上海游記

13話 十三 鄭孝胥氏

1,813字 約4分 2015年5月24日 公開

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 坊間に伝うる所によれば、鄭孝胥(ていこうしょ)氏は悠々と、清貧に処しているそうである。処が或曇天の午前、村田君や波多君と一しょに、門前へ自動車を乗りつけて見ると、その清貧に処している家は、私の予想よりもずっと立派な、鼠色に塗った三階建だった。門の内には庭続きらしい、やや黄ばんだ竹むらの前に、雪毬(せっきゅう)の花なぞが匂っている。私もこう云う清貧ならば、何時身を処しても差支えない。

 五分の後我々三人は、応接室に通されていた。此処は壁に懸けた軸の外に(ほとんど)何も装飾はない。が、マントル・ピイスの上には、左右一対の焼き物の花瓶に、小さな黄龍旗(こうりゅうき)が尾を垂れている。鄭蘇戡(ていそかん)先生は中華民国の政治家じゃない、大清帝国の遺臣である。私はこの旗を眺めながら、誰かが氏を批評した、「他人之退而不隠者(たにんのしりぞいてかくれざるものは)殆不可同日論(ほとんどどうじつにろんずべからず)」とか云う、うろ覚えの一句を思い出した。

 其処へ小肥りの青年が一人、足音もさせずにはいって来た。これが日本に留学していた、氏の令息鄭垂(ていすい)氏である。氏と懇意な波多君は、すぐに私を紹介した。鄭垂氏は日本語に堪能だから、氏と話をする場合は、波多村田両先生の通訳を(わずら)わす必要はない。

 鄭孝胥氏が我々の前に、背の高い姿を現わしたのは、それから間もなくの事だった。氏は一見した所、老人に似合わず血色が好い。眼も(ほとんど)青年のように、(ほがらか)な光を帯びている。殊に胸を反らせた態度や、(さかん)手真似(ジェスチュア)を交える工合は、鄭垂氏よりも(かえ)って若々しい。それが黒い馬掛児(マアクワル)に、心もち藍の調子が勝った、薄鼠の大掛児(タアクワル)を着ている所は、さすがは当年の才人だけに、如何にも気が利いた風采である。いや、閑日月(かんじつげつ)に富んだ今さえ、こう溌剌としているようじゃ、康有為(こうゆうい)氏を中心とした、芝居のような戊戌(ぼじゅつ)の変に、花々しい役割を演じた頃には、どの位才気煥発だったか、想像する事も難くはない。

 氏を加えた我々は、少時(しばらく)支那問題を談じ合った。勿論私も臆面なしに、新借款団(しんしゃくかんだん)の成立以後、日本に対する支那の輿論(よろん)はとか何とか、柄にもない事を弁じ立てた。――と云うと(はなはだ)不真面目らしいが、その時は何も出たらめに、そんな事を饒舌(しゃべ)っていたのではない。私自身では大真面目に、自説を披露していたのである。が、今になって考えて見ると、どうもその時の私は、多少正気ではなかったらしい。尤もこの逆上の原因は、私の軽薄な根性の外にも、確に現代の支那その物が、一半の責を負うべきものである。もしだと思ったら、誰でも支那へ行って見るが好い。(かならず)一月といる内には、妙に政治を論じたい気がして来る。あれは現代の支那の空気が、二十年来の政治問題を(はら)んでいるからに相違ない。私の如きは御丁寧にも、江南一帯を経めぐる間、容易にこの熱がさめなかった。そうして誰も頼まないのに、芸術なぞよりは数段下等な政治の事ばかり考えていた。

 鄭孝胥氏は政治的には、現代の支那に絶望していた。支那は共和に執する限り、永久に混乱は免れ得ない。が、王政を行うとしても、当面の難局を切り抜けるには、英雄の出現を待つばかりである。その英雄も現代では、同時に又利害の錯綜した国際関係に処さなければならぬ。して見れば英雄の出現を待つのは、奇蹟の出現を待つものである。

 そんな話をしている内に、私が巻煙草を(くわ)えると、氏はすぐに立上って、燐寸(マッチ)の火をそれへ移してくれた。私は大いに恐縮しながら、どうも客を遇する事は、隣国の君子に比べると、日本人が一番(せつ)らしいと思った。

 紅茶の御馳走になった後、我々は氏に案内されて、家の後にある広庭へ出て見た。庭は綺麗な芝原のまわりに、氏が日本から取り寄せた桜や、幹の白い松が植わっている。その向うにもう一つ、同じような鼠色の三階建があると思ったら、それは近頃建てたとか云う、鄭垂氏一家の住居だった。私はこの庭を歩きながら、一むらの竹の林の上に、やっと雲切れのした青空を眺めた。そうしてもう一度、これならば私も清貧に処したいと思った。

 此原稿を書いて居る時、丁度表具屋から私の所へ、一本の軸が届いて来た。軸は二度目に訪問した時、氏が私に書いてくれた七言絶句を仕立てたのである。「夢奠何如史事強(むてんいかんぞしじのきょう)呉興題識遜元章(ごこうのだいしきげんしょうにゆずる)延平剣合誇神異(えんぺいのけんがっしてしんいをほこり)合浦珠還好秘蔵(ごうほのたまかえってひぞうするによし)」――そう云う字が飛舞するように墨痕を走らせているのを見ると、氏と相対していた何分かは、やはり未に懐しい気がする。私はその何分かの間、独り前朝の遺臣たる名士と相対していたのみではない。又実に支那近代の詩宗、海蔵楼詩集(かいぞうろうししゅう)の著者の謦咳(けいがい)に接していたのである。

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