上海游記

8話 八 城内(下)

1,504字 約3分 2015年5月24日 公開

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 今更云うまでもない事だが、鬼狐の談に富んだ支那の小説では、城隍(じょうこう)を始め下廻りの判官や鬼隷(きれい)も暇じゃない。城隍が廡下(ぶか)に一夜を明かした書生の運勢を開いてやると、判官は町中を荒し廻った泥坊を驚死させてしまう。――と云うと好い事ばかりのようだが、(いぬ)の肉さえ供物にすれば、悪人の味方もすると云う、賊城隍がある位だから、人間の女房を追い廻した報いに、肘を折られたり頭を落されたり、天下に赤恥を広告する判官や鬼隷(きれい)も少くない。それが本だけ読んだのでは、何だか得心の出来ない所がある。つまり筋だけは呑みこめても、その割に感じがぴったり来ない。其処が歯痒い気がしたものだが、今この城隍廟を目のあたりに見ると、如何に支那の小説が、荒唐無稽に出来上っていても、その想像の生れた因縁は、一々成程と(うなず)かれる。いやあんな赤っ面の判官では、悪少の真似位はするかも知れない。あんな美髯(びぜん)の城隍なら、堂々たる儀衛に囲まれた儘、夜空に昇るのも似合いそうである。

 こんな事を考えた後、私は又四十起氏と一しょに、廟の前へ店を出した、いろいろな露店を見物した。靴足袋、玩具、甘蔗の茎、貝釦(かいボタン)手巾(ハンカチ)、南京豆、――その外まだ薄穢い食物店が沢山ある。勿論此処の人の出は、日本の縁日と変りはない。向うには派手な縞の背広に、紫水晶のネクタイ・ピンをした、支那人のハイカラが歩いている。と思うと又こちらには、手首に銀の環を嵌めた、纏足(てんそく)の靴が二三寸しかない、旧式なお(かみ)さんも歩いている。金瓶梅の陳敬済(ちんけいせい)品花宝鑑(ひんかほうかん)谿十一(けいじゅういち)、――これだけ人の多い中には、そう云う豪傑もいそうである。しかし杜甫だとか、岳飛だとか、王陽明だとか、諸葛亮だとかは、薬にしたくもいそうじゃない。言い換えれば現代の支那なるものは、詩文にあるような支那じゃない。猥褻な、残酷な、食意地の張った、小説にあるような支那である。瀬戸物の(ちん)だの、睡蓮だの、刺繍の鳥だのを有難がった、安物のモック・オリエンタリズムは、西洋でも追い追い流行(はや)らなくなった。文章軌範(ぶんしょうきはん)や唐詩選の外に、支那あるを知らない漢学趣味は、日本でも好い加減に消滅するが好い。

 それから我々は引き返して、さっきの池の側にある、大きな茶館を通り抜けた。伽藍(がらん)のような茶館の中には、思いの(ほか)客が立て込んでいない。が、其処へはいるや否や、雲雀(ひばり)、目白、文鳥、鸚哥(いんこ)、――ありとあらゆる小鳥の声が、目に見えない驟雨(しゅうう)か何かのように、一度に私の耳を襲った。見れば薄暗い天井の梁には、一面に鳥籠がぶら下っている。支那人が小鳥を愛する事は、今になって知った次第じゃない。が、こんなに鳥籠を並べて、こんなに鳥の声を闘わせようとは、夢にも考えなかった事実である。これでは鳥の声を愛する所か、まず鼓膜が破れないように、匆々両耳を塞がざるを得ない。私は(ほとんど)逃げるように、四十起氏を促し立てながら、この金切声に充満した、恐るべき茶館を飛び出した。

 しかし小鳥の啼き声は、茶館の中にばかりある(わけ)じゃない。やっとその外へ脱出しても、狭い往来の右左に、ずらりと懸け並べた鳥籠からは、しっきりない囀りが降りかかって来る。(もっと)もこれは閑人(ひまじん)どもが、道楽に啼かせているのじゃない。いずれも専門の小鳥屋が、(実を云うと小鳥屋だか、それとも又鳥籠屋だか、どちらだか未だに判然しない。)店を連ねているのである。

「少し待って下さい。鳥を一つ買って来ますから。」

 四十起氏は私にそう云ってから、その店の一つにはいって行った。其処をちょいと通りすぎた所に、ペンキ塗りの写真屋が一軒ある。私は四十起氏を待つ間、その飾り窓の正面にある、梅蘭芳(メイランファン)の写真を眺めていた。四十起氏の帰りを待っている子供たちの事なぞを考えながら。

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