五階の窓 01 合作の一(発端)

2話

1,723字 約3分 2017年9月1日 公開

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「アノ、御用でございましょうか」

 瀬川艶子は、社長室に入って、後手(うしろで)にドアをしめると、非常にとりすました表情で、(しか)し同時に、彼女が男性に対する時はいつもする(くせ)の、一種の(こび)眉間(びかん)に置き忘れてあったけれど、しとやかに腰をかがめた。

「アア、一寸手紙を書いて(もら)()いのだが」

 西村陽吉はチョッキの両脇へ左右の拇指(おやゆび)をはさんで、残りの指をヒラヒラさせながら、椅子からヒョイと立上ると、文案でも考える恰好で、室内を散歩し始めた。傭人(やといにん)の小娘なんか、眼中にないといった(てい)で、最早(もは)やみじめにたるみはじめた口辺の皮膚(ひふ)を、精一杯緊張させ、さも生真面目なへの字を作り、艶子の方は見向きもしないで、コツリコツリと歩いている。

 艶子は、引続き取りすました態度で、社長の大机の脇の小さな角テーブルの前に腰を(おろ)し、持って来たメモを拡げると、鉛筆を(ななめ)に構えてさしうつむいている。

 西村は大して急ぎの用件でもなさそうに文意を口述しながら、出鱈目(でたらめ)の曲線を描いて、その辺を歩き廻っていたが、恰度(ちょうど)艶子のかけている椅子のうしろまで来ると、ごく自然に立止り、椅子の(もた)れに両手をかけて、次の文句を考える(ため)か、目を天井にやって、しばらくじっとしていた。その様子は、手紙の文句をねるのではなくして艶子の息遣いを(うかが)っている様にも見えた。

「エーと、右の事情につき、御示しの条件にては、残念ながら貴意(きい)に添い(がた)きかと……」

 そんなことを、ゆっくりゆっくり(しゃべ)りながら、目は矢張(やは)り天井を見つめたまま、彼の指先だけが、奇妙な昆虫の触角の様に、何物かを求めて動いた。それは、椅子の凭れを離れると、徐々(じょじょ)に艶子の娘々した肩先へと(すべ)って行き、遂にその上にフワリと置かれた。

 艶子は少しも気づかぬ風で、速記を続けていた。背を曲げて一心に鉛筆を走らせている彼女の横顔は、他意もなく仕事に没頭している様に見えた。

 西村の厚顔(こうがん)な指先は、更らに少しずつ少しずつ前進して、肩先から腕の方へと()って行った。それらの指先はとりすました西村社長とは別物の、不思議な生物(いきもの)の様に見えた。それでもまだ艶子が動かぬので、増長した指共は、懸念(けねん)と安心と半々の足どりで、遂に艶子のえくぼの入った手先まで伸び、アッと思うまに、それを握り締めた。そして、不思議なことには、その時になっても、西村の目は天井を(にら)み、彼の口は手紙の文句を喋っていた。

「いけません」

 艶子はやっと気づいた様に、低い叱責(しっせき)の声と共に、握られた手を引込めて、併しまだ逃げ出そうともせず、鉛筆を動かしていた。その調子が、妙に(やわら)かく、(すき)だらけに見えた。

 西村の()せた顔が、変に赤らんで来た。彼はもう手紙の口述をしなくなった。そして、目は天井への虚勢(きょせい)を忘れ、少女のなめらかな首筋へ食い入っていた。

 艶子は、背後に恐るべき抱擁(ほうよう)の気配を感じたらしく、つと立上って、二三歩窓の方に身をかわした。彼女の(ほお)憤激(ふんげき)の為に赤らみふくれていた。彼女ははしたなく叫声(きょうせい)など立てないで、その代りに(つめた)軽蔑(けいべつ)(くちびる)をゆがめて見せた。

 それにも(かかわ)らず、西村陽吉は、いつでも戯談(じょうだん)にまぎらせる()けの余裕を残して益々(ますます)彼女に迫って来た。机にせばめられた通路の一方に男が(たち)はだかっている為、窓の方へ逃げる(ほか)はなく、彼女はじりじりとその窓枠へおしつけられて行った。

 西村の醜く(ゆが)んだ顔丈けが、艶子の眼界一杯に(ひろが)った。年にも似ないで、いやに黒々とした髪の毛が、汗ばんだ顔にたれかかり、短くせまった眉の下に、充血した両眼が、ギラギラと光っていた。薄黒い唇が(みだら)がましく開いて、そこから(やに)に染まった長い歯が覗いていた。

「いけません、いけません」

 艶子は最早(もは)や怒れる女王のお芝居を続けている訳には行かなかった。とうとう悲鳴を上げた。だが、それは西村を思止(おもいと)まらせる程、高い声ではなかった。そのことが一層彼の野心をつのらせた様に見えた。

 男の手が肩にかかったのを感じると、艶子はクルリと彼に背を向けた。開いた窓の窓枠にしがみついた。うしろから生暖い息が頬をかすめた。彼女の上半身が出来る丈け窓の外へ曲った。

 窓の外には、(はる)か目の下に、谷間の様な街路が流れていた。Sビルディングと倉庫の棟続(むねつづ)きとに挟まれた、狭い敷石道(しきいしみち)は薄暗くかげって、人影も見えなかった。

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