四次元漂流

3話 四次元漂流(3)

8,328字 約17分 2005年2月14日 公開

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「木見さんのお嬢さんですね。お話があります。お待ちなさい」

 川北先生は、あえぎながら、これだけの言葉をやっと咽喉(のど)からしぼりだした。

(そうだ、雪子姉さんだ)

 朦朧たる人影は後姿ながら、それは道夫に見覚えのある服をきた雪子に違いない。

 怪しい人影は、図書室の入口の前あたりをしずかにあるいていた。川北先生と道夫の位置は、この怪しい影をはさんでいる関係にあった。

 が、怪しい影は、川北先生に返事をしようともせずそのまま図書室の中へ消えた。

「お待ちなさい、お嬢さん」

 川北先生は、勇気をふるいおこして、怪しい影の後から図書室へ飛びこんだ。道夫もそれに続いた。あれが雪子の幽霊か幽霊でないか、たしかめるには絶好の機会だ。そう思うと、さきほどの恐怖と戦慄(せんりつ)が、幾分へった。

 と、雪子の怪影は、図書室の真中にたたずんでいた。川北先生は腕をのばして、怪影の腕をつかもうとした。

 すると怪影は、風のようにすうっと前へ移動し、先生の手は(むな)しく空気をつかんだ。

「しばらく、しばらく、お母さまが心配していられるのです。しばらく待って下さい」

 川北先生は哀願するように、怪影の後から呼びかけた。だが怪影の耳には、その言葉が入らないのか、そのままつつうと前に進んだ。

「あ、外へでる。壁を通りぬけて……」

 と叫んで、道夫はわれとわが眼を疑った。が、それは事実だった。怪影は、図書室の奥の壁につきあたると、そのまま壁の中に姿を消していったのである。

「ああ!」

 川北先生もそれを見て取って、今や壁の中に消えんとする怪影を引きとめようと突進したのであるが、それは(わず)かに時おそく、先生は壁にいやというほどぶつかったばかりだった。

失敗(しま)った。どうしよう」

 川北先生の顔は、子供の泣顔のようにゆがんでいた。

「窓をあけて、追いかけましょう。間にあうかもしれないです」

「そうだ、窓をあけろ」

 身の軽い道夫は、大急ぎで図書室をでて研究室に入ると雪子の大机の上へとびあがり窓をあけた。と彼の横をすりぬけて川北先生が猟犬のように窓からぽいと外へ飛びだした。

 道夫もそれに続いて、窓を飛び越え、庭園へ下りた。

「あ、痛……」

 道夫の飛び下りたところには、生憎(あいにく)石があったために、彼は足首をぎゅっとねじり、関節をどうかした。身体の中心を失った道夫はその場に横たおしとなった。

「ああっ、痛い……」

 起上ろうとするが、右足首の関節が痛いので力がはいらない。残念である。彼は川北先生の方が心配になり、足首を手でおさえて、芝生(しばふ)の上に半身を起した。

「おお……」

 先生は、見事に雪子をとらえていた。松の木と()()のしげっている暗い木蔭の下で、先生は雪子の後から組みついていた。このとき雪子の姿が、さっきよりもずっと明瞭(めいりょう)に見えた。道夫は、先生に力を貸さなければと、起上ろうとした。が、やっぱり駄目だった。

「先生、……雪子姉さん……」

 道夫は芝生の上をはいながら、二人の方へ一(センチ)でも近づこうと努力しながら雪子と川北先生のようすを凝視(ぎょうし)した。

 そのとき彼は、雪子がもがきながら、後へ上半身をねじって、川北先生を突きはなそうと懸命に力をだしているのを見てとった。雪子姉さんは何かを誤解しているのであろう。そんなことをしないで、おとなしく川北先生の腕の中に引き留められていればいいのにと道夫は思った。

 川北先生は、雪子の懸命の反抗にも、忍耐づよくこらえている様子だった。彼は雪子を後から抱きすくめたまま、金輪際(こんりんざい)はなそうとはしなかった。

 が、そのときである。道夫はにわかに、予期しなかった不安に襲われた。というのは、互いに(から)みついている二人の姿が急にぼんやりしてきたからである。

「先生、どうしたんです……」

 そういう間にも、()み合った先生と雪子の姿は、ますますぼんやりしてきて、やがて道夫の眼には見えなくなった。彼は息のとまるほどおどろいた。

 彼は、それでもまだその異変がそれほどおそるべきこととは気がつかず、(ある)いは眼の見まちがえかと思いながら、無理に芝生に立上り、よろめきながら、現場に近寄った。

 二人の姿は、完全になかった。

 するとどこかの木蔭へかくれたのかと思い、庭園のあちらこちらを探したが、雪子姉さんの姿はもちろん川北先生の姿さえ、どこにもなかった。生垣(いけがき)をこして、(みち)へでてしまったが、そこにも姿はなかった。

 このとき道夫の叫び声を聞きつけて、隣組の人々がばらばらとかけつけてきた。そして道夫にわけをたずねたので彼はそのわけを一通り話をした。だが誰も生きている幽霊のことや、川北先生が急に消えてしまったことについては信ずる者はなかったが、とにかくどこかにその二人がいるのであろうと、一同は手わけしてそのあたりをくまなく探してくれることになった。

 その間道夫は、格闘のあった元の木蔭に戻ってきて、なおよく調べた。彼はその途中、ふと気がついて、八つ手の下に入り乱れてついている、川北先生の足跡をたどってみた。すると不思議な事実が判明した。先生の足跡は、現場以外のどこへも伸びていないのであった。そしてもう一つ不思議なことに、雪子の足跡の方はただの一つも見当らなかった。

 隣組の人たちは、さんざんそこらあたりを探したが、やっぱり見当らないと報告した。怪また怪。雪子の生ける幽霊と川北先生とはどこへいってしまったのだろうか。

隣組総出

 雪子学士の幽霊が再び現われたこと、そして川北先生が幽霊と取組んだまま姿を消したこと――この二つの怪奇きわまる事件は、目撃者である道夫少年の話によって、そこら界隈(かいわい)驚愕(きょうがく)と戦慄の大きな波紋をひろがらせていった。

「ふしぎですなあ。やっぱりこの世に幽霊というものがあるんですかねえ」

 隣組の、ある銀行の支店長は、帽子のあご(ひも)をかけながら、顔をこわばらせた。

「この前は、うちの家内(かない)の神経のせいじゃろうと、あまり問題にもしないでいましたが、こうたびたび現われるようだと、あれは本当に幽霊かもしれんですなあ」

 外出先から帰ってきた雪子の父親武平がさわぎの仲間に加わって、こんな感想をのべた。

「もっとふしぎなことは川北先生の姿が消えてしまったことなんです。あの松の木で完全に姿が見えなくなったんです。一体どういうわけでしょう」

 目撃者の道夫は、川北先生のことを問題としてだした。

「どういうわけでしょうね。幽霊が消えるのはわかっているが、生きている人間まで消えてなくなるというのは、さっぱり訳がわからない」

「その川北先生は、幽霊を追いかけて、遠くまでいってしまったんじゃないですか。そのうち先生は、ふうふういいながら、ここへもどってこられるのではないですかな」

 いろいろな説がでる。

「いや、川北先生は遠くへいくはずがないんです。先生の足跡は、松の木の下で消えているのです。遠くへいったものなら、先生の足跡がそっちへ続いていなければなりません」

 道夫は、遠走り説をうち消した。

「でも、それはあまりにふしぎ過ぎるからねえ。松の下から垣根へぬけて往来へでれば、往来は土がかたいから、そこにはもう足跡がつかないわけでしょう。だから足跡が松の木の下で消えているように見えるのではないですか」

 そういったのは、某省につとめる技術者であった。

「いや、そうではないのです。先生の足跡の最後のものがついている地点から、垣根を越えて往来までの距離は、約十メートルもありますよ。その十メートルの間に、どこにも足跡がついていないんです。すると小父さんのお話が本当だとすると、川北先生はこの十メートルの距離を、一度も地上に足をつかないで飛び越えたことになります。十メートルも跳躍することは人間業じゃできないことだと思います」

 道夫少年のこの推理の正しいことが、誰にも了解された。が、そうなると、川北先生の失踪の説明は一層つかなくなる。ただふしぎふしぎというばかりであった。

「われわれの手に負えませんなあ。どうです。やっぱりできるだけ早くその筋へ申告して、警視庁の手で調べて(もら)うことにしてはどうですか」

「そうだ。そうする外、道がありませんねえ」

 これで方針が一応おさまるところへおさまったようである。その証拠には、隣組の人たちはもう誰も発言せず、夕暗(ゆうやみ)の迫る中にじっと塑像(そぞう)のように立ちつくしていた。

 が、そのときであった。突然、金切り声が一同の鼓膜(こまく)をつんざいた。女の声らしい。その声の起ったのは、どうやら木見さんの家の中のように思われた。一同ははっとおどろいて互いの顔を見合わせた。

「あ、あれはうちの家内の声のようだ」

 武平はそういってかけだした。

「ああ、木見さんの奥さんの声……」

「さあ、皆いってみましょう」

 一同は武平のあとを追い、庭をぐるっと(まわ)って、木見邸の表座敷の方へかけだした。

 かけつけてみると、それは果して雪子の母親の発した叫び声だとわかった。

「何を見たって、やっぱり雪子の幽霊かッ」

 武平は、座敷へ飛び上って、夫人をかかえ起しながら、息せき切ってきいている。

「わたしは、お父さんが外から家へ上って廊下を歩いていなさるのだと思っていたんです。でも、何だか変だから、立っていって廊下の方をすかして見たんですの。廊下はうすぐらくて、よく見分けがつかなかったんですけれど、たしかに黒い人影が向うへ動いていきます。背の低い、熊のようにまっくろな者が離家(はなれや)の方へ。……ああ、こわかった」

「雪子の幽霊なのか、幽霊じゃないのか」

「さあ、どうでしょうか、でも雪子の幽霊なら、その後姿はありありと見える筈なんですがね、ところが今見たのはただまっくろでしたよ」

「よし、そうか。離れの方へいったんだな。皆さん、手を貸して頂きましょう」

 武平の言葉に、隣組の人たちはもじもじしながら、それでも上へあがった。そして武平を先にして廊下に一かたまりになって、たがいの身体を押しあいながら、雪子の研究室の方へ忍び足で近づいていったのである。

何者?

 誰も彼も、息をのみ、全神経を耳と目に集めて、もし怪奇があらば、真先に自分がそれを見つけて声をあげるつもりだった。全身の毛穴がぞくぞくしてくる。足がだんだんと重くなって、先へ進みかねる。

 と、研究室の中と思われるところから、ざらざらと硬い物のすれ合うような音がしそれに続いて、何だか溜息(ためいき)のようなものが聞えた。

「おッ……」

 研究室を目指す一同の足は、もう一歩も前には進まなくなった。

(あれは何物だろう? あれは何の音か?)

 そのとき、研究室の中で、第二の物音が聞えた。それは前回よりもずっと大きいはっきりした物音で、何か物がぶっつかったようで、それにぴいんと硝子(ガラス)の響くような音もまじっていた。

「早くいってみましょう。研究室へ……」

 道夫が叫んだ。

「よし、いこう」

 互いに相手を前へ押しやるようにして、一同はどやどやと研究室へなだれこんだ。

 電灯がついた。道夫がそうしたのだ。

 室内は明るくなった。一同は(こぶし)を固く握って、きょろきょろと各自のまわりを見廻(みまわ)した。

 だが、何にも異状を発見することができなかった。

「いないぞ、どうしたんだろう」

「たしかに誰かこの部屋にいたんだが……」

 いないとなると、一同は少しく元気を取り戻した。いない、誰もいない。研究室に隣合った寝室にも図書室にも、机の下にも戸棚の蔭にも、猫一匹ひそんでいなかった。

「いないぞ、変だなあ」

「でも、この部屋でたしかに人のいる気配(けはい)と物音がした」

あれはすぐ消えて見えなくなるのじゃないですか」

 幽霊は――というのをさけて、あれはといった。

「あれが、あんな大きな物音をたてるというのはふしぎだ。あれは元来静かなもので、ただ自分がかぼそい声をだして、『(うら)めしや』とかなんとか……」

「よしたまえ、そんな変な声をだすのは」

 といっているとき、道夫が大声をあげた。

「わかった。これだ」

 道夫は硝子窓を(ゆびさ)している。

「えっ。わかったとは何が……」

「この硝子窓があいているのです」

「硝子窓は閉っているじゃないか」

「いや、この窓は一旦(いったん)あけられた上で閉められたんです」

「どういうのですって」

「つまり、何物かがこの部屋にいて、この窓を明けたんです。ああ、そうだ。それから彼は外へ飛び下りた、庭へですよ。そして外からこの硝子戸を元のように閉めた。だからこの硝子戸には、内側にかけ金がありながら、ほらこのようにかけ金が外れているのです。ねえ、木見さんの小父さん。この窓のかけ金は、いつもちゃんとかけてあるんですね」

「そうだ。いつもかけてある。厳重に戸締(とじま)りしてありました」

「すると、その窓を明けて、誰か外へ逃げだしたんだな」

「幽霊が外へ逃げだしたんですか」

「幽霊じゃないですよ。これはかけ金を外すくらいだから、生きている人間ですよ。まだその辺に隠れているかもしれない。皆さん、早く外へでて、見つけて下さい」

 道夫がいった。

「そうだ。皆さん。半数は廊下を通って、庭へでてください。その頃、残りの半分はこの窓から庭へ飛び下りますから」

 隣組の人たちは、まだ事情がはっきり()みこめないが、とにかく二組にわかれ、一組は廊下から表座敷を通りぬけて庭へ廻った。研究室に残った一組は硝子窓の下に飛びだす機会を待っていた。と、庭の方から叫び声が聞えた。

「いたぞ」

「こら、待てッ」

「逃がすな。皆、こい」

 この声に、研究室にいた一組も、窓を開いて、薄暗い庭へ飛び下りた。そのとき、庭から廻った一組は、松の木の下をもぐって往来へ向かっている気配であった。

 道夫は、一番後から窓を越して庭へ下りた。道夫の手には、携帯電灯が光っていた。それは研究室の雪子の机の上にあったもので、これ幸いと持ってでたのであった。

 往来へでてみると、人々はがやがやいいながら、だんだん戻ってきた。

「暗いものだからね、とうとう見失ってしまった」

「相手が幽霊じゃ、もともとぼんやりしか見えないものですからねえ」

「やっぱり幽霊ですかね。私は、足音を聞いたように思いますよ。幽霊に足音はおかしいですからねえ。かねて幽霊には足がないと聞いていますからねえ」

「いや、私は足音を聞かなかった。そして幽霊を今田さんの塀のところまで追いつめたんだが、とたんに私は足を(すべ)らせて、はっとしたんですがね、それでおしまいでした。もう幽霊の姿はどこにも見えなかった」

「この眼鏡は、どなたの眼鏡でしょうか」

 そういって、黒っぽい硝子の入った(わく)の重い眼鏡を一同の上に出してみせたのは道夫だった。彼はそれを松の木の下で拾ったのである。

 誰もその眼鏡を、自分のものだとこたえる者はなかった。道夫は、その眼鏡の落し主のことを心の中に問題にしていたが、一同はそんな事を問題にとりあげてはいなかった。そして幽霊か生きている人間かの議論が、いつまでも(にぎや)かに続いた。

 道夫はもう一度研究室へ引返したが、そのとき彼は一つの重大なる発見をした。それは部屋の中央の丸卓子(テーブル)の上に立てて並べてあった雪子学士の研究ノート八冊が紛失していることだった。道夫はあれやこれやを考え合わせ、ある一つの推定を心の中に思いついたのだった。

 彼はもう一度庭にでて、携帯電灯を照らしながら、やわらかい土の上を熱心に探しまわった。そして例の松の木の下へきたとき、

「うわあ、大事な足跡がめちゃめちゃになった」

 と、歎きの声をあげた。

 が、彼はしばらくして何か新発見をしたらしく、ポケットから紐をだして、地上にあてた。そこには一つの大きな新しい足跡がついていた。彼はその寸法を綿密にはかった上で、周囲に木の枝を刺して目印にした。おそらく明日あかるくなったら、その足形を紙の上にうつしとるつもりなのであろう。

道夫の憤激(ふんげき)

 その翌日、木見邸は係官一行を迎えた。

 研究室や廊下や庭や往来などの現場が隣組総出の説明と共に、一応念入りに調べられた。

 その結果、係官は木見武平を始め一同に対し、さらに気をつけるように命令した上で、

「しかし幽霊説は問題にしませんよ。そういう荒唐無稽(こうとうむけい)なことの捜査は、本庁ではやりませんよ。だから、お嬢さんの失踪先をなお一層探すことと、川北という教師の行方及びその素行調査をすること。この二つの現実なる事件について、できるだけのことをします。あなた方も、今後は気をしずめて、もっと冷静に物を見、そして具体的な証拠をおさえて、報告するようにして下さい」

 と、さとした。

 隣組の中には、この訓戒を納得した者もいたが、また反対に不満に感じた者が少くなかった。係官の口ぶりでは、この隣組の一同が、さも迷信家の集まりであって、この世にありもしない幽霊の幻影を見て、愚かにもさわぎたてているという風に聞えたからである。とにかく係官のこのような態度から()して考えると、係官はあまりこの事件について熱心ではないらしい。

 雪子の両親の失望、隣組の人々の不満、そして道夫の憤激――道夫の憤激は、彼が拾った色眼鏡を係官に示す機会を遂に失ってしまった。もちろん、彼が胸に今抱いているある推定についても、口を開かせはしなかった。道夫が、現場から拾った物件について、係官へ報告しなかったことは、彼が義務をおこたったことには違いなかったけれども、道夫をして進んで義務を果させなかったほど悪い印象を与えた側には責任がないとはいえないであろう。

 とにかく道夫の憤激は大きく、

(よし。こうなったら、僕はきっとこの真相をさがしてみせる。係官を成程(なるほど)といわせてみせるぞ)

 と、胸にかたくちかったのであった。

 それから後の道夫は、まったく気の毒なほど(さび)しい立場にあった。

 川北先生は、何日たっても、自分の住居(すまい)にも帰らず、学校にも姿を見せなかった。先生の素行についてある疑いを持ったらしいその筋では、二三日先生の住居と学校とに刑事を張込ませたが、先生がいつまでたっても戻ってこないとわかると、その警戒をといた。

 学校には、道夫の同情者が多かった。校長先生を始め諸先生は何回も道夫について同じことをたずねた。が、格別いい手段も考えつかなかったように見える。道夫の級友たちこそ、真剣に道夫に同情した。そして道夫のために共同の捜査を開始することになった。だがこれも、事実はあまり具体的に進行しなかった。というのは、生徒たちにはあまりに手ごわすぎる事件内容であったので、どうすることもできなかった。

 こうして事件は、八方ふさがりの迷宮入りをしたかに思われるに至った。

 それは川北先生の失踪からちょうど七日目の午後のことであるが、道夫は学校から帰ると、例の重い心と事件解決への惻心(そくしん)とを抱いて、ひとりで広い多摩川べりを歩いていた。彼の胸の中には、一つの具体的な懸案があった。それはいつだか川北先生と共に、家の裏でふんづかまえたことのある怪しい浮浪者の老人に出会いたいことだった。

 あの怪老人は今となって考えると、雪子学士の失踪について何事かを知っている有力なる人物だった。気味のわるいそして危険な相手だが、何とか話しこめばこの事件について道夫の知らない手がかりがえられるかもしれないと思う。しかも道夫はその老人に対して新しい問題を持っているのだった。それはあのさわぎの日、松の木の下で拾った色眼鏡は、この老人の持ち物ではないかという疑いだ。万一それが当っていたら、あのどさくさまぎれに研究室にしのび入り、雪子学士の研究ノート八冊をうばい窓から逃げだした人物こそ、この怪老人に違いないという結論になるはずだった。

 そんなことを考えながら、道夫は(どて)の上をぶらぶら歩いていた。そのとき彼が、ふと堤の下から一条の煙があがっているのに目をとめ、その煙をつたわって何気なく、その煙の(みなもと)を見ると、一人の男が焚火(たきび)をして、何か物を煮ているのだった。道夫は、いきなり堤下へ飛び下りた。

「おじいさん。しばらくだったね」

 相手は、ぎょっとして道夫の顔を(あお)いだ。道夫はそのとき老人が髯面(ひげづら)に色眼鏡をかけているのを見て取った。だがその色眼鏡は、かねて見覚えのあるものとは違い、枠の細いものであることに気がついた。さてはと道夫の胸はおどった。

 老人はつと立って、例の不恰好(ぶかっこう)な厚着をした身体をぶるんとふるわせると、物もいわずに逃げだした。

「話があるんだ。待ちなさい。おじいさん」

 道夫は後から追いかけた。が老人の足は意外に速く、道夫の方は堤の雑草に足を取られそうで、気が気ではなかった。そのうちに道夫はあっと声をあげた。思いがけなく穴ぼこに落ちこんだのである。その穴は意外に深く、彼は落ち込む途中でいやというほど頭を打った。どこかで老人のあざけり笑うらしい声が聞えた。と、道夫は気が遠くなってしまった。

怪紳士

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