり気ない顔をして入つたが、

『明日着て行ぐ衣服(きもの)すか?』と、(わざ)と大きい声で言つた。

『然うす。明日着て行くで、畳み直してるす。』と、お定も態と高く答へて、二人目を見合せて笑つた。

 お八重は、もう全然(すつかり)準備(したく)が出来たといふ事で、今其風呂敷包は三つとも持出して来たが、此家(ここ)の入口の暗い土間に隠して置いて入つたと言ふ事であつた。で、お定も急がしく萌黄(もえぎ)の大風呂敷を拡げて、手廻りの物を集め出したが、衣服といつても(たつた)六七枚、帯も二筋、娘心には色々と不満があつて、この袷は少し()けてゐるとか、此袖口が余り開き過ぎてゐるとか、密々話(ひそひそばなし)に小一時間もかゝつて、漸々(やうやう)準備が出来た。

 父も母もまだ炉辺に起きてるので、も少許(すこし)待つてから持出さうと、お八重は言ひ出したが、お定は(ちよつ)と躊躇してから、立つと(あかり)とりの煤けた櫺子(れんじ)に手をかけると、端の方三本許り、格子が何の事もなく取れた。それを見たお八重は、お定の肩を叩いて、

『この(しと)アまあ、()え工夫してること。』と笑つた。お定も心持顔を赧くして笑つたが、風呂敷包は、難なく其処から戸外(そと)へ吊り下された。格子は元の通りに直された。

 二人はそれから権作老爺の許へ行つて、二人前の風呂敷包を預けたが、戸外の冷かな夜風が、耳を聾する許りな虫の声を漂はせて、今夜限り此生れ故郷を逃げ出すべき二人の娘にいう許りなき心悲(うらがな)しい感情を起させた。所々降つて来さうな秋の星、八日許りの片割月(かたわれづき)が浮雲の端に澄み切つて、村は家並の屋根が黒く、中央程(なかほど)の郵便局の軒燈のみ淋しく遠く光つてゐる。二人は、何といふ事もなく、もう湿声(うるみごゑ)になつて、断々(きれぎれ)に語りながら、他所(よそ)ながら家々に別れを告げようと、五六町しかない村を、南から北へ、北から南へ、幾度となく手を取合つて吟行(さまよ)うた。路で逢ふ人には、何日(いつ)になく忸々(なれなれ)しく此方から優しい声を懸けた。作右衛門店にも寄つて、お八重は《ハンケチ》を二枚買つて、一枚はお定に呉れた。何処ともない笑声、子供の泣く声もする。とある居酒屋の入口からは、火光(あかり)(まばゆ)く洩れて、街路(みち)を横さまに白い線を引いてゐたが、虫の音も憚からぬ酔うた濁声(だみごゑ)が、時々けたゝましい其店の嬶の笑声を伴つて、喧嘩でもあるかの様に一町先までも聞える。二人は其騒々しい声すらも、なつかしさうに立止つて聞いてゐた。

 それでも、二時間も歩いてるうちには、気の紛れる話もあつて、お八重に別れてスタ/\と家路に帰るお定の眼には、もう涙が滲んでゐず、胸の中では、東京に着いてから手紙を寄越すべき人を彼是と数へてゐた。此村(ここ)から東京へ百四十五里、(そんな)事は知らぬ。東京は仙台といふ所より遠いか近いか、それも知らぬ。唯明日は東京にゆくのだと許り考へてゐる。

 枕に就くと、今日位身体も心も急がしかつた事がない様な気がして、それでも、何となく物足らぬ様な、心悲(うらがな)しい様な、恍乎(うつとり)とした疲心地で、すぐうと/\と眠つて了つた。

 ふと目が覚めると、消すのを忘れて眠つた枕辺(まくらもと)の手ランプの影に、何処から入つて来たか、蟋蟀(こほろぎ)が二(ひき)、可憐な羽を顫はして啼いてゐる。遠くで若者(わかいもの)が吹く笛の音のする所から見れば、まだ左程夜が更けてもゐぬらしい。

 と櫺子の外にコツコツと格子を叩く音がする。あ之で目が覚めたのだなと思つて、お定は直ぐ起き上つて、(こつそ)りと格子を(はづ)した。丑之助が身軽に入つて了つた。

 手ランプを消した。

 一時間許り経つと、丑之助がもう帰準備(かへりじたく)をするので、これも今夜(きり)だと思ふと、お定は急に愛惜の情が喉に塞つて来て、熱い涙が滝の如く溢れた。別に丑之助に未練を残すでも何でもないが、唯もう悲しさが一時に胸を充たしたので、お定は矢庭に両手で力の限り男を抱擁(だきし)めた。男は(やみ)の中にも、遂ぞ無い事なので吃驚(びつくり)して、目を(まろ)くしてゐたが、やがてお定は忍音(しのびね)歔欷(すすりなき)し始めた。

 丑之助は何の事とも解りかねた。或は此お定ツ子が自分に惚れたのぢやないかとも思つたが、何しろ余り突然なので、唯目を円くするのみだ。

『怎したけな?』と囁いてみたが返事がなくて一層歔欷(すすりな)く。と、平常(ひごろ)から此女の(おとな)しく優しかつたのが、俄かに可憐(いぢらし)くなつて来て、丑之助は(また)

『怎したけな、(ほんと)に?』と繰返した。『俺ア何か悪い事でもしたげえ?』

 お定は男の胸に密接(ぴたり)と顔を推着(おつつ)けた儘で、強く頭を振つた。男はもう無性にお定が可憐(いぢらし)くなつて、

『だら怎したゞよ? 俺ア此頃少許(すこし)急しくて四日許り来ねえでたのを、(うな)(おこ)つたのげえ?』

『嘘だ!』とお定は囁く。

『嘘でねえでヤ。俺ア真実(ほんと)に、(うな)アせえ承知して()えれば、夫婦(いつしよ)になりてえど思つてるのに。』

『嘘だ!』とお定はまた繰返して、一層強く男の胸に顔を埋めた。

 暫しは女の歔欷(すすりな)く声のみ聞えてゐたが、丑之助は、其漸く間断々々(とぎれとぎれ)になるのを待つて、

(うな)頬片(ほつぺた)、何時来ても天鵞絨(ビロウド)みてえだな。十四五の娘子(めらしご)と寝る様だ。』と言つた。これは此若者が、殆んど来る毎にお定に言つてゆく讃辞(ことば)なので。

『十四五の娘子供(めらしやど)とも寝てるだべせア。』とお定は鼻をつまらせ乍ら言つた。男は、女の機嫌の(やや)直つたのを見て、

『嘘だあでヤ。俺ア、酒でも飲んだ時ア(ほか)女子(をなご)さも()ぐども、(そんた)に浮気ばしてねえでヤ。』

 お定は、胸の中で、此丑之助にだけは東京行の話をしても可からうと思つて見たが、それではお八重に済まぬ。といつて、此儘何も言はずに別れるのも残惜しい。さて(どう)したものだらうと頻りに先刻から考へてゐるのだが、これぞといふ決断もつかぬ。

『丑さん。』と稍あつてから囁いた。

『何しや?』

『俺ア明日……』

『明日? 明日の晩も来るせえ。』

『そでねえだ。』

『だら何しや?』

明日(あした)(おら)ア、盛岡さ行つて来るす。』

『何しにせヤ?』

『お八重さんが千太郎さん(とこ)さ行くで、一緒に行つて来るす。』

()うが、八重ツ子ア今夜(こんにや)、何とも言はながつけえな。』

『だらお前、今夜(こんにや)もお八重さんさ行つて来たな?』

『然うだねえでヤ。』と言つたが、男は少許(すこし)狼狽(うろた)へた。

『だら何時逢つたす?』

『何時ツて、八時頃にせえ。ホラ、あのお芳ツ子(とこ)の店でせえ。』

『嘘だす、(この)(しと)ア。』

『怎してせえ?』と益々狼狽へる。

『怎しても恁うしても、今夜(こんにや)()ヤ暮れツとがら、俺アお八重さんと(ばか)り歩いてだもの』

『だつて。』と言つて、男はクスクス笑ひ出した。

『ホレ見らせえ!』と女は稍声高く言つたが、別に怒つたでもない。

明日(あした)汽車で行くだか?』

『権作老爺(おやぢ)の荷馬車()くで。』

『だら、朝早かべせえ。』と言つたが、『小遣銭()えべかな? ドラ、手ランプ()けろでヤ。』

 お定が黙つてゐたので、丑之助は自分で手探りに燐寸(マツチ)を擦つて手ランプに移すと、其処に脱捨てゝある襯衣(シヤツ)衣嚢(かくし)から財布を出して、一円紙幣を一枚女の枕の下に入れた。女は手ランプを消して、

『余計だす。』

『余計な事ア()えせア。もつと有るものせえ。』

 お定は、平常(ひごろ)ならば(こんな)事を余り快く思はぬのだが、常々添寝した男から東京行の餞別を貰つたと思ふと、何となく嬉しい。お八重には恁事が無からうなどゝ考へた。

 先刻(さつき)蟋蟀(こほろぎ)が、まだ何処か室の隅ツこに居て、時々思出した様に、哀れな音を立てゝゐた。此夜お定は、怎しても男を抱擁(だきし)めた手を(ゆる)めず、夜明近い鶏の頻りに啼立てるまで、厩の馬の(たてがみ)を振ふ音や、ゴト/\破目板を蹴る音を聞きながら、これといふ話もなかつたけれど、丑之助を帰してやらなかつた。

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