2話 菊池君(2)
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翌日は日曜日、田舎の新聞は暢気なもので、官衙や学校と同じに休む。私は平日の如く九時頃に目を覚ました。恐ろしく喉が渇いて居るので、頭を擡げて見廻したが、下に持つて行つたと見えて鉄瓶が無い。用の無いのに起きるのも詰らず、寒さは寒し、さればと云つて床の中で手を拍つて、女中を呼ぶのも変だと思つて、また仰向になつた。幸ひ其処へ醜女の芳ちやんが、新聞を持つて入つて来たので、知つてる癖に『モウ何時だい』と聞くと、
『まだ早いから寝て居なされよ、今日は日曜だもの。』
と云つて出て行く。
『オイ/\、喉が渇いて仕様が無いよ。』
『そですか。』
『そですかぢやない。真に渇くんだよ、昨晩少し飲んで来たからな。』
『少しなもんですか。』
と云つたが、急にニヤ/\と笑つて立戻つて来て、私の枕頭に膝をつく。また戯れるなと思ふと、不恰好な赤い手で蒲団の襟を敲いて、
『私に一生のお願ひがあるで、貴方聴いて呉れますか?』
『何だい?』
『マアさ。』
『お湯を持つて来て呉れたら、聴いてやらん事もない。』
『持つて来て上るで。あのね、』と笑つたが『貴方好え物持つてるだね。』
『何をさ?』
『白ツぱくれても駄目ですよ。貴方の顔さ書いてるだに、半可臭え。』
『喉が渇いたとか?』
『戯談ば止しなされ。これ、そんだら何ですか。』と手を延べて、机の上から何か取る様子。それは昨晩の淡紅色の手巾であつた。市子が種蒔を踊つた時の腰付が、チラリと私の心に浮ぶ。
『嗅んで見さいな、これ。』と云つて自分で嗅いで居たが、小さい鼻がひこづいて、目が恍然と細くなる。恁好い香を知らないんだなと思つて、私は何だか気の毒な様な気持になつたが、不意と「左の袂、左の袂」と云つた菊池君を思出した。
『私貰つてくだよ。これ。』と云ふ語は、満更揶揄ふつもり許りでも無いらしい。
『やるよ。』
『本当がね。』と目を輝かして、懐に捻じ込む真似をしたが、
『貴方が泣くべさ。』と云つて、フワリと手巾を私の顔にかけた儘、バタ/\出て行つた。
目を瞑ると、好い香のする葩の中に魂が包まれた様で、自分の呼気が温かな靄の様に顔を撫でる。乎として目を開くと、無際限の世界が、唯モウ薄光の射した淡紅色の世界で、凝として居ると遙か/\向ふにポツチリと黒い点、千里の空に鷲が一羽、と思ふと、段々近いて来て、大きくなつて、世界を掩ひ隠す様な翼が、目の前に来てパツと消えた。今度は楕円形な翳が横合から出て来て、煙の様に動いて、もと来た横へ逸れて了ふ。ト、淡紅色の襖がスイと開いて、真黒な髭面の菊池君が……
足音がしたので、急いで手を出して手巾を顔から蒲団の中へ隠す。入つて来たのは小い方の女中で、鉄瓶と茶器を私の手の届く所に揃へて、出て行く時一寸立止つて枕頭を見廻した。お芳の奴が喋つたなと感付く。怎したものか、既茶を入れて飲まうと云ふ気もしない。
昨夜の事が歴々と思出された。女中が襖を開けて髭面の菊池君が初めて顔を出した時の態が、目に浮ぶ。巌の様な日下部君と芍薬の様な市子の列んで坐つた態、今夜は染直したから新しくなつたでせうと云つて、ヌツト突出した志田君の顔、色の浅黒い貧相な一人の芸妓が、モ一人の袖を牽いて、私の前に坐つて居る市子の方を顋で指し乍ら、何か密々話し合つて笑つた事、菊池君が盃を持つて立つて来て、西山から声をかけられた時、怎やら私達の所に座りたさうに見えた事、雀躍する様に身体を揺がして、踊をモ一つと所望した小松君の横顔、……それから、市子の顔を明瞭描いて見たいと云ふ様な気がして、折角努めて見たが、怎してか浮んで来ない。今度は、甚気がしてアノ手巾を私の袂に入れただらうと考へて見たが、否、不図すると、アレは市子でなくて、名は忘れたが、ソレ、アノ何とか云つた、色の浅黒い貧相な奴が、入れたんぢやないかと云ふ気がした。が、これには自分ながら直ぐ可笑くなつて了つて、又しても「左の袂、左の袂」を思ひ出す。……
「ウアツハハ」と高く笑つて、薄く雪明のした小路を、大跨に歩き去つた。――其後姿が目に浮ぶと、(此朝私の頭脳は余程空想的になつて居たので、)種々な事が考へられた。
大跨に、然うだ、菊池君は普通の足調でなく、屹度大跨に歩く人だ。無雑作に大跨に歩く人だ。大跨に歩くから、時としてドブリと泥濘へ入る、石に躓く、真暗な晩には溝にも落こちる。若しかして溝が身長よりも深いとなると、アノ人の事だから、其溝の中を大跨に歩くかも知れない。
「溝の中を歩く人。」と口の中で云つて、私は思はず微笑した。それに違ひない、アノ洋服の色は、饐えた、腐つた、溝の中の汚水の臭気で那に変色したのだ。手! アノ節くれ立つた、恐ろしい手も、溝の中を歩いた証拠だ。烈しい労働の痛苦が、手の指の節々に刻まれて居る。「痛苦の……生―活―の溝、」と、再口の中で云つて見たが、此語は、我乍ら鋭い錐で胸をもむ様な、連想を起したので、狼狽へて「人生の裏路を辿る人。」と直す。
何にしても菊池君は失敗を重ねて来た人だ、と、勝手に断定して、今度は、アノ指が確かに私のの二本前太いと思つた。で、小児みたいに、密と自分の指を蒲団の中から出して見たが、菊池君は力が強さうだと考へる。ト、私は直ぐ其喧嘩の対手を西山社長にした。何と云ふ訳も無いが、西山の厭な態度と、眼鏡越の狐疑深い目付とが、怎しても菊池君と調和しない様な気がするので。――西山が馬鹿に社長風を吹かして威張るのを、「毎日」の記者共が、皆蔭で悪く云つて居乍ら、面と向つてはペコペコ頭を下げる。菊池がそれを憤慨して、入社した三日目に突然、社長の頬片を擲る。社長は蹣跚と行つて椅子に倒れ懸りながら、「何をするツ」と云ふ。其頭にポカ/\と拳骨が飛ぶ、社長は卓子の下を這つて向うへ抜けて、抜萃に使ふ鋏を逆手に握つて、真蒼な顔をして、「発狂したか?」と顫声で叫ぶ。菊池君は両手を上衣の衣嚢に突込んで、「馬鹿な男だ喃。」と吃る様に云ひ乍ら、悠々と「毎日」を去る。そして其足で直ぐ私の所へ来て、「日報」に入れて呉れないかと頼む。――思はず声を立てて私は笑つた。
が、此妄想から、私の頭脳に描かれて居る菊池君が、怎やら、アノ髭で、権力の圧迫を春風と共に受流すと云つた様な、気概があつて、義に堅い、豪傑肌の、支那的色彩を帯びて現れた。私は、小い時に読んだ三国史中の人物を、それか、これかと、此菊池君に当嵌めようとしたが、不図、「馬賊の首領に恁男は居ないだらうか。」と云ふ気がした。
馬賊……満洲……と云ふ考へは、直ぐ「遠い」と云ふ感じを起した。ト、女中が不意に襖を開けて、アノ髯面が初めて現れた時は、菊池君は何処か遠い所から来たのぢや無かつたらうかと思はれる。考へが直ぐ移る。
昨夜の座敷の様子が、再鮮かに私の目に浮んだ。然うだ、菊池君の住んで居る世界と、私達の住んで居る世界との間には、余程の間隔がある。「ウアツハハ。」と笑つたり、「私もそれなら至極同感ですな。」と云つたり、立つて盃を持つて来たりする時は、アノ人が自分の世界から態々出掛けて来て、私達の世界へ一寸入れて貰はうとするのだが、生憎唯人の目を向けさせるだけで、一向効力が無い。菊池君は矢張、唯一人自分の世界に居て、胡坐をかいた膝頭を、両手で攫んで、凝然として居る人だ。……………
ト、今度は、菊池君の顔を嘗て何処かで見た事がある様な気がした。確かに見たと、誰やら耳の中で囁く。盛岡――の近所で私は生れた――の、内丸の大逵がパツと目に浮ぶ。中学の門と斜に向ひ合つて、一軒の理髪床があつたが、其前で何日かしら菊池君を見た……否、アレは市役所の兵事係とか云ふ、同じ級の友人のお父様の髭だつたと気がつく。其頃私の姉の家では下宿屋をして居たが、其家に泊つて居た髭……違ふ、違ふ、アノ髭なら気仙郡から来た大工だと云つて、二ヶ月も遊んでから喰逃して北海道へ来た筈だ。ト、以前私の居た小樽の新聞社の、盛岡生れだと云つた職工長の立派な髭が頭脳に浮ぶ。若しかすると、菊池君は何時か私の生れた村の、アノ白沢屋とか云ふ木賃宿の縁側に、胡坐をかいて居た事がなかつたらうかと考へたが、これも甚だ不正確なので、ハテ、何処だつたかと、気が少し苛々して来て、東京ぢやなかつたらうかと、無理な方へ飛ぶ。東京と云へば、私は直ぐ、須田町――東京中の電車と人が四方から崩れる様に集つて来る須田町を頭脳に描くが、アノ雑沓の中で、菊池君が電車から降りる……否、乗る所を、私は余程遠くからチラリと後姿を……無理だ、無理だ、電車と菊池君を密接けるのは無理だ……。
『モウ起きなさいよ、十一時が打つたから。那に《そんな》に」はママ]寝てて、貴方何考へてるだべさ。』
と、取つて投げる様な、癇高い声で云つて、お芳が入つて来た。ハツとすると、血が頭からスーツと下つて行く様な、夢から覚めた様な気がして、返事もせず、真面目な顔をして黙つて居ると、お芳も存外真面目な顔をして、十能の火を火鉢に移す。指の太い、皸だらけの、赤黒い不恰好な手が、急がしさうに、細い真鍮の火箸を動かす。手巾を欲しがつてる癖に……と考へると、私は其手巾を蒲団の中で、胸の上にシツカリ握つてる事に気がついた。ト、急に之をお芳に呉れるのが惜しくなつて来たので、対手にそれを云ひ出す機会を与へまいと、寝返りを打たうとしたが、怎したものか、此瞬間に、お芳の目元が菊池に酷似てると思つた。不思議だナと考へて、半分廻しかけた頭を一寸戻して、再お芳の目を見たが、モウ似て居ない。似る筈が無いサと胸の中で云つて、思切つて寝返りを打つ。
『私の顔など見たくもなかべさ。ねえ、橘さん。』
『何を云ふんだい。』
と私は何気なく云つたが、ハハア、此女が、存外真面目な顔をしてる哩と思つたのは、ヤレ/\、これでも一種の姿態を作つて見せる積りだつたかと気が付くと、私は吹出したくなつて来た。
『フン。』
とお芳が云ふ。
私は、顔を伏臥す位にして、呼吸を殺して笑つて居ると、お芳は火を移して了つて、炭をついで、雑巾で火鉢の縁を拭いてる様だつたが、軈て鉄瓶の蓋を取つて見る様な音がする。茶器に触る音がする。
『喉が渇いて渇いて、死にそだてがらに、湯ば飲まねえで何考へてるだかな。』
と、独語の様に云つて、出て行つて了つた。
四