菊池君

2話 菊池君(2)

4,172字 約8分 2008年11月7日 公開

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 翌日(あくるひ)は日曜日、田舎の新聞は暢気(のんき)なもので、官衙(やくしよ)や学校と同じに休む。私は平日(いつも)の如く九時頃に目を覚ました。恐ろしく喉が渇いて居るので、頭を(もた)げて見廻したが、下に持つて行つたと見えて鉄瓶が無い。用の無いのに起きるのも詰らず、寒さは寒し、さればと云つて床の中で手を拍つて、女中を呼ぶのも変だと思つて、また仰向になつた。幸ひ其処へ醜女(みたくなし)の芳ちやんが、新聞を持つて入つて来たので、知つてる癖に『モウ何時だい』と聞くと、

『まだ早いから寝て居なされよ、今日は日曜だもの。』

と云つて出て行く。

『オイ/\、喉が渇いて仕様が無いよ。』

『そですか。』

『そですかぢやない。(ほんと)に渇くんだよ、昨晩少し飲んで来たからな。』

『少しなもんですか。』

と云つたが、急にニヤ/\と笑つて立戻つて来て、私の枕頭(まくらもと)に膝をつく。また(ぢや)れるなと思ふと、不恰好な赤い手で蒲団の襟を敲いて、

(わし)に一生のお願ひがあるで、貴方(あんた)聴いて呉れますか?』

『何だい?』

『マアさ。』

『お湯を持つて来て呉れたら、聴いてやらん事もない。』

『持つて来て(あげ)るで。あのね、』と笑つたが『貴方(あんた)()え物持つてるだね。』

『何をさ?』

『白ツぱくれても駄目ですよ。貴方の顔さ書いてるだに、半可臭(はんかくせ)え。』

『喉が渇いたとか?』

戯談(じようだん)ば止しなされ。これ、そんだら何ですか。』と手を延べて、机の上から何か取る様子。それは昨晩(ゆうべ)淡紅色(ときいろ)手巾(はんけち)であつた。市子が種蒔を踊つた時の腰付が、チラリと私の心に浮ぶ。

『嗅んで見さいな、これ。』と云つて自分で嗅いで居たが、小さい鼻がひこづいて、目が恍然(うつとり)と細くなる。(こんな)好い(にほひ)を知らないんだなと思つて、私は何だか気の毒な様な気持になつたが、不意と「左の袂、左の袂」と云つた菊池君を思出した。

(わし)貰つてくだよ。これ。』と云ふ(ことば)は、満更揶揄(からか)ふつもり許りでも無いらしい。

『やるよ。』

『本当がね。』と目を輝かして、懐に()じ込む真似をしたが、

貴方(あんた)が泣くべさ。』と云つて、フワリと手巾を私の顔にかけた儘、バタ/\出て行つた。

 目を(つむ)ると、好い(にほひ)のする(はなびら)の中に魂が包まれた様で、自分の呼気(いき)が温かな(もや)の様に顔を撫でる。(ぼうつ)として目を()くと、無際限の世界が、唯モウ薄光(うすあかり)の射した淡紅色の世界で、(じつ)として居ると遙か/\向ふにポツチリと黒い点、千里の空に鷲が一羽、と思ふと、段々近いて来て、大きくなつて、世界を掩ひ隠す様な翼が、目の前に来てパツと消えた。今度は楕円形な(かげ)が横合から出て来て、煙の様に動いて、もと来た横へ()れて了ふ。ト、淡紅色の(からかみ)がスイと開いて、真黒な髭面の菊池君が……

 足音がしたので、急いで手を出して手巾を顔から蒲団の中へ隠す。入つて来たのは小い方の女中で、鉄瓶と茶器を私の手の届く所に揃へて、出て行く時一寸立止つて枕頭(まくらもと)を見廻した。お芳の奴が喋つたなと感付く。怎したものか、(もう)茶を入れて飲まうと云ふ気もしない。

 昨夜の事が歴々(まざまざ)と思出された。女中が(からかみ)を開けて髭面の菊池君が初めて顔を出した時の(さま)が、目に浮ぶ。(いはほ)の様な日下部君と芍薬の様な市子の列んで坐つた態、今夜は染直したから新しくなつたでせうと云つて、ヌツト突出した志田君の顔、色の浅黒い貧相な一人の芸妓が、モ一人の袖を()いて、私の前に坐つて居る市子の方を(あご)で指し乍ら、何か密々(ひそひそ)話し合つて笑つた事、菊池君が盃を持つて立つて来て、西山から声をかけられた時、怎やら私達の所に座りたさうに見えた事、雀躍(こをどり)する様に身体を揺がして、踊をモ一つと所望した小松君の横顔、……それから、市子の顔を明瞭(はつきり)描いて見たいと云ふ様な気がして、折角努めて見たが、怎してか浮んで来ない。今度は、(どんな)気がしてアノ手巾を私の袂に入れただらうと考へて見たが、否、不図すると、アレは市子でなくて、名は忘れたが、ソレ、アノ何とか云つた、色の浅黒い貧相な奴が、入れたんぢやないかと云ふ気がした。が、これには自分ながら直ぐ可笑くなつて了つて、又しても「左の袂、左の袂」を思ひ出す。……

「ウアツハハ」と高く笑つて、薄く雪明(ゆきあかり)のした小路を、大跨に歩き去つた。――其後姿が目に浮ぶと、(此朝私の頭脳(あたま)は余程空想的になつて居たので、)種々(いろん)な事が考へられた。

 大跨に、然うだ、菊池君は普通(なみ)足調(あしどり)でなく、屹度(きつと)大跨に歩く人だ。無雑作に大跨に歩く人だ。大跨に歩くから、時としてドブリと泥濘(ぬかるみ)へ入る、石に(つまづ)く、真暗な晩には溝にも(おつ)こちる。若しかして溝が身長(みたけ)よりも深いとなると、アノ人の事だから、其溝の中を大跨に歩くかも知れない。

「溝の中を歩く人。」と口の中で云つて、私は思はず微笑(につこり)した。それに違ひない、アノ洋服の色は、()えた、腐つた、溝の中の汚水の臭気で(あんな)に変色したのだ。手! アノ節くれ立つた、恐ろしい手も、溝の中を歩いた証拠だ。烈しい労働の痛苦が、手の指の節々に刻まれて居る。「痛苦の……生―活―の溝、」と、(また)口の中で云つて見たが、此(ことば)は、我乍ら鋭い錐で胸をもむ様な、連想を起したので、狼狽(うろた)へて「人生の裏路を辿る人。」と直す。

 何にしても菊池君は失敗を重ねて来た人だ、と、勝手に断定して、今度は、アノ指が確かに私のの二本前太いと思つた。で、小児(こども)みたいに、(そつ)と自分の指を蒲団の中から出して見たが、菊池君は力が強さうだと考へる。ト、私は直ぐ其喧嘩の対手を西山社長にした。何と云ふ訳も無いが、西山の厭な態度と、眼鏡越の狐疑(うたがひ)深い目付とが、怎しても菊池君と調和しない様な気がするので。――西山が馬鹿に社長風を吹かして威張るのを、「毎日」の記者共が、皆蔭で悪く云つて居乍ら、面と向つてはペコペコ頭を下げる。菊池がそれを憤慨して、入社した三日目に突然、社長の頬片(ほつぺた)を擲る。社長は蹣跚(よろよろ)と行つて椅子に倒れ懸りながら、「何をするツ」と云ふ。其頭にポカ/\と拳骨が飛ぶ、社長は卓子(テイブル)の下を這つて向うへ抜けて、抜萃(きりぬき)に使ふ鋏を逆手に握つて、真蒼な顔をして、「発狂したか?」と顫声で叫ぶ。菊池君は両手を上衣の衣嚢(ぽけつと)に突込んで、「馬鹿な男だ(なあ)。」と吃る様に云ひ乍ら、悠々と「毎日」を去る。そして其足で直ぐ私の所へ来て、「日報」に入れて呉れないかと頼む。――思はず声を立てて私は笑つた。

 が、此妄想から、私の頭脳(あたま)に描かれて居る菊池君が、(どう)やら、アノ髭で、権力の圧迫を春風と共に受流すと云つた様な、気概があつて、義に堅い、豪傑肌の、支那的色彩を帯びて現れた。私は、小い時に読んだ三国史中の人物を、それか、これかと、此菊池君に当嵌めようとしたが、不図、「馬賊の首領に(こんな)男は居ないだらうか。」と云ふ気がした。

 馬賊……満洲……と云ふ考へは、直ぐ「遠い」と云ふ感じを起した。ト、女中が不意に襖を開けて、アノ髯面が初めて現れた時は、菊池君は何処か遠い所から来たのぢや無かつたらうかと思はれる。考へが直ぐ移る。

 昨夜(ゆうべ)の座敷の様子が、(また)鮮かに私の目に浮んだ。然うだ、菊池君の住んで居る世界と、私達の住んで居る世界との間には、余程の間隔(へだたり)がある。「ウアツハハ。」と笑つたり、「私もそれなら至極同感ですな。」と云つたり、立つて盃を持つて来たりする時は、アノ人が自分の世界から態々(わざわざ)出掛けて来て、私達の世界へ一寸入れて貰はうとするのだが、生憎(あいにく)唯人の目を向けさせるだけで、一向効力(ききめ)が無い。菊池君は矢張、唯一人自分の世界に居て、胡坐をかいた膝頭を、両手で攫んで、凝然(じつ)として居る人だ。……………

 ト、今度は、菊池君の顔を嘗て何処かで見た事がある様な気がした。確かに見たと、誰やら耳の中で囁く。盛岡――の近所で私は生れた――の、内丸の大逵(おほどほり)がパツと目に浮ぶ。中学の門と(はす)に向ひ合つて、一軒の理髪床(とこや)があつたが、其前で何日(いつ)かしら菊池君を見た……否、アレは市役所の兵事係とか云ふ、同じ(クラス)の友人のお父様(とうさん)の髭だつたと気がつく。其頃私の姉の家では下宿屋をして居たが、其家(そこ)に泊つて居た髭……違ふ、違ふ、アノ髭なら気仙(けせん)郡から来た大工だと云つて、二ヶ(つき)も遊んでから喰逃して北海道へ来た筈だ。ト、以前(もと)私の居た小樽の新聞社の、盛岡生れだと云つた職工長の立派な髭が頭脳(あたま)に浮ぶ。若しかすると、菊池君は何時か私の生れた村の、アノ白沢屋とか云ふ木賃宿の縁側に、胡坐をかいて居た事がなかつたらうかと考へたが、これも甚だ不正確(ふたしか)なので、ハテ、何処だつたかと、気が少し苛々(いらいら)して来て、東京ぢやなかつたらうかと、無理な方へ飛ぶ。東京と云へば、私は直ぐ、須田町――東京中の電車と人が四方から(なだ)れる様に集つて来る須田町を頭脳(あたま)に描くが、アノ雑沓の中で、菊池君が電車から降りる……否、乗る所を、私は余程(よつぽど)遠くからチラリと後姿を……無理だ、無理だ、電車と菊池君を密接(くつつ)けるのは無理だ……。

『モウ起きなさいよ、十一時が()つたから。(そんな)に《そんな》に」はママ]寝てて、貴方何考へてるだべさ。』

と、取つて投げる様な、癇高い声で云つて、お芳が入つて来た。ハツとすると、血が頭からスーツと下つて行く様な、夢から覚めた様な気がして、返事もせず、真面目な顔をして黙つて居ると、お芳も存外真面目な顔をして、十能の火を火鉢に移す。指の太い、(あかぎれ)だらけの、赤黒い不恰好な手が、急がしさうに、細い真鍮の火箸を動かす。手巾を欲しがつてる癖に……と考へると、私は其手巾を蒲団の中で、胸の上にシツカリ握つてる事に気がついた。ト、急に之をお芳に呉れるのが惜しくなつて来たので、対手にそれを云ひ出す機会を与へまいと、寝返りを打たうとしたが、怎したものか、此瞬間に、お芳の目元が菊池に(よく)似てると思つた。不思議だナと考へて、半分廻しかけた頭を一寸戻して、(また)お芳の目を見たが、モウ似て居ない。似る筈が無いサと胸の中で云つて、思切つて寝返りを打つ。

『私の顔など見たくもなかべさ。ねえ、橘さん。』

『何を云ふんだい。』

と私は何気なく云つたが、ハハア、此女が、存外真面目な顔をしてる(わい)と思つたのは、ヤレ/\、これでも一種の姿態(しな)を作つて見せる積りだつたかと気が付くと、私は吹出したくなつて来た。

『フン。』

とお芳が云ふ。

 私は、顔を伏臥(うつぷ)す位にして、呼吸(いき)を殺して笑つて居ると、お芳は火を移して了つて、炭をついで、雑巾で火鉢の縁を拭いてる様だつたが、(やが)て鉄瓶の蓋を取つて見る様な音がする。茶器に触る音がする。

『喉が渇いて渇いて、死にそだてがらに、湯ば飲まねえで何考へてるだかな。』

と、独語(ひとりごと)の様に云つて、出て行つて了つた。

     四

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