薤露行

1話 薤露行(1)

7,807字 約16分 1998年9月20日 公開

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 世に伝うるマロリーの『アーサー物語』は簡浄素樸(そぼく)という点において珍重すべき書物ではあるが古代のものだから一部の小説として見ると散漫の譏(そしり)は免がれぬ。まして材をその一局部に取って纏(まとま)ったものを書こうとすると到底万事原著による訳には行かぬ。従ってこの篇の如きも作者の随意に事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりしてかなり小説に近いものに改めてしもうた。主意はこんな事が面白いから書いて見ようというので、マロリーが面白いからマロリーを紹介しようというのではない。そのつもりで読まれん事を希望する。

 実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台に躍(おど)らせるようなかきぶりであるから、かかる短篇を草するには大(おおい)に参考すべき長詩であるはいうまでもない。元来なら記憶を新たにするため一応読み返すはずであるが、読むと冥々のうちに真似(まね)がしたくなるからやめた。

     一 夢

 百、二百、簇(むら)がる騎士は数をつくして北の方(かた)なる試合へと急げば、石に古(ふ)りたるカメロットの館(やかた)には、ただ王妃ギニヴィアの長く牽(ひ)く衣(ころも)の裾(すそ)の響(ひびき)のみ残る。

 薄紅(うすくれない)の一枚をむざとばかりに肩より投げ懸けて、白き二の腕さえ明らさまなるに、裳(もすそ)のみは軽(かろ)く捌(さば)く珠(たま)の履(くつ)をつつみて、なお余りあるを後ろざまに石階の二級に垂れて登る。登り詰めたる階(きざはし)の正面には大いなる花を鈍色(にびいろ)の奥に織り込める戸帳(とばり)が、人なきをかこち顔なる様にてそよとも動かぬ。ギニヴィアは幕の前に耳押し付けて一重向うに何事をか聴(き)く。聴きおわりたる横顔をまた真向(まむこう)に反(か)えして石段の下を鋭どき眼にて窺(うかが)う。濃(こま)やかに斑(ふ)を流したる大理石の上は、ここかしこに白き薔薇(ばら)が暗きを洩(も)れて和(やわら)かき香(かお)りを放つ。君見よと宵(よい)に贈れる花輪のいつ摧(くだ)けたる名残(なごり)か。しばらくはわが足に纏(まつ)わる絹の音にさえ心置ける人の、何の思案か、屹(き)と立ち直りて、繊(ほそ)き手の動くと見れば、深き幕の波を描いて、眩(まば)ゆき光り矢の如く向い側なる室(しつ)の中よりギニヴィアの頭(かしら)に戴(いただ)ける冠を照らす。輝けるは眉間(みけん)に中(あた)る金剛石ぞ。

「ランスロット」と幕押し分けたるままにていう。天を憚(はば)かり、地を憚かる中に、身も世も入(い)らぬまで力の籠(こも)りたる声である。恋に敵なければ、わが戴ける冠を畏(おそ)れず。

「ギニヴィア!」と応(こた)えたるは室の中なる人の声とも思われぬほど優しい。広き額を半ば埋(うず)めてまた捲(ま)き返る髪の、黒きを誇るばかり乱れたるに、頬(ほお)の色は釣(つ)り合わず蒼白(あおじろ)い。

 女は幕をひく手をつと放して内に入(い)る。裂目(さけめ)を洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立(きわだ)ちて見える。左右に開く廻廊には円柱(まるばしら)の影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。

「北の方(かた)なる試合にも参り合せず。乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問う。晴れかかりたる眉(まゆ)に晴れがたき雲の蟠(わだか)まりて、弱き笑(わらい)の強(し)いて憂(うれい)の裏(うち)より洩れ来(きた)る。

「贈りまつれる薔薇の香(か)に酔(え)いて」とのみにて男は高き窓より表の方(かた)を見やる。折からの五月である。館を繞(めぐ)りて緩(ゆる)く逝(ゆ)く江に千本の柳が明かに影を《ひた》して、空に崩(くず)るる雲の峰さえ水の底に流れ込む。動くとも見えぬ白帆に、人あらば節面白き舟歌も興がろう。河を隔てて木(こ)の間(ま)隠れに白く《ひ》く筋の、一縷(いちる)の糸となって烟(けむり)に入るは、立ち上(のぼ)る朝日影に蹄(ひづめ)の塵(ちり)を揚げて、けさアーサーが円卓の騎士と共に北の方(かた)へと飛ばせたる本道である。

「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈る憂(う)き身ぞ。君一人館に残る今日を忍びて、今日のみの縁(えにし)とならばうからまし」と女は安らかぬ心のほどを口元に見せて、珊瑚(さんご)の唇をぴりぴりと動かす。

「今日のみの縁とは? 墓に堰(せ)かるるあの世までも渝(かわ)らじ」と男は黒き瞳(ひとみ)を返して女の顔を眤(じっ)と見る。

「さればこそ」と女は右の手を高く挙(あ)げて広げたる掌(てのひら)を竪(たて)にランスロットに向ける。手頸(てくび)を纏(まと)う黄金(こがね)の腕輪がきらりと輝くときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰り返す。「薔薇の香(か)に酔える病を、病と許せるは我ら二人のみ。このカメロットに集まる騎士は、五本の指を五十度繰り返えすとも数えがたきに、一人として北に行かぬランスロットの病を疑わぬはなし。束(つか)の間に危うきを貪(むさぼ)りて、長き逢(お)う瀬(せ)の淵(ふち)と変らば……」といいながら挙げたる手をはたと落す。かの腕輪は再びきらめいて、玉と玉と撃てる音か、戛然(かつぜん)と瞬時の響きを起す。

「命は長き賜物ぞ、恋は命よりも長き賜物ぞ。心安かれ」と男はさすがに大胆である。

 女は両手を延ばして、戴ける冠を左右より抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼ける事は」という。願う事の叶(かな)わばこの黄金、この珠玉(たま)の飾りを脱いで窓より下に投げ付けて見ばやといえる様(さま)である。白き腕(かいな)のすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光りの下には、渦を巻く髪の毛の、珠の輪には抑えがたくて、頬のあたりに靡(なび)きつつ洩れかかる。肩にあつまる薄紅の衣の袖(そで)は、胸を過ぎてより豊かなる襞(ひだ)を描がいて、裾は強けれども剛(かた)からざる線を三筋ほど床(ゆか)の上まで引く。ランスロットはただ窈窕(ようちょう)として眺めている。前後を截断(せつだん)して、過去未来を失念したる間にただギニヴィアの形のみがありありと見える。

 機微の邃(ふか)きを照らす鏡は、女の有(も)てる凡(すべ)てのうちにて、尤(もっと)も明かなるものという。苦しきに堪えかねて、われとわが頭(かしら)を抑えたるギニヴィアを打ち守る人の心は、飛ぶ鳥の影の疾(と)きが如くに女の胸にひらめき渡る。苦しみは払い落す蜘蛛(くも)の巣と消えて剰(あま)すは嬉(うれ)しき人の情(なさけ)ばかりである。「かくてあらば」と女は危うき間(ひま)に際どく擦(す)り込む石火の楽みを、長(とこし)えに続(つ)づけかしと念じて両頬に笑(えみ)を滴(したた)らす。

「かくてあらん」と男は始めより思い極めた態である。

「されど」と少時(しばし)して女はまた口を開く。「かくてあらんため――北の方なる試合に行き給え。けさ立てる人々の蹄の痕(あと)を追い懸けて病癒(い)えぬと申し給え。この頃の蔭口(かげぐち)、二人をつつむ疑(うたがい)の雲を晴し給え」

「さほどに人が怖(こわ)くて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑う。高き室(しつ)の静かなる中に、常ならず快からぬ響が伝わる。笑えるははたとやめて「この帳(とばり)の風なきに動くそうな」と室の入口まで歩を移してことさらに厚き幕を揺り動かして見る。あやしき響は収まって寂寞(じゃくまく)の故(もと)に帰る。

「宵(よべ)見し夢の――夢の中なる響の名残か」と女の顔には忽(たちま)ち紅(こう)落ちて、冠の星はきらきらと震う。男も何事か心躁(さわ)ぐ様にて、ゆうべ見しという夢を、女に物語らする。

「薔薇咲く日なり。白き薔薇と、赤き薔薇と、黄なる薔薇の間に臥(ふ)したるは君とわれのみ。楽しき日は落ちて、楽しき夕幕の薄明りの、尽くる限りはあらじと思う。その時に戴けるはこの冠なり」と指を挙げて眉間をさす。冠の底を二重にめぐる一疋(ぴき)の蛇は黄金(こがね)の鱗(うろこ)を細かに身に刻んで、擡(もた)げたる頭(かしら)には青玉(せいぎょく)の眼(がん)を嵌(は)めてある。

「わが冠の肉に喰(く)い入るばかり焼けて、頭の上に衣(きぬ)擦(す)る如き音を聞くとき、この黄金の蛇はわが髪を繞(めぐ)りて動き出す。頭は君の方(かた)へ、尾はわが胸のあたりに。波の如くに延びるよと見る間(ま)に、君とわれは腥(なまぐ)さき縄にて、断つべくもあらぬまでに纏わるる。中四尺を隔てて近寄るに力なく、離るるに術(すべ)なし。たとい忌(いま)わしき絆(きずな)なりとも、この縄の切れて二人離れ離れにおらんよりはとは、その時苦しきわが胸の奥なる心遣(こころや)りなりき。囓(か)まるるとも螫(さ)さるるとも、口縄の朽ち果つるまでかくてあらんと思い定めたるに、あら悲し。薔薇の花の紅(くれない)なるが、めらめらと燃え出(いだ)して、繋(つな)げる蛇を焼かんとす。しばらくして君とわれの間にあまれる一尋(ひとひろ)余りは、真中(まなか)より青き烟を吐いて金の鱗の色変り行くと思えば、あやしき臭(にお)いを立ててふすと切れたり。身も魂もこれ限り消えて失(う)せよと念ずる耳元に、何者かからからと笑う声して夢は醒(さ)めたり。醒めたるあとにもなお耳を襲う声はありて、今聞ける君が笑も、宵(よべ)の名残かと骨を撼(ゆる)がす」と落ち付かぬ眼を長き睫(まつげ)の裏に隠してランスロットの気色(けしき)を窺(うかが)う。七十五度の闘技に、馬の脊(せ)を滑(すべ)るは無論、鐙(あぶみ)さえはずせる事なき勇士も、この夢を奇(く)しとのみは思わず。快からぬ眉根は自(おのずか)ら逼(せま)りて、結べる口の奥には歯さえ喰い締(し)ばるならん。

「さらば行こう。後(おく)れ馳(ば)せに北の方(かた)へ行こう」と拱(こまぬ)いたる手を振りほどいて、六尺二寸の躯(からだ)をゆらりと起す。

「行くか?」とはギニヴィアの半ば疑える言葉である。疑える中には、今更ながら別れの惜まるる心地さえほのめいている。

「行く」といい放って、つかつかと戸口にかかる幕を半ば掲げたが、やがてするりと踵(くびす)を回(めぐ)らして、女の前に、白き手を執りて、発熱かと怪しまるるほどのあつき唇を、冷やかに柔らかき甲の上につけた。暁の露しげき百合(ゆり)の花弁(はなびら)をひたふるに吸える心地である。ランスロットは後(あと)をも見ずして石階を馳け降りる。

 やがて三たび馬の嘶(いなな)く音(ね)がして中庭の石の上に堅き蹄が鳴るとき、ギニヴィアは高殿(たかどの)を下りて、騎士の出づべき門の真上なる窓に倚(よ)りて、かの人の出(いづ)るを遅しと待つ。黒き馬の鼻面(はなづら)が下に見ゆるとき、身を半ば投げだして、行く人のために白き絹の尺ばかりなるを振る。頭に戴ける金冠の、美しき髪を滑りてか、からりと馬の鼻を掠(かす)めて砕くるばかりに石の上に落つる。

 槍(やり)の穂先に冠をかけて、窓近く差し出したる時、ランスロットとギニヴィアの視線がはたと行き合う。「忌まわしき冠よ」と女は受けとりながらいう。「さらば」と男は馬の太腹をける。白き兜(かぶと)と挿毛(さしげ)のさと靡(なび)くあとに、残るは漠々(ばくばく)たる塵(ちり)のみ。

     二 鏡

 ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台(うてな)の中に只一人住む。活(い)ける世を鏡の裡(うち)にのみ知る者に、面(おもて)を合わす友のあるべき由なし。

 春恋し、春恋しと囀(さえ)ずる鳥の数々に、耳側(そばだ)てて木(こ)の葉(は)隠れの翼の色を見んと思えば、窓に向わずして壁に切り込む鏡に向う。鮮(あざ)やかに写る羽の色に日の色さえもそのままである。

 シャロットの野に麦刈る男、麦打つ女の歌にやあらん、谷を渡り水を渡りて、幽(かす)かなる音の高き台に他界の声の如く糸と細りて響く時、シャロットの女は傾けたる耳を掩(おお)うてまた鏡に向う。河のあなたに烟(けぶ)る柳の、果ては空とも野とも覚束(おぼつか)なき間より洩(も)れ出(い)づる悲しき調(しらべ)と思えばなるべし。

 シャロットの路(みち)行く人もまた悉(ことごと)くシャロットの女の鏡に写る。あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白き髯(ひげ)の寛(ゆる)き衣を纏(まと)いて、長き杖(つえ)の先に小さき瓢(ひさご)を括(くく)しつけながら行く巡礼姿も見える。又あるときは頭(かしら)よりただ一枚と思わるる真白の上衣(うわぎ)被(かぶ)りて、眼口も手足も確(しか)と分ちかねたるが、けたたましげに鉦(かね)打ち鳴らして過ぎるも見ゆる。これは癩(らい)をやむ人の前世の業(ごう)を自(みずか)ら世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。

 旅商人(たびあきゅうど)の脊(せ)に負える包(つつみ)の中には赤きリボンのあるか、白き下着のあるか、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)、水晶、真珠のあるか、包める中を照らさねば、中にあるものは鏡には写らず。写らねばシャロットの女の眸(ひとみ)には映ぜぬ。

 古き幾世を照らして、今の世にシャロットにありとある物を照らす。悉く照らして択(えら)ぶ所なければシャロットの女の眼に映るものもまた限りなく多い。ただ影なれば写りては消え、消えては写る。鏡のうちに永(なが)く停(とど)まる事は天に懸(かか)る日といえども難(かた)い。活(い)ける世の影なればかく果(は)敢(か)なきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならずば?――時にはむらむらと起る一念に窓際に馳(か)けよりて思うさま鏡の外(ほか)なる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女に呪(のろ)いのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐(きょくせき)せねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。

 去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住み倦(う)めば山に遯(のが)るる心安さもあるべし。鏡の裏(うち)なる狭き宇宙の小さければとて、憂(う)き事の降りかかる十字の街(ちまた)に立ちて、行き交(か)う人に気を配る辛(つ)らさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃(ばんけい)の乱れは永劫(えいごう)を極めて尽きざるを、渦捲(ま)く中に頭(かしら)をも、手をも、足をも攫(さら)われて、行くわれの果(はて)は知らず。かかる人を賢しといわば、高き台(うてな)に一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻の世を尺に縮めて、あらん命を土さえ踏まで過すは阿呆(あほう)の極みであろう。わが見るは動く世ならず、動く世を動かぬ物の助(たすけ)にて、よそながら窺(うかが)う世なり。活殺生死(かっさつしょうじ)の乾坤(けんこん)を定裏(じょうり)に拈出(ねんしゅつ)して、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を躁(さわ)がして窓の外(そと)なる下界を見んとする。

 鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄(くろがね)の黒きを磨(みが)いて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇る鑑(かがみ)の霧を含みて、芙蓉(ふよう)に滴(した)たる音を聴(き)くとき、対(むか)える人の身の上に危うき事あり。然(けきぜん)と故(ゆえ)なきに響を起して、白き筋の横縦に鏡に浮くとき、その人末期(まつご)の覚悟せよ。――シャロットの女が幾年月(いくとしつき)の久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。朝(あした)に向い夕(ゆうべ)に向い、日に向い月に向いて、厭(あ)くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとする虞(おそれ)ありとは夢にだも知らず。湛然(たんぜん)として音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗(えいろう)たる面(おもて)を過ぐる森羅(しんら)の影の、繽紛(ひんぷん)として去るあとは、太古の色なき境(さかい)をまのあたりに現わす。無限上に徹する大空(たいくう)を鋳固めて、打てば音ある五尺の裏(うち)に圧(お)し集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。

 夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡の傍(そば)に坐りて、夜ごと日ごとの《はた》を織る。ある時は明るき《はた》を織り、ある時は暗き《はた》を織る。

 シャロットの女の投ぐる梭(ひ)の音を聴く者は、淋(さび)しき皐(おか)の上に立つ、高き台(うてな)の窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しき代(よ)にただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居(すまい)である。蔦(つた)鎖(とざ)す古き窓より洩(も)るる梭の音の、絶間(たえま)なき振子(しんし)の如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。静(しずか)なるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音なき時の淋しさにも勝(まさ)る。恐る恐る高き台を見上げたる行人(こうじん)は耳を掩(おお)うて走る。

 シャロットの女の織るは不断の《はた》である。草むらの萌草(もえぐさ)の厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散る浪(なみ)の花を浮かすときは、底知れぬ深さを一枚の薄きに畳む。あるときは黒き地(じ)に、燃ゆる焔(ほのお)の色にて十字架を描く。濁世(じょくせ)にはびこる罪障の風は、すきまなく天下を吹いて、十字を織れる経緯(たてよこ)の目にも入ると覚しく、焔のみは《はた》を離れて飛ばんとす。――薄暗き女の部屋は焚(や)け落つるかと怪しまれて明るい。

 恋の糸と誠(まこと)の糸を横縦に梭くぐらせば、手を肩に組み合せて天を仰げるマリヤの姿となる。狂いを経(たて)に怒りを緯(よこ)に、霰(あられ)ふる木枯(こがらし)の夜を織り明せば、荒野の中に白き髯(ひげ)飛ぶリアの面影が出る。恥ずかしき紅(くれない)と恨めしき鉄色をより合せては、逢うて絶えたる人の心を読むべく、温和(おとな)しき黄と思い上がれる紫を交(かわ)る交(がわ)るに畳めば、魔に誘われし乙女(おとめ)の、我(われ)は顔(がお)に高ぶれる態(さま)を写す。長き袂(たもと)に雲の如くにまつわるは人に言えぬ願(ねがい)の糸の乱れなるべし。

 シャロットの女は眼(まなこ)深く額広く、唇さえも女には似で薄からず。夏の日の上(のぼ)りてより、刻を盛る砂時計の九(ここの)たび落ち尽したれば、今ははや午(ひる)過ぎなるべし。窓を射る日の眩(まば)ゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ洞窟(どうくつ)の如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡と、肩に漂う長き髪のみ。右手(めて)より投げたる梭(ひ)を左手(ゆんで)に受けて、女はふと鏡の裡(うち)を見る。研(と)ぎ澄したる剣(つるぎ)よりも寒き光の、例(いつも)ながらうぶ毛の末をも照すよと思ううちに――底事(なにごと)ぞ!音なくて颯(さ)と曇るは霧か、鏡の面(おもて)は巨人の息をまともに浴びたる如く光を失う。今まで見えたシャロットの岸に連なる柳も隠れる。柳の中を流るるシャロットの河も消える。河に沿うて往(ゆ)きつ来りつする人影は無論ささぬ。――梭の音ははたとやんで、女の瞼(まぶた)は黒き睫(まつげ)と共に微(かす)かに顫(ふる)えた。「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は一刷(いっさつ)に晴れて、河も柳も人影も元の如くに見(あら)われる。梭は再び動き出す。

 女はやがて世にあるまじき悲しき声にて歌う。

  うつせみの世を、

  うつつに住めば、

  住みうからまし、

  むかしも今も。」

  うつくしき恋、

  うつす鏡に、

  色やうつろう、

  朝な夕なに。」

 鏡の中なる遠柳(とおやなぎ)の枝が風に靡(なび)いて動く間(あいだ)に、忽(たちま)ち銀(しろがね)の光がさして、熱き埃(ほこ)りを薄く揚げ出す。銀の光りは南より北に向って真一文字にシャロットに近付いてくる。女は小羊を覘(ねら)う鷲(わし)の如くに、影とは知りながら瞬(またた)きもせず鏡の裏(うち)を見(み)詰(つむ)る。十丁(ちょう)にして尽きた柳の木立(こだち)を風の如くに駈(か)け抜けたものを見ると、鍛え上げた鋼(はがね)の鎧(よろい)に満身の日光を浴びて、同じ兜(かぶと)の鉢金(はちがね)よりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみ々(さんさん)と靡かしている。栗毛(くりげ)の駒(こま)の逞(たくま)しきを、頭(かしら)も胸も革(かわ)に裹(つつ)みて飾れる鋲(びょう)の数は篩(ふる)い落せし秋の夜の星宿(せいしゅく)を一度に集めたるが如き心地である。女は息を凝らして眼を据(す)える。

 曲がれる堤(どて)に沿うて、馬の首を少し左へ向け直すと、今までは横にのみ見えた姿が、真正面に鏡にむかって進んでくる。太き槍をレストに収めて、左の肩に盾(たて)を懸けたり。女は領(えり)を延ばして盾に描ける模様を確(しか)と見分けようとする体(てい)であったが、かの騎士は何の会釈もなくこの鉄鏡を突き破って通り抜ける勢(いきおい)で、いよいよ目の前に近づいた時、女は思わず梭(ひ)を抛(な)げて、鏡に向って高くランスロットと叫んだ。ランスロットは兜(かぶと)の廂(ひさし)の下より耀(かがや)く眼を放って、シャロットの高き台(うてな)を見上げる。爛々(らんらん)たる騎士の眼と、針を束(つか)ねたる如き女の鋭どき眼とは鏡の裡(うち)にてはたと出合った。この時シャロットの女は再び「サー・ランスロット」と叫んで、忽ち窓の傍(そば)に馳(か)け寄って蒼(あお)き顔を半ば世の中に突き出(いだ)す。人と馬とは、高き台の下を、遠きに去る地震の如くに馳け抜ける。

 ぴちりと音がして皓々(こうこう)たる鏡は忽ち真二つに割れる。割れたる面(おもて)は再びぴちぴちと氷を砕くが如く粉(こな)微塵(みじん)になって室(しつ)の中に飛ぶ。七巻(ななまき)八巻(やまき)織りかけたる布帛(きぬ)はふつふつと切れて風なきに鉄片と共に舞い上る。紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、千切(ちぎ)れ、解け、もつれて土(つち)蜘蛛(ぐも)の張る網の如くにシャロットの女の顔に、手に、袖に、長き髪毛にまつわる。「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが末期(まつご)の呪(のろい)を負うて北の方(かた)へ走れ」と女は両手を高く天に挙げて、朽ちたる木の野分(のわき)を受けたる如く、五色の糸と氷を欺(あざむ)く砕片の乱るる中に《どう》と仆(たお)れる。

     三 袖

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