本所両国

12話 緑町、亀沢町

1,246字 約2分 1999年8月23日 公開

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 江東橋(かうとうばし)を渡つた向うもやはりバラツクばかりである。僕は円タクの窓越しに赤錆(あかさび)をふいた亜鉛(トタン)屋根だのペンキ塗りの板目(はめ)だのを見ながら、確か明治四十三年にあつた大水(おほみづ)のことを思ひ出した。今日(こんにち)本所(ほんじよ)は火事には会つても、洪水に会ふことはないであらう。が、その時の大水は僕の記憶に残つてゐるのでは一番水嵩(みづかさ)の高いものだつた。江東橋(かうとうばし)界隈(かいわい)の人々の第三中学校へ避難したのもやはりこの大水のあつた時である。僕は江東橋を越えるのにも一面に(みなぎ)つた泥水の中を泳いで()かなければならなかつた。……

「実際その時は大変でしたよ。(もつと)も僕の(うち)などは(ゆか)の上へ水は来なかつたけれども。」

「では浅い所もあつたのですね?」

緑町(みどりちやう)二丁目――かな。(なん)でもあの辺は膝位(ひざくらゐ)まででしたがね。僕はSと云ふ友だちと一しよにその露地(ろぢ)の奥にゐるもう一人(ひとり)の友だちを見舞ひに行つたんです。するとSと云ふ友だちが(どぶ)の中へ落ちてしまつてね。……」

「ああ、水が出てゐたから、(どぶ)のあることがわからなかつたんですね。」

「ええ、――しかしSのやつは膝まで水の上に出てゐたんです。それがあつと言ふ拍子(ひやうし)可也(かなり)深い溝だつたと見え、水の上に出てゐるのは首だけになつてしまつたんでせう。僕は思はず笑つてしまつてね。」

 僕等をのせた円タクはかう云ふ僕等の話の(うち)寿座(ことぶきざ)の前を通り過ぎた。画看板(ゑかんばん)を掲げた寿座は余り昔と変らないらしかつた。僕の父の話によれば、この辺、――二つ目通りから先は「津軽(つがる)様」の屋敷だつた。「御維新(ごゐしん)(まへ)の或年の正月、父は川向うへ年始に()き、帰りに両国橋(りやうごくばし)を渡つて来ると、少しも見知らない若侍(わかざむらひ)一人(ひとり)偶然父と道づれになつた。彼もちやんと大小をさし、(たか)()の紋のついた上下(かみしも)を着てゐた。父は彼と話してゐるうちにいつか僕の(うち)を通り過ぎてしまつた。のみならずふと気づいた時には「津軽様」の(どぶ)の中へ転げこんでゐた。同時に又若侍はいつかどこかへ見えなくなつてゐた。父は泥まみれになつたまま、僕の(うち)へ帰つて来た。何でも父の刀は鞘走(さやばし)つた拍子(ひやうし)にさかさまに溝の中に立つたと云ふことである。それから若侍に()けた狐は(父は(いま)だこの若侍を狐だつたと信じてゐる。)刀の光に恐れた為にやつと逃げ出したのだと云ふことである。実際狐の化けたかどうかは僕にはどちらでも差支(さしつか)へない。僕は唯父の口からかう云ふ話を聞かされる度にいつも昔の本所(ほんじよ)如何(いか)に寂しかつたかを想像してゐた。

 僕等は亀沢町(かめざはちやう)(かど)で円タクをおり、元町(もとまち)通りを両国へ歩いて行つた。菓子屋の寿徳庵(じゆとくあん)は昔のやうにやはり繁昌(はんじやう)してゐるらしい。しかしその向うの質屋(しちや)の店は安田(やすだ)銀行に変つてゐる。この質屋の「()いちやん」も僕の小学時代の友だちだつた。僕はいつか遊び時間に僕等の(うち)にあるものを自慢(じまん)し合つたことを覚えてゐる。僕の友だちは僕のやうに年とつた小役人(こやくにん)息子(むすこ)ばかりではない。が、誰も「()いちやん」の言葉には驚嘆せずにはゐられなかつた。

「僕の(うち)土蔵(どざう)の中には大砲(おほづつ)万右衛門(まんゑもん)化粧廻(けしやうまは)しもある。」

 大砲(おほづつ)は僕等の小学時代に、――常陸山(ひたちやま)(うめ)(たに)の大関だつた時代に横綱を張つた相撲(すまふ)だつた。

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