2話 取舵(2)
読み方を変える
魚津より三日市、浦山、船見、泊など、沿岸の諸駅を過ぎて、越中越後の境なる関という村を望むまで、陰晴すこぶる常ならず。日光の隠顕するごとに、天の色はあるいは黒く、あるいは蒼く、濃緑に、浅葱に、朱のごとく、雪のごとく、激しく異状を示したり。
邇く水陸を画れる一帯の連山中に崛起せる、御神楽嶽飯豊山の腰を十重二十重に《めぐ》れる灰汁のごとき靄は、揺曳して巓に騰り、見る見る天上に蔓りて、怪物などの今や時を得んずるにはあらざるかと、いと凄じき気色なりき。
元来伏木直江津間の航路の三分の一は、遙に能登半島の庇護によりて、辛くも内海を形成れども、泊以東は全く洋々たる外海にて、快晴の日は、佐渡島の糢糊たるを見るのみなれば、四面茫として、荒波山の崩るるごとく、心易かる航行は一年中半日も有難きなり。
さるほどに汽船の出発は大事を取りて、十分に天気を信ずるにあらざれば、解纜を見合すをもて、却りて危険の虞寡しと謂えり。されどもこの日の空合は不幸にして見謬られたりしにあらざるなきか。異状の天色はますます不穏の徴を表せり。
一時魔鳥の翼と翔りし黒雲は全く凝結して、一髪を動かすべき風だにあらず、気圧は低落して、呼吸の自由を礙げ、あわれ肩をも抑うるばかりに覚えたりき。
疑うべき静穏! 異むべき安恬! 名だたる親不知の荒磯に差懸りたるに、船体は微動だにせずして、畳の上を行くがごとくなりき。これあるいはやがて起らんずる天変の大頓挫にあらざるなきか。
船は十一分の重量あれば、進行極めて遅緩にして、糸魚川に着きしは午後四時半、予定に後るること約二時間なり。
陰たる空に覆れたる万象はことごとく愁いを含みて、海辺の砂山に著るき一点の紅は、早くも掲げられたる暴風警戒の球標なり。さればや一艘の伝馬も来らざりければ、五分間も泊らで、船は急進直江津に向えり。
すわや海上の危機は逼ると覚しく、あなたこなたに散在したりし数十の漁船は、北るがごとく漕戻しつ。観音丸にちかづくものは櫓綱を弛めて、この異腹の兄弟の前途を危わしげに目送せり。
やがて遙に能生を認めたる辺にて、天色は俄に一変せり。――陸は甚だ黒く、沖は真白に。と見る間に血のごとき色は颯と流れたり。日はまさに入らんとせるなり。
ここ一時間を無事に保たば、安危の間を駛する観音丸は、恙なく直江津に着すべきなり。渠はその全力を尽して浪を截りぬ。団々として渦巻く煤烟は、右舷を掠めて、陸の方に頽れつつ、長く水面に横わりて、遠く暮色に雑わりつ。
天は昏として睡り、海は寂寞として声無し。
甲板の上は一時頗る喧擾を極めたりき。乗客は各々生命を気遣いしなり。されども渠等は未だ風も荒まず、波も暴れざる当座に慰められて、坐臥行住思い思いに、雲を観るもあり、水を眺むるもあり、遐を望むもありて、その心には各々無限の憂を懐きつつ、息して面をぞ見合せたる。
まさにこの時、衝と舳の方に顕れたる船長は、矗立して水先を打瞶りぬ。俄然汽笛の声は死黙を劈きて轟けり。万事休す! と乗客は割るるがごとくに響動きぬ。
観音丸は直江津に安着せるなり。乗客は狂喜の声を揚げて、甲板の上に躍れり。拍手は夥しく、観音丸万歳! 船長万歳! 乗合万歳!
八人の船子を備えたる艀は直ちに漕寄せたり。乗客は前後を争いて飛移れり。学生とその友とはやや有りて出入口に顕れたり。その友は二人分の手荷物を抱えて、学生は例の厄介者を世話して、艀に移りぬ。
艀は鎖を解きて本船と別るる時、乗客は再び観音丸と船長との万歳を唱えぬ。甲板に立てる船長は帽を脱して、満面に微笑を湛えつつ答礼せり。艀は漕出したり。陸を去る僅に三町、十分間にして達すべきなり。
折から一天俄に掻曇りて、《ど》と吹下す風は海原を揉立つれば、船は一支も支えず矢を射るばかりに突進して、無二無三に沖合へ流されたり。
舳櫓を押せる船子は慌てず、躁がず、舞上げ、舞下る浪の呼吸を量りて、浮きつ沈みつ、秘術を尽して漕ぎたりしが、また一時暴増る風の下に、瞻るばかりの高浪立ちて、ただ一呑と屏風倒に頽れんずる凄じさに、剛気の船子も呀と驚き、腕の力を失う隙に、艫はくるりと波に曳れて、船は危く傾きぬ。
しなしたり! と渠はますます慌てて、この危急に処すべき手段を失えり。得たりやと、波と風とはますます暴れて、この艀をば弄ばんと企てたり。
乗合は悲鳴して打騒ぎぬ。八人の船子は効無き櫓柄に縋りて、
「南無金毘羅大権現!」と同音に念ずる時、胴の間の辺に雷のごとき声ありて、
「取舵!」
舳櫓の船子は海上鎮護の神の御声に気を奮い、やにわに艪をば立直して、曳々声を揚げて盪しければ、船は難無く風波を凌ぎて、今は我物なり、大権現の冥護はあるぞ、と船子はたちまち力を得て、ここを先途と漕げども、盪せども、ますます暴るる浪の勢に、人の力は限有りて、渠は身神全く疲労して、将に昏倒せんとしたりければ、船は再び危く見えたり。
「取舵!」と雷のごとき声はさらに一喝せり。半死の船子は最早神明の威令をも奉ずる能わざりき。
学生の隣に竦みたりし厄介者の盲翁は、この時屹然と立ちて、諸肌寛げつつ、
「取舵だい」と叫ぶと見えしが、早くも舳の方へ転行き、疲れたる船子の握れる艪を奪いて、金輪際より生えたるごとくに突立ちたり。
「若い衆、爺が引受けた!」
この声とともに、船子は礑と僵れぬ。
一艘の厄介船と、八人の厄介船頭と、二十余人の厄介客とは、この一個の厄介物の手に因りて扶けられつつ、半時間の後その命を拾いしなり。この老いて盲なる活大権現は何者ぞ。渠はその壮時において加賀の銭屋内閣が海軍の雄将として、北海の全権を掌握したりし磁石の又五郎なりけり。