2話 朝鮮での私の生活 その二
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朝鮮に来てから十日足らずの間に、私は村の小学校に通いはじめた。
学校は村の中程にあって、藁葺の屋根をもった平家だった。教室の一方、腰高障子をあけると二、三枚の畑を隔てて市場の人だかりや、驢馬や、牛や、豚などが見えた。
学校は村立で、児童の数は全部でやっと三十人足らずであった。先生というのは六十をすぎた実直な老人で、何でも村医者の親戚とかに当るおかげで教えているのだということであった。私の入学したときには生憎と三年という組がなかったので、私は、四年に入れられた。尋常一年をビール箱の寺小屋で半月ぐらいと、とびとびに四回――だからせいぜい半年ぐらい、二年を五ヶ月、三年を四ヶ月足らずしか学校に行ってない私が九つになってもう四年だ。無理と言えば無理であったには違いないが、私はかえってそれを嬉しく思った。ことに、
「なあふみや、金子のような貧乏人の子なら差し支えないが、かりにもこれからは岩下の子として学校にあがるんだ。そのつもりでしっかり勉強するんだぞ。百姓の子にまけたり、恥かしいことをしたりするとすぐ名前をとり上げるよ……」
と言われた時には一層嬉しかった。のみならずやっぱり私は岩下の子だと思って晴々した。事実私は仲間からも岩下さんとよばれた。学年試験には叔母の家のおかげで優等賞をもらい、修業証には、立派に岩下ふみ子と記されていた。
ところが、五年生になってからは成績通知簿はいつの間にか金子ふみ子になっており、修業証書にも同じく金子ふみ子となっているのを私は知った。
わずか半年かそこいらで、私はもう岩下の姓を名乗る資格を奪われたのだろうか。私は別に百姓の子に負けてはいない。岩下の姓をけがすようなことをした覚えがない。それだのに私はもう岩下ふみ子ではないのだ。
それはどういうわけであったろうか。
今に私にはその理由がわからない。私はただ次ぎのように臆測するばかりだ。
私が通学するようになってから、叔母たちから私は、庭園のうちにある空き家の一間を勉強部屋として与えられた。そして、学校から帰るとすぐ、その一間にとじこもって一時間ずつ復習するようにと言いつけられた。
だが、自分のことをこういうと少し変だが、私にはその必要がなかった。何しろ私は、どこで覚えたのか自分でも知らないが、尋常二年の時は六年の読本が、三年の時には高等二年の修身が、たいした苦痛なしに読めたのだ。数学では小学校の全課程中一度だって頭をひねるほどの問題にぶッつかった覚えがないくらいよく出来て、十一、二の時には四ケタと四ケタの掛け算を頭の中で計算し得たくらいだ。歌も教師が四、五度歌ってさえくれれば、後はすっかりと覚えられた。下手だったのは、習字だとか図画だとかいったような技巧的なものばかりだった。だから、復習だの予習だのする必要は全然私にはなかった。
そこで私は、自分の部屋に這入るや否や、鞄を肩からおろして、叔母のくれる煎餅をポリポリと噛りながら、今か今かと祖母の呼んでくれるのを待つばかりであった。
ある時私は、余りに、退屈なので時間半ばに飛び出して行った。祖母たちに甘えるような気もちで訴えた。
「私、復習なんかしなくっても大丈夫だわ、祖母さん……」
すると祖母は眼をいからして私に言った。
「金子のような貧乏人とはわけが違うんだ。そんなだらしのない真似はどんなことがあってもさせられません」
私は私を理解してくれないことを悲しく思った。私は勇気を出してもう一度訴えてみた。
「だって私、無理に復習なんかしなくても立派に読めるんですもの、私、もっと難かしい、そしてもっと面白い本が読みたいの……」
この願いはもちろん斥けられた。
「生意気なことをお言いでない。本は学校の本だけでたくさんだ」
これが祖母たちの絶対命令であった。そして私は、それを守らなければならなかった。で、私は、初めのうちこそは諦めて復習もして見たがどうしても馬鹿らしくてたまらないので、やがては、人形をつくったり、鞠をついたりして遊ぶようになった。そして、同じ遊ぶくらいなら外に出て遊びたいと願うようになった。が、そうするとまた叱られるにきまっているので、本やノートをひろげて復習でもしているような風をして、内緒で遊ぶことにした。ところが、祖母はやがてそれに気づいたらしかった。祖母は時たまそうっと忍び足でやって来て、いきなり部屋の障子を開けた。その時、無論私は大抵遊んでいた。そしてひどく叱られた。
そうしたことが四、五度も続いた。そして私はとうとう、勉強時間を取りあげられてしまった。
これは私にとって後にも先にもない大失策だったのは言うまでもない。私の考えでは、このために私が、岩下の後とりになる資格がないと決められた最初の最も大きな理由を祖母たちに与えたのに相違ないのである。