四次元漂流

6話 四次元漂流(6)

8,847字 約18分 2005年2月14日 公開

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 古島老刑事は、さっきから、銀ぐさりのついた大型懐中時計の指針ばかりを見ている。

 もう夕刻であった。折柄(おりから)、空は雨雲を呼んで急にあたりの暗さを増した。ここ捜査課はいつもとちがい、この日は電灯をつける事が厳禁されていたので、夕暗(ゆうやみ)は遠慮なく書類机のかげに、それから鉄筋コンクリートを包んだ白い壁の上に広がっていった。

 課長の机の上には、雪子学士の研究ノートが数冊、積みかさねられてある。課長の椅子はあいている。課長の椅子の左横の席に、幽霊係の古島老刑事が、幽霊の餌の方を向いて腰をかけ、今も述べたように懐中時計の文字盤をしきりに気にしてびくついているのだった。その隣に、幽霊助手を拝命した猛者(もさ)山形巡査が、これは古島老刑事とは反対に、大入道であれモモンガアであれ何でもでてこい取押えてくれるぞと、肩をいからし(ひじ)をはって課長の机をにらんでいる。

 その他の席には、課員が十四五名、おとなしく席についている。しかし彼等は書類を見ているように見せかけてはいるが、実はそうではなく、いつでも課長の命令一下、その場にとびだせるように待機しているのだった。その中に課長の顔と蜂矢探偵の顔がまじっていた。隅っこの給仕席に二人は腰を下ろしているのだった。

「ほう、だいぶん暗くなって幽霊のでるにはそろそろ持ってこいの舞台になりましたよ」

 蜂矢探偵が、じろじろとあたりを見まわし、すぐ前にいる課長にいった。

「そんなことは無意味さ。原子力時代の世の中に非科学きわまる幽霊などにでられてたまるものか」

 課長は失笑した。しかしその声はいくぶん上ずっているように思われた。

「いや、とつぜん原子力時代がきてわれわれをおどろかせた(ごと)く、今日こそ幽霊というものを科学的に見直す必要があると――或る人がいっているんですがね」

「そんなことをいう奴は、よろしく箱根山を駕籠(かご)で越す時代へかえれだよ。蜂矢君、もし幽霊がでなかったら、君にはいいたいことがたくさんあるよ」

「そのときつつしんで拝聴しましょう。しかしその反対に幽霊がこの部屋にでてきたら、賭は僕の勝ですよ。そのときは課長ご秘蔵の河童(かっぱ)煙管(きせる)を頂きたいものですがね」

 河童の煙管というのは、課長が引出に入れて愛用している河童の模様をほりつけた、江戸時代の煙管のことであった。

「河童の煙管でも何でもあげるよ、君が勝ったときにはね」

「それは有難い。課長あなたの河童の煙管の雁首(がんくび)のあたりまでがもう僕の所有物にかわったですよ」

「なに、煙管の雁首がどうしたと……」

「しッ」と蜂矢が田山課長に警告をあたえた。「しずかに、そしてあなたの机の前の空間をよく見てごらんなさい」

「えっ!」

 課長の目は、蜂矢から教えられたとおりに部屋の中央に()えてある自分の大机の方へ向けられた。と、彼の眼は大きく見はられた。そして顔が赤くなり、それからさっと青くなり息がはずんできた。額からは玉の汗がたらたらとこぼれおちた。

 見よ、大机の上に、ぼんやりしてはいるが、見なれない女人の姿がおっかぶさっている。若い女人のようだ。服はぼろぼろに破れてみえる。

 部屋のうちは、水をうったように静かであった。が、それは何人も少しの時間をおいてほとんど同時に雪子学士の幽霊の姿を認め、そして同様なる戦慄(せんりつ)におそわれて硬直したためだった。

 その幽霊に対し最も近い距離に席をとっていた古島老刑事は最も幽霊の発見がおそかったようである。その証拠に彼は大きな懐中時計を(てのひら)にのせて指針の動きに見とれ、首を亀の子のようにちぢめていたが、そのとき隣にいた山形巡査が古島の袖をひいて注意をしたので、それで始めて首をのばし顔をあげて指さされる空間へ視線を送ったが、

「あっ、でた、幽霊が……」

 と叫ぶなり、老刑事の顔色はたちまち紙のように白くなり、そして彼の身体はそのままずるずると椅子からずり落ちて、彼の頭は机の下にかくれてしまった。それをきっかけのように、部屋のあちこちで、驚愕(きょうがく)と恐怖の悲鳴が起った。

 そのうちに、雪子学士の姿はだんだん明瞭度を加えた。そして彼女のしなやかな手が課長の卓上にのびて研究ノートの(ページ)をぱらぱらと音をさせて開いた。それは急いでなされた。全部の研究ノートが二三度くりかえし開かれたが、彼女の硬い顔はいよいよ硬さを加えた。彼女はついにノートの表紙を手にもって強くふった。それは何か彼女のさがしもとめているものが見つからないので、じれているという風に見えた。

 彼女はついに手を研究ノートからはなした。そして困り切ったという表情で、机上に立ちつくしていた。

 そのときだった。室内に靴音がひびいた。

 と、田山課長の姿が走った。彼は自分の席に戻って、雪子学士に向きあった。

「あなたは木見雪子さんですか」

 課長は、いささかふるえをおびた声でぼんやりした雪子の姿に呼びかけた。

 それに対して、雪子は返事をしなかった。課長のいっている言葉が聞えないのか、それとも聞えても知らないふりをしているのか、そのどっちか分らなかった。――が、雪子学士は課長を睨みすえると、研究ノートの山を(ゆびさ)しそして両手を前につきだした。何かを催促しているようだった。

 課長は胸をぎくりとさせたが、強いて平気をよそおい、首を左右にふった。

 すると雪子学士の面に焦燥(しょうそう)の色があらわれた。彼女は大きく眼を見開き、室内をぐるっと一めぐり見わたした。と、彼女は課長の机の前をはなれて、すたすたと室内を歩きだした。その行手に大金庫があった。――一同は固唾(かたず)をのんで、雪子の行動に注目した。

 雪子学士は、果して大金庫の前でぴたりと足をとめた。彼女の顔が心持ち喜びにゆがんだようであった。それから次に、意外な事が起こった。雪子学士は、その大金庫のハンドルに手をかけると、その大金庫をかるがると引っぱりだしたのであった。約四百キロはあるはずの大金庫が、雪子学士の手にかかると、まるで紙ではりまわした(かご)のように動きだした。そして雪子の姿と大金庫とは、窓の向うに滑りだしたのであった。

「待てッ」

 呆然(ぼうぜん)とこの場の怪奇をながめつくしていた幽霊係の助手の山形四段が、雪子の姿を追って後から組みつこうとしたが、それは失敗し、彼はいやというほど窓際の壁にぶつかって鼻血をたらたらとだした。

 そのさわぎのうちに、雪子の幽霊と大金庫はゆうゆうとこの部屋から姿を消し去った。

「あっ、しまった。大切な証拠物件を何もかもみな持っていかれた。うむ」

 と課長はようやく一大事に気がついたが、もうどうしようもなかった。

 幽霊の賭は、遂に課長の負となり、蜂矢探偵が勝ったわけである。その蜂矢探偵の姿はいつの間にかこの部屋から消え失せていた。

大金庫やーい

「おい、何をしとる。早く金庫をとりもどさんか」

 田山課長は、室内をあっちへ走りこっちへ走り、両手をうちふってわめきたてる。

「ところが、とりもどしたいにも、大金庫はどこへいったか分らんのです」

「そこの壁の中へ、すうっと入っていったがねえ。幽霊が、こんな手つきをして引っぱっていったが……」

「ばかなッ」課長は怒りにもえて課員をどなりつけた。

「そんなばかばかしいことがあってたまるか、大金庫は硬くて大きいんだぞ。それが壁の中へ入るなんて、そんなことは考えられん」

「いや、課長、たしかにすっと壁の中へ入っていったです。私はそれを追いかけていって、このとおり壁で鼻をいやというほどつぶしてしまいました」

 金庫番の山形は、鼻血をだして赤く()れあがった自分の鼻を指した。

「そんなことはない。君たちは、そろいもそろって眼がどうかしているんだ。もっとよくそのへんをさがしてみるんだ」

 課長はますますいきりたった。

「ですが課長。あの重い大金庫がそうやすやすと動くはずがないんです。移動するにはいつも十人ぐらいの手がかかるんですからね。――ところが、ごらんのとおり、大金庫のあったところはぽっかりと()いています。わけが分らんですなあ」

「なるほど、たしかにさっきまでここに大金庫があったわけだが、今は無い!」

「課長! 重要なことを思いだしました」

 といって課長の腕をとった課員がいた。

「なんだ。早くいえ」

「この前、木見の家の研究室で私が聞いたことですが、あの女の幽霊は、あつい壁でも塀でも平気ですうすう通りぬけていったそうですぞ。だから今もあの幽霊は、この壁を通りぬけて外へでていったのじゃないかと思うんです」

「しかしあの大金庫が壁を通るかよ」

「通るかもしれませんよ。この前のときは、あの幽霊は本をさらって小脇に抱えこんだまま、壁をすうっと向うへ通りぬけましたからね。だから、あの幽霊の手にかかった物は何でも壁を通りぬけちまうんではないでしょうかね」

 と、その課員はなかなか観察の深いところを見せた。

「本当かな」

 課長は半信半疑であったが、外にいい手がかりがちょっと見あたらないものだから、彼は部下に命じて外をあらためさせた。

 気の強い課員が先頭に立って、扉をあけて外へでてみた。そこには非常用の梯子(はしご)がついていて、この三階から中庭にまで通じていた。下を見まわしたが何にも見えない。

 それでは上かなと思って、念のために上を向いてみたが、暮れゆく空には、高いところに断雲がゆっくり動いているだけで、やはり何も見当らなかった。

「どうだ。見つかったか」

 課長も、課員と共に外へでてきた。

「だめです。幽霊のゆの字も見えません」

「壁を通りぬければたしかにこっちへでてこなければならんのですがね」

 さっきの課員が、そういって首をかしげた。

「幽霊も大金庫も壁の中に入ったまま、まだ外へでてこないんじゃないかな」

「おい気味のわるいことをいうな。そんなら僕の立っている壁ぎわから幽霊のお嬢さんが顔をだすという段取になるぜ」

 急いで壁のそばからとびのく者があった。

 外をしらべ切ったが、手がかりは全くないと分ると、課長の心には、大金庫を重要書類と共に失ったことが大痛手としてひびきつづけるのであった。

(万事休した。一体どうすればいいのか)

 さすがの田山課長も、にわかに自分の目が奥へ引っこんだように感じ、力なく課長室へ引きかえした。

 室内はがらんとしていた。課員はみんな外へでているからである。しかしただ一人課長の机の前でのんきそうに煙草をふかしている者があった。誰だ、その男は? あいにく室内は暗くて顔を見さだめにくい。

「課長さん。賭は僕の勝ですね。あなたの秘蔵の河童(かっぱ)のきせるは僕がもらいましたよ」

 そういった声は、蜂矢探偵に違いなかった。課長は舌打ちをした。

「おい蜂矢君、君が幽霊なんか引っぱりこむもんだから、たいへんなさわぎになったよ。大金庫まで持っていっちまったよ、あの幽霊に役所の重要物件まで持っていかせては困るじゃないか、君」

「待って下さい課長さん。お話をうかがっていると、まるで僕が幽霊使いのように聞えるじゃないですか」

 蜂矢探偵はにが笑いと共にいった。

「正に君は幽霊使いだとみとめる。君のお膳立(ぜんだて)にしたがって、あのとおりちゃんと現われた幽霊だからね。なぜ君は幽霊を使って役所の大切な大金庫を盗ませたのか」

「冗談じゃありませんよ、課長さん。幽霊使いなんてものがあってたまるものですか。はははは」

 と蜂矢は笑ったが、そこで言葉をあらためて、

「木見学士が大金庫を持ちだしたわけは、課長さんがよくご存じなんでしょう。あの大金庫の中には、木見学士が非常にほしがっているものが入っていたのです。あなたは、僕に相談なしに、まずいことをしました。だから原因はあなたにあるのです」

 この蜂矢のことばに、課長は何もいうことができなかった。正にそのとおりだ。

 蜂矢は椅子から立上ると課長の机上から木見学士の研究ノートの包をとり、さよならを告げた。

「大金庫はやがてかえってくるでしょうから、心配はいらないでしょう」

 蜂矢は、こんなことばをのこしていった。

ふしぎな盗難

 捜査課で保管していた重要物件が入っている大金庫を奪われてしまったので、田山課長はその善後処置に苦しんだ。

 課員たちも、家へかえるどころか、そのまま課長の机のまわりに集り、これからどうして大金庫を取りもどすか、総監へはどう報告をするか、捜査にさしつかえがおこるがそれをどうしたらよいかなどと、むずかしい問題について会議をつづけねばならなかった。

「とにかく壁をぶちぬいてみるんですね」

「いやそれはだめだ。それより全国へ手配してあの大金庫を探しださせるのがいい」

「そんなことよりも、さっき幽霊が大金庫を持ってどっちへいったか、その目撃者はないか、それを大急ぎで調べる事ですよ」

「そんなものを見たという者は、ただ一人も現われないよ、怪しげな雲をつかむような話だから、頼みにはならないよ」

「困ったねえ。これじゃ全く手のつけようがありゃしない」

 一同は顔をあつめて、吐息(といき)をもらしあう外なかった。

 と、そのときであった。突然室内に大音響が起った。がらがらとガラスが破れ器物がくだける音! すわ一大事件だ。爆弾がなげこまれたのであろうか。

 一同は、反射的に、その大音響がした方へふりかえってみた。すると、東に面した硝子窓(ガラスまど)が大きく破れ、そこから冷たい夜気が流れこんでいる。その窓の下のところに並べてあった事務机や椅子がひっくりかえり、その中に見覚えのない大きな箱が、稜線(りょうせん)(ななめ)にしてあぶない位置をとっている。

「おや。へんなものがあるぞ」

「あっ、そうだ。窓から飛びこんできたんだ」

「窓からとびこんできたって、ああそうか。あの通り硝子窓が破れているからねえ」

 こわごわその大きな箱の方へ近づいて、目をぱちぱちやっていた刑事の一人が、このとき大きな声でさけんだ。

「あっ、大金庫だ。うちの課の大金庫だ。大金庫が戻ってきたんだ」

 大金庫が戻ってきた?

「えっ、本当かな」

 これを聞いた課長以下が、そこへとんでいってみると、なるほどさっき失った大金庫に違いない。

「やっぱり、うちの課の大金庫だ」

「ふうん。蜂矢のいったとおりだったね。蜂矢は大金庫がきっと戻ってくるといっていたが……」

 よく調べてみると、金庫はほとんどさかさまになり、そして床を大きくへこませていた。厄介(やっかい)なことではあるが、とにかく大金庫が戻ってきたことは何よりありがたいというので、課員総出で力をあわせて、その大金庫をようやくまっすぐにおきなおすことができた。

「さあ、こんどは中身をしらべることだ。重要物件はどうなったかな」

「課長。大金庫の鍵はちゃんとかかっていますよ。この分なら大丈夫です」

「そうか。なるほど、ちゃんと鍵がかかっているな。よし、あけてみよう」

 暗号錠と、そうでない錠でひらく鍵と二種類の錠前がつけてあったが、課長の手で試みると、どっちも正しくかかっていた。そこで大金庫の鍵は、順序どおりに、錠をはずしていって、やがて扉はうまく開いた。

 金庫の中には、更に錠がいくつもついた小さい扉があったが、それらもまたちゃんとしていた。そしていよいよ重要書類と木見学士の研究ノートの間から抜いた『復元文献抄』の入れてある引出が、課長の手によってぬきだされ、中が改められた。

「あっ、入れてあったものが無い!」

 課長の顔はおどろきのために、赤くなり、そして次に青くなった。

 無い。たしかに入れてあったものがない。その引出に入れてあったはずの重要書類と文献抄とが見えないのだ。

 でも、まことにふしぎである。この大金庫はちゃんと錠が下りていたのに。……するとあの幽霊はこの大金庫をあけるための鍵を持ち、暗号錠の暗号を知っていたのであろうか。

 課長は、もしや外に入れ忘れたのではないか、大金庫内の棚の引出などを念入りにしらべてみた。だがその結果はやっぱり同じことであった。重要書類も文献抄も、この大金庫内には全く見えないのだ。

「困った。困った」

 課長はがっかりして、椅子に腰を下ろした。他の課員たちも、長時間にわたる奮闘の疲れが急にでてきて、大事なものを抜き去られた大金庫のまわりへ、みんなへたばってしまった。

「幽霊が相手じゃ、全くやりきれないよ」

「仕方がない。われわれのやり方を、このへんでかえるんだな、今の調子じゃ、この事件はいつまでたっても解決しない」

「やり方を変えるというと、どうするんだ」

「幽霊の存在を認めて、それが何故に存在するかという研究から出発するんだ」

「そんなむずかしいことができるもんか」

「そうでもないよ。蜂矢探偵を講師によんで、彼から教わるんだ。彼はなかなか幽霊学にはくわしいらしい」

「われわれとしては、蜂矢に教えをこうなんてことはできないよ」

「でもそれではいつまでたっても解決の日がこない。どうしたら幽霊を逮捕することができるだろうか、誰か大学へいって相談してきたらどうだろうかね」

 課員たちのこんな会話を、田山課長はただにがにがしく聞いていた。

幽霊活躍

 雪子学士の幽霊は、大金庫事件以来、ひどくきげんを悪くしたらしい。

 そのわけは、あれ以来、雪子学士の幽霊が町へしばしば現われて都民をおどろかせるのであった。

 女幽霊の現われたところには、かならず器物の破壊がおこり、何か物がぬすまれ、そしてあつまってきた弥次馬(やじうま)がけがをするのであった。

 銀座の薬局がおそわれたことがあった。それは白昼のことであった。

 女幽霊は、きわめてぼんやりした姿を薬局の中に現わした。始め店の者はそれに気がつかず、お客の方で気がついた。もっともそのお客さんは、硝子張(ガラスばり)の調剤室の中で動いている女幽霊を幽霊とは思わないで、それはこの薬局の婦人薬剤師だと思ったので、外から声をかけたのであった。

 だが、女幽霊のこととて、返事もしないでいたので、気の短いお客さんは憤慨して、奥からでてきた店主に向い、かの女薬剤師の無礼なことをなじったのであった。

 そこで店主は、一体お客さんを怒らせているのは誰だろうと思い、いわれるままに調剤室の中をのぞきこんでみるとそこには店主の見もしらない婦人が薬品棚の前をあちこち見てまわっているので驚いた。

「もしもしあなたは一体どなたですか。私にことわりなしに調剤室へお入りになっては困りますね。そこには劇薬もあり、毒薬もあることですからねえ」

 そういって店主は相手に近づいていった。ところが彼の足は、調剤室の中へ二三歩踏みこんだばかりで、釘づけになってしまった。それは、彼が今とがめた相手の婦人の姿が、まるで影のようにもうろうとしているばかりか、その顔がぞうっとするほどの苦悶(くもん)にみちていたからである。店主はそのけわしい幽霊の顔に見すえられて、息の根がとまるほどにおどろいた。

 がらがらがらと音をたてて薬の(びん)が棚から落ちはじめたので、店主はようやくわれにかえり大声で救いをもとめた。それから大さわぎになった。店の中も店頭もめちゃめちゃになって、警官隊のかけつけたときには、足のふみ入れようもなかった。もっとも店頭がそんなにめちゃめちゃに壊されたのは、女幽霊が手を下したのではなく、このさわぎに乗じて、たちのよくない群衆がなだれこみ勝手なふるまいをした結果であった。

 捜査課員の出張があって、この事件が、女幽霊の仕業(しわざ)だと分ったときには、さらに大きなさわぎとなった。

 こんな事件が、つぎつぎと発生した。

 恐怖と戦慄が、都下全体へひろがった。

 女幽霊が、いつ侵入してくるかもしれない! 女幽霊はどんな厳重な戸締(とじまり)でも平気で入ってくる! 女幽霊をいくら追いかけても追いつけるものではない、なぜなら女幽霊は鉄の塀でも石の壁でもすうすうと向うへ抜けていってしまうからだ! 女幽霊に入られると、家の中がひっくりかえされる!

 女幽霊の顔ときたら、般若(はんにゃ)よりもおそろしかった! 口が耳のところまで裂けていたそうな! すごい眼付で睨んで、のろいのことばをなげつけた! のろわれた者は、それから三日目に高熱を発して死んでしまった。

 こんな風に、女幽霊についてあること無いことが入れ換って、(うわさ)となってとんだ。

 それとともに、捜査課に対する非難の声が高まっていった。捜査課は一体なにをしているのか。こうたびたび都下にあらわれて、みんなに迷惑をかける幽霊を、なぜ逮捕することができないのか。一体あの女幽霊はどういう筋合いのものか、分っているだけのことでも早く都民へ知らせてくれたがいいではないか。幽霊の侵入を防ぐ最も有効な方法を至急研究して知らせてくれないと困るなど。

 田山課長の顔は、ますます苦り切ってゆく。何日たっても、女幽霊に対して、これぞという解決も報告もできないのだ。しかるに新聞社の写真班が、女幽霊をうつそうとして競争で追いかけまわす、放送局では女幽霊の(うな)り声を録音して、実況中継放送をしますなどといいだすものだから、女幽霊の妙な人気は日毎(ひごと)に高くなる。それとともに捜査課はますますごうごうたる非難をあびることになり、田山課長以下の立場は今や極度に悪化した。

 ちょうどその頃、女幽霊は何と思ったものか、突然或る夜更(よふけ)、道夫の枕許(まくらもと)へあらわれた。

 当時道夫は、あれからずっと意識がもとへもどらない川北先生のつきそいをして、警察病院に足どめされていた。いわゆる軟禁というあれだ。道夫には、自分の両親との通信も許されていなかった。これは、川北先生を一日も早く正気にもどるように、道夫に努力をさせるためであった。川北先生がよくなれば、道夫はこの病院から解放されて家へ帰れる約束になっていた。

 道夫は、寝台の中によく(ねむ)っていたが、突然胸苦しさを感じて目がさめた。すると枕許に誰か立っているのだった。

「道夫さん。起きて下さい。ぜひあなたの力を借りたいのよ」

 道夫は、そんな風に話しかけられたように思った。そこで彼はがばとはね起きた。

「道夫さん。あたしといっしょにいっていただきたいところがあるの」

 もうろうたる雪子学士は、そういって青白い手を道夫の方へのばした。

再会

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