国貞えがく

1話 国貞えがく(1)

5,729字 約11分 1999年12月16日 公開

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       一

 柳を植えた……その柳の一処(ひとところ)繁った中に、清水の()く井戸がある。……大通り()(かど)の郵便局で、東京から組んで寄越(よこ)した若干金(なにがし)為替(かわせ)請取(うけと)って、()(まき)(くる)んで、ト()ず懐中に及ぶ。

 春は過ぎても、初夏(はつなつ)の日の長い、五月中旬(なかば)午頃(ひるごろ)の郵便局は(かん)なもの。受附にもどの口にも他に立集(たちつど)う人は一人もなかった。が、為替は直ぐ手取早(てっとりばや)くは受取(うけと)れなかった。

 取扱いが如何(いか)にも気長で、

「金額は何ほどですか。差出人は誰でありますか。貴下(あなた)が御当人なのですか。」

 などと間伸(まのび)のした、しかも際立(きわだ)って耳につく東京の調子で()る、……その本人は、受取口から見た(ところ)、二十四、五の青年で、羽織(はおり)は着ずに、小倉(こくら)(はかま)で、久留米(くるめ)らしい(かすり)(あわせ)、白い襯衣(しゃつ)を手首で留めた、肥った腕の、肩の(あたり)まで捲手(まくりで)で何とも(もっ)て忙しそうな、そのくせ、する事は薩張(さっぱり)(はかど)らぬ。(なり)に似合わず悠然(ゆうぜん)落着済(おちつきす)まして、(いささ)権高(けんだか)に見える(ところ)は、土地の士族の子孫らしい。で、その尻上がりの「ですか」を饒舌(しゃべ)って、時々じろじろと下目(しため)に見越すのが、田舎漢(いなかもの)だと(あなど)るなと言う態度の、それが(あきら)かに窓から見透(みえす)く。郵便局員貴下(きか)御心安(おこころやす)かれ、受取人の立田織次(たつたおりじ)も、同国(おなじくに)の平民である。

 さて、局の石段を下りると、広々とした四辻(よつつじ)に立った。

「さあ、何処(どこ)()こう。」

 何処へでも勝手に行くが(よし)、また何処へも行かないでも()い。このまま、今度の帰省中(ころ)がってる従姉(いとこ)(うち)へ帰っても()いが、其処(そこ)は今しがた出て来たばかり。すぐに取って返せば、忘れ物でもしたように思うであろう。……先祖代々の墓詣(はかまいり)昨日(きのう)済ますし、久しぶりで見たかった公園もその帰りに廻る。約束の会は明日(あした)だし、(すき)なものは晩に食べさせる、と従姉(いとこ)が言った。差当(さしあた)り何の用もない。何年にも幾日(いくか)にも、こんな暢気(のんき)な事は覚えぬ。おんぶするならしてくれ、で、()他愛(たわい)がないほど、のびのびとした心地(ここち)

 気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これで(かっ)と日が当ると、日中は(はや)じりじりと来そうな頃が、近山曇(ちかやまぐも)りに(うっす)りと雲が懸って、真綿(まわた)を日光に()すような、ふっくりと軽い暖かさ。午頃(ひるごろ)の蔭もささぬ柳の葉に、ふわふわと(やわらか)い風が懸る。……その柳の下を、駈けて通る腕車(くるま)も見えず、人通りはちらほらと、都で言えば朧夜(おぼろよ)を浮れ出したような(さま)だけれども、この土地ではこれでも(にぎやか)な町の(ぶん)城趾(しろあと)のあたり中空(なかぞら)(とび)が鳴く、と(ちょう)ど今が(しゅん)(いわし)を焼く(におい)がする。

 飯を食べに行っても(よし)、ちょいと珈琲(コオヒイ)に菓子でも(よし)何処(どこ)か茶店で茶を飲むでも(よし)、別にそれにも及ばぬ。が、(あわせ)に羽織で身は軽し、駒下駄(こまげた)は新しし、為替は取ったし、ままよ、若干金(なにがし)か貸しても()い。

「いや、串戯(じょうだん)()して……」

 そうだ! 小北(おぎた)(とこ)()かねばならぬ――と思うと、のびのびした手足が、きりきりと(しま)って、身体(からだ)が帽子まで堅くなった。

 何故(なぜ)四辺(あたり)(なが)められる。

 こう、小北と姓を言うと、学生で、故郷の旧友のようであるが、そうでない。これは平吉(へいきち)……(へい)さんと言うが早解(はやわか)り。織次の亡き親父と同じ夥間(なかま)の職人である。

 此処(ここ)からはもう近い。この柳の通筋(とおりすじ)を突当りに、真蒼(まっさお)な山がある。それへ向って二(ちょう)ばかり、城の大手(おおて)を右に見て、左へ折れた、屋並(やなみ)(そろ)った町の中ほどに、きちんとして暮しているはず。

 その男を訪ねるに仔細(しさい)はないが、訪ねて()くのに、十年(ごし)の思出がある、……まあ、もう少し()して置こう。

 さあ、其処(そこ)へ、となると、早や背後(うしろ)から追立(おった)てられるように、そわそわするのを、なりたけ自分で落着いて、悠々(ゆうゆう)歩行(ある)き出したが、取って三十という年紀(とし)の、(かれ)の胸の騒ぎよう。さては今の時の暢気(のんき)さは、この(なみ)が立とうとする用意に、フイと静まった海らしい。

       二

 この(とおり)は、(かれ)が生れた町とは大分(あいだ)が離れているから、(のき)を並べた両側の家に、別に知己(ちかづき)の顔も見えぬ。それでも何かにつけて思出す事はあった。通りの中ほどに、一軒料理屋を兼ねた旅店(りょてん)がある。其処(そこ)へ東京から新任の県知事がお乗込(のりこみ)とあるについて、向った玄関に段々(だんだら)の幕を打ち、水桶(みずおけ)に真新しい柄杓(ひしゃく)を備えて、(うやうや)しく盛砂(もりずな)して、門から新筵(あらむしろ)敷詰(しきつ)めてあるのを、向側の軒下に立って(なが)めた事がある。通り(がか)りのお百姓は、この前を過ぎるのに、

「ああっ、」といって腰をのめらして行った。……御威勢のほどは、後年地方長官会議の(せつ)に上京なされると、電話第何番と言うのが見得(みえ)の旅館へ宿って、(ねぎ)の《おくび》で、東京の町へ出らるる御身分とは夢にも思われない。

 また夢のようだけれども、今見れば麺麭(パン)屋になった、(ちょう)どその硝子(がらす)窓のあるあたりへ、幕を絞って――暑くなると夜店の中へ、見世(みせ)ものの小屋が(かか)った。猿芝居、大蛇、熊、盲目(めくら)墨塗(すみぬり)――(この土俵は星の下に暗かったが)――西洋手品など一廓(ひとくるわ)に、(どくだみ)の花を咲かせた――表通りへ目に立って、蜘蛛男(くもおとこ)の見世物があった事を思出す。

 (ひたい)の出た、頭の大きい、鼻のしゃくんだ、黄色い顔が、その長さ、大人(おとな)の二倍、やがて一尺、飯櫃形(いびつなり)天窓(あたま)にチョン(まげ)を載せた、身の(たけ)というほどのものはない。(あご)から爪先の生えたのが、金ぴかの上下(かみしも)を着た(ところ)は、アイ来た、と手品師が箱の中から拇指(おやゆび)(つま)み出しそうな中親仁(ちゅうおやじ)。これが看板で、小屋の正面に、(ねずみ)嫁入(よめいり)(かつ)ぎそうな小さな駕籠(かご)の中に、くたりとなって、ふんふんと鼻息を荒くするごとに、その出額(おでこ)蚯蚓(みみず)のような横筋を(うね)らせながら、きょろきょろと、込合(こみあ)群集(ぐんじゅ)(なが)めて控える……口上言(こうじょういい)がその出番に、

太夫(たゆう)いの、太夫いの。」と呼ぶと、駕籠の中で、しゃっきりと天窓(あたま)掉立(ふりた)て、

唯今(ただいま)、それへ。」

 とひねこびれた声を出し、(あご)をしゃくって衣紋(えもん)を造る。その身動きに、(いたち)(におい)(ぷん)とさせて、ひょこひょこと()足取(あしどり)蜘蛛(くも)の巣を渡るようで、大天窓(おおあたま)頸窪(ぼんのくぼ)に、附木(つけぎ)ほどな腰板が、ちょこなんと見えたのを憶起(おもいおこ)す。

 それが舞台へ懸る途端に、ふわふわと幕を落す。その時木戸(きど)に立った多勢(おおぜい)の方を見向いて、

「うふん。」といって、目を()いて、脳天から振下(ぶらさが)ったような、(あか)い舌をぺろりと出したのを見て、織次は悚然(ぞっ)として、雲の蒸す月の下を(うち)遁帰(にげかえ)った事がある。

 人間ではあるまい。鳥か、(けもの)か、それともやっぱり土蜘蛛(つちぐも)(たぐい)かと、訪ねると、……その頃六十ばかりだった織次の祖母(おばあ)さんが、

「あれはの、二股坂(ふたまたざか)庄屋(しょうや)殿じゃ。」といった。

 この二股坂と言うのは、山奥で、可怪(あやし)い伝説が少くない。それを越すと隣国への近路(ちかみち)ながら、人界との(さかい)(へだ)つ、自然のお関所のように土地の人は思うのである。

 この(あたり)からは、峰の松に(さえぎ)られるから、その姿は見えぬ。()っと(いぬい)の位置で、町端(まちはずれ)の方へ退(さが)ると、近山(ちかやま)背後(うしろ)に海がありそうな雲を隔てて、山の形が歴然(ありあり)と見える。……

 汽車が通じてから、はじめて帰ったので、停車場(ステエション)を出た所の、故郷(ふるさと)は、と一目見ると、石を置いた屋根より、赤く塗った柱より、先ずその山を見て、暫時(しばらく)茫然(ぼうぜん)として(たたず)んだのは、つい二、三日前の事であった。

 腕車(くるま)を雇って、さして()従姉(いとこ)の町より、真先に、

「あの山は?」

二股(ふたまた)じゃ。」と車夫(くるまや)が答えた。――織次は、この国に育ったが、用のない町端(まちはずれ)まで、小児(こども)の時には()かなかったので、(ただ)名に聞いた、五月晴(さつきばれ)の空も、暗い、その山。

       三

 その時は何んの心もなく、(くだん)の二股を(あお)いだが、此処(ここ)に来て、昔の小屋の前を通ると、あの、蜘蛛大名(くもだいみょう)が庄屋をすると、可怪(あや)しく胸に響くのであった。

 まだ、その蜘蛛大名の一座に、胴の太い、脚の短い、芋虫(いもむし)が髪を()って、()腰布(こしぬの)()いたような侏儒(いっすんぼし)(おんな)が、三人ばかりいた。それが、見世ものの(おどり)を済まして、寝しなに町の湯へ入る時は、風呂の(ふち)へ両手を掛けて、横に両脚(りょうあし)でドブンと(つか)る。そして湯の中でぶくぶくと泳ぐと聞いた。

 そう言えば湯屋(ゆや)はまだある。けれども、以前見覚えた、両眼(りょうがん)真黄色(まっきいろ)な絵具の光る、巨大な(むかで)が、赤黒い雲の如く(うず)を巻いた真中に、俵藤太(たわらとうだ)が、弓矢を(はさ)んで身構えた暖簾(のれん)が、ただ、男、女と上へ割って、柳湯(やなぎゆ)、と白抜きのに懸替(かけかわ)って、(かど)の目印の柳と共に、枝垂(しだ)れたようになって、折から森閑(しんかん)と風もない。

 人通りも殆ど途絶えた。

 が、何処(どこ)ともなく、柳に暗い、湯屋の硝子戸(がらすど)の奥深く、ドブンドブンと、ふと湯の(あお)ったような(ひびき)が聞える。……

 立淀(たちよど)んだ織次の耳には、それが二股から遠く伝わる、ものの(こだま)のように聞えた。織次の祖母(おおば)は、見世物のその侏儒(いっすんぼし)(おんな)を教えて、

「あの()たちはの、蜘蛛庄屋(くもしょうや)にかどわかされて、その《こしもと》になったいの。」

 と昔語りに話して聞かせた所為(せい)であろう。ああ、薄曇りの空低く、見通しの町は浮上(うきあが)ったように見る目に浅いが、故郷(ふるさと)の山は深い。

 また山と言えば思出す、この町の(にぎや)かな店々の(かっ)と明るい(はて)を、縦筋(たてすじ)に暗く(くぎ)った一条(ひとすじ)(みち)を隔てて、数百(すひゃく)燈火(ともしび)織目(おりめ)から抜出(ぬけだ)したような薄茫乎(うすぼんやり)として灰色の(くま)暗夜(やみ)(ただよ)う、まばらな人立(ひとだち)を前に控えて、大手前(おおてまえ)土塀(どべい)(すみ)に、足代板(あじろいた)の高座に乗った、さいもん語りのデロレン坊主、但し長い頭髪(かみのけ)(ひたい)振分(ふりわ)け、ごろごろと(しゃく)を鳴らしつつ、塩辛声(しおからごえ)して、

「……姫松(ひめまつ)どのはエ」と、大宅太郎光国(おおやのたろうみつくに)の恋女房が、滝夜叉姫(たきやしゃひめ)山寨(さんさい)に捕えられて、小賊(しょうぞく)どもの手に松葉燻(まつばいぶし)となる(ところ)――樹の枝へ釣上げられ、後手(うしろで)(ひじ)(そら)に、反返(そりかえ)る髪を(さかさ)に落して、ヒイヒイと(むせ)んで泣く。やがて夫の光国が来合わせて助けるというのが、明晩、とあったが、翌晩(あくるばん)もそのままで、次第に姫松の声が()れる。

「我が(つま)いのう、光国どの、助けて()べ。」とばかりで、この武者修業の、足の遅さ。

 三晩目(みばんめ)に、(やっ)とこさと山の(ふもと)へ着いたばかり。

 織次は、小児心(こどもごころ)にも朝から気になって、蚊帳(かや)の中でも髣髴(ほうふつ)蚊燻(かいぶ)しの煙が来るから、続けてその翌晩も聞きに行って、(きたな)い弟子が古浴衣(ふるゆかた)膝切(ひざぎり)な奴を、胸の(ところ)でだらりとした拳固(げんこ)矢蔵(やぞう)、片手をぬい、と出し、人の(あご)をしゃくうような手つきで、銭を強請(ねだ)る、爪の黒い(てのひら)へ持っていただけの小遣(こづかい)を載せると、目を《みは》ったが、黄色い歯でニヤリとして、身体(からだ)()でようとしたので、()(きまり)が悪く退(すさ)った(うなじ)へ、大粒な雨がポツリと来た。

 (たちま)大驟雨(おおゆうだち)となったので、蒼くなって駈出(かけだ)して帰ったが、(うち)までは七、八町、その、びしょ濡れさ加減(かげん)思うべしで。

 あと二夜(ふたよ)ばかりは、空模様を見て親たちが出さなかった。

 さて晴れれば晴れるものかな。磨出(みがきだ)した()い月夜に、(こま)の手綱を切放(きりはな)されたように飛出(とびだ)して行った時は、もうデロレンの高座は、消えたか、と跡もなく、後幕(うしろまく)一重(ひとえ)引いた、あたりの土塀の破目(われめ)へ、白々(しろじろ)と月が射した。

 (ぼっ)となって、辻に立って、前夜の雨を(うら)めしく、空を(あお)ぐ、と皎々(こうこう)として澄渡(すみわた)って、銀河一帯、近い山の()から(たま)の橋を町家(まちや)の屋根へ投げ懸ける。その上へ、真白(まっしろ)な形で、瑠璃(るり)色の()くのに薄い黄金(きん)の輪郭した、さげ結びの帯の見える、うしろ向きで、雲のような女の姿が、すっと立って、するすると月の前を歩行(ある)いて消えた。……織次は、かつ思いかつ歩行(ある)いて、(ちょう)どその辻へ来た。

       四

 湯屋(ゆや)は郵便局の方へ背後(うしろ)になった。

 辻の、この(あたり)で、月の中空(なかぞら)に雲を渡る(おんな)(まぼろし)を見たと思う、屋根の上から、城の大手(おおて)の森をかけて、一面にどんよりと曇った中に、一筋(ひとすじ)真白(まっしろ)な雲の(なび)くのは、やがて銀河になる時節も近い。……(なが)むれば、幼い時のその光景(ありさま)目前(まのあたり)に見るようでもあるし、また夢らしくもあれば、前世が(うさぎ)であった時、木賊(とくさ)の中から、ひょいと(のぞ)いた景色かも分らぬ。待て、(こいねがわ)くは兎でありたい。二股坂(ふたまたざか)(たぬき)は恐れる。

 いや、こうも、他愛(たわい)のない事を考えるのも、思出すのも、小北(おぎた)(とこ)()くにつけて、人は知らず、自分で気が(とが)める(おの)が心を、(われ)とさあらぬ(かた)(まぎ)らそうとしたのであった。

 さて、この辻から、以前織次の家のあった、(なにがし)……町の方へ、大手筋(おおてすじ)真直(まっすぐ)に折れて、一(ちょう)ばかり行った(ところ)に、小北の家がある。

 両側に軒の並んだ町ながら、この小北の向側(むこうがわ)だけ、一軒づもりポカリと抜けた、一町内の用心水(ようじんみず)水溜(みずたまり)で、石畳みは強勢(ごうせい)でも、緑晶色(ろくしょういろ)大溝(おおみぞ)になっている。

 向うの溝から(どじょう)にょろり、こちらの溝から鰌にょろり、と饒舌(しゃべ)るのは、けだしこの水溜(みずたまり)からはじまった事であろう、と夏の夜店へ行帰(ゆきかえ)りに、織次は(ひと)りでそう考えたもので。

 同一(おなじ)早饒舌(はやしゃべ)りの中に、茶釜雨合羽(ちゃがまあまがっぱ)と言うのがある。トあたかもこの溝の左角(ひだりかど)が、合羽屋(かっぱや)、は面白い。……まだこの時も、渋紙(しぶかみ)暖簾(のれん)(かか)った。

 折から人通りが二、三人――中の一人が、彼の前を行過(ゆきす)ぎて、フト見返って、またひょいひょいと尻軽に歩行出(あるきだ)した時、織次は帽子の(ひさし)を下げたが、(ひとみ)(きっ)と、溝の前から、(くだん)の小北の店を透かした。

 此処(ここ)にまた立留(たちどま)って、少時(しばらく)猶予(ためら)っていたのである。

 木格子(きごうし)の中に硝子戸(がらすど)を入れた店の、仕事の道具は見透(みえす)いたが、弟子の前垂(まえだれ)も見えず、主人(あるじ)の平吉が半纏(はんてん)も見えぬ。

 羽織の袖口(そでくち)両方が、胸にぐいと(あが)るように両腕を組むと、身体(からだ)(いきおい)を入れて、つかつかと足を運んだ。

 (のき)から直ぐに土間(どま)へ入って、横向きに店の戸を開けながら、

「御免なさいよ。」

「はいはい。」

 と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶の間から出た(おんな)は、下膨(しもぶく)れの色白で、真中から(びん)を分けた濃い毛の(たば)(がみ)()(すす)びたが、人形だちの古風な顔。満更(まんざら)容色(きりょう)ではないが、紺の筒袖(つつそで)上被衣(うわっぱり)を、浅葱(あさぎ)の紐で胸高(むなだか)にちょっと()めた甲斐甲斐(かいがい)しい女房ぶり。()と気になるのは、この(うち)あたりの暮向(くらしむ)きでは、これがつい通りの風俗で、(たれ)(あや)しみはしないけれども、畳の上を尻端折(しりばしょり)前垂(まえだれ)で膝を隠したばかりで、湯具(ゆのぐ)をそのままの足を、茶の間と店の敷居で()めて、立ち身のなりで口早(くちばや)なものの言いよう。

何処(どこ)からおいで遊ばしたえ、何んの御用で。」

 と一向(いっこう)気のない、(くう)で覚えたような口上(こうじょう)(ことば)つきは慇懃(いんぎん)ながら、取附(とりつ)()のない会釈をする。

「私だ、立田(たつた)だよ、しばらく。」

 もう忘れたか、覚えがあろう、と顔を向ける、と黒目がちでも(せい)のない、塗ったような瞳を流して、(じっ)と見たが、

「あれ。」と言いさま、ぐったりと膝を()いた。胸を()と反らしながら、驚いた風をして、

「どうして貴下(あなた)。」

 とひょいと立つと、端折(はしょ)った太脛(ふくらはぎ)(つつ)ましい見得(みえ)ものう、ト身を返して、背後(うしろ)を見せて、つかつかと摺足(すりあし)して、奥の(かた)へ駈込みながら、

「もしえ! もしえ! ちょっと……立田様の(おり)さんが。」

「何、立田さんの。」

「織さんですがね。」

「や、それは。」

 という平吉の声が台所で。がたがた、土間を踏む下駄(げた)の音。

       五

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