英本土上陸戦の前夜

4話 英本土上陸戦の前夜(4)

8,353字 約17分 2003年12月26日 公開

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 彼は、空襲警報と爆撃の音とを子守唄として、三日間を、ホテルの中で、眠ってばかりいた……

 ロンドン駅についてから、彼は一旦(いったん)警視庁の手に渡り、それからものものしい借用証書(しゃくようしょうしょ)に署名して、やっと放免された。

 それから彼は、乗車賃の借りをかえすためにも又生活をするためにも、金が必要だったので、英蘭(イングランド)銀行へいって払出書(はらいだししょ)を書いた。ところが、銀行からは、(てい)よく断られてしまった。どうも、サインが前のものと違っているから、帳簿に乗っているとおりのものを思い出してくれというのであった。

 彼は、かーっとなったが、それでも、虫を殺して、一旦銀行を出た。

 銀行を出ようとして、彼が、掲示板の中に、パリ銀行のロンドンに移転してきた告知(こくち)ポスターを見落したとしたら、彼の上には、もっと深刻なるものが降ってきたことであろう。(さいわ)いにも、彼は、それに気がついたので、その足で、パリ銀行の臨時本店へいってみた。そこで彼は、十万フランの払出請求書(はらいだしせいきゅうしょ)を書いた。すると行員(こういん)は、気の毒そうな顔をした。また、駄目かと、彼は(にが)い顔をしたが、行員は、

誰方(どなた)にも、只今、一日五千フラン限りとなっていますので、事情(じじょう)御諒承(ごりょうしょう)ねがいます」

 といった。彼は、それならばというので、請求書を五千フランに書き改めると、銀行では、それに相当する英貨(えいか)で、払ってくれた。彼は、やっと大安堵(あんど)の息をついた。これで、乾干(ひぼ)しにもならないで()む。

 それから、彼は、このホテルに逗留(とうりゅう)することとなったのである。

 休養だ! そして睡眠だ!

 彼は、ただもう昏々(こんこん)と眠った。空襲警報が鳴っても、ボーイが、よほど(やかま)しくいわないと、彼は、防空地下室へ下りようとはしなかった。地下室の中でも、彼は、遠方から地響(じひびき)の伝わってくる爆撃も夢うつつに、(かたわら)から(うらや)ましがられるほど、ぐうぐうと(いびき)をかいて睡った。

 三日間の休養が、彼を非常に元気づけた。彼は、アンに捨てられたことを自覚し、そしてアンのことを思い切ろうと決心した。そんなことが、一層彼の頭の中から、苦悩を取り去ったものらしい。

 四日目、五日目は、ドイツ機の空襲が、ようやく気に(かか)るようになった。彼はようやく常人化(じょうじんか)したのであった。

 六日目は、朝から市中へ出て、爆撃の惨禍(さんか)などを見物して廻った。爆撃されているところは、煉瓦(れんが)などが、ボールほどの大きさに(くだ)かれ、天井裏(てんじょううら)露出(ろしゅつ)し、火焔(かえん)に焦げ、地獄のような形相(ぎょうそう)(てい)していたが、その他の町では、土嚢(どのう)の山と防空壕の建札(たてふだ)と高射砲陣地がものものしいだけで、あとは(しま)った店がすこし目立つぐらいで、街はやっぱり華美(かび)であった。

 防毒面(ぼうどくめん)こそ、肩から斜めに下げているが、行きずりの女事務員たちは、あいかわらず溌剌(はつらつ)として元気な声をたてて笑っていたし、牝牛(めうし)のように肥えたマダムは御主人にたくさんの買物を持たせて、のっしのっしと歩いていた。彼らは、ロンドンの空一杯に打ちあげられた阻塞気球(そさいききゅう)を、ひどく信頼しているのか、それとも、自分だけには、ドイツ軍の爆弾が命中しないと信じているか、どっちかであるように見えた。

 その日、半日の散歩で、彼は自分が、世の中から忘れられた人であることに気がついて、それがどうも気になってたまらなかった。やっぱり彼は、何を置いても、自分の素姓(すじょう)を知ることが先決(せんけつ)問題であると、そこに気がついた。

 今や元気と常識とを取り戻した彼は、勇躍(ゆうやく)して、その仕事(ビジネス)についた。また新たに、生きている張合(はりあ)いといったものが感じはじめられた。彼は、ふしぎに自分の体が、軽くなったように思った。

 彼は、まず手始めに、中国大使館へ出向いた。そして、自分は仏天青(フォー・テンチン)であるが、自分の素姓は、どういうものであるか、果して、大使館参事官であるか、どうかと、たずねた。そして記憶を失ったことや、記憶恢復(かいふく)後において身近に起った事件を、差支(さしつか)えない範囲で、受附の前にくどくどと説明したのであった。

「大使閣下(かっか)は、御不在(ごふざい)です。そしてわが大使館には、あなたのような名前の参事官はいません。御返事は、これだけです」

 と、木で鼻をくくるような挨拶(あいさつ)だった。

「本当ですか。本当のことを教えてもらいたいものです。私は気が変ではありませんよ」

「誰でも、そういうよ」

 と、受附子(うけつけし)の言葉が、急に乱暴になって、

「わしは、ロンドンに二十年も在勤しているが、ついぞ、仏天青などというおかしな名前の参事官があった話を聞かないね。家へかえって、内儀(かみ)さんによく相談してみたらいいでしょう」

 折角(せっかく)いい機嫌になった彼は、大使館に於けるこの押し問答によって、また憂鬱(ゆううつ)を取り戻した。なんという頭の悪い、そして礼儀知らずの館員だろう。彼は憤然(ふんぜん)、大使館の門を後にした。そしてもう、こんなところへ二度と来るものかと思った。

 彼が、門を出ていってしまった後で、受附子は、にがにがしい顔をして、

「どうも、空爆のせいで、気が変な人間が()えて来るよ。わしは、この頃、世話ばかりやっているが、あいつが大使館参事官なんて、とんでもない奴だ」

 といいながら、ふと気がついて、書棚(しょだな)から在外使臣名簿(ざいがいししんめいぼ)を取り出して、(ページ)をくった。そのうちに、彼は、びっくりしたような声を出した。

「あっ、仏天青、駐仏(ちゅうふつ)大使館参事官! あっ、ここにあったぞ。この頃は、新任の連中が殖えて、一々名前を憶えていられないや。しまったなあ。このまま放って置けば、この次に来たとき、こっぴどい目に会うぞ。よし、追駆(おいか)けてみよう」

 受附子は、ちょっと顔色をかえると、あわてて、外へ飛びだした。

 だが、このときには、もう彼の姿は、どこにも見当らなかった。

13

 仏天青(フォー・テンチン)は、列車にのって、リバプールに急ぎつつあった。

 駐英大使館では、彼は、大きな侮辱(ぶじょく)をうけた。そして(ほがら)かな気持がまた(くず)れてしまったのだ。

 この上は、リバプールを通って、ブルートの監獄へいき、そこに残っている彼の素姓調書(すじょうちょうしょ)を見るより(ほか)なしと考えた。

 十時間の後、彼はリバプールにいった。その夜は、ドロレス夫人の宿に泊めてもらうつもりで、この前の(あわ)い記憶を辿(たど)って、見覚えのある露地(ろじ)へ入りこんでいった。

 だが、ドロレス夫人の宿は、見当らなかった。ただ、一軒、入口の硝子(ガラス)が、めちゃめちゃに(こわ)れている空家(あきや)が目についた。どうもその家が、ドロレス夫人の宿だったように思うのであるが、入口の壁には、

“立入るを許さず。リバプール防諜指揮官(ぼうちょうしきかん)ライト大佐”

 と、(おごそ)かな告示が貼りつけてあった。

 彼は、妙な気持になって、他所(よそ)に宿を求めたのであった。

 一夜は明けた。

 その日こそ、彼は(つい)に楽しさにめぐり逢える日が来たと思った。

 監獄生活をしていたなどということは、人に聞かれても、自分に(かえり)みても、(はなは)だ結構でないことだったけれど、今日こそは、その監獄に保存してある調書の中から、知りたいと思っていた彼の素姓を押しだすことが出来るのかと思えば、こんな嬉しいことはなかったのである。

 彼は、車を頼んで、ブルートの町へ急がせた。

「旦那、ブルートの町へ来ましたが、どこへいらっしゃいますね」

「もうすこし先だ。左手に、くるみの森のあるところで下ろしてくれたまえ」

「へい。すると、監獄道(かんごくみち)のところですね」

「ああ、そうだよ」

 彼は、運転手に、心の中を看破(みやぶ)られたような気がした。

「ドイツの飛行機は、監獄なんか狙って、どうするつもりですかね」

「えっ」

「いや、つまり、ブルートの監獄を爆撃して、あんなに土台骨(どだいぼね)からひっくりかえしてしまって、どうする気だろうということですよ」

「なに、ブルートの監獄は、爆弾でやられたのかね」

「おや、旦那、御存知(ごぞんじ)ないのですかい。もう四日も前のことでしたよ。(もっと)も、聞いてみれば、監獄の中で、砲弾を(こしら)えていたんだとはいいますがね」

「ふーん、そうか。やっちまったのかい」

 彼は、天を(うら)むより(ほか)、なかった。車を下りてみると、森の向うは、まるで地獄のように、引繰(ひっく)りかえっていた。あの広壮(こうそう)な建物という建物は一つとして影をとどめず、壁は、歯のぬけた歯茎(はぐき)のようになっていた。彼は、これより内へ入るべからずという縄張(なわばり)のところまで出て、すっかり見ちがえるような監獄跡に(たたず)んで、しばし動こうともしなかった。

 運転手が、彼の耳に(ささや)いた。

「旦那、あのへんで、三千五百名の囚人と、それから七百名の監獄役人とが、崩れた建物の下で、一ぺんに、()()きになってしまったんですよ。そして、このとおり綺麗なものでさ。残っているのは、煉瓦とコンクリートばかりだ。いや、それから、あの鉄の門と……」

 仏天青は、なぜ天は、こう意地悪なのであろうかと、深い溜息をついた。第二のプランも、ついに駄目だった。

14

 第三の、そしてこれが最終のプラン――というので、仏天青(フォー・テンチン)は、リバプールの町にある精神科病院の門をくぐった。

 院長ドクター・ヒルは、五十を過ぎた学者らしい人物だったが、(はなは)丁重(ていちょう)に、仏天青を扱った。

「そういう病気は、今次の戦争において、極めて例が多いのですよ。今拝見(はいけん)しましたところによると、やはり、爆弾の小破片が、脳髄(のうずい)の一部へ喰い込んでいるようですな」

「じゃあ、手術をして、その小破片を取出せばいいわけですね」

「さあ、それは専門外科医に御相談なさるがいいでしょうが、私の経験では、そういう脳外科の手術の成功率は、残念ながら、まだ低いものです。よほど考えておやりなることを御注意いたします」

 すると、手術は、よほど考えなくてはならぬことになる。

「院長、私の記憶を恢復する他の方法はありませんでしょうか」

「そうですねえ。私の経験によれば、あなたのような場合、脳が健康さを取戻していても、神経と連絡がついていないことがよくあります」

「それは、どういうのですな」

「つまり、障害をうけたとき、患部附近に、充血(じゅうけつ)とか腫脹(しゅちょう)が起って、神経細胞(さいぼう)に生理的な(ゆが)みが残っていることがある。この歪みを、うまく取去ることが出来ると、ぱっと、目が覚めるように過去の記憶を呼び戻すことが出来るのですがね」

「なるほど、歪みを取去る方法ですか。それは、どうすればいいのですか」

「歪みといっても、生理的神経的なものですから、それと同じ方法によらねばならない。生理的神経的に、或る強い刺戟を受ければいいということはわかっているが、さて、その刺戟は、一体どんな刺戟であるかということになると、さっぱり分らない」

「なぜ、分らないのですか」

「それは、つまり、こうでしょう。()りに、あなたが、一婦人と非常に争っていた。そのとき、婦人がピストルの引金を引いて、あなたの頭へ、弾丸(たま)の破片を撃ちこんでしまった、これは仮定ですよ。もしもこういう場合に、あなたのような記憶亡失(きおくぼうしつ)の障害が起って、脳が健康を取戻しても、尚且(なおか)つ記憶が恢復しない。そういうときに、(なお)った実例があるのです。もう一度、その婦人と、ひどい争いをした。婦人は、またピストルを撃った。そして今度は、彼の前額(ぜんがく)を僅かに傷つけた。すると、とたんに、彼の記憶が戻った。彼は、戦闘を中止して、その婦人を生命の恩人だといって抱きあげた――という例があるのです」

「それは、興味ふかい話ですね。それを私の場合に活用する(みち)はないでしょうか。まず無理でしょうね」

「そうです。無理という外ありますまい。今申した例は、偶然の機会が、それを癒したのです。医師が計画した治療法ではない」

「なるほど」

「ですから、あなたの場合でも、もし運がおよろしくて、その障害を起した当時と同じ事件の中に置かれ、同じような負傷でもなされば、(あるい)はそれがうまくいって、記憶の恢復が起るかもしれません。しかし何分(なにぶん)にも、これは計画的にやって見ることの出来ないことなので、困りますなあ」

「ほう、生理的神経的の歪みですか。そしてこれを復習する極めて(まれ)な幸運ですか。いや、お蔭さまで、(あきら)めがついてきました」

「それから、あなたが記憶亡失前に持っていられた所持品(しょじひん)についてはもっと詳しく、科学的調査をおやりになるがいいでしょうね。これは一種の探偵術ですが、従来(じゅうらい)の例に(ちょう)しても、所持品からの推理によって昔、あなたが住んでいられた世界や職業や、それから家族のことなどを、立派に探しだすことに成功した例があるのです」

 それを聞くと、仏天青は、(にわか)に目を輝かせて、室の隅に置いてあった手提鞄(てさげかばん)を、卓子(テーブル)のうえに置いた。

「院長、では、これを見て、判断していただきましょう。当時、私が身につけていたものは、大切に、皆ここに(しま)ってあるのです」

 そういって、彼は、鞄を開くと、中から、長い中国服を出し、それから汚れきった破れ目だらけの服を出し、ぺちゃんこになったパンに新聞紙に、それから異臭(いしゅう)を放つ(しわ)くちゃのハンカチーフ迄、すっかり卓子のうえに取出した。

「その外に、この貯金帳が二冊あるのです。院長、お分りになりますか」

「さあ、私では駄目なんですがねえ」

 といいながらも、ドクター・ヒルは、そこに並べられた品物を、一つ一つ、念入りに拡大鏡(かくだいきょう)の下に見ていたが、やがて腰を伸ばし、

「私の拝見したところで、最も興味を()かれるものが二点あります。それは、この汚れ切って破れ目だらけの服と、それからもう一つは、油じみたハンカチーフです」

「はあ、そうですか。そんなものが、私の素姓(すじょう)について、一体なにを語っていましょうか」

「さあ、それは、私の力では、はっきり()いてお話することが出来ないのです。こういう方面にすこぶる明るい私の友人を御紹介しましょう。アーガス博士といいますが、クリムスビーに住んで鑑識研究所を開いています。そこへいらっしゃるがいいでしょう。このズボンについている泥だとか、ハンカチーフについている血や油などについて、彼はきっと、あなたをびっくりさせるに充分(じゅうぶん)鑑定(かんてい)をなすことでしょう」

「あ、そうですか。それは、実にありがたい。アーガス博士でしたね」

「そうです。博士は、ひところ、警視庁でも活躍していた人ですが、今は、自分の研究所に立て(こも)っています」

「クリムスビーですか。どこでしょうか、その、クリムスビーというのは」

「クリムスビーというと、北海(ほっかい)(そそ)ぐハンバー河口(かこう)を入って、すぐ南側にある小さい町です。河口は、なかなかいい港になっています」

「はあ。北海に面した良港の中にあるのですね。じゃあ、私はすぐ、そのクリムスビーへいって、アーガス博士にお願いしてみましょう」

「いま、紹介状を書いてさし上げます、ミスター・F!」

15

 午後遅くクリムスビーの駅に下りて、仏天青(フォー・テンチン)はおどろいた。こんなものものしい警戒は、はじめて見た。

“中国大使館参事官仏天青氏を御紹介す。アーガス博士殿”

 というドクター・ヒルの紹介状が、とんだところで()き目をあらわして、仏は、無事に駅の階段を、町へ降りることが出来た。

「アーガス博士の鑑識(かんしき)研究所へやってくれないかね」

 駅の前に待っているタクシーの運転手に話しかけると、黙って、隣りを指した。

 タクシーの隣りには、馬車があった。老人の馭者(ぎょしゃ)が、この喧噪(けんそう)の中に、こっくりこっくり居眠りをしていた。馬車とは(おどろ)いたが、

「アーガス博士の鑑識研究所へいってくれるかね」

 と、仏が大きい声で怒鳴(どな)ると、馭者の老人は、やっと目を覚ました。そして二三度、丁寧に聞き返した後で、さあ乗って下さいといった。

 馬車は、雑閙(ざっとう)する町を後にして、山道にかかった。

「爺さん、鑑識研究所だよ」

「わかっていますよ。鑑識研究所は、この山のうえだ。あと三十分かかるよ」

「なあんだ、山の上に()るのか」

 馬車にゆられていくほどに、仏天青は、眼下に開けるハンバー湾のものものしい光景に、異常な興味を覚えた。

 河口(かこう)には、たしかに防潜網(ぼうせんもう)を吊っているらしい浮標(ブイ)が、(おびただ)しく浮び、河口を出ていく数隻(すうせき)商船群(しょうせんぐん)の前には、赤い旗をたてた水先案内(みずさきあんない)らしい船が見えるが、これは機雷原(きらいげん)()けていくためであろう。またはるかに港外には駆逐艦隊(くちくかんたい)活発(かっぱつ)に走っていた。

(ドイツ軍の上陸作戦を、極度(きょくど)に恐れているのだな)

 (フォー)は、河口の異風景(いふうけい)に気を取られているうちに、馬車は、いつの間にか、小さい山を一つ登って、鑑識研究所の前についた。

 仏は、門衛(もんえい)に、()を通じた。

 門衛は、紹介状の表を見て、本館へ電話をかけた。

「所長は、生憎(あいにく)出張中ですが、今夜あたり、ここへお戻りです。副長(ふくちょう)からのお話ですが、明朝(みょうちょう)、もう一度、御出で願うか、それとも御急ぎなら、所に附属している宿泊所(しゅくはくじょ)で、お待ちになってはということでございますが、どっちになさいますか」

「そうですか。では……では、宿泊所へ案内して頂きましょうか。私は、早く博士にお目に(かか)りたいのでしてね」

「よろしゅうございます」

 門衛は、別なところへ、電話をかけた。そして、副長の命令により客人(きゃくじん)のため室を用意するようにいった。

「今、宿泊所の女が迎えに参りますから、ちょっとお待ちを」

 仏天青(フォー・テンチン)は、礼をいって、(かばん)を下に置いた。

「なかなかここは眺望(ちょうぼう)もいいし、そして広大ですね」

「そうです。ここは王立(おうりつ)になっているのですからなあ」

 そのうちに、だんだんあたりは薄暗(うすぐら)くなった。

「どうしたのか、宿泊所の者は……」

 門衛は、窓から伸びあがって、奥の方を見ていたが、

「あ、来ました。さあ、どうぞ」

 砂利(じゃり)を踏む音が聞えた。エプロンをかけた若い女が、迎えに来た。仏は、その女の顔を見たとき、もちっとで()っと叫ぶところだった。その女も、(おどろ)いて、思わず足を停めた。

「おい、ネラ。ドクター・ヒルの紹介の方だから、さっきいったように、丁重(ていちょう)にナ」

「は、はい」

 ネラ? ネラは、門衛から、仏の(かばん)を受取った。

「どうぞ、こちらへ……」

 仏は、ネラと呼ばれる女と、藍色(あいいろ)ようやく濃い研究所の庭を、砂利をふみつつ、奥の方へ歩いていった。

「アン」

「はい」

「君は……いや、もうなにもいうまい」

 仏天青を迎えに出たネラは、アンであったのである。彼のふしぎな妻であったのである。

「あたくし、愕きました。どうなさいます、あなたは……。復仇(ふっきゅう)をなさいますか?」

「……」

 仏は、嵐のような激情(げきじょう)の中に、やっと躯を(ささ)えていた。それが、せい一杯だった。

「なぜ、御返事がありませんの」

「アン、お前は、ここで何をしているのか」

「あなた。この前のように、あたくしを愛していてくださいません?」

 アンは、別なことをいった。

「……もし、愛していたら……」

 仏は、やっとそれだけいった。

「ああ、あたくしを愛していてくださるんですね、お(しか)りもなく……。一生のお願いがありますわ。聞いてくださる?」

「……聞かないとはいわない」

「ほほ、消極的な御返事ね。お願いしたいというのは……どうか明朝まで、あたくしがここにいるという事を忘れていてくださいまし」

「なに。なぜ、そんな……」

「さあ、それなのよ。なにも聞かないで、明朝まで……。お約束してくださる?」

 アンは、仏の(そば)へすりよって、彼の明快な返事を求めた。

「お前がそれを(ほっ)するなら……」

 仏は苦しそうに、(こた)えた。

「だが……」

「だが?」

「また、おれを……ここへ残して、逃げていくのではあるまいね」

「いいえ、明朝、きっとお目に(かか)るわ。約束を聞いてくだすってありがとう。それまで、どんなことがあっても、どんなものを見ても、あたしに何も()かないでね、きっと明朝まで、あたしというものを忘れていてくださるのよ。ああ、うれしい。あなたは、きっとこの秘密を守ってくださるでしょうね」

「うむ、男らしく、おれは約束を守ろう。しかしアン。その前に、ただ一言、教えてくれ。お前は、本当に、おれの妻か」

「明朝まで、お待ちになって!」

「じゃあ、おれは、本当に仏天青か」

「それも明朝までお待ちになって。男らしくお待ちになるものよ」

「……」

 仏は、拳を握って、自分の胸を、とんとんと叩いた。

16

 アンは、マネキン人形のような白々(しらじら)しさにかえって、彼を階上の部屋へ案内した。

「では、どうぞ。防空壕は、第二階段をお下りください。窓の遮蔽(しゃへい)は、おさわりになりませんように。失礼いたしました」

「君の部屋の電話番号は……」

「構内四百六十九番です。しかしあたくしはたいてい外を廻っておりますので、不在勝(ふざいが)ちでございます」

明朝(みょうちょう)、きっと、ですよ」

 (フォー)は、アンの手を取ろうとしたが、アンはそれを振り払って、風のように部屋を出ていってしまった。

 それから(しばら)くして、食事を告げに来た女は、アンではなかった。それっきり、アンの姿は、仏の目にとまらなかった。

 仏は、自室に戻ったが、落着いていられなかった。アーガス博士が帰って来たという知らせは、いつまで経っても、かかって来なかった。彼は仕方なく、寝床に入ることに決めた。彼は、いつもよりは多量の睡眠剤をとることによって、希望の朝をすこしでも早く迎える用意をした。

 寝床に入ると、彼は、すぐ電灯のスイッチをひねった。彼は、間もなく、泥のような眠りに落ちていった。

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