本所両国

1話 「大溝」

1,418字 約3分 1999年8月23日 公開

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 僕は本所界隈(ほんじよかいわい)のことをスケツチしろといふ社命を受け、同じ社のO君と一しよに久振(ひさしぶ)りに本所へ出かけて行つた。今その印象記を書くのに当り、本所両国(ほんじよりやうごく)と題したのは或は意味を成してゐないかも知れない。しかしなぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気も(ただよ)つてゐることは確かである。そこでO君とも相談の上、ちよつと電車の方向板(はうかうばん)じみた本所両国といふ題を用ひることにした。――

 僕は生れてから二十歳頃までずつと本所(ほんじよ)に住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日(こんにち)のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者(らくごしや)が比較的大勢(おほぜい)住んでゐた町である。従つて何処(どこ)を歩いてみても、日本橋(にほんばし)京橋(きやうばし)のやうに大商店の並んだ往来(わうらい)などはなかつた。若しその中に少しでも賑やかな通りを求めるとすれば、それは(わづか)両国(りやうごく)から亀沢町(かめざわちやう)に至る元町(もとまち)通りか、或は()(はし)から亀沢町に至る(ふた)()通り位なものだつたであらう。勿論その(ほか)石原(いしはら)通りや法恩寺橋(ほふおんじばし)通りにも低い瓦屋根(かはらやね)の商店は(のき)を並べてゐたのに違ひない。しかし広い「お竹倉(たけぐら)」をはじめ、「伊達様(だてさま)」「津軽様(つがるさま)」などといふ大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけてゐた。……

 殊に僕の住んでゐたのは「お竹倉(たけぐら)」に近い小泉町(こいづみちやう)である。「お竹倉」は僕の中学時代にもう両国停車場や陸軍被服廠(ひふくしやう)に変つてしまつた。しかし僕の小学時代にはまだ「大溝(おほどぶ)」に囲まれた、雑木林(ざふきばやし)や竹藪の多い封建時代の「お竹倉」だつた。「大溝」とはその名の示す通り、少くとも一間半あまりの(どぶ)のことである。この溝は僕の知つてゐる頃にはもう黒い泥水をどろりと(よど)ませてゐるばかりだつた。(僕はそこへ金魚にやる孑孑(ぼうふら)(すく)ひに行つたことをきのふのやうに覚えてゐる。)しかし「御維新(ごゐしん)」以前には溝よりも堀に近かつたのであらう。僕の叔父(をぢ)は十何歳かの時に年にも似合はない大小を差し、この溝の前にしやがんだまま、長い釣竿(つりざを)をのばしてゐた。すると誰か叔父の刀にぴしりと鞘当(さやあ)てをしかけた者があつた。叔父は勿論むつとして肩越しに相手を振り返つてみた。僕の一家一族の内にもこの叔父程負けぬ気の強かつた者はない。かういふ叔父はこの時にも相手によつては売られた喧嘩を買ふ位の勇気は持つてゐたのであらう。が、相手は誰かと思ふと、朱鞘(しゆざや)の大小を閂差(くわんぬきざ)しに差した身の(たけ)抜群の(さむらひ)だつた。しかも誰にも恐れられてゐた「新徴組(しんちようぐみ)」の一人(ひとり)に違ひなかつた。かれは叔父を尻目(しりめ)にかけながら、にやにや笑つて歩いてゐた。叔父は彼を一目みたぎり、二度と長い釣竿の先から目をあげずにゐたとかいふことである。

 僕は小学時代にも「大溝(おほどぶ)」の側を通る度にこの叔父(をぢ)の話を思ひ出した。叔父は「御維新」以前には新刀無念流(しんたうむねんりう)剣客(けんかく)だつた。(叔父が安房(あは)上総(かづさ)へ武者修行に出かけ、二刀流の剣客と仕合をした話も矢張(やは)り僕を喜ばせたものである。)それから「御維新」前後には彰義隊(しやうぎたい)に加はる志を持つてゐた。最後に僕の知つてゐる頃には年とつた猫背(ねこぜ)の測量技師だつた。「大溝(おほどぶ)」は今日(こんにち)本所(ほんじよ)にはない。叔父も(また)大正の末年(ばつねん)食道癌(しよくだうがん)を病んで死んでしまつた。本所の印象記の一節にかういふことを加へるのは或は私事に及び過ぎるであらう。しかし僕はO君と一しよに両国橋を渡りながら、大川(おほかは)の向うに立ち並んだ無数のバラツクを眺めた時には実際烈しい流転(るてん)(さう)に驚かない(わけ)には()かなかつた。僕の「大溝」を思ひ出したり、その又「大溝」に釣をしてゐた叔父を思ひ出したりすることも(かならず)しも偶然ではないのである。

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