9話 空襲葬送曲(9)
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下町方面は、古くから、空襲教練が、たいへん行届いている模範的の区域だった。たびたびの防空演習に、町の人々は、いつも総出で参加した。すこし芝居好きのところは、あったにしても、あれほど熱心に、灯火管制の用意に黒色電灯カバーを作ったり、押入を改造して、防毒室を設けたり、配電所に特別のスイッチを設けたりして、骨身を惜まないのは、感心にたえなかった。
それが、あの本物の空襲下に曝されて、どこの区域よりも二三倍がた、混乱ぶりのひどかったことは、まことに意外の出来ごとだった。そのような大混乱の元は、なんであるかというと第一に、いつもの演習は、少壮気鋭の在郷軍人会の手で演じていたのが、本物の空襲のときには、その在郷軍人たちの殆んど全部が、召集されて、某国へ出征していたために、残っている連中だけでは、どうもうまく行かなかったこと。第二には、しっかりした信念がなくて、流言蜚語に、うまうまと捲きこまれ秩序が立たなかったこと。この二つの原因が混乱の渦巻を作ってしまった。
鼻緒問屋、下田長造の三男で、防毒マスクの研究家だった弦三が、自作のマスクを背負って、新宿附近に住む長兄黄一郎親子に届けるために、花川戸を出たのは、敵の飛行隊が帝都上空に達するほんの直前のことだった。
弦三は、なんのことはない、死の一歩を踏みだしたようなものだった。まず駈けつけた地下鉄の中で、彼は、避難群衆に、不穏の気が、みなぎっていることを、逸早く見てとったのだった。弦三の乗りこんだ地下電車が、構内を離れて間もなく、不穏分子の振舞は、露骨になって行った。
兼ねて、手筈ができていたものと見え、地下鉄の駅長は、避難してくる群衆を、無制限に地下構内へ入れすぎるという、極くつまらない理窟をもって、群衆の袋叩きに合ったのだった。暴徒の一味は、群衆が、興奮した様子につけこんで、今度は、切符売場を襲撃したのだった。金庫は、みるみる破壊され、銀貨や紙幣が、バラバラと撒き散された。群衆は恐さも忘れて、慾心まるだしに、金庫を目懸けて突進した。五十銭銀貨を一枚でも、掌の中につかんだものは、強奪の快感の捕虜となって、ますます興奮を、つのらせて行った。五円紙幣を手に入れたものは、顔までが、悪魔の弟子のようになった。獣心が、檻を破り、ムラムラと、飛びだした。一味の者は、細心の注意をもって、機会を見ては、巧みに、煽動した。居合わせた婦女子は、駭きのあまりに、失心する者が多かった。正義人道を口にするものが、四五人もいて頑張れば、群衆の冷静さを、幾分とりもどせたろうと思われたが、誰もが呆然自失していて、適当な処置を誤ったのだった。一味の計画は、すっかり、図に当った。
「××人が、本当に暴れだしたぞォ」
「東京市民は、愚図愚図していると、毒瓦斯で、全滅するぞ。兵営に、防毒マスクが、沢山貯蔵されているから、押駆けろッ」
「デパートを襲撃して、吾等の払った利益をとりかえせ」
「国防力がないのなら、戦争を中止しろッ」
「放送局を占領しろッ」
などと、さまざまな、不穏指令が、街頭に流布された。
警官隊も、青年団も、敵機の帝都爆撃にばかり、注意力が向いていて、暴徒が芽をだしはじめたときに、早速苅りとることに気がつかなかった。
暴徒一味の煽動は、さまざまの好餌を、市民の中にひけらかし、善良な人達までが、羊の皮を被った狼に騙されて、襲撃団の中に参加したのは、物事が間違う頃合いにも程があると、後になって慨かれたところだった。
若い青年男女は、鮎のとも釣のようなわけで、深い意味もわからず、その団体に暴力を以て加盟させられた。一味幹事の統制ぶりは、実に美事であった。いろいろな別働隊が組織され、各隊は迅速に、行動に移った。
長造の妹娘の紅子と、末ッ子の素六とは同じような手で、参加を強いられた。
長造とお妻が、涙をもって止めたが、それは何の役にも立たなかった。馴染の誰々さんも入っている――たったそれだけのことで、若い人達の参加を決心させるに充分だった。「放送局を襲撃しろッ」
ハッキリと、加盟団の指令が出たときには若い人達は、やっと気がついた。だが、それは、もう遅かった。幹部の手には、物々しい武器が握られていた。反抗したが最後、その兇器が物を云うことは、いくら若い連中にもよく解った。
紅子と素六とは、恐怖と反省とに責められながら、放送室の一隅に、突立っていた。
放送局襲撃隊の指導者は、鬼川壮太といった。
「放送準備は、まだ出来ないのかネ」鬼川は団員の一人に訊いた。
「もう直ぐです」団員は答えた。「いま、水冷管に冷却水を送り始めました」
「電気は、来ているのですか」
「猪苗代水電の送電系統は、すっかり同志の手に保持されています。万事オーケーです」
指導者鬼川は、満足そうに肯いた。
「放送準備が出来ましたよ」
奥の方から、これも電気係りの団員が、大声で報せて来た。
「よおし。では、始めよう」
鬼川は、チラリと時計を出して、云った。
「午後九時四十分か。保狸口君、手筈どおり全国アナウンスをして呉れ給え」
保狸口と呼ばれた団員は、ニヤニヤと笑うと、ポケットから細く折った半紙をとり出して、マイクロフォンの前に立った。
「J、O、A、K」
素六や紅子たちは、その声を、何処かで、聞き覚えのある声だと思った。
「大変お待たせをいたしました」保狸口は云うのだった。「唯今やっと、放送許可が出ましたような次第でございます」
素六は、やっと、気がついた。保狸口という男は、地声か、声帯模写かはしらないが、声だけ聞いていると、なんのことはない、放送局の杉内アナウンサーと、区別のつかない程似た声音をもって居り、その音の抑揚に至っては、よくも真似たものだと、感心させられた。この放送を聞いたものは、JOAKが例の調子で、放送をやっているものと、簡単に信じるだろうと思われた。
それにしても、保狸口は、これから一体何事を喋ろうというのだ。
「第一に、申上げますことは、皆さん、御安心下さい。マニラ飛行聯隊の帝都空襲は、一と先ず一段落をつげました。敵機はだんだんと、帝都を後にして、引揚げてゆく模様であります。以上」
強制団員の中には、この真面な放送に、大満足の意を表したものさえあった。だが、敵機は、本当に、帝都の上空から、引揚げていったのだろうか?
「次に、某筋からの命令が参りましたから、お伝えします。東京地方は、警戒解除を命ず。東京警備司令官、別府九州造。繰り返して読みます、エエと――」
素六は、窓際に立っていたので、不用意に開け放たれた窓から、帝都の空を眺めることが出来た。その真暗な空には、今も尚、照空灯が、青白い光芒を、縦横無尽に、うちふっていた。高射砲の砲声さえ、別に衰えたとは思われなかった。なんだか、怪しい放送である。
「次に、灯火を、早くお点け下さいという命令。目下帝都内は暗黒のために、大混乱にありまして、非常に危険でございますので、敵機空襲も片づきましたることでありますからして、市民諸君は、大至急に電――」
「騙されてはいけない、市民諸君、これは偽放送だッ」
大きな声で、保狸口のアナウンスを圧倒した者があった。
ズドーン。
銃声一発。
ドタリと、マイクロフォンの前に仆れたのは、素六だった。
指導者鬼川の手にしたピストルの銃口からは、紫煙が静かに舞いあがっていた。
「呀ッ、素六、素六。しっかり、おしよ。素六ちゃーん」
鬼川は、断髪女が、仆れた少年を抱いて、大声で呼び戻しているのを見ると、又もや、ズドンと、第二発目を、紅子に向けた。しかし、それは手許が狂って当らなかった。
死んだのかと思った素六が、ムクムクと起き上った。
「電灯をつけては、いけない。まだ敵の飛行機は――」
そこまで云うと、素六の頭部は、ガーンとして、何にも聞こえなくなった。保狸口が飛出して、素六を殴りつけたのだった。
そのとき、突然、局内の電灯が、一時に消えた。
「同志、配電盤を、配電盤を……」鬼川の叫ぶ声がした。
携帯電灯の薄明りで、室内が、更めて眺めまわされたとき、素六の身体も、紅子の姿も見当らなかった。それに代って、大きな図体の男が、長々と伸びていた。その額からは、絹糸をひっぱり出したような血のあとが認められた。
「誰だッ」
「やッ。保狸口がやられたッ」
「保狸口が、やられたかッ。折角、アナウンサーの換玉に、ひっぱって来たのに……」
同志は、口々に、喚いた。
「射った奴を探せ!」
「同志の顔を、一々調べて見ろ!」
そこへ、ドタドタと駈けこんで来たものがあった。
「市内に、電灯が点きはじめたぞ。僕たちの放送は、うまく行ったらしい。同志、出て来て見ろ!」
ワッというと、誰も彼もが、表へとびだした。
なるほど、今まで暗澹としていた空間に、あちこちと、馴染のある電灯が、輝きだした。電灯が点いてみると、全市を焦土と化してしまったかと思われた火災も案外、局部に限られていることが、判った。
「ラジオが、聞えたぞ」
「電灯も点いたぞ」
市民は、聞きなれたアナウンサー(だと思った)の声を聞き、母の懐のようになつかしい電灯の光を浴びて俄かに元気をとりかえしたのだった。
愛宕山の上では、暴徒の指導者、鬼川が、一人で恐悦がっていた。
「見ろ、市民は、うまうま一杯、かつがれてしまったじゃないか。これで、大東京の輪廓が、はっきり浮び上るのだ。米国空軍の目標は、これで充分だ。あとは、約束の賞金にありつく許り。では、今のうちに、こっそり、失敬するとしよう。それにしても、米軍の攻撃は、莫迦に、ゆっくりしているじゃないか」
彼は、裏口へ遁げようとしては、不審の面持で耳を澄した。だが、彼の予期するような爆弾投下の爆音は、一向に、響いてこなかった。
「おかしいぞ。どうしたのだろう」
そのとき、囂然たる爆声が起った。一発又一発。それに交って、カタカタという機関銃の響きだった。
「やったナ。だが、爆弾と、すこし音が違うようだ」
彼は、逃げ腰になった。
「鬼川君は、いないですか、鬼川君」
誰かが、向うの放送室で呼んでいる。返事をしようか、どうしようか。
「……」
「鬼川君、軍隊だッ。救援隊らしいのが、山を登って来ますぞ。早く指揮をして下さい。鬼川くーン」
鬼川は、物も言わずに、裏口へ急いだ。
「やッ」
カーテンの蔭から、太い逞しい腕がニューッと出た。鬼川は横腹をおさえて、もろくも、転倒した。
カーテンの蔭から、ルパシカ姿の巨漢が現れた。
「中佐どの、片附けました」
彼は、カーテンの蔭に言葉をかけた。
カーテンが、揺れて、思いがけなく、司令部の、湯河原中佐が、顔を出した。
「塩原参謀」と中佐は、呼んだ。ルパシカ男は、いつの間にか局舎から姿を消していた塩原参謀の仮装だった。
「この男を、吾輩に預けてくれんか」
「おまかせいたします」参謀は、直立して言った。「ですが、中佐殿は、これから、どうされます」
「吾輩は、司令部の穴倉へ、こいつを隠して置こうと思う。司令官に報告しないつもりじゃから、監禁の点は、君だけの胸に畳んで置いてくれ給え」
「しかし、斯くの如き重大犯人を、司令官に報告しないことはどうでありましょうか」
「吾輩を信じて呉れ。二十四時間後には、この事件について、必ず君に報告するから」
「判りました。では、急速に、御引取下さい」中佐は、大きく肯くと、鬼川の身体を肩に担いで、カーテンの蔭に、かくれてしまった。
そのころ、放送局の表口では、暴徒の一団と、警備軍の救援隊とが、物凄い白兵戦を展開していた。
全市に、点灯を命令して、米軍に帝都爆撃の目標を与えるという放送局襲撃の第一目標が、どういう手違いか、すっかり外れ、生き残りの団員は、戦闘の間々に、爆弾の炸裂音を聞きたいものだと焦ったが、その期待は、空しく消えてしまった。
彼等の地位は、だんだんと悪くなって、元気は氷のように融けていった。
折角うまくやったつもりの放送局占領が、筋書どおりの効目がなく、いや反って逆の結果となり、東京市民を恐怖のドン底へ追いやる代りに、ラジオと光とは、市民たちの元気を恢復させるに役立ったのだった。同志は、それにやっと気がつくと急に、パタパタと斃れる者が殖えてきた。
放送局奪還は、もう間もないことであった。