春昼後刻

2話 二十五

1,422字 約3分 2006年8月26日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 その莞爾々々(にこにこ)の顔のまま、(くわ)を離した手を()んで、

「何んともハイ()しんせつに言わっせえて下せえやして、お庇様(かげさま)で、(わし)、えれえ手柄(てがら)して礼を聞いたでござりやすよ。」

「別に迷惑にもならなかったかい。」

 と悠々(ゆうゆう)としていった時、少なからず風采(ふうさい)立上(たちあが)って見えた。勿論(もちろん)対手(あいて)(くだん)の親仁だけれど。

「迷惑(どころ)ではござりましねえ、かさねがさね礼を言われて、(わし)(でっか)くありがたがられました。」

「じゃ、むだにならなかったかい、お前さんが始末をしたんだね。」

「竹ン(さき)(おさ)えつけてハイ、山の根っこさ(やぶ)の中へ棄てたでごぜえます。女中たちが殺すなと言うけえ。」

「その方が心持(こころもち)()い、命を取ったんだと、そんなにせずともの事を、(わたし)訴人(そにん)したんだから、(うら)みがあれば、こっちへ取付(とッつ)くかも分らずさ。」

「はははは、旦那様の前だが、やっぱりお好きではねえでがすな。奥にいた女中は、蛇がと聞いただけでアレソレ打騒(ぶっさわ)いで戸障子(としょうじ)(あた)っただよ。

 (わし)先ず庭口(にわぐち)から入って、其処(そこ)縁側(えんがわ)案内(あんねえ)して、それから台所口(だいどこぐち)に行ってあっちこっち探索のした(ところ)、何が、お前様御勘考(ごかんこう)さ違わねえ、湯殿(ゆどの)に西の(すみ)に、べいらべいら舌さあ()いとるだ。

 思ったより(でっこ)うがした。

 畜生め。われさ行水(ぎょうずい)するだら(かえる)飛込(とびこ)古池(ふるいけ)というへ行けさ。化粧部屋(のぞ)きおって白粉(おしろい)つけてどうしるだい。白鷺(しらさぎ)にでも押惚(おっぽ)れたかと、ぐいとなやして動かさねえ。どうしべいな、長アくして思案のしていりゃ、遠くから足の(さき)爪立(つまだ)って、お殺しでない、打棄(うっちゃ)っておくれ、御新姐(ごしんぞ)は病気のせいで物事(ものごと)気にしてなんねえから、と女中たちが口を(そろ)えていうもんだでね、(げえ)もねえ、殺生(せっしょう)するにゃ当らねえでがすから、藪畳(やぶだた)みへ(もぐ)らして退()けました。

 御新姐(ごしんぞ)は、気分が(すぐ)れねえとって、二階に寝てござらしけえ。

 今しがた小雨(こさめ)が降って、お天気が上ると、お前様(めえさま)、雨よりは大きい紅色(べにいろ)の露がぽったりぽったりする、あの桃の木の下の(とこ)さ、背戸口(せどぐち)から御新姐(ごしんぞ)が、紫色の蝙蝠傘(こうもりがさ)さして出てござって、((じい)やさん、今ほどはありがとう。その(いや)なもののいた事を、通りがかりに知らして下すったお方は、巌殿(いわど)の方へおいでなすったというが、まだお帰りになった様子はないかい。)ッて聞かしった。

(どうだかね、(わし)内方(うちかた)へ参ったは(ちい)との()だし、雨に駈出(かけだ)しても来さっしゃらねえもんだで、まだ帰らっしゃらねえでごぜえましょう。

 それとも身軽でハイずんずん行かっせえたもんだで、山越しに名越(なごえ)の方さ()さっしゃったかも知れましねえ、)言うたらばの。

(お見上げ申したら、よくお礼を申して下さいよ。)ッてよ。

 その溝さ飛越(とびこ)して、その(みち)を、」

 垣の外のこなたと同一(おんなじ)通筋(とおりすじ)

「ハイぶうらりぶうらり、谷戸(やと)の方へ、行かしっけえ。」

 と言いかけて身体(からだ)ごと、この巌殿(いわど)から橿原(かしわばら)へ出口の方へ振向いた。身の挙動(こなし)仰山(ぎょうさん)で、さも用ありげな素振(そぶり)だったので、散策子もおなじくそなたを。……帰途(かえるさ)(かれ)にはあたかも前途(ゆくて)に当る。

「それ見えるでがさ。の、彼処(あすこ)さ土手の上にござらっしゃる。」

 (にしき)の帯を解いた様な、(なま)めかしい草の上、雨のあとの薄霞(うすがすみ)、山の(すそ)靉靆(たなび)(うち)一張(いっちょう)(むらさき)大きさ月輪(げつりん)の如く、はた(すみれ)の花束に似たるあり。紫羅傘(しらさん)と書いていちはちの花、字の通りだと、それ美人の持物。

 散策子は一目(ひとめ)見て、早く既にその(かすみ)(はし)の、ひたひたと来て(はだ)(まと)うのを覚えた。

 彼処(かしこ)とこなたと、言い知らぬ、春の景色の繋がる中へ、(わらび)のような親仁(おやじ)の手、無骨(ぶこつ)な指で(ゆびさし)して、

彼処(あすこ)さ、それ、(かさ)の陰に(やす)んでござる。はははは、礼を聞かっせえ、待ってるだに。」

目次に戻る

目次