4話 地獄の使者(4)
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「いやにひねくれた奴ですなあ」
大寺警部は戸口の方をちょっと流し目で見て、呆れたような声を出した。
「ああいう態度は損なんだがねえ……」
と、検事は忘れていた煙草を今思い出したという風にポケットから出して口に啣えた。だが燐寸が見つからない。
後ろにいた帆村が立って、燐寸の箱を検事に手渡した。
「私は他にも持っていますから、その燐寸は検事さんに差上げます」
「あ、それはありがとう。……どうだね帆村君。今の人物の印象は……」
「ははは、あの人はどうかしていますね」帆村は軽く笑って「几帳面なのか放縦なのか、はっきりしませんね。そして欲がないようでもあり、またしみったれのようでもある。精神分裂症の初期なんじゃありませんか」
「まさかね」と検事は首をひねった。「しかし戸籍に被害者の庶子のイト子というのがあったとは意外だね。私がそれについて警視庁側から報告を受けたのによると、庶子のイト子なんてなかったんだからね」
「ああそれについては私が弁明します」と大寺警部が口を挾んだ。「高橋刑事をやって調べさせたんですが、とにかく現在の在籍者は、被害者とあの亀之介の両名だけだったそうです。もちろん庶子のイト子なんて見当らんです。しかし高橋の調べて来たのは本籍のある蒲田区役所のもので、あれは戦災で原簿が焼けて新しく申告したものに拠っているんです。ですから厳密にいえば、ちょっと疑問の余地があるわけです。とにかくこの件については、もっと徹底的に調査させましょう」
「ぜひそうして貰いたいね、重要な問題だからねえ」
検事は熱心な語調でそういった。
「それで、次はどうしますか」
警部が帳面をひろげて、次の段取にとりかかった。
「雇人の取調べを一通りやりあげたいね。あとは誰と誰だったかね」
「爺やの芝山宇平とお手伝いのお末です」
「じゃあ芝山の方から始めよう」
警部が手をあげて、警官に芝山をここへ連れて来るようにいいつけた。
間もなく芝山はこの広間へ入って来た。しきりに頭をぺこぺこ下げて大いに恐れ入っているという風を示した。彼は爺やらしい汚れたカーキー服を着て、帽子を手に持っていた。力士のような良い体格の男であった。
「君が芝山宇平さんか」
「はい。さようでございます」
「君は通勤しているのかね」
「はい。さようでございます」
「昨夜は、君はどこにどうしていたかね」
「はあ。家に居りました。夕方六時にお邸からいつものようにお暇を頂きまして、家へ帰りついたのが六時半頃、それから本を読みまして十時頃に寝てしまいました。そして今朝はいつものように六時頃お邸へ参りました」
「それは確かかね」
「はい、確かでございます。なんなら家内にお聞き下されば、よく知れますで……」
「君の住所はどこだっけな」
芝山は市ヶ谷合羽坂の傍にある住所をいった。
「それから、ここの主人が死んでいるのに一番早く気がついた者は君だってね」
芝山は、黙って首を二三度縦にうち振った。
「どうして気がついたか、話してみなさい」
「ええ、ええとそれは……今朝参りまして、庭に出ました。すると旦那様の御居間に電灯が点いています上に、窓の硝子戸が、一応閉っちゃいますが、いつものように掛金がかかって居りません。つまり硝子戸が平仮名のくの字なりに外へはみ出して居りました。これはふしぎなことでございます。旦那様は戸締を厳重においいつけなさる方で、後にも先にもそんな不要慎な戸の閉め方をなさる方ではありませんでな、わしはたいへんふしぎに思いました」
「なるほど、それで……」
「それでわしは家へ入って、小林さんに、何だか旦那様の御居間の様子が変だぞやと申しましてな、騒ぎだしたようなわけでございます。御居間の戸を開けるのはどうかと思いましたので、一応庭に脚立梯子を立てまして、硝子窓越しに覗いてみました。わしは腰が抜けるほどびっくりしましたよ。なぜって旦那様が首のうしろを真赤にして死んでいらっしゃるんですからなあ、いや、そのときわしは身体が慄えだして、脚立の上から地面へとび下りたものでございますよ」
「それからどうした」
「そこでわしと小林さんは、家へ入ってお手伝いのお末さんも呼び、どうしようかと相談しました。その結果、二階にお休みになっている旦那様の弟御さま――亀之介さまのことでございます――弟御さまを先ずお起ししにかかったんですが、はあどうも、弟御さまは御返事はなさるが一向起きておいでがない。そして段々時間も経ちますので、わしらは困っちまいましてな、そこでとうとう三人で戸にぶつかって錠をこわして中へ入ってみましたんで。あとはごらんになったあの通りでございます」
語り終った芝山は、汗をかいていた。
「主人の死んだことについて、何か心当りはないかね。なんでも正直に申立てるように。誰に遠慮することもいらんから、どんなことでもいってみたまえ」
「はあ」芝山はしばしうなだれていたが「さあ、わしは通勤者じゃで、お邸の夜の出来事にはさっぱり見当がつきませんので……」
「土居三津子という若い婦人を見たことがないかね」
「今朝見ましてございますが、それが初めてでな、前には見たことがございません」
「あの娘が主人を殺した犯人だとは思わないか」
「存じません。全く存じません」
「亀之介という人は怪しいとは思わないか。なんかそれに関して知らないか」
「存じませんです。何にも存じません」
「じゃあ家政婦の小林はどうだ」
「おトメさん? おトメさんは大丈夫です。そんなことの出来るような女じゃありません」
「君はどうだ。犯人じゃないか」
「と、とんでもない……」
「お手伝いのお末というのは怪しくないか」
「あれは真面目な感心な娘で、これも間違いございません」
「亀之介と小林との間に、何か睨み合うような事情があるのを知っているか」
「ええっ、何と仰有る……」と芝山は顔を固くして聞きかえしたが、「そんなことは、ないと思いますよ。とにかくわしの存じませんことで……」と答えたが、なぜかその返答には不透明なものが交っているように思われた。
「いや、ご苦労。そのへんで結構。まあ引取って、あっちで休んでいるように」
検事はそういって芝山宇平を退らせた。
さてそのあとに、お手伝いのお末が警官につき添われて、検事たちの前に現れた。
お末は年齢からいえば二十二歳という娘ざかりであったが、しかし一同の前に現われたお末なる女は予想に反して、もっと年をとった、そして黄色く乾涸びたような貧弱な暗い女性だった。痩せた顔は花王石鹸の商標のように反りかえっていて、とびだしたような大きな目の上には、厚いレンズの近視鏡をかけていた。
だが、検事たちの前に立ったお末の態度はすこしもおどおどしたところがなく、むしろ検事達の方が圧倒されるくらいのものであった。
型の通りの訊問があった後、昨夜のお末の動静を訊ねたところ、
「夕刻の六時にお暇を頂きまして、それから河田町にございますミヤコ缶詰工場へ出勤いたしました。そこで私は九時まで勤めました。仕事は缶詰の衛生度の抜き試験でございます。九時十五分頃工場を出まして、電車で新宿に出、それから旭町のアパートへ帰りました。昨夜は疲れて居りましたので、いつもの勉強はやめて、入浴して十時半に寝ました。それから今朝は六時すこし廻ったころに、この邸へ着きましてございます」
そういい終えるとお末は丁寧にお辞儀をした。
検事たちは愕いた。この女は昼間はこの邸で働きをし、夜は夜で工場で働いているとは、なんとよく働く女だろう。一体何故そんなに働かねばならないのか――。
ちょうどそのときだった。この部屋へつかつかと足早に入って来た者があった。部長刑事の佐々という三十男で、主任大寺警部の腕の一本といわれる腕利きだった。
「お話中ですが……」と彼は断った後、大寺警部の前へ白い布に包んだものを出して拡げてみせた。それは一挺のピストルだった。
「ピストル? どこにあった? 一件のか……」
と警部は昂奮して早口に訊いた。
「そうらしいです。一発発射しています。このピストルを見付けたのは、家政婦の部屋の中です」
「なに家政婦の部屋の中に、このピストルが……」
期せずして大寺警部と長谷戸検事の視線とがぴったりと抱き合った。
そのうしろでは、さっきまで睡むそうな顔をして欠伸を噛み殺していた帆村荘六が、今は別人のようなしっかりした表情になって、室内の誰からも一時忘れられているお手伝いのお末の、しなびた顔にじっと見入っていた――。
花活の中
ピストルの発見は、検察官一同を総立ち同様にまで昂奮せしめる力があった。
中にも、最も衝動を受けたのは主任警部の大寺だった。彼は、この事件の犯人を、今本庁に引いていって拘置してある土居三津子だと、自分の心の中には確信していた。只いささか満足するには欠けることは、三津子が旗田鶴彌を射撃するに使ったピストルが発見されないことであった。ところが今やそのピストルらしいものが、同じ惨劇の旗田邸の屋根の下に於て発見せられた。が、その場所がどうも気に入らない。家政婦小林の部屋の中に発見されたからである。
「一体このピストルは、どこに在ったのかね」
と長谷戸検事は、ピストルの発見者の佐々部長刑事に尋ねた。
「それは家政婦の部屋を入ったすぐ右手に茶箪笥がありまして、その上に口の広い磁器の花瓶が載っていますが、その中に隠してあったのです」
佐々は手真似もして、それを証明した。
「花が活けてある花瓶かね」
「いえ、花は挿してありません」
「じゃあ空かね」
「はい。今ここへ持って参りましょう」
「いや、こっちから行くよ」
検事は腰を上げた。
そのときお末を監視していた巡査がお末はこのままにして置くのか、元の部屋へ帰らせていいのかを検事に尋ねた。
「ああ、元の部屋へ行って貰おう。やっぱり外出は厳禁だよ」
検事はそう言い置いて、家政婦の部屋へ行った。小林の部屋は一階の右の奥で、勝手より手前であった。狭い廊下を入ると、左側に入口があって、一坪の板の間があり、扉がこれへ開く。その奥は、床が高くなっていて、障子を開くと六畳の間と二畳の間があり、二畳の間は、一坪の板の間の右隣となっている。また六畳の間には二間の押入がある。問題の花瓶は、その二畳の間に置いてある茶箪笥の上に載っていたが、なるほど花は活かっていない。
検事の外、二三名が上へ上る。後からついて来た帆村は、花瓶の方にはあまりに興味がないらしく見え、その代り広い二間の押入の襖をあけてみる。
中は、きちんと片づいていた。赤い友禅模様の夜具が、この部屋の主には少し不釣合なほど艶かしい。帆村の手が伸びて、下段の端に置かれてある小型の茶箪笥の扉を開いた。するとその中には徳利や猪口が入っていた外に、清酒の一升壜が半分ほどの酒を残しているのが収ってあった。ついでに帆村の手が、その隣りの、臙脂色の塗箱の引出の一つ一つに掛けられた。帆村の記憶にはっきり残ったのは、袋入りの秘戯画と、沢山の上質のみす紙とであった。
「おい帆村君。これを見なくてもいいのかね」
長谷戸検事の声に、帆村は押入の襖を閉めてから検事の傍へ行った。
「この花瓶なんだが、底に深さ一糎ばかりの水が残っていた。ピストルは、銃口を下にして入っていたそうだ。ところがピストルの銃口を虫眼鏡でよく調べたが、錆はまだ全然発生していない。だからこのピストルが花瓶の中へ隠されたのはこの一両日のことだということが推察される。それだけのことなんだが……」
「どうもありがとうございました」
と、帆村は丁重に礼をいった。
検事は真面目な顔で肯いた。それから主任警部の大寺にいった。
「このピストルをすぐ鑑識の人に調べて貰って呉れたまえ。指紋と、弾丸にどんな条跡を与えるか写真に撮ることを、すぐに頼む。十五分もあれば分るだろう。その間われわれはちょっと休憩をしようじゃないか。お茶は呑めないだろうからね」
袋小路
休憩時間が過ぎると、几帳面な検事は、早速取調べの続行を宣した。
「ピストルの指紋はどうだったね」
検事の声に、鑑識課員が立って来て、
「指紋は一つもついていません。手袋をはめて使ったんでしょうね」
と応えた。
「ああ、そうか」
検事は格別失望の色も見せなかった。そして鑑識課員から、ピストルの条跡の拡大写真を二三枚うけとった。
「このピストルは誰のものかね。それから調べて行きたい。まず家政婦の小林をここへ……」
検事の命令で、小林トメは襟元を合わせながら広間へ入って来た。そして設けの椅子の上に、はちきれるようなお臀を据えた。彼女の目は、わざと検事がすぐ目の前の卓上に置いたピストルに注がれて、一瞬はっと胸をすくめたが、間もなく元に戻った。
「このピストルに見覚えはないですか」
と、検事の訊問が始まった。
「いいえ、存じません」
家政婦の声音は、尋常であった。
「亡くなったこの家の主人の所有物ではないのかね」
「旦那さまがピストルをお持ちになっていたかどうか、わたくしは存じません」
「そうか。それならそれとして……」と検事は鋭い瞳を家政婦の面につけた上で「このピストルは君の居間にあったのを見付けたんだがねえ」
「ええッ、このピストルがわたくしの部屋に?」
と、家政婦の顔色はさっと変った。
「一発だけ発射してあるんですよ。そして発射してから間もない。それが君の部屋に隠してあった。どういうわけですかね、説明をして貰いたい」
検事はじりじりと家政婦に肉迫する。
「そのピストルは、わたくしの部屋のどこに隠してあったんでしょうか。全くわたくしの知らないことなんです。そんなことがあれば、誰か……誰かがわたくしに罪をなすりつけるためにそのような恐ろしいことを――」
「他人の陰謀だというんですね。それならそれは一体誰です。誰だと思いますか」
「……はい」家政婦の目は混乱した。
「それは申上げられません」
「言えない。何故言えないのですか」
「…………」
「死んだ主人の弟の亀之介氏ですか」
検事は、先に亀之介が家政婦を誹謗したことを思出したから、このように訊いてみた。
「いいえ、亀之介さまの事ではございません」
と、家政婦は言下に否定した。検事は困惑を感じた。すると家政婦がつけ加えた。
「このお邸に出入りしている人達は、何かというと、わたくしを利用して悪いことをなさるのです。この年齢になるのに、こんなお邸に家政婦として温和しく朽ちて行くわたくしを、なんだって御自分の野心に利用したり、悪いことのはきだめにしたりなさるんでしょう。ああ、もっと早くそれが分っていたら、わたくしはこんなお邸へ家政婦などとして入るのじゃなかったんです」
家政婦は昂奮の極、大きな涙をぽたぽたと膝の上に落とした。
帆村は、このとき煙草の灰の落ちるのも気がつかない風で、家政婦の一挙一動に気を奪われていた。
「具体的にいって貰いたいですね。お手伝いのお末のことですか、それともあの土居三津子のことですか」
「それは申上げられません。今は何もいいたくないのです。しかしそのピストルは、決してわたくしが使ったものではございません。わたくしはこれまでにピストルというものに触ったこともなければ、ピストルで射撃したことも勿論ございません」
「そんなことは言訳にならないねえ。誰でも引金を引きさえすれば、弾丸は銃口から真直に飛びだすんだから……」と、検事は軽く一蹴して置いて、
「もう一つ伺うが、あなたの部屋を入ったすぐ右手の茶箪笥の上に花瓶が載っているが、花は活けてない。あの花瓶はいつから空になっているんですか」
妙な質問に、家政婦は警戒の色を浮べながら、
「あのう、あの花活から花を捨てましたのは昨日の朝のことでございます。その花活がどうかいたしましたか」
「その中に、このピストルが隠してあったのですよ」
「まあ……」
「それについてどういう感想をお持ちですかな」
「何にもございません。全くわたくしの知らないことでございますから……」
「昨夜深更にこのピストルで主人を射殺しそれからこれをあなたの部屋の花瓶の中に隠した。なかなかいい隠し場所ですね。そういうことをなし得る立場にある人物は、極めて数が少いのですぞ。その当時この邸に居合わせたのは、実にあなたひとりである。そうでしょう。だからあなたは、もっとはっきり自分の立場を明らかにする必要がある。そう思いませんか」
家政婦の顔から血の色がなくなった。しかし彼女は懸命になって叫んだ。
「わたくしがしたことではありません。それに唯わたくしひとりがこの家にいたように仰有いますが、外にも人が出入りしました。あの土居三津子という女のお客さまもそうですし、それから亀之介さまもそうでございました。わたくしだけじゃございません」
「それはそうですが、昨夜土居三津子はあなたの部屋へ入りはしなかったのでしょう。あなたは先に、それを証言している」
「それはそうですけれど……」
「亀之介氏はこの家の主人が殺されてから二三時間後に帰って来た。午前二時頃だったそうですね。あなたもそれを認めている。そうでしょう。」
「は、はい。ですけれど、旦那さまを殺したのはわたくしではありません……」
家政婦は検事のために、遂に袋小路に追込まれてしまった感がある。彼女は滂沱たる涙を押えて、声を放って泣き出した。
検事は当惑の顔で、家政婦を一時引下らせるように命じた。
巡査に護られて家政婦の小林が、広間から出ていくと、帆村が何を思ったかその後を追って廊下へ出た。
二三分経つと帆村は、元の広間へ戻って来た。そのとき広間では、誰も皆、煙草をぷかぷかふかして、すっかり緊張を解いていた。と、長谷戸検事が、帆村の方を振返っていった。
「今、本庁へそういって、土居三津子をここへ呼ぶように手配しました。土居がここへ来るまで、外にする仕事もないから、暫く取調べは中止します。解剖の方も、今やっているところでしょうから、この報告もずっと先のことになりましょうからねえ。あなたも、ちと散歩でもして来たらどうです」
帆村の余興
帆村は、検事に礼をいって、卓上に並んでいる茶呑茶碗を一つを取上げ、温い番茶を一口啜った。
一座は大寺警部を中心に、トマトの栽培方法について、話に花を咲かせている。
そのとき帆村が、長谷戸検事に声をかけた。
「検事さん、この休憩時間に、僕にすこし訊問をやらせてくれませんか」
帆村は今までにない積極的な申出をした。
「訊問を? 一体誰に訊問をするんですか」
「とりあえず二人あるんです。一人は亡くなった主人の弟の亀之介氏。そのあとが芝山宇平という爺さんですがね」
「亀之介と芝山の二人をね」検事はちょっと首をかしげたが、やがて肯いた。
「いいでしょう。許可します。しかしここで訊問をして下さい」
「はい、承知しました。じゃあ皆さんの御座興に、僕がちょっと余興をやらせてもらいます」
帆村の申出に、一座には顔をしかめる者もあったが、長谷戸検事はすぐ警官を手招きして、亀之介をここへ連れてくるように命じた。
暫くすると、二階の居間を出た亀之介が、のっそりとこの広間へ入って来た。
「何の用ですか」
機嫌はよろしくない。
「お聞きしたいことがある。そこへ掛けて下さい。この帆村が訊きます」
検事は親切に帆村のために段取を整えてやった。亀之介は、椅子をこの前と同じく、窓の傍へ引張っていって腰を下ろした。そしてまだ先刻のままに窓枠のところに載っている灰皿へ、葉巻の灰を指先で叩いて落とした。しかし灰は、まだいくらも先についていなかった。
「簡単なことをお訊ねいたしますが」
と帆村は丁重に口を切った。
「昨夜この邸へお戻りになったとき、玄関の扉を開けてあなたをお入れしたのは、家政婦さんだったそうですね」
「そのとおり」
「家政婦さんはどんな服装をしていましたでしょうか」
「はははは」と亀之介が突然笑った。
「醜態でしたよ。上に錆色のコートを着、裾から太い二本の脚がにゅっと出ていました。そして当人は気がつかないらしいが、後から赤い腰紐が、ぶらんとぶら下って床に垂れているんです」
家政婦の寝呆け姿が目に見えるようであった。他の人々も、帆村の訊問に興味を持って耳を欹てる。喋り手はますます得意になって、
「よく見ればね、小林はコートの下に長襦袢を高くからげて、腰紐で結えていたんですよ。なぜそんなことをしているか。はははは、これが面白いんだ。僕はこの目でちゃんと見てやったですがね、小林の婆さん、年齢甲斐もなく、下に娘のような派手な長襦袢を着ているんですよ。しかもどうやら長襦袢の下はノー……いや、もう他人の話はその位にして置きましょう。恨まれるといやだから。はははは」
聴き手たちは、もっとその上の話を聞きたそうな顔であった。帆村は、それをくそ真面目な顔で、一々肯いていたが、そこでいった。
「なるほど。それからあなたはどうしなすったんですか」
「それから? それから僕は二階へ上って自分の部屋へ入り、ぐっすり寝ましたね」
「ああ、ちょっと。その間になにか、なさったことはありませんか」
「その間にですか? ありませんね、何にも……」
「お忘れになっているんでしょうね、あなたは家政婦に冷い水を大きなコップに一杯持ってくるようにお命じになった」
「ああ、そんなことですか」と、亀之介は歯牙にもかけないような顔をしたが、しかし彼の語調に狼狽の響きがあった。「ひどく酔っていたもんで、咽喉がからからなんです。ですから小林に水を貰って呑んだように思います」
「腰紐がぶら下っていることや、なまめかしい長襦袢のことはよく覚えていらっしゃるのに、水を貰って呑んだことは記憶がぼんやりしているのですね」
「それは皮肉ですか、こっちは正直に話をしているのに……」
「いや、あまり気にしないで下さい。そして家政婦が水を大きなコップに入れてくるまで、どこで待っていましたか?」
「二階へ上る階段の下です」
「お待ちになっている間、そこからどこへも動かれなかったんですか、例えば小林の後を追いかけて勝手元へ行ってみるとか、或いは又、小林の部屋へ入ってみるとか、そんなことはなかったですか」
「失敬なことをいい給うな。僕が――この邸の主人の弟が、なんであんな婆さんの後を追うんです。僕は色情狂ではない…………」
「いや、よく分りました。これで伺いたいことはすみました。どうぞお引取り下さい」
亀之介はなおもぷりぷり憤慨して、帆村を睨みつけていたが、やがて火の消えた葉巻煙草をぽんと絨毯の上に叩きつけると、すたすたと部屋を出ていった。監視の警官が、あわててその後を追いかけた。
「いかがです、余興の第一幕は……」帆村はにやりと笑って一座へ軽く会釈した。「もうすこし御辛抱を願って、第二幕を開くことにいたします。じゃあどうぞ、下男の芝山宇平をここへお連れ下さい」
宇平の苦悶