6話 空襲葬送曲(6)
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非常管制の警報が出たのは、それから三十分ほど、後のことだった。
一等速く、民家に達したのは、電灯による警報だった。
「おい、お妻」と鼻緒問屋の主人、長造は暗闇の中で云った。
「お前、今、時計を見なかったか」
「いいえ、暗くなったんで、判りませんわ」
「非常管制の警報らしいが、何分位消えているんだっけな」
「お父さんは、忘れっぽいのね。三十秒の間消えて、また三十秒つき、それからまた三十秒消えて、それからあと、ずっと点くのですよ」
「感心なもんだな、覚えているなんて――」
三十秒経ったのか、電灯がパッとついた。
「今度は時計を見てるよ。これで三十秒経って消えたら、いよいよ本物だ」
「呀ッ、消えましたわ」
お妻の声には恐怖の音調が交っていた。
間もなく、電灯は再び点いた。
「ほうら、見なさい。いよいよ非常管制だ。ははァ」
「誰か、表の電灯を消して下さい」
「もう消しましたよオ」真暗な店の方から、返事があった。
「お父さん。ここの電灯も消して、ちょうだい。あたし、怖いわ」長女のみどりが、奥の間へやってきた。
「ここは見えやしないよ」
「だって、戸の隙間から、見えちまうじゃないの」
「じゃ、こうしとこうかな。手拭を、姐さん被りにさせて」
「ああ、それで、いいわ」あとから附いて来た紅子が云った。
「家の中を皆、真暗にしてしまうんですもの。暗くちゃ、怖いわ」
そこへ、店の方から、ドカドカと上りこんで来た者があった。
「お父さん」
「おお、弦三か。よく帰って来た」
「この前、お父さんにあげた防毒マスクが、いよいよ役に立ちますよ」
「うん」長造は感慨探そうに云った。「あまりいいことじゃない。それにマスクは一つじゃなア」
「お父様」弦三は、電灯の下へ、大きな包みをドサリと置いた。
「いよいよ、皆の分を作ってきましたよ。姉さんはいますか、姉さん」
「あい、此処よ」後に下っていたみどりが顔を出した。
「ここに、鉛筆で使用法を書いときましたから、大急ぎで、消毒剤を填めて、皆に附けてあげて下さい」
「弦三、お前まだどっかへ行くのかい」
母親が尋ねた。
「僕は直ぐ出懸けます」
「この最中に、どこにゆくんだ」長造が問いかえした。
「淀橋の、兄さんのところへ、マスクを持ってゆくんです」
「なに、黄一郎のところへか」
「ほら、御覧なさい。この大きい二つが、兄さんと姉さんとの分。この小さいのが、三ツ坊の分」
「なるほど、三ツ坊にも、マスクが、いるんだったな」
「よく気がついたね」母親が、長男一家のことを思って、涙を拭いた。
「それにしても今頃、危険じゃないか。いつ爆弾にやられるか、しれやしない。あっちでも、相当の用意はしてるだろうから、見合わしたら、どうだ」
「いえ、いえ、お父さん」弦三は、首を振った。
「僕は、もっと早く作って、届けたかったのです。だが、お金もなかったし、僕の腕も進んでいなかった……」
長造は、弦三のことを、色気づいた道楽者と罵ったことを思い出して、暗闇の中に、冷汗をかいた。
「それが、今夜になって、やっと出来上ったのです」弦三は嬉しそうに呟いた。「僕は、東京市民の防毒設備に、サッパリ安心が出来ないのです。行かせて下さい。いつも僕のこと想っていてくれる兄さんに、一刻も早く、この手製のマスクを、あげたいんです」
感激の嗚咽が、静かに時間の軸の上を走っていった。
「よォし。行って来い」長造がキッパリ云った。「いや、兄さん達のために、行ってやれ。だが、気をつけてナ……」
あとには言葉が無かったのだった。
「じゃ、行ってまいります」
これが、弦三と一家との永遠の別れとなったことは、後になって、思い合わされることだった。
「弦――」
母親のお妻が、我児を呼んだときには、弦三の姿は、戸外の闇の中に消えていた。
非常管制の警報は、いつしか熄んでいた。
外は咫尺を弁じないほど闇黒だった。
弦三は、背中に、兄に贈るべきマスクを入れた包みを、斜に背負い、自分のマスクは、腰に吊し、歩きづらい道を、どうかして早くすすみたいと気を焦った。
市内電車は、路面に停車し、車内の電灯は真暗に消されていた。これは、架空線とポールとが触れるところから、青い火花が出て、それが敵機に発見される虞れがあるからだった。
それは弦三の目算違いだった。彼は、雷門まで出ると、地下鉄の中に、もぐり込んだ。
地下鉄の中には、煌々と昼を欺くような明るい灯がついていた。だが、暗黒恐怖症の市民が、後から後へと、ドンドン這入りこんでいて、見動きもならぬ混雑だった。
「ここん中へ入っとれば、爆弾なんか、大丈夫ですよ」五十近い唇の厚い老人が、たった一人で、こんなことを喋っていた。
「全くですネ。近頃のお金持は、てんでに自分の屋敷の下に一間や二間の地下室を持っているそうですが、儂たちプロレタリアには、そんな気の利いたものが、ありませんのでねえ」
そう云ったのは、長髪の、薄気味わるい眼付の男だった。
「お蔭さまで、助りますよ」歯の抜けたお婆さんが、臍繰り金の財布を片手でソッと抑えながら、これに和した。
「だが、毒瓦斯が来ると、この孔の中は駄目になるぜ。駅長に云って、早く入口の鉄扉を下ろさせようじゃないか」会社の帰りらしい洋服男が、アジを始めた。
「駅長、扉を下ろせ!」
「扉を、し、め、ろッ」
そろそろ、空気は険悪になって来た。
片隅では、渋皮の剥けた娘をつれた母親が眉を釣りあげて怒っていた。
「あなた、女連れだと思って、馬鹿にしちゃいけませんよ」
「いッヒ、ヒ、ヒ、ヒッ。こういう際です。仲よくしましょう。今に、えらい騒ぎになりますぜ、そのときは……」
酒を呑んでいるらしい羽織袴の代書人といったような男が、汚い歯列を見せて、ニヤニヤと笑った。
「皆さん。静粛にして下さい。さもないと、出ていって頂きますよ」
駅長が高いところから怒鳴った。
「出ろ! とはなんだッ」
「もう一度、言ってみろッ!」
「愚図愚図ぬかすと、のしちまうぞ」
先刻の怪しい一団が、駅長の声を沈黙させてしまった。
そこへ地下電車が、やっと来た。
弦三は、背筋になにか、こう冷やりとするものを感じたが、其儘、車内の人となった。
新宿まで、この地下鉄で行けると思ったことも、誤りだった。須田町までくると、無理やりに下ろされちまった。コンクリートの、狭い階段をトコトコ上ってゆくと、地上に出た。
「横断する方は、こっちへ来て下さい」
「自動車は、警笛を鳴らしながら走って下さい。警笛は、飛行機に聞えないから、いくら鳴らしても、いいですよ」
「懐中電灯は、そのままでは明るすぎますから、ここに赤い布がありますから、それを附けて下さァい」
あちこちに、メガフォンの太い声が交叉して、布を被せた警戒灯が、ブラブラと左右に揺れていた。すべて秩序正しい警戒ぶりだった。
(それにしても、さっき見たのは、あれは夢だったかしら。悪夢! 悪夢!)
弦三は、雷門の地下道に蟠る不穏な群衆のことを、この須田町の秩序正しい青年団に対比して、悪夢を見たように感じたのだった。しかし、それは果して夢であったろうか。いやいや弦三は、確かに、あの呪いにみちた悪魔の声をきいたのだった。
弦三は、一つ自動車を呼びとめて、新宿の向うまで、走らせようと考えた。弦三は、二十一になる唯今まで、誰かに自動車に乗せて貰ったことはあるが、自分ひとりで、自動車を呼び止めた経験がなかったので、ちょっとモジモジしながら、須田町の広場に、突立っていた。
「呀ッ!」
「やったぞオ!」
突然に、悲鳴に似た叫声が、手近かに起った。
ハッとして、弦三は空を見上げた。
鉄が熔けるときに流れ出すあの灼けきったような杏色とも白色とも区別のつかない暈光が、一尺ほどの紐状になって、急速に落下してくる。
「爆弾にちがいない」
高さのほどは、見当がつかなかった。
見る見る、火焔の紐は、大きくなる。
爆弾下の帝都市民は、その場に立竦んでしまった。
悲鳴とも叫喚ともつかない市民の声に交って、低い、だが押しつけるようなエネルギーのある爆音が、耳に入った。
ぱッと、空一面が明るくなった。
弦三は、胆を潰して、思わず、戸を閉じた商店の板戸に、うわッと、しがみついた。
敵機の投げた光弾が、頃合いの空中で、炸裂したのだった。
ドーン。
やや間を置いて、大きい花火のような音響が、あたりに、響き亙った。
光弾は、須田町の、地下鉄ビルの横腹に、真黄色な光線を、べたべたになすりつけた。
弦三は、商店の軒下から飛び出して、万世橋ガードの下を目懸けて走っていった。
ガードの上と思われるあたりで、物凄い音響がした。
「ドッ、ドッ、ドッ、グワーン」それは紛れもなく、高射砲隊の撃ちだした音だった。悠々と天下りながら、帝都の屋根を照らしていた光弾が、一瞬間にして、粉砕されてしまった。
帝都の空は、又もや、元の暗黒に還った。
と、思ったのは、それも一瞬間のことだった。
サッと、紫電一閃! どこから出したのか、幅の広い照空灯が、ぶっちがいに、大空の真中で、交叉した。
「呀ッ、敵機だッ」
真白い、蜻蛉の腹のような機影が、ピカリと光った。
そこを覘って、釣瓶撃ちに、高射砲の砲火が、耳を聾するばかりの喚声をあげて、集中された。
照空灯は、いつの間にか、消えていた。
その次の瞬間、弦三の眼の前に、瓦斯タンクほどもあるような太い火柱が、サッと突立ち、爪先から、骨が砕けるような地響が伝って来た。そして人間の耳では、測量することの出来ない程大きい音響がして、真正面から、空気の波が、イヤというほど、弦三の顔を打った。
爆弾が落ちたのだ!
イヤ、敵機が、爆弾を投げつけたのだった。
バラバラッと、礫のようなものが、身辺に降って来た。
照空隊の光芒は、異分子の侵入した帝都の空を嘗めまわした。
その合間、合間に、高射砲の音が、猛獣のように、恐ろしい呻り声をあげた。
それは、人間の反抗感情というのでもあろうか。爆弾の音を聞かされ、照空灯のひらめきを見せられた弦三は、自分の使命のことも何処へか忘れてしまい、
「畜生! 畜生!」と独り言を云いだしたかと思うと、矢庭に側の太い電柱にとびつき、危険に気がつかぬものか、
「わッしょい、わッしょいッ」と、背の高い、その電柱の天頂まで、人技とは思われぬ速さで、攀っていった。
そこは、帝都のあっちこっちを見下ろすに、可也いい場所だった。眺めると、帝都の彼方此方には、三四ヶ所の火の手が上っていた。
次の爆弾が、空から投げ落とされる度に、物凄い火柱が立って、それは軈て、夥しい真白な煙となって、空中に奔騰している有様が、夜目にもハッキリと見えた。そして、その次に、浮び出す景色は、嘗て関東大震災で経験したところの火焔の幕が、見る見るうちに、四方へ拡がってゆくのであった。
弦三は、地響きのために、いまにも振り落されそうになる吾が身を、電柱の上に、しっかり支えている裡に、やっと正気に還ったようであった。
彼は、こわごわ、電柱を下りた。
地上に降り立ってみると、そこには又、先刻と違った光景が展開しているのだった。
どこで、やられて来たものか、呻き苦しんでいる負傷者が、ガードの下に、十五六人も寝かされていた。
「ヒューッ」どこからともなく、警笛が鳴った。
「毒瓦斯だ、毒瓦斯だッ!」
「瓦斯がきましたよ、逃げて下さい」
「風上へ逃げてください。皆さん、××町の方を廻って××町へ出て下さい」
肝心の××町というのが、サッパリ聞きとれなかった。
広瀬中佐の銅像の向うあたりに、うち固って狂奔する一団の群衆があった。
「やッ、ホスゲンの臭いだ!」
弦三は、腰をさぐって、彼の手製になる防毒マスクを外した。そのうちにも、ホスゲン瓦斯特有の堆肥小屋のような悪臭が、だんだんと、著明になってきた。彼は、防毒マスクをスッポリ被ると、すこしでも兄達の住んでいる方へ近づこうと、風下である危険を侵し、避難の市民群とは反対に、神保町から、九段を目がけて、駈け出していった。
だが、神保町を、駈けぬけきらぬうちに、弦三は運わるく、近所に落ちた爆弾の破片を左脚にうけて、どうとアスファルトの路面に倒れてしまった。
「なに糞、こんなところで、死んでなるものか!」
彼は歯を喰いしばった。
路面に転っていると、群衆に踏みつぶされる虞れがあるので彼は痛手を堪えて、じりじりと、商家の軒下へ、虫のように匍っていった。
右手を伸ばして、傷口のあたりをさぐってみると、幸いに、脚の形はあったが、まるで糊壺の中に足を突込んだように、そのあたり一面がヌルヌルだった。湧き出した血の赤いのが、この暗さで見えないのが、せめてもの幸いだったと、弦三は思った。
「おお、これは――」
その家の窓下で、弦三は不思議な音楽を耳にした。
それは正しく、この家の中から、しているのだった。
雑音のガラガラいう、あまり明瞭でない音楽だったけれど、曲目は正しく、ショパンの「葬送行進曲」
嗚呼、葬送曲!
一体、誰が、いま時分「葬送行進曲」をやっているのだろう。
彼は痛手を忘れて、窓の枠につかまりながら、家の中を覗きこんだ。
おお、そこには蝋燭の灯影に照し出されて、一人の青年が倒れていた。その前には、小さいラジオ受信機が、ポツンと、座敷の真中に、抛り出されていた。
音楽は、紛れもなく、そのラジオ受信機から出ているのだった。
(JOAKが、葬送曲をやっているのだろうか、物好きな!)
弦三は、むかむかとして、脚の痛みも忘れ壊れた窓の中へ、もぐり込んだ。
入って来た人の気配に気付いたものか、死んでいると思った青年が、白い眼を、すこし開いた。
そして呻くように言った。
「君、あれを聞きましたか。アメリカの飛行機のり奴、飛行機の上から、あの曲を放送しているのですよ。無論、故意にJOAKと同じ波長でネ。しゃれた真似をするメリケン野郎……」
弦三は、それを聞くと、ムクムクッと起きあがって、諸手で受信機を頭上高くもちあげると、
「やッ!」
と壁ぎわに、叩きつけた。
「うぬ、空襲葬送曲まで、米国のお世話になるものか、いまに見ておれ、この空襲葬送曲は、熨斗をつけて、立派に米国へ、返してやるから……」
死にかかっている青年にも、それが通じたものか、燃えのこった蝋燭の灯の蔭で、満足そうに、ニッと笑った。
爆撃下の帝都