7話 七
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途中で機関車に故障があつた為、三人を載せた汽車が上野に着いた時は、其日の夜の七時過であつた。長い長いプラツトフオーム、潮の様な人、お八重もお定も唯小さくなつて源助の両袂に縋つた儘、漸々の思で改札口から吐出されると、何百輛とも数知れず列んだ腕車、広場の彼方は昼を欺く満街の燈火、お定はもう之だけで気を失ふ位おツ魂消て了つた。
腕車が三輛、源助にお定にお八重といふ順で駆け出した。お定は生れて初めて腕車に乗つた。まだ見た事のない夢を見てゐる様な心地で、東京もなければ村もない、自分といふものも何処へ行つたやら、在るものは前の腕車に源助の後姿許り、唯乎として了つて、別に街々の賑ひを仔細に見るでもなかつた。燦爛たる火光、千万の物音を合せた様な轟々たる都の響。其火光がお定を溶かして了ひさうだ。其響がお定を押潰して了ひさうだ。お定は唯もう膝の上に載せた萌黄の風呂敷包を、生命よりも大事に抱いて、胸の動悸を聴いてゐた。周囲を数限りなき美しい人立派な人が通る様だ。高い/\家もあつた様た。
少し暗い所へ来て、ホツと息を吐いた時は、腕車が恰度本郷四丁目から左に曲つて、菊坂町に入つた所であつた。お定は一寸振返つてお八重を見た。
軈て腕車が止つて、『山田理髪店』と看板を出した明るい家の前。源助に促されて硝子戸の中に入ると、目が眩く程明るくて、壁に列んだ幾面の大鏡、洋燈が幾つも幾つもあつて、白い物を着た職人が幾人も幾人もゐる。何れが実際の人で何れが鏡の中の人なやら、見分もつかぬうちに、また源助に促されて、其店の片隅から畳を布いた所に上つた。
上つたは可いが、何処に坐れば可いのか一寸周章て了つて、二人は暫し其所に立つてゐた。源助は、
『東京は流石に暑い。腕車の上で汗が出たから喃。』と言つて、突然羽織を脱いで投げようとすると、三十六七の小作りな内儀さんらしい人がそれを受取つた。
『怎だ、俺の留守中何も変りはなかつたかえ?』
『別に。』
源助は、長火鉢の彼方へドツカと胡坐をかいて、
『さあ/\、お前さん達もお坐んなさい。さあ、ずつと此方へ。』
『さあ何卒。』と内儀さんも言つて、不思議相に二人を見た。二人は人形の様に其処に坐つた。お八重が叩頭をしたので、お定も遅れじと真似した。源助は、
『お吉や、この娘さん達はな、そら俺がよく話した南部の村の、以前非常い事世話になつた家の娘さん達でな。今度是非東京へ出て一二年奉公して見たいといふので、一緒に出て来た次第だがね。これは俺の嬶ですよ。』と二人を見る。
『まあ然うですか。些とお手紙にも其事があつたつて、新太郎が言つてましたがね。お前さん達、まあ遠い所をよくお出になつたことねえ。真に。』
『何卒ハア……』と、二人は血を吐く思で漸く言つて、穏しく頭を下げた。
『それにな、今度七日遊んでるうち、此方の此お八重さんといふ人の家に厄介になつて来たんだよ。』
『おや然う。まあ甚にか宅ぢや御世話様になりましたか。真に遠い所をよく入来つた。まあ/\お二人共自分の家へ来た積りで、緩り見物でもなさいましよ。』
お定は此時、些とも気が付かずに何もお土産を持つて来なかつたことを思つて、一人胸を痛めた。
お吉は小作りなキリリとした顔立の女で、二人の田舎娘には見た事もない程立居振舞が敏捷い。黒繻子の半襟をかけた唐桟の袷を着てゐた。
二人は、それから名前や年齢やをお吉に訊かれたが、大抵源助が引取つて返事をして呉れた。負けぬ気のお八重さへも、何か喉に塞つた様で、一言も口へ出ぬ。況してお定は、以後先、怎して那滑かな言葉を習つたもんだらうと、心細くなつて、お吉の顔が自分等の方に向くと、また何か問はれる事と気が気でない。
『阿父様、お帰んなさい。』と言つて、源助の一人息子の新太郎も入つて来た。二人にも挨拶して、六年許り前に一度お定らの村に行つた事があるところから、色々と話を出す。二人は再之の応答に困らせられた。新太郎は六年前の面影が殆ど無く、今はもう二十四五の立派な男、父に似ず背が高くて、キリリと角帯を結んだ恰好の好さ、髪は綺麗に分けてゐて、鼻が高く、色だけは昔ながらに白い。
一体、源助は以前静岡在の生れであるが、新太郎が二歳の年に飄然と家出して、東京から仙台盛岡、其盛岡に居た時、恰も白井家の親類な酒造家の隣家の理髪店にゐたものだから、世話する人あつてお定らの村に行つてゐたので、父親に死なれて郷里に帰ると間もなく、目の見えぬ母とお吉と新太郎を連れて、些少の家屋敷を売払ひ、東京に出たのであつた。其母親は去年の暮に死んで了つたので。
お茶も出された。二人が見た事もないお菓子も出された。
源助とお吉との会話が、今度死んだ函館の伯父の事、其葬式の事、後に残つた家族共の事に移ると、石の様に堅くなつてるので、お定が足に麻痺がきれて来て、膝頭が疼く。泣きたくなるのを漸く辛抱して、凝と畳の目を見てゐる辛さ。九時半頃になつて、漸々「疲れてゐるだらうから。」と、裏二階の六畳へ連れて行かれた。立つ時は足に感覚がなくなつてゐて、危く前に仆らうとしたのを、これもフラフラしたお八重に抱きついて、互ひに辛さうな笑ひを洩らした。
風呂敷包を持つて裏二階に上ると、お吉は二人前の蒲団を運んで来て、手早く延べて呉れた。そして狭い床の間に些と腰掛けて、三言四言お愛想を言つて降りて行つた。
二人限になると、何れも吻と息を吐いて、今し方お吉の腰掛けた床の間に膝をすれ/\に腰掛けた。かくて十分許りの間、田舎言葉で密々話し合つた。お土産を持つて来なかつた失策は、お八重も矢張気がついてゐた。二人の話は、源助さんも親切だが、お吉も亦、気の隔けぬ親切な人だといふ事に一致した。郷里の事は二人共何にも言はなかつた。
訝しい事には、此時お定の方が多く語つた事で、阿婆摺と謂はれた程のお八重は、始終受身に許りなつて口寡にのみ応答してゐた。枕についたが、二人とも仲々眠られぬ。さればといつて、別に話すでもなく、細めた洋燈の光に、互に顔を見ては穏しく微笑を交換してゐた。