3話 双ヶ岡 三
読み方を変える
なよ竹の――唯それだけを書いて、彼は小坂部の前に置いた。うやうやしく一礼して、かれはその薄葉を押し頂いて読んだ。
「なよ竹の……。」
言うまでもなく、それは和歌の上の句五文字である。塩冶の内室に贈るべき恋文は唯この五文字に尽きているのであろうか。定めて情を籠め思いを述べた優艶の文字が、蚕の糸を吐くように縷々繋がっているのかと思いのほか、いっさいの文句が単にその五文字に尽きているのである。小坂部も案に相違したように、その美しい眉をひそめて幾たびが口の中で読み返していると、兼好はもう用はないというような顔をして、庭に落ち残った熟柿の二つ三ッつが梢のゆう日にうす紅く照らされているのを見るともなしに眺めていた。
なよ竹の――小坂部は小声で繰り返していたが、やがて次の句が、かれの口からおのずと流れ出した。
あだに見し 夢かうつつかなよ竹の おき伏しわぶる恋ぞくるしき
その声に兼好は思わず見返った。彼の窪んだ眼が小坂部のさかしげな眼と出逢うと、二人は無言で会心の笑みを洩らした。
「塩冶の内室は殿上に生い立って、上手の歌よみという噂がある。なまじいの文など書こうよりはと思案して、その古歌を書き申した。それも上のただ一句、その方がなかなかに奥ゆかしゅう見ゆるであろうと存じて……。それにつけてもお身もあっぱれの才女じゃ。武蔵守殿は武勇一遍の人じゃと思うていたに、息女に対する日ごろの仕付け方も思いやらるる。起き臥しわぶる恋ぞくるしき――さすがにようぞ説き当てられた。」
当代の歌人、日本一の文者と呼ばれる兼好に、正面からこう褒められて、小坂部はさすがに晴れがましいような顔をうつむけた。その昔、なにがしの君が大堰川のほとりで蹴鞠の遊びを催されたときに、見物のうちに眼にとまるような嫋女があった。蔵人に言い付けてその帰るあとを付けさせると、女もそれに気がついたらしく、蔵人を見かえって「なよ竹の」とただひとこと言い残して立ち去ってしまった。それは「高しとて何にかはせんなよ竹の、ひとよ二よの仇のふしをば」という古歌の心であった。なにがしの君はいよいよ心あくがれて、だんだん尋ね明かした後に、それがなにがしの少将の妻であるということを確かめたので、君は更に恋文をしたためて、その奥に「あだに見し夢かうつつかなよ竹の、おきふし佗ぶる恋ぞ苦しき」と記して贈ったので、女もさすがに心が折れて、君のもとへ参り仕えたという古い伝説がある。今度の事柄もその古い伝説にやや似通っているので、兼好は「なよ竹」の一句を書いた。賢い小坂部はその意を判じた。
世を捨てた才人と、世を忍ぶ才女との会見はこれで終って、小坂部はかさねて礼を述べて別れた。
「いずれ改めてお礼ながら、この歌の返しの有りや無しやもお知らせ申しにまいりまする。」
「いや、いや、それには及ばぬ。その返しがあればとて無ければとて、われらに取ってはなんの痛み痒みもないことじゃ。父の殿の御病気、せいぜい気をつけて御介抱なされい。」
来た時に引き換えて、帰る時には兼好もあるじ顔して竹縁の端まで見送って出ると、「なよ竹の」を懐中に秘めた若い女は、ゆう日をうしろにして都の方へたどって行って、蝶のような笠の影は尾花の末に遠く隠れてしまった。
「まだ日のあるうちで仕合わせじゃ。暮れてから芒原であのような美しい女子に出逢うたら、狐が化けたのじゃと思わるるかも知れぬ。」
兼好は独りで笑いながら机の前に戻ったが、やがて夜食の蕪雑炊でも焚く支度をするらしく、奥から土鍋と青い野菜とを持ち出して来て、庭の筧の細い水を汲み始めた。門端の芒の葉が友摺れしてざわざわと鳴るのは、風の音ばかりでもないように思われたが、彼は別に見返ろうともしないで、余念もなしに鍋の粟を洗っていると、門には又もや案内を求める声がきこえた。
「御庵主に物申したい。」
呼ばれて初めて振り向くと、秋の日はいつの間にか吹き消すように暮れてしまって、門口には若い男の白い顔だけが浮いて見えた。
「なんの御用じゃ。」と、兼好は手を休めて訊いた。
「今方ここらへ年のころは十七八、都風俗のあでやかな上が見えなんだか。御坊には御存知ないか。」
「おお、見えたよ。」と、兼好は無雑作に答えた。
「ここへか、この庵へか、なんの用でまいられた。」と、男は不審そうに又訊いた。
「別に用もない。通りがかりに立ち寄られたのじゃ。して、お身はその女子のゆくえを尋ねてござったのか。」
「それがしは都の某武家の侍じゃ。主人の姫が誰にも知らさずに、二|《とき》ほど前から屋敷を忍び出て、今に戻られぬ、忍びの物詣でかとも存ずれど、なんとやら不安に思われる節もあるので、それがしお跡をたずねて参ったところ、そのような風俗の上が双ヶ岡の方角へ笠を深うして行かれたと教ゆる者がござったので、取りあえずこちらへ辿ってまいった。して、その姫はここへ立ち寄って、道を問われたか、但しは水か薬の所望か。どうでござった。」
「いや、そのようなことではない。」
「では、何しにまいられた。」
しつこく穿索するので、兼好も煩さくなったらしい。ぬれた手で鼻の下をこすりながら無愛想に答えた。
「はて、しつこい和郎じゃ。ただ足休めに立ち寄られたまでじゃ。別に子細はないと言うに……。」
そのままに彼にうしろを向けて、兼好は再び鍋の粟をざらざらと洗い始めた。若い侍はもうこの上に詮議の仕様もないのと、二つには相手の無愛想に気色を悪くしたらしい。そのまま黙って行きかけたが、また立ち戻って来て声をかけた。
「して、姫はここを出ていずかたへ行かれた。」
「知れたことじゃ。京の方へ……。」
半分聞いて、侍はあわただしく引き返して行った。兼好は粟を洗ってしまって、さらに蕪を刻み始めると、どこやらの寺で入相の鐘を撞き出した。うす寒い風が岡の麓から吹きあげて来た。
「御庵主、物もう。」
また来たのかと思ったが、先刻の人とは声が違うので、兼好は手を休めて又ふり向くと、うす暗い門に一人の男が立っていた。これも武家の侍らしく、片手に馬の口をとっていた。
「ちと尋ねたいことがござる。武家の姫らしい十七八の……。」
「おお、見えられたよ。」と、兼好はすぐに答えた。「その女子ならば疾うに京へ戻られた。」
「一人で見えられたか。但しはほかに道連れでも……。」
「連れはない。その姫という人が戻られると、やがてあとから若い侍がたずねて来た。」
「若い侍……。」と、侍は俄かに聞き咎めるように言った。「その侍は幾つほどで、どのような身なりでござった。くわしゅう教えてくだされぬか。」
「うす暗いので、年ごろも人相もよくは判らぬ。なんでもこのごろ流行る段だらの染小袖を着ていたらしいが……。」
「段だらの染小袖……。」と、侍は鸚鵡返しに言った。「むむ、やっぱりあやつじゃ。采女じゃな。くどいようじゃが御坊、姫はその若侍と連れ立って見えたのではござらぬか。姫は一人、侍は一人、別々にここをたずねて参ったのでござるか。」
「今も言う通り、別々じゃ。姫はさき、侍はあと、唯それだけのことじゃよ。」
「しかと左様かな。」
「はて、入り代り立ち代り煩さいことじゃ。日は暮るる、京までは余ほどの路のりはある。もうよい程にして帰られい。」
兼好は彼にもうしろを向けてしまった。侍は忌々しそうに薄暗い庵の奥を睨んでいたが、やがて鞭をとり直しておどすように言った。
「御坊、万一それが偽りであると知れたら、それがし重ねて詮議にまいるぞ。よいか。」
「よい、よい。いつまでもまいられい。」
相手は平気で澄ましているので、侍も張合い抜けがしたらしく、そのまま鞍の上にひらりと跨ってひと鞭あてて真っ直ぐに芒原を駈けぬけて行った。
姫が誰にも知らさずに屋敷をぬけ出たので、前の若侍がそのゆくえを尋ねて来た。それは別に不思議でも何でもなかったが、あとの侍の口ぶりには何か子細があるらしくも思われた。前後の侍はいずれも自分の名を明かさなかったが、前の侍が采女ということは、後の侍の口から洩れた。しかしその采女の身の上にどういう子細があるのか、兼好は深く考えて見ようともしなかった。彼は粟の粥を焚く方に忙しかった。