2話 二
読み方を変える
「アノ、御用でございましょうか」
瀬川艶子は、社長室に入って、後手にドアをしめると、非常にとりすました表情で、併し同時に、彼女が男性に対する時はいつもする癖の、一種の媚が眉間に置き忘れてあったけれど、しとやかに腰をかがめた。
「アア、一寸手紙を書いて貰い度いのだが」
西村陽吉はチョッキの両脇へ左右の拇指をはさんで、残りの指をヒラヒラさせながら、椅子からヒョイと立上ると、文案でも考える恰好で、室内を散歩し始めた。傭人の小娘なんか、眼中にないといった体で、最早やみじめにたるみはじめた口辺の皮膚を、精一杯緊張させ、さも生真面目なへの字を作り、艶子の方は見向きもしないで、コツリコツリと歩いている。
艶子は、引続き取りすました態度で、社長の大机の脇の小さな角テーブルの前に腰を卸し、持って来たメモを拡げると、鉛筆を斜に構えてさしうつむいている。
西村は大して急ぎの用件でもなさそうに文意を口述しながら、出鱈目の曲線を描いて、その辺を歩き廻っていたが、恰度艶子のかけている椅子のうしろまで来ると、ごく自然に立止り、椅子の凭れに両手をかけて、次の文句を考える為か、目を天井にやって、しばらくじっとしていた。その様子は、手紙の文句をねるのではなくして艶子の息遣いを伺っている様にも見えた。
「エーと、右の事情につき、御示しの条件にては、残念ながら貴意に添い難きかと……」
そんなことを、ゆっくりゆっくり喋りながら、目は矢張り天井を見つめたまま、彼の指先だけが、奇妙な昆虫の触角の様に、何物かを求めて動いた。それは、椅子の凭れを離れると、徐々に艶子の娘々した肩先へと辷って行き、遂にその上にフワリと置かれた。
艶子は少しも気づかぬ風で、速記を続けていた。背を曲げて一心に鉛筆を走らせている彼女の横顔は、他意もなく仕事に没頭している様に見えた。
西村の厚顔な指先は、更らに少しずつ少しずつ前進して、肩先から腕の方へと這って行った。それらの指先はとりすました西村社長とは別物の、不思議な生物の様に見えた。それでもまだ艶子が動かぬので、増長した指共は、懸念と安心と半々の足どりで、遂に艶子のえくぼの入った手先まで伸び、アッと思うまに、それを握り締めた。そして、不思議なことには、その時になっても、西村の目は天井を睨み、彼の口は手紙の文句を喋っていた。
「いけません」
艶子はやっと気づいた様に、低い叱責の声と共に、握られた手を引込めて、併しまだ逃げ出そうともせず、鉛筆を動かしていた。その調子が、妙に軟かく、隙だらけに見えた。
西村の痩せた顔が、変に赤らんで来た。彼はもう手紙の口述をしなくなった。そして、目は天井への虚勢を忘れ、少女のなめらかな首筋へ食い入っていた。
艶子は、背後に恐るべき抱擁の気配を感じたらしく、つと立上って、二三歩窓の方に身をかわした。彼女の頬は憤激の為に赤らみふくれていた。彼女ははしたなく叫声など立てないで、その代りに冷い軽蔑に唇をゆがめて見せた。
それにも拘らず、西村陽吉は、いつでも戯談にまぎらせる丈けの余裕を残して益々彼女に迫って来た。机にせばめられた通路の一方に男が立はだかっている為、窓の方へ逃げる外はなく、彼女はじりじりとその窓枠へおしつけられて行った。
西村の醜く歪んだ顔丈けが、艶子の眼界一杯に拡った。年にも似ないで、いやに黒々とした髪の毛が、汗ばんだ顔にたれかかり、短くせまった眉の下に、充血した両眼が、ギラギラと光っていた。薄黒い唇が淫がましく開いて、そこから脂に染まった長い歯が覗いていた。
「いけません、いけません」
艶子は最早や怒れる女王のお芝居を続けている訳には行かなかった。とうとう悲鳴を上げた。だが、それは西村を思止まらせる程、高い声ではなかった。そのことが一層彼の野心をつのらせた様に見えた。
男の手が肩にかかったのを感じると、艶子はクルリと彼に背を向けた。開いた窓の窓枠にしがみついた。うしろから生暖い息が頬をかすめた。彼女の上半身が出来る丈け窓の外へ曲った。
窓の外には、遙か目の下に、谷間の様な街路が流れていた。Sビルディングと倉庫の棟続きとに挟まれた、狭い敷石道は薄暗くかげって、人影も見えなかった。