1話 地獄の使者(1)
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プロローグ
その朝、帆村荘六が食事をすませて、廊下づたいに同じ棟にある探偵事務所の居間へ足を踏み入れたとき、彼を待っていたように、机上の電話のベルが鳴った。
彼は左手の指にはさんでいた紙巻煙草を右手の方へ持ちかえて、受話器をとりあげた。
「ああ、そうです。私は帆村です。……やあ土居君か。どうしたの、一体……分っている、君が事件の中に居るということが……。しかもそれは、新聞記者たる君が仕事の上で補えた事件じゃなくて、君が好まざるにもかかわらずその事件にまきこまれちまったというのだろう。……お喋りはよせって。なるほどねえ。……えッ、君の妹さんが……」
帆村は、すいかけの煙草を急いで灰皿の中へなげこむと、そのかわりに鉛筆をつかんだ。軸の黄色い鉛筆だった。
「そうかなあ、君に妹さんがあったのかねえ。……いや失敬。それは困ったねえ。殺人容疑者としてあげられたとは、ちょっと面倒だね。……もちろん信じるよ、僕は。君の妹さんのことだから、同じように道義にはあついのだろうと……いや皮肉じゃない。よろしい、とにかくそっちへ行こう。十五分とはかかるまい。見附の東側の公衆電話のところだね。じゃあ後はお目にかかって……」
受話器をがちゃりとかけて、帆村はノートした紙片を取上げた。彼は突立ったまま、しばらくその紙の上を眺めていた。そこには鉛筆のいたずら書としか見えない三角形や楕円や串にさした団子のような形や、それらをつなぐもつれた針金のような鉛筆の跡が走りまわっていた。それは帆村独特の略記号であった。それが解読できるのは、帆村自身の外には、彼の助手の八雲千鳥だけだった。
彼は、ものに憑かれたように、五分間というものはその紙面に釘づけになっていた。その揚句に、彼はその紙片を机のまん中にそっと置いた。それから彼の手が忙しくポケットをさぐって、紙巻煙草とライターを取出した。ライターをかちりといわせて、焔を煙草の先に近づけた。ふうっと紫煙が横に伸びる。彼はライターの焔を消そうとして、急にそれをやめた。
机上におかれた例の紙片がつまみあげられた。その紙片は灰皿の上へ持って行かれた。その下に、ライターの焔が近づけられた。紙片はぱっと赤い焔と化した。そしてきな臭い匂いを残して黒い灰となり、灰皿の中に寝て、すこしくすぶった。
恐ろしい嫌疑
探偵帆村荘六を、朝っぱらから引張り出した事件というのは、一体どうしたものであったか?
帆村の友人の一人である新聞記者の土居菊司が、あわただしく電話をかけて来て、帆村にすがりついたその事件というのは、土居記者の肉親の妹が、今朝殺人容疑者としてその筋へ挙げられたことにある。土居はその妹の潔白を信じて、妹にかかった嫌疑が全くの濡衣であることを力説し、帆村の腕によって一刻も早くこの恐ろしい雲を吹き払い、妹を貰い下げられるようにして欲しいというのであった。
この妹想いの兄と帆村とは、もちろんさして深い友人関係ではなく、仕事の上で三四度知り合ったに過ぎなかったが、こうして頼まれてみると、引受けないわけに行かず、従って、土居との親しさの距離が急に縮まった感じがした。しかし彼はその妹がどんな女であるか知らず、顔を見たこともなかった。
殺されたのは、何者か?
本邦に珍らしいニッケル鉱の山の持主である旗田鶴彌氏が、その不幸な人物だった。氏の邸は、見附の近くにある。
帆村は、見附の公衆電話函の前で車を降り、そこに待っていた土居記者と一緒になった。二人は、旗田邸へ足を向けた。
その道すがら、土居記者は帆村に礼をいったり、懇願したり、訴えたりした。土居のいいたいことが大体終ったとき、帆村はたずねたいことを口に出した。
「そうすると三津子さんは、今朝旗田邸から引かれたというわけだね。三津子さんが今朝旗田邸に居たことについて、あらかじめ、君は知っていたの」
「いいや、知らなかった。僕は昨夜は十二時を廻って帰って来たんだ、昨夜は地方版の記事について面倒なことが起って、遅くまで社に残っていたもんだから。……妹の部屋へ声をかけたところ、妹はたしかに返事をした。もちろん寝ていることが分った。声の聞えた見当からね。そこで僕は安心して、自分の部屋に入って寝床へもぐりこんだのだ。ところが今朝僕が起きてみると、妹が居ないのだ。買物にでも行ったのかと思っていたが、なかなか帰って来ない。そのうちに出社の時間が来た。今朝は昨夜からの記事の一件で、早く社へ出ることになっていた。それで僕は、妹にかまわず家を出たんだ。そうだ、あれは七時だったよ」
「なるほど」
そういって帆村はオーバーの襟をたてた。濠ばたを、春寒むの風が吹く。
「社へ出て、ひっかかりの仕事を大体片づけてほっと一息ついたところへ、木村という同じ部の記者が入って来て、ちょっとと蔭へ僕を呼ぶんだ。僕は何の気なしに彼の方へ寄って行くと、『おい土居、君の妹さんが警視庁へ引かれている事を知っているか』というだしぬけの質問だ。僕はそれを聞くと、全身が急にがたがた慄えだした。『知らなかったが、一体どうしたんだ。教えてくれ』と木村にすがりつくと、木村の曰く、『うちの三上――本庁詰の記者だ――その三上が知らせて寄越したんだ、なんでも殺人容疑者となっている。そして妹さんは今朝、被害者邸に居て、そこから引かれたこと、妹さんが今日早朝、被害者邸を訪問したことがぬきさしならぬ嫌疑となったらしい』という話。僕は気が変になりそうになったが、それを堪えて木村にいろいろ質問を浴びせかけたが、それ以上の深いことを彼は知らず、また三上も知らないことが分った。ただ木村のいうのには、この際一刻も早く妹さんに有利な証拠がためをしておくのがいい。それには帆村氏あたりを煩わして、早くそして正確にやってもらっておくがいいだろうという忠告なんで、それでその時まですっかり忘れていた君の存在を思出したような始末さ。頼む。このとおり」
と、土居はポケットから手を出して、片手だけではあったが、帆村を拝んだ。
「で、君はその後、妹さんに会ったか」
「いや、会っていない」
「なぜ三津子さんは今朝旗田邸を訪ねたんだろうか。そのわけを知っているかね」
「いや、それは知らない。僕は三津子が旗田と何かの交渉を持っていることについてすら、今日までさっぱり気がつかなかったのだからね。なんという呑気すぎる兄だろうか」
と、土居は目を固く閉じて、首を振った。
そのとき帆村は、俄かに歩調をゆるめた。それはもうすぐ目の前に、旗田邸の塀が見えたからであった。
「それで、被害者旗田鶴彌氏は、どんな方法によって三津子さんに殺害されたといっているのかね」
帆村は重要なる事項について訊ねた。
「そんなことは知らない。木村はもちろん三上も知らないんだ。おそらく当局者は蠣のように黙っているんだろう。僕も早くそれを知りたい。君の力でもって、ぜひ当局者から聞いてくれたまえ」
検証
帆村は、検察委員に選任せられていたから、警戒の警官にことわって、邸内に入ることを許された。
中へ入ってみると、帆村の馴染な顔がいくつもあった。その顔触によって、ここに詰めている主任が大寺警部だと知った。その大寺警部は、今しがたここに到着した長谷戸検事一行を案内して、事件を説明しているところだそうで、今すぐそれに参加せられるが便宜であろうとすすめた。帆村はそれに従った。
検事一行は、被害者の居間に集っていた。この居間は、十四五坪ほどの洋間であった。立派な鼠色の絨毯が敷きつめてあり、中央の小卓子のところには、更にその上に六畳敷きほどの、赤地に黒の模様のある小絨毯が重ねてあった。その小卓子と向きあった麻のカバーのついた安楽椅子の中に、当家の主人旗田鶴彌氏が、白い麻の上下の背広をきちんと着て、腰は深く椅子の中に埋め、上半身は前のめりになって額を小卓子の端へつけ、蝋細工の人形のように動かなくなっていた、卓上には、洋酒用の盃や、開いた缶詰や、古風な燭台や、灰皿に開かれたシガレット・ケースに燐寸などが乱雑に載っていた。だが、それらの品物は、一つも転がっていはしなかった。
「……そんなわけでして、どうもはっきりしないところもあるんですが」と大寺警部の有名な“訴える子守娘”のような異様な鋭い声がして「ともかくも、ここの戸口の扉には内側から鍵がさしこんだまま錠がかかっているのに対し、反対側の窓が半分開いて居りますうえに、今ごらんになりましたとおり、被害者の頸の後に弾丸が入っている。それならば、犯人は被害者の後方から発砲し、それからあの高窓にとびあがって逃げた――と考えてよろしいのではないかと思います。私の説明はこのくらいにしておきまして、後はどうぞ捜査指揮をおねがいいたします」
そういって大寺警部は一礼した。
検事一行は、静粛な聴問の姿勢を解いた。
「すると君は、容疑者一号の婦人が、その被害者を射殺した後、あの高窓へとびあがり、扉を開いて外へ逃げたというんだね」
長谷戸検事の声だった。
「はあ。私はそう思いますが……」
「で、その容疑者一号は、ピストルを持っていたかね」
「いや、持って居りません。追及しましたが頑として答えません」
「ピストルで射殺したことは認めたかね」
「ピストルなんか知らないと、頑張りつづけて居ります」
「いえ。ピストルなんか知らないとね。なるほど、そうかね。……で、君がその婦人を容疑者とした理由は?」
検事は、警部の顔を興深げに見る。
「はい。それはいくつもの理由がございますが、まず第一に、その婦人は今朝この邸に居たこと。第二に、その婦人の名刺の入っているハンドバグが、被害者のかけている椅子の中にあったこと。これを詳しく申しますると、現に被害者の屍体は、その尻の下にそのハンドバグを敷いて居ります。始め私は椅子の背中越しに中を覗きこんだところ、それを発見したのでありました。第三には、その婦人は昨夜の現場不在証明をすることが出来ないでいるのであります。なお、これからの捜査によってその他の有力なる証拠が集ってくるだろうと思われます」
大寺警部は、いくぶん得意にひびく自分の語調に気がついたか、顔を赧らめた。
「犯人は、この家の外部の者だという確信があるらしいが、それは何か根拠のあることかね」
検事はちょっと皮肉を交ぜていった。
「犯人がこの家の外部の者だと、そこまでは私はいい切っていませんのですが、何分にもハンドバグが屍体の尻の下にあり、そのハンドバグの持主が今朝もこの邸に居わせましたんで、その婦人――土居三津子を有力なる容疑者に選ばないわけには行かなくなりました」
「なるほど。そうすると、土居三津子がどういう手段で旗田を殺害したかという証拠も欲しいわけだが、それは見つかったかね」
「それは、さっきも申しましたが、土居三津子はピストルを持って居りませんので、そのところがまだ十分な証拠固めが出来上っていません」
「ぜひ、そのピストルを早く探しあてたいものだね」といって検事はちょっと言葉を切ってから、誰にいうともなく「犯人は、たしかにわれわれに挑戦をしている。不都合な奴だ。だが、およそ犯罪をするには必然的に動機がある。その動機までを隠すことは出来ないのだ。今に犯人は歎くことであろう」と呟くようにいった。
「その外に何か差当りのご用は……」
と、大寺警部が、遠慮がちに訊いた。と、長谷戸検事は、われに返ったように大きな呼吸をして、警部の方へ振向いた。
「大寺君。この家には、被害者の外にも同居人が居たんだろう」
検事の質問には、言外の意味が籠っているようであった。
それに対して警部は、同じ屋根の下に寝泊しているのは、家政婦の小林トメという中年の婦人と、被害者の弟の旗田亀之介の二人だけで、その外には毎日通勤して来て昼間だけ居合わす者として、お手伝いのお末(本名本郷末子)と雑役の芝山宇平があると答えた。お末は二十二歳。宇平は五十歳であった。
「或いはそういう連中のうちに、ピストルを隠している者がいるんじゃないかねえ。それを調べておくんだよ、まだ調べてなければ……」
「はあ、調べます」
大寺警部は、まだそれを調べてなかったのである。
「で、その家政婦と弟の両人は、昨夜居たのか居ないのか、それはどうかね」
「家政婦の小林トメは、夕方以後どこへも外出しないで今朝までこの屋根の下に居りました。それから被害者の弟の亀之介ですが、当人は帰宅したといっています。その時刻は、多分午前二時頃だと思うと述べていますが、当時泥酔していて、家に辿りつくと、そのまま二階の寝室に入って今朝までぐっすり睡込んでしまったようです。当人はさっきちょっと起きて来ましたが、まだふらふらしていまして、もうすこし寝かせてくれといって、今も二階の寝室で睡っているはずです。もちろん逃げられません、監視を部屋の外につけてありますから」
それを聞くと検事は軽く肯いた。それから彼は遺骸の前の小卓子の上を指して、
「その卓子の上に並んでいる飲食物や器物は誰が搬んで来たのかね。それは分っている?」
「はい分って居ります。洋酒の壜以外は、家政婦の小林トメが持って来たものに相違ないといって居ります。それは午後九時、家政婦が地階の部屋へ引取る前に、用意をして銀の盆にのせて持って来たんだそうです」
検事は引続き軽く肯きながら、小卓子の上を見まもった。盛合わせ皿には、燻製の鮭、パン片に塗りつけたキャビア、鮒の串焼、黄いろい生雲丹、ラドッシュ。それから別にコップにセロリがさしてある。それからもう一つちょっと調和を破っているようなものが目についた。それは開いた缶詰だった。半ポンド缶であったが、レッテルも貼ってない裸の缶であった。何が中に入っていたのか、中は綺麗になっていたから窺う由もない。
その外に小型のナイフとフォークにコップの類。開かれたるシガレット・ケースとその中の煙草。それから別にきざみ煙草の入った巾着とパイプ。灰皿に燐寸。燭台が一つ。但し蝋燭はない。あとは四本の洋酒の壜に、炭酸水の入ったサイフォン一壜。――これが卓子の上のすべての品物だった。
灰皿の中には、吸殻の外に、紙片を焼捨てたらしい黒い灰があって、吸殻を蔽っていた。
検事の目は、これらの物の上をいくたびもぐるぐる廻っていたが、そのうちに大きく視線を廻して戸口の方を見た。
裁判医の古堀博士が入って来たのである。
どぶ鼠
「わしを呼ぶんなら、もっと早く連絡してもらいたいもんだね。今日は野球が見に行けるものとその気になって喜んでいるところへ――玄関まで出たところへ君たちの勝手な電話さ。一体殺人事件は夜中に起るもんだから、その翌朝の一番電話で、わしのところへ連絡してもらいたいね。そうしないと、さっぱりその日の予定がたたないやね。予定がたたないばかりか、今日みたいに甚だ不機嫌にならざるを得ないじゃないか。よう、これは長谷戸さん。今のわしの長談義を、君もちゃんと覚えていて下さいよ。……それで、御本尊はどこに鎮座ましますのかな。ああ、あれか。わしより若いくせに、早やこの世におさらばの淡泊なのが羨しいね」
古堀老博士は、例のとおりに喋り散らしながら、携げて来た大きな鞄を、被害者が占領している安楽椅子の右側に一度そっと置いて、それから錠前をはずして大きく左右へ開いた。鑑識用の七つ道具がずらりと店をひろげた恰好だった。
検事一行や大寺警部たちが、老博士の機嫌をこれ以上悪くしない程度の距離をもって、大きく円陣をつくって取巻いた。
古堀博士は、ゴムの手袋を出してはめ、眼鏡をかけかえると、前屈みになって死人の顔に自分の顔を寄せた。それから手を伸ばして死体の瞼を開き、それからだらりと垂れている左腕を死人の服の上から掴んでみた。それがすむと、いよいよ自分の顔を死人に近づけて、鼻の上に皺をよせた。そのあとで立ち上った。椅子のうしろをぐるっと大まわりをして、死体の向う側、つまり死体の左側へ出た。そこで彼は始めて被害者の頸のうしろに於ける銃創を眺めたのであった。
古堀裁判医は、小首をかしげた。
彼は再び椅子のうしろを廻って左の場所に取ってかえし、鞄の中から二三の道具を取出すと、それを持って死体のうしろへ廻り、器具を使って傷口の観察にかかった。それは、この部屋へ入って来たときの彼の忙しそうな口調に似ず、実にゆっくりした念入りなものであった。最後にこの裁判医は、こっくりと肯いてから身体をまっすぐにし、腰を叩いた。
「もういいですか、古堀さん」
と長谷戸検事が声をかけた。検事は煙草ものまないで待っていた。
「とんでもない。急いで物をいう裁判医をお望みなら、これからはわしを呼ばないことだね」と古堀はいって仕事をつづけた。しかしその言葉が持つ意味ほど彼は不機嫌ではなかった。
「この死体を床の上へ移して裸にしてみたいんだが、差支えはないかね。ほう、差支えがなければ、君がた四五人、ちょっとここへ……」
古堀医師は、巡査や刑事の手で死体を安楽椅子から絨毯の上に移させた。それから彼の手で、死体の服を剥いた。そして全身に亙って精密なる観察を遂げた。
彼が腰を伸ばして、検事の方へ手を振ったので、彼の検屍が一先ず終ったことが分った。
「検事さん。この先生の死んだのは大体昨夜の十一時から十二時の間だね。死因は目下不明だ。終り」
たったそれだけのことをいい終ると、古堀医師は、部屋の一隅のカーテンの蔭にある大理石の洗面器の方へ歩きだした。
「ちょっと古堀さん」
と検事はあわてて裁判医を呼び停めた。
「死因は後頭部に於ける銃創じゃないんですか」
誰も皆、検事と同じ質問を浴びせかけたいところであろう。すると裁判医は、歩きながら首をかるく左右に振った。
「お気の毒さま。死因ハ目下不明ナリ。頸部からの出血の量が少いのが気に入らない……。死体はわしの仕事場へ送っておいて貰いましょう。解剖は午後四時から始まり、五時には終る」
老人は、ぶっきら棒にいった。死因は目下不明なり、頸部からの出血の量が少いのが気に入らない――との言葉は、俄然一同に大きな衝動を与えたらしく、そこかしこで私語が起った。多くはこんな明白な盲管銃創を認めるのを躊躇する古堀老人の頑迷を非難する声であった。
そんなことは意に介しないらしく、古堀裁判医は洗面器の方に歩みよった。
「やあ、これはすまん」
老人がいった。一人の長身の男が、古堀医師のために、洗面器のあるところの入口に下っている半開きのカーテンを押し開いて、老人が通りやすいようにしてやったからであった。その男は余人ならず、帆村荘六であった。
この帆村荘六は、さっき古堀医師が首を左右に振ったときに、それと共振するように首を左右に振った唯一の在室者だった。
古堀は、洗面器の握り栓をひねって、景気よく水を出した。そしてゴム手袋をぬいで、持参の小壜から石鹸水らしいものを手にたらして、両手を丁寧に洗った。
彼がタオルを使い出したとき、帆村がつと近づいて、相手だけに聞えるような声で、
「先生。おみ足のそばに鼠が死んでいます」
と注意した。
老医師はびっくりして飛びのいた。そして大きく目をひらいて洗面器の下を見た。壁と床との境目が腐れて穴が明いていた。その穴から一匹の大きなどぶ鼠がこっちへ細長い顔をつきだしたまま動かなくなっていた。
「愕かせやがる。大きな鼠だ。なにもわざわざこんなところで殉死しないでもよかろうに……」
古堀は、そういって帆村を見て軽く会釈した。
「御同感です、先生。……いずれ先生には、もう一度お目にかからせますでございます」
帆村は頗る妙な挨拶をした。冗談かと思われたが、彼は滑稽なほど取澄ましていた。
「えっ、何だって。はははは……。うむ、十時半か。これなら野球試合に間に合うぞ」
古堀老人は、急にえびす顔になって、洗面器のある場所から離れた。
弾痕なし