2話 不在地主(2)
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健達は、士官の訓練が終って、の「修養講話」になると、疲れから居睡りをし出した。「青年の任務」「思想善導」「農民の誇」……何時もチットモ変らないその講話は、もう誰も聞いているものがなかった。
外へ出ると、生寝の身体にゾクッと寒さが来た。霧雨は上っていたが、道を歩くと、ジュクジュクと澱粉靴がうずまった。空は暗くて見えなかった。然し頭を抑えられているように低かった。何かの拍子に、雨に濡れた叢がチラチラッと光った。
「もう一番終ったか?」――後から七之助が言葉をかけた。
健はたまらなく眠かった。「ええや、まだよ、人手がなくなってな。」
誰かがワザと大きくあくびをした。
「健ちゃは兵隊どうだべな。」
「ん、行かねかも知らねな。……んでも、万一な。」
「その身体だら行かねべ。青訓さなんて来なくたってええよ。」
すると今迄黙っていた武田が口を入れた。――「徴兵の期間ば短くするために青訓さ行ぐんだら、大間違いだど!」
初まった、と思うと、七之助はおかしかった。
「あれはな、兵隊さ行ぐものばかりが色々な訓練を受けて、んでないものは安閑としてるべ、それじゃ駄目だッてんで、あれば作ったんだ。兵隊でないものでも、一つの団体規律の訓練をうける必要はあるんだからな。」
「所で、現時の農村青年は軽チョウ浮ハクにして、か!……」
七之助が小便しながら、ひやかした。叢の葉に、今迄堪えていたような小便が、勢よくバジャバジャと当る音がした。
「ん。」――武田が真面目にうなずいた。
恐らく、どんな労働者よりも朝早くから、腰を折りまげて働いている百姓が、都会の場末に巣喰っている朝鮮人よりも惨めな生活をしている。それでも農村の青年は「軽チョウ浮ハク」だろうか。――これ以上働かして、それでどうしようというのだ。――健は、出鱈目を云うな、と思った。
「七ちゃ、小樽行きまだか。」
「ん、もうだ。」
「もうか?」
又、七之助とも離れてしまわなければならないか、と思うと、健は淋しかった。――健の好きなキヌも札幌へ出て行っていた。製麻会社の女工に募集されて行ったのだった。然し、それが一年しないうちに、バアの女給をしているという噂になって、健の耳に戻ってきた。
……話が途切れると、泥濘を歩く足音だけが耳についた。田の水面が、暗い硝子板のように光ってみえた。
七之助はとりとめなく、色々な歌の端だけを、口笛で吹きながら歩いていた。七之助も何か考え事をしている。
「三吾の田、出が悪いな。」――七之助が蹲んで、茎をむしった。
「三吾も不幸ばかりだものよ。」
――三吾が自分のでもない泥炭地の田を、どうにか当り前にしようと、無理に、体を使った。そして二度「村役場」と「道庁」から表彰された。「農夫として、その勤強力行は範とするに足る」と云われた。岸野が道庁へ表彰方を申請したのだった。
その額椽を、天井裏のない煤けた家の中に掛けた日から、二タ月もしないうちに、三吾は寝がえりも出来ない程の神経痛にかかってしまった。痛みは寝ると夜明け迄続いた。三吾は藁束のようにカサカサに乾しからびて、動けなくなってしまった。――毎日「表彰状」だけを見ていた。
それは然し、三吾ばかりでない。――東三線の伊藤のおかみさんは、北海道の冷たい田に、あまり入り過ぎたので、三月も腰を病んで、それからは腰が浮かんで、何時でも歩くときは、ひどい跛のように振った。
吉本管理人の家へ、何かで集ることがある。彼等はどれもみんな巌丈な骨節をし、厚い掌をしているが、腰が不恰好にゆがんだり、前こごみであったり、――何処か不具だった。みんなそうだった。
市街地の端から、武田が別れてアゼ道に入って行った。
「健ちゃ、武田の野郎やっぱりさ出入りしてるとよ。」
口笛をやめて、すぐ七之助が云った。
「んか……」
「お前え、それから岸野がワザワザ小樽から出てきて、とッても青訓や青年団さ力瘤ば入れてるッて知らねべ。」
「んか?」
「阿部さんや伴さんが云ってたど。――キット魂胆があるッて。」
「ん?」――健にはそれがハッキリ分らなかったが――何か分る気持がした。
「熱ッ、熱ッ、熱ッ」
健は足を洗いに、裏へ廻った。湿った土間の土が、足裏にペタペタした。物音で、家の中から、「健かア――?」と母親が訊いた。
「う。」――口の中で返事をしながら、裾をまくって、上り端に腰を下した。――厩の中から、ムレた敷藁の匂いがきた。
由三はランプの下に腹這いになって、両脛をバタバタ動かしながら、五、六枚しかついていないボロボロの絵本を、指を嘗め嘗め頁を繰っていた。
「姉、ここば読んでけれや。」
由三は炉辺でドザを刺していた姉の肱をひいた。
「馬鹿ッ!」
姉はギクッとして、縫物をもったまま指を口に持って行って吸った。「馬鹿ッ! 針ば手さ刺した!」
由三は首を縮めて、姉の顔を見た。――「な、姉、この犬どうなるんだ?」
「姉なんか分らない。」
「よオ――」
「うるさい!」
「よオ――たら!――んだら、悪戯するど!」
健は炉辺に大きく安坐をかいて坐った。指を熊手にして、ゴシゴシ頭をかいた。
家の中は、長い間の焚火のために、天井と云わず、羽目板と云わず、ニヤニヤと黒光りに光っていた。天井に渡してある梁や丸太からは、長い煤が幾つも下っていて、それが下からの焚火の火勢や風で揺れた。――ランプは真中に一つだけ釣ってある。ランプの丸い影が天井の裸の梁木に光の輪をうつした。ランプが動く度に、その影がユラユラと揺れた。誰かがランプの側を通ると、障子のサンで歪んだ黒い影が、大きく窓を横切った。ランプは始終ジイジイと音をさせて、油を吸い上げた。時々明るくなったかと思うと、吸取紙にでも吸われるように、すウと暗くなった。
「さっきな、阿部さんと伴さん来てたど。」
「ン――何んしに?」
「なア、兄ちゃ、犬ど狼どどっち強えんだ。――犬だな。」
「道路のごとでな。今年も村費が出ねんだとよ。」
「今年もか――何んのための村費道路だんだ。馬鹿にする。又秋、米ば運ぶに大した費用だ……。」
「兄ちゃ、犬の方強えでアな!」
「んで、どうするッて?」
「暇ば見て、小作人みんな出て直すより仕方が無えべど。――村に金無えんだから。」
「犬だなア、兄ちゃ……。」
「うるさいッ!」いきなり怒鳴りつけた。――「又小作いじめだ! 弱味につけ込んでやがるんだ。放ってけば、どうしたって困るのア小作だ。んだら、キット自分の費用でやり出すだろうッて、待ってやがったんだ。――村会議員なんて、皆地主ばかりだ。勝手なことばかりするんだ。」
S村で、以前、村役場に対して小作争議を起したことがあった。北海道は町村が沢山の田畑を所有していて、それに小作を入地させていた。それで、よく村相手の争議が起った。――然しS村の村会議員が全部地主であったために、後のこともあり、又やがては自分達の方への飛火をも恐れて、頑強に対峙してきたために、惨めに破れたことがあった。
「明日吉本さんの処さでも集って、相談すべアって。」
おはぐろの塗りのはげた母親の、並びの悪い歯の間に、飯が白く残っていた。
「………………。」
健は塩鱒の切はしを、せッかちにジュウ、ジュウ焼いて、真黒い麦飯にお湯をかけて、ザブザブかッこんだ。
風が出てきたらしく、ランプが軽く揺れた。後の泥壁に大きくうつッている皆の影が、その度に、あやつられるように延びたり、ちぢんだりした。
由三は焚火に両足をたてて、うつらうつらしていた。
「母、いたこッて何んだ?――山利さいたこ来てな、今日お父ばおろして貰ったけな、お父今死んで、火の苦しみば苦しんでるんだとよ。」
「本当か?」
「いたこッて婆だべ。いたこ婆ッてんだべ。――いたこ婆さ上げるんだッて、山利で油揚ばこしらえてたど。」
「お稲荷様だべ。」
「お稲荷様ッて狐だべ。んだべ!」――由三が急に大きな声を出した。
「ん。」
「んだべ、なア!」――独り合点して、「勝ところの芳な、犬ばつれて山利さ遊びに行ったら、とオても怒られたど。」
「そうよ。――勿体ない!」
「山利の母な、お父ば可哀相だって、眼ば真赤にして泣いてたど。」
「んだべ、んだべ、可哀相に!」
「な、兄ちゃ、狐……」――瞬間、炉の火がパチパチッと勢いよくハネ飛んだ。それが由三の小さいひょうたん形のチンポへ飛んだ。
「熱ッ、熱ッ、熱ッ……」
由三はいきなり絵本を投げ飛ばすと、後へひっくりかえって、着物の前をバタバタとほろった。泣き声を出した。「熱ッ、熱ッ」
「ホラ、見れ! そったらもの向けてるから、火の神様に罰が当ったんだ。馬鹿!」
姉のお恵が、物差しで自分の背中をかきながら、――「その端なくなってしまえば、ええんだ。」と、ひやかした。
「ええッ、糞ッ! 姉の白首!」
ベソをかきながら、由三が喰ってかかった。聞いたことのない悪態口に、皆思わず由三をみた。
母親がいきなり、由三の小さい固い頭を、平手でバチバチなぐりつけた。
「兄ちゃ、由この頃どこから覚べえて来るか、こったら事ばかり云うんだど!」
お恵は背中に物差しをさしたままの恰好で、フイに顔色をかえた。それが見る見るこわばって行った。
と、お恵は、いきなり、由三を物差しで殴りつけた。ギリギリと歯をかみながら、ものも云わずに。物差しがその度に、風を切って、鳴った。――そして、それから自分で、ワアッ! と泣き出してしまった……
明日は三時半頃から田へ出て、他の人より遅れている一番草を刈り上げてしまわなければならない。――健は、然し、眠れなかった。表を誰かペチャペチャと足音をさして、通って行った。健は起き上った。ランプの消えた暗い土間を、足先きで探りながら、台所へ下りて行った。水甕から、手しゃくで、ゴクリゴクリのどをならしながら、水を飲んだ。厩小屋から、尻毛でピシリピシリ馬が身体を打っている音が聞えた。
夜着をかぶると、間もなく、ねじのゆるんだ、狂った柱時計が、間を置きながら、ゆっくり七つ打った。
二
「S相互扶助会」発会式
正面の一段と高いところには「天皇陛下」の写真がかかっていた。
「修養倶楽部」の壁には、その外「乃木大将」「西郷大先生」「日露戦争」「血染の、ボロボロになった連隊旗」などの写真が、額になってかかっていた。演壇の左側には、払下げをうけた、古ぼけた旧式な鉄砲が三挺組合せて飾ってある。――乃木大将の話は百姓は何度きいても飽きなかった。
演壇には「S相互扶助会」発会式の順序と、その両側に少し離して、この会が主旨とする所の標語が貼り出されていた。
┌───────────┐
│ 海田山林の開発より │
│ 心田を開拓せよ! │
└───────────┘
┌───────────┐
│ 強靱なる独立心と │
│ 服従の美徳と │
│ 協同の精神へ! │
└───────────┘
会が終ってから、「一杯」出るという先触れがあったので、何時になく沢山の百姓が集っていた。「停車場のあるH町」からも来ていた。大概の小作は、市街地の旦那やH町の旦那から「一年」「二年」の借金があるので、一々挨拶して歩かなければならなかった。
小作が挨拶に行くと、米穀問屋の主人は大様にうなずいた。
「今年はどうだ?」
「ええ、まア、今のところは、ええ、お蔭様で……」
小作は腰をかがめて、一言一言に頭を下げた。――それが阿部や健たちの居る処から一々見える。健も借金があった。こんな時に、一寸挨拶して置けば、都合がよかった。それに若し今年兵隊にとられるような事になれば、病身の父や女の手ばかりの後のことでは、キット世話にならなければならない。――健はフトその側を通りかかった、という風にして挨拶した。――挨拶をしてから、然し自分で真赤になった。健は「模範小作」だったので、の旦那も心よく挨拶を返してくれた。
会場の中は、自然に、各農場別に一かたまり、一かたまり坐らさった。お互が車座になって、話し込んでいる。――小作達は仲々こう一緒になれる機会がなかった。無骨な、日焼けした手や首筋が、たまにしか着ない他所行きの着物と不釣合に、目立った。裂け目の入った、ゴワゴワした掌に、吸殻をころがしながら、嫁のこと、稲の出揃いのこと、青豌豆のこと、小豆のこと、天気のこと、暮しのこと、旦那のこと……何んでも話し合った。
――こういう会の時は巻煙草を吸うものだとしている小作が、持ちなれない手つきで、「バット」を吸っていた。
夜遊びに、H町へ自転車で出掛けたり、始終村の娘達と噂を立てている若いものは、その仲間だけ隅の方に陣取って、人を馬鹿にしたような大声を出して、しきりなしに笑っていた。女の話をしていた。伊達に眼鏡をかけたり、黒絹のハンカチを巻いたりしている。然し青年団の仕事や「お祭り」の仕度などでは、娘達とフザけられるので、それ等は先きに立って、よく働いた。
子供達は「鬼」をやって、走り廻っていた。大人達を飛び越え、いきなりのめり込んだり――坐っている大人を、まるで叢のように押しわけて、夢中で騒いでいた。時々、大声で怒鳴られる。が、すぐ又キャッキャッと駈け出す。……煙草の煙がコメて、天井の中央に雲のように、層をひいていた。
「阿部さん」
「小樽さ行ぐごとに決ったど。」
阿部と一緒に七之助がいて、健を見ると云った。
「工場さ入るんだ。――伯母小樽にいるしな。……んでもな、健ちゃ、俺あれだど、百姓嫌になったとか、ひと出世したいとか、そんな積りでねえんだからな。――阿部さんどよく話したんだども、少しな考えるどこもあるんだ……」
「ん……」――健は分っていた。
「村ば出れば、案外、村が分るもんだからな。」
阿部が何時もの低い、ゆるい調子で云った。――農場で何かあると、それが子供を産んだとか、死んだとか、ということから、小作調停、小作料の交渉まで、キット皆「阿部さん」を頼んだ。足を使ってもらった。――四十を一つ、二つ越していた。荒々しい動作も、大きな声も出さない、もどかしい程温しい人だった。
何時でも唇を動かさないで、ものを云った。
「阿部さんは隅ッこにいれば、一日中いたッて誰も気付かねべし、阿部さんも黙って坐ってるべ。」
――七之助がよく笑った。
村では、四人も五人も家族を抱えて働いている四、五十位の小作人の方が、遊びたい盛りのフラフラな若い者達より、生活のことではずッと、ずッと強い気持をもっている。――小作争議の時など、農民組合で働いている若い人は別として、何処でも一番先きに立って働くのは、その年の多い小作だった。――阿部はその一人だった。
阿部は旭川の農民組合の人達が持ってくる「組合ニュース」や「無産者新聞」を、田から上った足も洗わないで、床を低く切り下げて据付けてあるストーヴに、いざり寄って読んだ。丹念に、一枚の新聞を何日もかかって、一字一字豆粒でも拾うように読んでいた。壊れた、糸でつないだ眼鏡を、その時だけかけた。
彼が畔道を、赤くなってツバの歪んだ麦稈帽子をかぶり、心持ち腰を折って、ヒョコヒョコ歩いているのを見ると、吉本管理人ではないが、「あんな奴が楯をつくなんて!」考えられなかった。
模範青年
「見れ、武田の野郎、赤い徽章ば胸さつけて、得意になって、やってる、やってる!」
七之助が演壇の方を顎でしゃくった。――阿部はだまって笑っていた。
「な、健ちゃ、青年同盟だ、相互扶助会だなんて云えば、奇妙にあのガキガキの武田と女たらしの、ニヤケ連中が赤い徽章ばつけて、走って歩くから面白いんでないか。――健ちゃみだいた模範青年やるとええにな。」
健はひょいと暗い顔をした。
「笑談だ、笑談だ! ハハハハハハ。」
――健は役場から模範青年として、表彰されていた。その頃は、まだ丈夫だった父親が「表彰状」をもって、どうしていいか自分でも分らず、家のなかをウロウロしたことを覚えている。――健も自分の努力が報いられたと思い、嬉しかった。
ところが一寸経って、健と小学校が一緒だった町役場に出ている友達が、健に云った。――近頃農村青年がともすれば「過激な」考えに侵され勝ちで、土地を何百町歩も持っている地主は困りきっている。丁度村に来ていた岸野と吉岡が、町役場で、そんなことで相談したのを給仕のその友達が聞いたのだった。
「表彰でもして、――情の方から抑えつけて、喜んで働かして置かないと、飛んでもなくなる。」吉岡がそう云った。
「少し張り込んで、金箔を塗った立派な表彰状を出してさ、授与式をワザと面倒臭く、おごそかにすれば、もう彼奴等土百姓はわけもなくころりさ。」――そう云ったのが岸野だと云うのだった。
――まさか
校長を信頼していた健が、そのことを直ぐ校長に話してみた。
「そんな馬鹿な、理窟の通らない話なんかあるものか。お前さんが親孝行だし、人一倍一生懸命に働くからさ。」と云った。――健だって、それはそうだろう、と思った。
阿部だけは、地主やその手先の役場の、とても上手い奸策だと云った。
「もう少し喰えなくなれば、模範青年ッて何んだか、よく分るえんになる。」
――皆ねたんでいる!――健はその当時は阿部に対してさえそう思った。
然し、健は、父親の身体が変になり、働きが減り、いくら働いても(不作の年でも!)それがゴソリゴソリと地主に取り上げられて行くのを見ると、もとはちっともそうでなかったのに、妙に投げやりな、底寒い気持になった。切りがない、と思わさった。――「何んだい模範青年が!」――阿部の云ったことが、思い当ってきた。
それから健は、誰にでも「模範青年」と云われると、真赤になった。
「武田」
会が始まった。
「開会の辞」で武田が出た。如何にも武田らしく演壇に、兵隊人形のように直立して、演説でもするように、固ッ苦しい声で始めた。聞きなれない、面倒な熟語が、釘ッ切れのように百姓の耳朶を打った。
――……この危機にのぞみ、我々一同が力を合わせ、外、過激思想、都会の頽風と戦い、内、剛毅、相互扶助の気質を養い、もって我S村の健全なる発達を図りたい微意であるのであります。
――……なお、此度は旭川師団より渡辺大尉殿の御来臨を辱うし、農場主側よりは吉岡幾三郎氏代理として松山省一氏、小作方よりは不肖私が出席し、ここに協力一致、挙村円満の実をあげたいと思うのであります。
七之助は聞きながら、一つ、一つ武田の演説を滑稽にひやかして、揚足をとった。
「武田の作ちゃも偉ぐなったもんだな。――悪たれだったけ。」
健の前に坐っている小作だった。――「余ッ程、勉学したんだべ。」
七之助が「勉学」という言葉で、思わず、プウッ! とふき出してしまった。
「大した勉学だ。――と地主さん喜ぶべ。円満円満、天下泰平。」
健とちがって、前から七之助にはそういう処がある。洒落やひやかしが、百姓らしくなく、気持のいい程切れた。
「地主代理」
地主代理は思いがけない程子供らしい、細い声を出した。それに話しながら、何かすると、ひょいひょい鼻の側に手を上げた。それが百姓達には妙に「人物」を軽く見させた。七之助は、そら七ツ、そら十一だ、そら又、……と、数えて笑わせた。――地主と小作人は「親と子」というが、そんなに離れたものでなしに、「頭脳と手」位に緊密なもので、お互がキッチリ働いて行かなければ、この日本を養って行くべき大切な米が出来なくなってしまう。他所では此頃よく「小作争議」のような不祥事を惹き起しているが、この村だけはそんな事のないように、その意味でだけでも、この新に出来た組合が大いに働いて貰いたい。……地主代理は時々途中筋道をなくして、ウロウロしながら、そんな事を云った。
「分りました。んだら、もう少し小作料ば負けて貰いたいもんですなア――。」
誰かが滑稽に云った。――皆後を振りむいて、どッと笑った。
「佐々爺」
こういう会があると、「一杯」にありつける。何時でも、それだけが目当でくる酒好きな、東三線北四号の「佐々爺」がブツブツこぼした。
「糞も面白ぐねえ。――早く出したら、どうだべ。」
「んだよ、んだよ、な、佐々爺。」――七之助が面白がった。
「飽き飽きするでえ!」
佐々爺は何時でも冷酒を、縁のかけた汁椀についで、「なんばん」の乾したのを噛り、噛り飲んだ。――それが一番の好物で、酔うと渋い案外透る声で、猥らな唄の所々だけを歌いながら、真直ぐな基線道路をフラフラ帰って行った。――佐々爺が寄ると、何処の家でも酒を出した。酒が生憎なかったりすると、佐々爺は子供のように、アリアリと失望を顔に表わして頼りなげに肩を振って帰って行った。
佐々爺は晩出たきり、朝迄帰らない時がある。酔払って、田の中に腐った棒杭のように埋ったきり眠っていた。探しに行ったものが揺り起しても、いい気に眠っていた。
「女郎の蒲団さもぐり込んだえんた顔してやがる!」
ところが、佐々爺は村一番の「政治通」だった。「東京朝日」「北海タイムス」を取っているものは、市街地をのぞくと、佐々爺だけで、浜口、田中、床次、鳩山などを、自分の隣りの人のことよりも、よく知っていた。今度床次がどうする、すると田中がこうする。――分った事のように云って歩く。自分では政友会だった。
阿部に「爺さんは、どうして政友会かな?」と、きかれて、「何んてたッて政友会だべよ。政友会さ。百姓にゃ政友会さ。景気が直るし、仕事が殖えるしな。」と云った。
「この会、政友会さ肩もつッてたら、うんと爺ちゃ応援すべな。」
七之助がひやかした。
「政友会ば?――んだら、勿論、大いにやるさ。勿論!」
「広く農村にも浸潤されなければならない」