2話 中
読み方を変える
この話の冒頭にも一寸述べた様に、その頃、松村武と私とは、場末の下駄屋の二階の六畳に、もうどうにもこうにも動きがとれなくなって、窮乏のどん底にのたうち廻っていたのである。
でも、あらゆるみじめさの中にも、まだしも幸運であったのは、丁度時候が春であったことだ。これは貧乏人丈けにしか分らない一つの秘密であるが、冬の終から夏の初にかけて、貧乏人は、大分儲けるのである。いや、儲けたと感じるのである。というのは、寒い時丈け必要であった、羽織だとか、下着だとか、ひどいのになると、夜具、火鉢の類に至るまで、質屋の蔵へ運ぶことが出来るからである。私共も、そうした気候の恩恵に浴して、明日はどうなることか、月末の間代の支払はどこから捻出するか、という様な先の心配を除いては、先ず一寸いきをついたのである。そして、暫く遠慮して居った銭湯へも行けば、床屋へも行く、飯屋ではいつもの味噌汁と香の物の代りに、さしみで一合かなんかを奮発するといった鹽梅であった。
ある日のこと、いい心持に《ゆだ》って、銭湯から帰って来た私が、傷だらけの、毀れかかった一閑張の机の前に、ドッカと坐った時、一人残っていた松村武が、妙な、一種の興奮した様な顔付を以て、私にこんなことを聞いたのである。
「君、この、僕の机の上に二銭銅貨をのせて置いたのは君だろう。あれは、どこから持って来たのだ」
「アア、俺だよ。さっき煙草を買ったおつりさ」
「どこの煙草屋だ」
「飯屋の隣の、あの婆さんのいる不景気なうちさ」
「フーム、そうか」
と、どういう訳か、松村はひどく考え込んだのである。そして、尚も執拗にその二銭銅貨について尋ねるのであった。
「君、その時、君が煙草を買った時だ、誰か外にお客はいなかったかい」
「確か、いなかった様だ。そうだ。いる筈がない。その時あの婆さんは居眠りをしていたんだ」
この答を聞いて、松村は何か安心した様子であった。
「だが、あの煙草屋には、あの婆さんの外に、どんな連中がいるんだろう。君は知らないかい」
「俺は、あの婆さんとは仲よしなんだ。あの不景気な仏頂面が、俺のアブノーマルな嗜好に適したという訳でね。だから、俺は相当あの煙草屋については詳しいんだ。あそこには婆さんの外に、婆さんよりはもっと不景気な爺さんがいる切りだ。併し君はそんなことを聞いてどうしようというのだ。どうかしたんじゃないかい」
「マアいい。一寸訳があるんだ。ところで君が詳しいというのなら、も少しあの煙草屋のことを話さないか」
「ウン、話してもいい。爺さんと婆さんとの間に一人の娘がある。俺は一度か二度その娘を見かけたが、そう悪くない容色だぜ。それがなんでも、監獄の差入屋とかへ嫁いているという話だ。その差入屋が相当に暮しているので、その仕送りで、あの不景気な煙草屋も、つぶれないで、どうかこうかやっているのだと、いつか婆さんが話していたっけ。……」
こう、私が煙草屋に関する知識について話し始めた時に、驚いたことには、それを話して呉れと頼んで置きながら、もう聞き度くないと云わぬばかりに、松村武が立上ったのである。そして、広くもない座敷を、隅から隅へ丁度動物園の熊の様に、ノソリノソリと歩き始めたのである。
私共は、二人共、日頃から随分気まぐれな方であった。話の間に突然立上るなどは、そう珍しいことでもなかった。けれども、この場合の松村の態度は、私をして沈黙せしめた程も、変っていたのである。松村はそうして、部屋の中をあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、約三十分位歩き廻っていた。私は黙って、一種の興味を以て、それを眺めていた。その光景は、若し傍観者があって、之を見たら、余程狂気じみたものであったに相違ないのである。
そうこうする内に、私は腹が減って来たのである。丁度夕食時分ではあったし、湯に入った私は余計に腹が減った様が気がしたのである。そこで、まだ狂気じみた歩行を続けている松村に、飯屋に行かぬかと勧めて見た所が、「済まないが、君一人で行って呉れ」という返事だ。仕方なく、私はその通りにした。
さて、満腹した私が、飯屋から帰って来ると、なんと珍らしいことには、松村が按摩を呼んで、もませていた。以前は私共のお馴染であった、若い盲唖学校の生徒が、松村の肩につかまって、しきりと何か、持前のお喋りをやっているのであった。
「君、贅沢だと思っちゃいけない。これには訳があるんだ。マア、暫く黙って見ていて呉れ。その内に分るから」
松村は、私の機先を制して、非難を予防する様に云った。昨日、質屋の番頭を説きつけて、寧ろ強奪して、やっと手に入れた二十円なにがしの共有財産の寿命が、按摩賃六十銭丈け縮められることは、此際、確かに贅沢に相違なかったからである。
私は、これらの、ただならぬ松村の態度について、ある、言い知れぬ興味を覚えた。そこで、私は自分の机の前に坐って、古本屋で買って来た講談本か何かを、読耽っている様子をした。そして、実は松村の挙動をソッと盗み見ていたのである。
按摩が帰って了うと、松村も彼の机の前に坐って、何か紙切れに書いたものを読んでいる様であったが、軈て彼は懐中から、もう一枚の紙切れを取出して机の上に置いた。それは、極く薄く、二寸四方程の、小さいもので、細い文字が一面に認めてあった。彼は、この二枚の紙片れを、熱心に比較研究している様であった。そして、鉛筆を以て、新聞紙の余白に、何か書いては消し、書いては消していた。
そんなことをしている間に、電燈が点いたり、表通りを豆腐屋のラッパが通過ぎたり、縁日にでも行くらしい人通りが、暫く続いたり、それが途絶えると、支那蕎麦屋の哀れげなチャルメラの音が聞えたりして、いつの間にか夜が更けたのである。それでも松村は、食事さえ忘れて、この妙な仕事に没頭していた。私は黙って、自分の床を敷いて、ゴロリ横になると、退屈にも、一度読んだ講談を、更らに読み返しでもする外はなかったのである。
「君、東京地図はなかったかしら」
突然、松村がこういって、私の方を振向いた。
「サア、そんなものはないだろう。下のお上さんにでも聞いて見たらどうだ」
「ウン、そうだな」
彼は直ぐに立上って、ギシギシいう梯子段を下へ降りて行ったが、軈て、一枚の折目から破れ相になった東京地図を借りて来た。そして、又机の前に坐ると、熱心な研究を続けるのであった。私は益々募る好奇心を以て彼の様子を眺めていた。
下の時計が九時を打った。松村は、長い間の研究が、一段落を告げたと見えて、机の前から立上って私の枕頭へ坐った。そして少し言いにく相に、
「君、一寸、十円ばかり出して呉れないか」
と云うのだ。私は、松村のこの不思議な挙動については、読者にはまだ明してない所の、私丈けの深い興味を持っていた。それ故、彼に十円という、当時の私共に取っては、全財産の半分であったところの大金を与えることに、少しも異議を唱えなかった。
松村は、私から十円札を受取ると、古袷一枚に、皺くちゃのハンチングという扮装で、何も云わずに、プイとどこかへ出て行った。
一人取残された私は、松村の其後の行動について、色々想像を廻らした。そして独りほくそ笑んでいる内に、いつか、うとうとと夢路に入った。暫くして松村が帰って来たのを、夢現に覚えていたが、それからは、何も知らずに、グッスリと朝まで寝込んで了ったのである。
随分寝坊の私は、十時頃でもあったろうか、眼を醒して見ると、枕頭に妙なものが立っているのに驚かされた。というのは、そこには、縞の着物に角帯を締めて、紺の前垂れをつけた一人の商人風の男が、一寸した風呂敷包を背負って立っていたのである。
「なにを妙な顔をしているんだ。俺だよ」
驚いたことには、その男が、松村武の声を以て、こういったのである。よくよく見ると、それは如何にも松村に相違ないのだが、服装がまるで変っていたので、私は暫くの間、何が何だか、訳がわからなかったのである。
「どうしたんだ。風呂敷包なんか背負って。それに、そのなりはなんだ。俺はどこの番頭さんかと思った」
「シッ、シッ、大きな声だなあ」松村は両手で抑えつける様な恰好をして、囁く様な小声で、「大変なお土産を持って来たよ」
というのである。
「君はこんなに早く、どっかへ行って来たのかい」
私も、彼の変な挙動につられて、思わず声を低くして聞いた。すると、松村は、抑えつけても抑えつけても、溢れて来る様な、ニタニタ笑いを顔一杯に漲らせながら、彼の口を私の耳の側まで持って来て、前よりは一層低い、あるかなきかの声で、こういったのである。
「この風呂敷包の中には、君、五万円という金が這入っているのだよ」