取舵

2話 取舵(2)

2,318字 約5分 2006年10月23日 公開

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 魚津(うおづ)より三日市(みっかいち)浦山(うらやま)船見(ふなみ)(とまり)など、沿岸の諸駅(しょえき)を過ぎて、越中越後の境なる(せき)という村を望むまで、陰晴(いんせい)すこぶる常ならず。日光の隠顕(いんけん)するごとに、(そら)の色はあるいは黒く、あるいは(あお)く、濃緑(こみどり)に、浅葱(あさぎ)に、(しゅ)のごとく、雪のごとく、激しく異状を示したり。

 (ちか)く水陸を(かぎ)れる一帯の連山中に崛起(くっき)せる、御神楽嶽飯豊山(おかぐらがたけいいとよさん)の腰を十重二十重(とえはたえ)に《めぐ》れる灰汁(あく)のごとき(もや)は、揺曳(ようえい)して(いただき)(のぼ)り、()る見る天上に(はびこ)りて、怪物などの今や時を得んずるにはあらざるかと、いと(すさま)じき気色(けしき)なりき。

 元来伏木(ふしき)直江津間の航路の三分の一は、(はるか)に能登半島の庇護(ひご)によりて、(から)くも内海(うちうみ)形成(かたちつく)れども、(とまり)以東は全く洋々たる外海(そとうみ)にて、快晴の日は、佐渡島の糢糊(もこ)たるを見るのみなれば、四面(しめん)(びょうぼう)として、荒波(あらなみ)(やま)(くず)るるごとく、心易(こころやす)かる航行は一年中半日も有難(ありがた)きなり。

 さるほどに汽船の出発は大事を取りて、十分に天気を信ずるにあらざれば、解纜(かいらん)見合(みあわ)すをもて、(かえ)りて危険の(おそれ)(すくな)しと()えり。されどもこの日の空合(そらあい)は不幸にして見謬(みあやま)られたりしにあらざるなきか。異状の天色(てんしょく)はますます不穏(ふおん)(ちょう)を表せり。

 一時(ひとしきり)魔鳥(まちょう)(つばさ)(かけ)りし黒雲は全く凝結(ぎょうけつ)して、一髪(いっぱつ)を動かすべき風だにあらず、気圧は低落して、呼吸の自由を(さまた)げ、あわれ肩をも(おさ)うるばかりに覚えたりき。

 疑うべき静穏(せいおん)! (あやし)むべき安恬(あんてん)! 名だたる親不知(おやしらず)の荒磯に差懸(さしかか)りたるに、船体は微動だにせずして、(たたみ)の上を行くがごとくなりき。これあるいはやがて起らんずる天変の大頓挫(だいとんざ)にあらざるなきか。

 船は十一分の重量(おもみ)あれば、進行極めて遅緩(ちかん)にして、糸魚川(いといがわ)に着きしは午後四時半、予定に(おく)るること(およそ)二時間なり。

 (いんえい)たる空に(おおわ)れたる万象(ばんしょう)はことごとく(うれ)いを含みて、海辺の砂山に(いちじ)るき一点の(くれない)は、早くも掲げられたる暴風警戒(けいかい)球標(きゅうひょう)なり。さればや一(そう)伝馬(てんま)(きた)らざりければ、五分間も(とどま)らで、船は急進直江津に向えり。

 すわや海上の危機は(せま)ると(おぼ)しく、あなたこなたに散在したりし数十の漁船は、(にぐ)るがごとく漕戻(こぎもど)しつ。観音丸(かんのんまる)にちかづくものは櫓綱(ろづな)(ゆる)めて、この異腹(いふく)の兄弟の前途を(きづか)わしげに目送(もくそう)せり。

 やがて(はるか)能生(のう)を認めたる(あたり)にて、天色(そら)(にわか)に一変せり。――(おか)(はなは)だ黒く、沖は真白に。と見る間に血のごとき色は()と流れたり。日はまさに入らんとせるなり。

 ここ一時間を無事に保たば、安危(あんき)の間を()する観音丸(かんのんまる)は、(つつが)なく直江津に(ちゃく)すべきなり。(かれ)はその全力を尽して浪を()りぬ。団々(だんだん)として渦巻く煤烟(ばいえん)は、右舷(うげん)(かす)めて、(おか)(かた)(なだ)れつつ、長く水面に(よこた)わりて、遠く暮色(ぼしょく)(まじ)わりつ。

 天は(こんぼう)として(ねむ)り、海は寂寞(じゃくまく)として声無し。

 甲板(デッキ)の上は一時(すこぶ)喧擾(けんじょう)(きわ)めたりき。乗客は各々(おのおの)生命を気遣(きづか)いしなり。されども渠等(かれら)(いま)だ風も(すさ)まず、波も()れざる当座(とうざ)に慰められて、坐臥行住(ざがぎょうじゅう)思い思いに、雲を()るもあり、水を眺むるもあり、(とおく)を望むもありて、その心には各々無限の(うれい)(いだ)きつつ、(てきそく)して(おもて)をぞ見合せたる。

 まさにこの(とき)()(とも)(かた)(あらわ)れたる船長(せんちょう)は、矗立(しゅくりつ)して水先を打瞶(うちまも)りぬ。俄然(がぜん)汽笛の声は死黙(しもく)(つんざ)きて(とどろ)けり。万事休す! と乗客は割るるがごとくに響動(どよめ)きぬ。

 観音丸(かんのんまる)は直江津に安着(あんちゃく)せるなり。乗客は狂喜の声を()げて、甲板(デッキ)の上に(おど)れり。拍手は(おびただ)しく、観音丸(かんのんまる)万歳! 船長万歳! 乗合(のりあい)万歳!

 八人の船子(ふなこ)を備えたる(はしけ)(ただ)ちに(こぎ)寄せたり。乗客は前後を争いて飛移れり。学生とその友とはやや()りて出入口に(あらわ)れたり。その友は二人分の手荷物を(かか)えて、学生は例の厄介者(やっかいもの)を世話して、(はしけ)に移りぬ。

 (はしけ)(くさり)()きて本船と別るる時、乗客は再び観音丸(かんのんまる)と船長との万歳を(とな)えぬ。甲板(デッキ)に立てる船長は(ぼう)(だっ)して、満面に微笑(えみ)(たた)えつつ答礼せり。(はしけ)漕出(こぎいだ)したり。(りく)を去る(わずか)に三(ちょう)、十分間にして達すべきなり。

 折から一天(いってん)(にわか)掻曇(かきくも)りて、《ど》と吹下す風は海原を揉立(もみた)つれば、船は一支(ひとささえ)(ささ)えず矢を射るばかりに突進して、無二無三(むにむさん)に沖合へ流されたり。

 舳櫓(ともろ)を押せる船子(ふなこ)(あわ)てず、(さわ)がず、舞上(まいあ)げ、舞下(まいさぐ)(なみ)の呼吸を(はか)りて、浮きつ沈みつ、秘術を尽して()ぎたりしが、また一時(ひときり)暴増(あれまさ)る風の下に、(みあぐ)るばかりの高浪(たかなみ)立ちて、ただ一呑(ひとのみ)屏風倒(びょうぶだおし)(くず)れんずる(すさま)じさに、剛気(ごうき)船子(ふなこ)(あなや)と驚き、(かいな)の力を失う(ひま)に、(へさき)はくるりと波に(ひか)れて、船は(あやう)(かたぶ)きぬ。

 しなしたり! と(かれ)はますます(あわ)てて、この危急に処すべき手段を失えり。得たりやと、波と風とはますます()れて、この(はしけ)をば(もてあそ)ばんと(くわだ)てたり。

 乗合(のりあい)は悲鳴して(うち)騒ぎぬ。八人の船子(ふなこ)(かい)無き櫓柄(ろづか)(すが)りて、

南無金毘羅大権現(なむこんぴらだいごんげん)!」と同音(どうおん)に念ずる時、(どう)()(あたり)(らい)のごとき声ありて、

取舵(とりかじ)!」

 舳櫓(ともろ)船子(ふなこ)は海上鎮護(ちんご)の神の御声(みこえ)に気を(ふる)い、やにわに()をば立直して、曳々(えいえい)声を()げて()しければ、船は難無(なんな)風波(ふうは)(しの)ぎて、今は我物なり、大権現(だいごんげん)冥護(みょうご)はあるぞ、と船子(ふなこ)はたちまち力を得て、ここを先途(せんど)()げども、()せども、ますます()るる(なみ)(いきおい)に、人の力は(かぎり)()りて、(かれ)身神(しんしん)全く疲労して、(まさ)昏倒(こんとう)せんとしたりければ、船は再び(あやう)く見えたり。

取舵(とりかじ)!」と(らい)のごとき声はさらに一喝(いっかつ)せり。半死の船子(ふなこ)最早(もはや)神明(しんめい)威令(いれい)をも(ほう)ずる(あた)わざりき。

 学生の隣に(すく)みたりし厄介者(やっかいもの)盲翁(めくらおやじ)は、この(とき)屹然(きつぜん)と立ちて、諸肌(もろはだ)(くつろ)げつつ、

取舵(とりかじ)だい」と叫ぶと見えしが、早くも(とも)(かた)転行(ころげゆ)き、疲れたる船子(ふなこ)の握れる()を奪いて、金輪際(こんりんざい)より生えたるごとくに突立(つった)ちたり。

「若い(しゅ)(おやじ)が引受けた!」

 この声とともに、船子(ふなこ)(はた)(たお)れぬ。

 一(そう)厄介船(やっかいぶね)と、八人の厄介(やっかい)船頭と、二十余人の厄介(やっかい)客とは、この一個の厄介物(やっかいもの)の手に()りて(たす)けられつつ、半時間の(のち)その命を拾いしなり。この()いて(めしい)なる活大権現(かつだいごんげん)は何者ぞ。(かれ)はその壮時(そうじ)において加賀(かが)銭屋内閣(ぜにやないかく)が海軍の雄将(ゆうしょう)として、北海(ほっかい)の全権を掌握(しょうあく)したりし磁石(じしゃく)又五郎(またごろう)なりけり。

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