6話 序(6)
読み方を変える
このシン(Sin)というのは月の神で、シャマシュ(Shamash)は太陽神である。紀元前二〇〇〇年ころに至って、初めて、以前にあの木星の支配者であったところの、バビロンでは特別に大事な神様マルドゥクが、シンやシャマシュに取って代わり、自ら太陽神として何よりも崇ばれるようになったのである。
もう少し長い周期が望ましくなってくるので、何かしら太陰周期すなわち、太陰の一ヶ月と関係の付けられるものを求めるようになった。そこで一ヶ年、すなわち、太陽の輪回を、近似的に一二ヶ月に等しいと定めた。古代メキシコ人の間に行われた、トナラマトル(Tonalamatl)と名づける二六〇日の珍しい周期はほとんど太陰月の九ヶ月(すなわち、二六五・七日)に等しい。これは多分二〇で割り切れるために二六〇日としたものであるらしい。
太陰が暦の決定に役に立つということが分ると同時に、これと同じ目的に役に立つような他の天体を求めるようになったのは当然のことである。この目的には金星は特に全くあつらえ向きにできていた。この星の光は強くて、暗夜には物の陰影を投げるほどであり、またその一周の周期はかなり短くてわずかに五八四日(すなわち、一・六年)である。文化の進歩するにつれて、数年という長さの期間で年代を数えるようになったころには、太陽の輪回八回が金星の周期の五倍にほとんど等しいという事実が非常に便利に感ぜられた。またメキシコ人はこれよりもずっと長い、一〇四太陽年という周期を設定した。これは一四六トナラマトル、あるいは金星周期の六五倍に当るのである。
上記三つの計測術の支配者とも言うべき天体は、いわゆる旧世界でも新世界でも、最古の文化民族の間で神々の中の首長として尊崇せられていた。バビロニア人はシン、シャマシュ及びイシュタール(Ishtar 金星に当るアスタルテ Astarte)の三神を仰いでいた。アラビア人は太陰(ワッド Wadd ホバル Hobal またはハウバス Haubas)を父として、太陽(シャムシュ Shamsh)を母、また金星(アッタール Atthar)をその子として礼拝した。アッシリアの諸王はその尊貴の表象として掛けていた首輪から三つの護符を胸に垂らしていたが、その一つは月の鎌の形をしており、第二のものは輻を具備した車輪か、あるいは十字(太陽の象徴)の形をしており、また第三のものは一つの輪で囲まれた星の形(金星の象徴)をしていた。
最古の文化民族の宗教は確かに、暦日の予算という、すなわち、最古の科学というべきものを神聖視し尊崇したところから発達したものと思われる。このようにして星の学問が始まって以来、次第に他の遊星も観察されまた神々の数に加えられるようになった。そしてこれら遊星の天上の位置を定めるために星辰を幾つかの星座に区分するようになった。その分け方となると、もはやバビロニア人の区分法とメキシコ人のそれとが全く一致するはずのないことは言うまでもない。
カルデア人が最古の規則正しい天文観察を行ったのは耶蘇紀元前四〇〇〇年ないし五〇〇〇年前に遡るものと推測される。ローマ人やギリシア人の考えではこれが数十万年の昔にあったとさえされている。すなわち、かの大天文学者ヒッパルコス(Hipparchos)は二七万年、キケロ(Cicero)は四七万年という、もちろん甚だ荒唐なる推定をしているのである。
カリステネス(Kallistheness)はアリストテレスのために、紀元前二三〇〇年に亘るこの種の観測資料を収集した。カルデアの僧侶たちは毎夜の星辰の位置とその光輝の強弱を粘土版に記銘し、またこれらの星の出没並びに最も高くなるときの時刻をも合わせ記録した。いわゆる恒星は規則正しい運動をするから、その将来の位置を完全に正確に予言することができた。また太陽が一年の間に黄道に沿うて運行する時々の位置もまた特に規則正しく、すなわち、毎日約一度ずつ前進する。カルデア人が円周を三六〇度に分けたのは畢竟ここから起ったことである。その後になって、太陽は冬(近日期)は夏よりも早く動くということに気が付いたので、この不規則を勘定に入れるために、太陽は冬期は毎日一・〇一五九度。夏期はこれに反して毎日〇・九五二四度ずつの円弧を描いて進行するものであると仮定した。最も著名なバビロニアの星の研究者キディンヌ(Kidinnu)は紀元前第二世紀の初めごろの人であるが、彼は太陽の速度が月毎に変るという仮定をしてこの算暦法に重要な改良を加えた。彼は重要な観測を非常にたくさんに行った。彼がこの観測に基づいて作った太陰の運行に関する表は特別に正確なものである。
諸遊星の運行を予報する立派な暦表ができていて、その中のあるものは今日まで保存されている。たとえば紀元前五二三年の分がそうである。この暦を作るために使われた長い周期は、太陽とある遊星とが地球並びに相互に対して全く同じ位置に復帰するまでの期間である。たとえば八太陽年は金星の五周行に当る、従ってこの金星と太陽とに関する長周期は八年の長さをもっている。木星に関する同様の周期は八三太陽年である。それでこのような周期の間における当該遊星の位置を一度詳細に記しておけば、次の周期の間のその星の位置を完全に予報することができた。もっとも周期の長さが全く精密でないために少しの食違いがあるが、これは精細な観測に基づいた補正を加えることになっていたのである。
これらの周期中に最も重要なるものは太陰の運行に関するもので、これはメトンの周期(Metonische Periode)と名付けられていた。太陰が地球の周りを二三五回運行する期間が六九三九・六日に当り、これを一九年と比べるとその差は一日の一〇分一程度である。すなわち一九年経過すれば太陽と太陰との地球に対する位置はほとんど初めの状態に帰ってくる。それで一度月食があったとすれば、それから一九年後にまた同じ現象を期待することができる。この周期がバビロニア人の間に良く知られていたということは、クーグラー(Kugler)が紀元前四世紀の初めにおけるバビロニア時代の天文学上の計算によって確証した。この時代は、同じ周期がメトン(Meton 紀元前四三二年)によってギリシアに紹介されてから約五〇年後に当る。当時ギリシアとバビロンの間には、主にフェニシアを通じて、交通があるにはあったが、恐らくこの周期は両国で独立に見出されたものであろうと思われる。ミレトスのタレース(Thales von Milet)がバビロンの天文学の知識を得たのはやはりフェニシアを経てのものであったらしい。後年アレキサンドリアでギリシア人がバビロニアの科学を学んだのも同様であった。
日食についても同様であるが、この場合の予報はそれほど容易く確実にはできない。食の現象、特に日食はただに人間のみならずあらゆる生物に異常な深い印象を与えるものであるから、もし天文に通じた僧侶があって、この自然現象を正確に予言することができたとしたら、その人に対する一般の尊崇の念は甚だしく高まったに相違ない。日食が地球と太陽との中間における太陰の位置によるものであるということはよほどの昔から既に天文学者には明らかに分っていたはずである。このことを認めれば次にはまた、月食の起るのは太陰が地球の陰影の中に進入するためであるということに気が付く順序になるはずである。しかるに月面に投じた影の輪郭が円形であるから、従って地球は円いものであるという結論をしたに相違ない。ところが地球のどちら側が月に面していても月面における影は円形であるということから、更に進んで、地球は円板のようなものではなくて球形のものであるという結論を得たであろう。これらの観察の結果として、地球の形並びに地球が天体として太陽太陰に対する近親関係についても正しい観念を作り上げる端緒を得たわけである。カルデア人が地球大円周の長さの測定を行ったらしいと思われることがある。紀元前五世紀の人でアレキサンドリア出のギリシアの著者アキレス・タティオス(Achilles Tatios)の記したところによると、カルデア人はこういうことを主張していた。それは、もし少しも休むことなしに毎時間三〇スタディア(すなわち、約五キロメートル)の速度で歩きつづけることのできる人があったとしたら、一年で地球を一回りすることができるというのである。この見積りに従えば、地球の大円周の長さは四三八〇〇キロメートルになるが、これは実にほとんど正しいのである。
カルデア人の宇宙の構造に関する観念はこれ以上には進まなかったらしい。遊星の運動は実際ある点までは確かに規則正しいのであるが、しかしそれらの位置に関する一定の法則を設定することはできなかった。それでこれらの星は多分自由意志をもっており、その出現は人間の企図や出産、死亡またそれに次いで起る相続問題などに際して幸運あるいは不幸の兆を示すものと信じられていた。こういう吉凶の前兆は必ず事実となって現われるもので避けることは不可能であるが、しかし呪法や祈願や犠牲を捧げることによって幾分かその効果を柔らげ、ともかくも一寸延ばしにすることはできると考えられた。こういう方法を知っているものは天文に通じた僧侶だけであったので、彼らは王侯や人民に対して無上の権力を得るようになった。この信仰は実に今から数世紀前までも迷信的な人類を支配し、そのためにこれら輪廻現象の本然の解説の探求、従ってほとんどあらゆる科学的の研究を妨げたのである。
カルデア人が、もっと短い時間を測るに用いたものはクレプシュドラ(Clepsydra)と名付ける水時計と、それからポロス(Polos)と名づける日時計である。後者は一本の垂直な棒の下へその棒と同長の半径を有する凹半球に度盛をした盤を置いたものである。水時計は水かあるいは他の液体が大きな容器から一つの小さな穴を通じて流出するようになっており、その流出した液量を測って経過時間を測定するのであった。ポロスは南北の方位を定め、また冬期夏期における太陽の高度や世界の回転軸の位置を定め、また正午における陰影の長さから春分秋分の季節を定めるために使われた。メソポタミアの都市の廃墟で水晶のレンズが発見されたことから考えると、当時の学者は光学に関する知識もかなりにもっていたことが分かる。しかし外の学問の方面までも余り進んでいたわけではないらしい。
エジプトの伝説ではトート(Thot)の神が人間に天文、占筮と魔術、医療、文字、画法を教えたことになっている。太陽や遊星が十二宮の獣帯に各一〇日ずつに配された三六の星宿の間を縫うて運行する経路が図表中に記入され、そういうものが最も古い時代から太陽神ラー(Ra)の神殿に仕える僧侶たちによって集積された。後にはまた他の神々の神殿にも天文学者等が仕えるようになり、彼らは『夜の番人』として天界の現象を精確に観察しそれを記録する役目を務めた。彼らはちゃんとした星界図さえ作っていたので、それが彼らの図表と同様に一部分現在保存されている。エジプトでも暦法の基礎としてやはり一年は一二月、一ヶ月は三〇日より成るとしてある。歳の初めは今の八月に当る。一年を三六五日にするために歳の終りへもってきて『五日の剰余日』を置いた。太陽の一周行の期間は三六五日より五時間四分の三だけ長いから、だんだんと食違いができるので、時々、天体、特に『狼星』シリウスの観測によって修正を行っていた。
以上述べたことから考えてみると、エジプトの暦年はある点で我々現在のよりも優れていた。すなわち、毎月一様に三〇日という長さであったのに反して、我々の暦では二八日ないし三一日といういろいろな月の不合理な混乱が支配している。よく知られている通り、元来二月は三〇日であったのが、そのうちの一日を取り去り、それを、ジュリアス・シーザーの名誉のために七月(Juli)へ持って行ったのである。そこでオーガスタス大帝も負けてはならぬとばかり、二月から更にもう一日を引抜いて八月(August)へ持ってきた。後代のものの眼から見るとこの仕方は彼らのせっかくの目的とは反対の効果を招くことになってしまったのである。
太陽の周期が正しく三六五日でないために生ずる困難は時が進むに従って加わる。これを避けるために、エジプトでは、初めのうちは、折々に暦をずらせ狂わせて間に合わせていた。そうしてナイル河の氾濫期がちょうど歳の初めにくるように合わせたのである。しかしこの方法はかなり出任せであるので、プトレミー(Ptolemy)朝に至って閏年(四年目毎に三六六日の年)というものを定めた。この暦法の改正がローマでは少し後れて、ジュリアス・シーザーの命令で行われた。これにはギリシア-エジプト派の天文学者、ソシゲネス(Sosigenes)が参与したのである。それでこの改正暦のことをジュリアン暦と名づける。しかしこの暦も永い間には不完全なことが分ってくるので、紀元一五八二年に法王グレゴリー一三世の命令で更に新しい暦が設定された。この暦の誤差は三千年経ってわずかに一日となるだけである。
エジプトでは天文学者は非常な尊崇を受けていた。彼らは天文学の方ではカルデア人を凌駕するほどではなかったであろうが、彼らの知識はそれだけではなかった。その上に医術や化学を知っていてこれらの科学でははるかにカルデア人よりも進んでいたらしい。アジアの王侯たとえばバクタン(Bakhtan)王のごとき人々すら、わざわざエジプトの医師の処方を求めによこしたくらいである。後代にはまたペルシアの諸王も彼らの医学上の知識の助けを求めた。ホーマーはエジプトの医師を当代の最も熟達したものとして賞讃している。彼らの処方は今日でもかなりたくさんに残っている。彼らの医薬の処方や健康回復法の心得書のあるものはラテン語の詩句中にそのままの言語で出ており、これは中世における最高の医学専門学校であったサレルノ(Salerno)の大学で教授されたものである。そういうわけで部分的には民衆医術の中にも伝わり今日まで保存されてきたのである。彼らの用いた薬剤は、現今でも支那の薬屋で売っているような無気味な調剤とかなりよく似た品物であったらしい。
しかしあらゆるエジプトの学問のうちでも一番珍重されたのは占筮術と魔術であった。エジプトの学者たちは、ある一定の方式の呪文を唱えると河の水をその源へ逆流させ、太陽の運行を止めたりまた早めたり、またまじないを施した蝋製の人間や動物の姿を生かし動かすことができたとされている。彼らは宮廷に出入し、往々『天の秘密の司官』という官名で奉職していた。彼らの位階は近衛兵の司令官や枢密顧問官(『王室の秘密の司官』)と同様であった。そしてこれらの高官と同様に、階級の低い役人等とは反対に、王宮の中でサンダルを履いたまま歩くことを許され、またファラオの足でなくて膝に接吻してもいいという光栄を享楽していた。そしてこの大きな栄誉を担う人々の徽章として豹の毛皮(今ならヘルメリンの毛皮に当る)をまとうことを許されていたのである。
これらの学者たちには、およそ大概のことでできないということはないと、民衆が信じていたという証拠としてマスペロ(〔Maspe'ro〕)に従って次の物語をしよう。ケオプス王(Cheops)が彼らの一人に『お前は切り取った首を再び胴体につなぐことができるという話だが、それは本当か』と聞いた。その通りだと答えたので、ファラオは、その実験をさせるために牢屋から一人の囚人を連れてくるように命じた。すると、この宮廷占星官は、こういう実験に人間を使うのは惜しいことである、これには動物一匹あればたくさんである、という、甚だ人間味のある返答をした。そこで鵝鳥を一羽連れてきて、その首を切り放して室の一方に、その胴体を他方の側に置いた。占星官はかねて魔術書で学んでいた二三の呪文を唱えた。すると鵝鳥の胴体は首のある方へと飛び飛びをしながら動き始める、首の方でもまた胴の方へ動いてゆき、結局両方が一緒にくっついて、しかしてこの鵝鳥がガアガアと鳴き立てた。もちろん、たいていの伝説で御定まりのように、こういうことは三遍行われなければならないので、次には一羽のペリカン次には一頭の牡牛でこの術を行い、完全に成功してみせたというのである。王子たちのみならずファラオ自身も時々この宮中占星官から科学や魔術の教授を受けたという話である。
エジプト人は地中海から紅海へかけてかなり手広く航海を営んでいた。それには彼らの星学の知識が航路を定める役に立った。ホーマーがオディセイのカリュプソ(Kalypso)の島からコルフ(Korfu)への渡航を歌っているが、全くあの通りであった。疑いもなく当時は、ことにまだ十分な経験を得なかったころは、なるべく沿岸航路に限るようにしていたではあろうが、しかし時には嵐のために船が沖合へ流されるようなこともあったであろう。そういうときに航海者等は、陸地に近づくに従って海岸が次第に波の彼方から持上ってくるということや、また甲板で見るよりも帆柱の上で見た方が早く陸が見え初めるということを観察したに相違ない。同様にまた陸から見ている人には初めに船体の低い部分が海に隠れ最後に帆柱の先端が隠れることを知ったであろう。これらの事実から船乗りやまた海岸の住民らが、海面は中高に盛り上っており、多分球形をしているであろうという考えを抱くようになったのは明白である。
エジプト人がケオプスの大金字塔(紀元前約三〇〇〇年)を建築したとき、その設計のために、彼らの中でも最も優れた大知識にのみ知られていた科学的経験の一部を役立ててその跡を止めたという、スコットランドの星学者ピアッチ・スミス(Piazzi Smyth)の説は多くの自然科学者も同意したところである。この金字塔は、他の同種の建築物と同様に、その精密に正方形をした底面の辺が正しく東西にまた南北に向かうような位置に置かれていて、その誤差はわずかに七五〇分の一にすぎない。この金字塔は、緯度三〇度に甚だ近く、ただ二キロメートルだけ南に外れている。その北側の真ん中に入口があって、そこから長い、狭い、水平線に対して三〇度傾斜した通路に入る。従ってこの通路はほとんど地球の回転軸と並行していることになる。すなわち、この通路の長さの方向はちょうど天の極に向かう。しかも極は、大気による光線の屈折のためにわずかばかり実際よりも地平線に対して浮上って見えるから、なおさらちょうどよく極を指すことになるのである。それで、エジプト人が耶蘇紀元前ほとんど三〇〇〇年前に既にかなり進んだ数学並びに星学上の知識をもっていたということは、この通路の位置から見てもまた金字塔の辺の南北方位の正確さから考えても、疑いもないことである。しかしピアッチ・スミスとその賛成者たちの考えにはこの点について甚だしい誇張があるようである。この大金字塔の当初の高さは一四五メートル、またその四辺の周縁の全長が九三一メートルであった。この二つの数量の比は一対六・四二で、すなわち、円の半径と円周との長さの比、一対六・二八よりも約二パーセント強だけ小さい。このことからして、スミスは、金字塔の高さと周囲との比をもって円の半径と円周との比を表わそうとしたものであるということを、十分な根拠らしいものなしに結論している。ヤロリメク(Jarolimek)の調べたところによると、ケオプス金字塔の建築者は、その造営に当っていわゆる黄金截(〇・六一八)の比例を使ったらしいが、それにはともかくも一通りならぬ幾何学の知識がなくてはならないはずである。
我々が人間文化の最古の表象の跡を尋ねるような場合には、いつも、自然に支那の方に注目することになるのであるが、しかしかの国の思索家らは宇宙創造の問題に関しては割合に少ししか手を着けていない。孔夫子は紀元前五五一―四七八年の人であるが、彼自身に、自分はただ古い知識を集めただけだと断っている。彼は全く道徳問題だけを取扱って宇宙成立の問題というような非実用的な事柄に係わることは故意に避けたのである。紀元前六〇四年に生れて孔子と同時代であり道教の始祖となった老子の方にはいくらかの材料が見付かる。一体『道』とは何であるかということは余り簡単に説明ができない。近ごろ古代支那哲学の通覧を著わした鈴木の説に従えば『道は宇宙に形を与える原理であると同時に、また「天と地の未生以前に存在した渾沌たる組成のある物」、すなわち原始物質を意味するもののようである。』(この「 」の文句は老子の道徳教の第二五章の引用である。)『道』は『道路』の義であるが、しかし単に道路だけでなくまた『さまよう者』を意味する。道はあらゆる生あるものと生なきものの放浪すべき無窮の道路である。これは何ら他の物から成立ったのではなくそれ自身に永遠の物である。それはすべてであるが、しかしまた虚無でもある。それは天地万有の原因であり始源である。老子自身の言葉によれば『道は深く不可思議で、万有の始源である。道は静かに明らかで永遠に輝く一つの観念である。道は何者の子として生れたものか、私は知らない。彼は神(Ti)よりも以前からあったように見える。』『天地は不朽である。それは自分自身を作り出したものでもなく、また自身のために存在するものでもないからである。』道はまたしばしば玄妙中のまた玄妙なるものと名付けられる。この天地が不朽だとするその理由がまたよほど特別なものである。道は自分自体から生ぜられたものでないという命題を与えて、それからまずこれは絶滅することのできないものであるという結論を引き出すことができるというのである。
紀元前五世紀の道教学者列子は『始めに、一つの組織のない団塊、すなわち、渾沌があった。これは、後に形態、精神及び物質に進化し得る可能性を備えた混合物であった』と書いている。この哲学者は自分自身について次のような話をしている。『杞の国にある男があった。彼は天と地が崩壊するかも知れない、しかしてそれがために自分が破滅するかも知れないということを心配して寝食を廃するに至った。一人の友人がやってきて、こう言って彼を慰めた。「天地はただ一種の霊気の凝結したものにすぎない。しかして日月星辰はただこの霊気の中に輝く団塊である。これらが地上に墜ちたところで大した損害はないであろう。」こういって二人とも安心していた。ところが、この考えに対して長廬子という男が反対説を出した。その説によると、天地は実際にいつか一度は粉微塵に砕けなければならないというのである。この話を聞いたときに列子は大いに笑ってこう言った。天地が砕けるというのも、砕けないというのも、いずれも大きな間違いである。我々はそれを判断すべき手段を一切持っていない。……世界が破壊しようがしまいが、それは何も自分に関係したことではない。』鈴木が言っているように『支那人はギリシア人やインド人のように空想的な性質ではない。彼らは決して物事を実用的道徳的に見ることを忘れない。彼らは、危なっかしい足元がやはり地上に縛られている癖に星の世界ばかり覗きたがるこれらの人を笑うであろう。』要するに支那人の万有に対する見方は古代ローマ人のと同じである。そうして孔子の教えの中にこの特徴が結晶しているのである。
こういう哲学的な霧中のまぼろしはこのくらいに切り上げてもいいと思う。これらは畢竟、前提なしの抽象的思索で宇宙の謎を解こうとしてもそれは不可能だということを示すだけである。
支那でも寺院に職を奉ずる天文学者らがいて、星の運行を追跡して日月食を予報する役目を司っていた。吾人の知る限りでは彼らの天文学は余り大して科学的に進んだものではなかったらしい。多分カルデア人が西洋の知識と接触する以前とほぼ同程度のものであったかと思われる。
ギリシアの哲学者と中世におけるその後継者