不在地主

4話 不在地主(4)

9,162字 約18分 2009年5月1日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

「どうだ、健ちゃ。」後からのッぽの「のべ源」が声をかけた。

「あのどっちでもええ、一晩抱いて寝たらな。」

「何んだ、お前今迄かかって、そったら事考えていたのか。」

 健は、初めて、ムカッムカッと云った。

「それんか他にあるか。」ニタニタ笑った。

 のッぽの「のべ源」をS村の小作達は、時々山を下りて来る「熊」よりも恐ろしがっている。飲んだら「どんな事」でも平気でした。馬鹿力を出すので、どの小作だってかなわない。「のべ源」の乱暴をとめようとして、五、六人泥田に投げ込まれてしまった事がある。それに女に悪戯した。

 酔いがさめると、手拭で頭をしばって、一日中寝た。

「俺ア何アんもしねえど。俺ア――俺だけア何んもしねえど!」

 きまって、そう云いながら唸り続けた。

 健とは不思議に気が合った。――毎日の単調さ、つらい仕事、それで何処迄行っても身体の浮かない暮しをさせられていれば、誰だって若い男は「のべ源」になる。ならずにいられるものでない。皆、心の隅ッこに「のべ源」の少しずつを持っているんだ。健はそう考え、「のべ源」には他の人のような悪意は感じていなかった。――どの村にも、実際ぐうだらはいたし、居る筈だった。

 ――然し、何時迄グウだらを繰り返えしたって、どうなるものか、健は此頃はそう思ってきていた。グウだらが悪いんじゃない、グウだらにさせるものがある。それを誰も知っていない、そう思った。

「な、ま、ええさ。今晩飲めるんだ。」

「源、酒の……」

「のべ源」は、分ったよ、分ったよ、という風に頭を振った。伴は「どうしたい。」と、ひやかした。

「模範青年さんにかかるとネ。」頭をかいて、眼を細くした。

「模範青年ッて誰だ」

 健は不機嫌に云うと、そのまま黙ってしまった。

 阿部は口の中だけで笑っていた。

     「野にいる羊」

 女達は酒盛の用意のため、三時から管理人のところへ出掛けて行った。嫁取りだとか、法事だとか、何かのお祝いだとか、そういう事だと、お恵達は誘い合って、喜んで出掛けた。――管理人の家の炊事煙突が、めずらしくムクムク煙をはいていた。裏口から襷をかけて、太い腕をまくり出した女達がザルを抱えたり、葱をもったり忙がしく出入りした。

 令嬢は、軽い頭痛を覚えていた。――汽車の窓から見たり、色々な小説を読んだりして、何か牧歌的な、うっとりするような甘い、美しさで想像していたチョコレート色の藁屋根の百姓家! それが然しどうだろう。令嬢は二三軒小屋をのぞいてみた。――真暗な家の中からは、馬糞や藁の腐った匂いがムッと来た。暗がりから、ワア――ンと飛び上った金蠅の群が、いきなり令嬢の顔に豆粒のように、打ツかった。令嬢は「アッ!」と声をたてた。腹だけが大きくふくれて、眼のギョロッとした子供が、炉の中の灰(あく)を手づかみにして、口へ持って行っていた。上り端に喰いかけの茶碗と、塩鱒の残っている皿が置きッ放しになって居り、それに蠅が黒々と集(たか)っていた。隅ッこに、そのままに積み重ねてある夜具蒲団の上から、鶏がコクッ、コクッと四囲を見廻わしながら下りて来た。……管理人のところへ帰ってから、濡らしたハンカチを額にあて、令嬢はしばらく横になった。

 夜になると、「ランプ」がついた。令嬢は本当のランプを見るのが始めてだった。都会のまばゆい電燈になれた眼には暗い。まるで暗い。然しランプの醸し出す雰囲気は、始めて令嬢を喜ばせた。

「素敵だわ!」

 小樽や東京にいる友達に、絵ハガキで是非ランプのことは云ってやらなければならないと思った。

 日が暮れかかると、小作人がボツボツ集ってきた。土間にムシロを敷いて、高張りの提灯を幾つも立てていた。令嬢を見ると、小作人達は坐り直して、丁寧に挨拶した。教会に通っている令嬢には、百姓は「野にいる羊」のように純真に思われた。父が経営している小樽のS工場の傲慢な職工達とは似てもつかない、と思った。

     「それだけ、それだけで終ってしまった」

 武田が仲間の二三人と一緒に、少し早目にやって来た。岸野に会って、普段から種々お世話になっている幾分もの御恩報じとして、この機会に自分達で角力(すもう)大会を開いて御覧に入れたいと思っている、と云った。岸野は滅多になく、顔形をくずして喜んだ。

 岸野は上機嫌だった。――庭先の、少し高い所に立って、小作に向って簡単な「訓示」を与えた。そしてすぐ奥に入ってしまった。吉本が是非そうしなければならないと云ってあった。

「で、順々に一人ずつ、奥でお会いするそうだから。」

 そう云うと、皆の中から、

「吉本さん、吉本さん!」と、中腰をあげて、伴が呼んだ。

「色々と地主さんに聞いて貰わなけアならない事もあるし、又皆に話して貰わなけアならない事もあるし、是非一つここで……。」

「それア出来ないんだ。」

 皆は急にガヤガヤ話し出した。

「ア、皆そうやっちゃ駄目だ。――静まってけれ!」

 吉本が一生ケン命制した。「今度のお出は、そんな面倒なことは一切抜きにしたものだから、それは又何時かの機会にして貰いたいんだ。――頼む!」

「そうだ、そうだ、伴さん、酒席でもあるしな。」

 小作のうちで、そう云うものもいた。

「どうだ! 健ちゃ、分るべ。」

 めずらしく阿部も興奮していた。

「一杯食わせやがったんだね。――阿部さん、会った時やったらええでしょうさ。」

「会った時? 一人と一人でか?――駄目、駄目! ちりちりばらばらだからな。」

「……………」

 健は何か不服だった。「お会い」するのは、ただ顔をみて「まア、しっかりやってくれ」というだけだった。――じゃ、その機会をつかもう、健はそう思った。

 二枚重ねた座蒲団の上に、物なれたゆるい安坐(あぐら)をかいて、地主が坐っているのを見ると、外で見たときとはまるで異った――岸野の存在がその部屋一杯につまって、グイと抑えつけているように感じた。――健を見ると、軽く顎だけを、それも顎の先きだけを、分らない程に動かした。

「田口健です。」吉本が取次いだ。

「ウ――これか?」

 一寸管理人を見て、それから側に坐っていた奥様と令嬢へ、「これが農場一の模範青年なんだぜ。」と云った。

「まア、しっかりやってくれ。――これからお前達が一番頼りだんだからな……。よしよし。」

 そう云って顎だけを動かした。――管理人はもう次ぎを呼んでいた。

 それだけ、それだけで終ってしまった。

 健は身体中汗をグッショリかいていた。健は阿部と顔を合わせられなかった。カアーッと逆上(のぼ)せていた。――気おくれした、意気地のない自分を、紙ッ片れか何かのように、思いッ切り踏みにじってしまいたかった。

「のべ源」はもう酔払って、眼を据えながら、誰か相手でも欲しそうに見廻わしていた。

「健ちゃ、健ちゃ、健ッたら!」

 健は返事をしなかった。

「健よオ! 何そったら不景気な面してるんだ。」

 健はだまったまま、暗い外へ出て行った。

    五

     土方

 大陸的な太陽が、ムキ出しな地面をジリ、ジリ焼いていた。陽炎が白熱した炎のように、ユラユラ立って、粗雑に敷設されたトロッコのレールが、鰻のように歪んで見えた。――土の熱いムレッ返しが来る。

 土方は皆褌一つで働いていた。身体は掘りかえして行く土より赭黒く焼けて、土埃のかかった背中を、汗が幾つにも筋を引いて、流れている。鮮人は百人近くいた。

 急カーヴへ来ると、いきなりトロッコの外側が浮き上る。浮き上った片方の車輪が空廻りした。――健達は五六人藪入り前を、ここへ稼ぎに来ていた。仕事は危なかった。

 それは空知川から水を引いて、江別、石狩に至るまでの蜒々二十何里という大灌漑溝を作るための工事で、一旦それが竣成すれば、その分派線一帯にかけて、何千町歩という美田が出来上る。北海道の産米がそれで一躍鰻上りに増えるのだった。

 村長を看板にし、関係大地主が役員になって、「土功組合」を組織し、北海道庁から「補助金」や「低利資金」の融通を受ける。拓殖銀行は特別低利で「年賦償還貸付」をした。北海道拓殖のためだった。――その工事は「監獄部屋」に引受けさせる。土方を使えば、当り前一日三、四円分位の労働(はたらき)を五、六十銭でやる。で、頭(あたま)が二重にも、三重にもハネられた。

 大地主は只(ロハ)のような金で、その金の割合の何十倍もの造田が出来た。造田さえされれば、「低利資金」位は小作料だけで、ドシドシ消却出来た。

 ――健にも分る。これだけのことを見ても、結局の背負いどころは誰か。――小作人と土方! それがハッキリ分る気がした。

「アッ!」誰か叫んだ。

 トロッコが土煙をたてながら、顛覆した。裏返えしになったトロッコの四つの車輪だけが、惰勢でガラガラと廻った。――乗っていた土方は土の下になってしまった。然し、誰もそれにかまっていない。――日雇いに行っている健達は思わず立ち止って、息を殺した。

「次のトロッコが矢張りな、見るに見兼ねて、少しグズグズしてたッけア、止っちゃいかん、止っちゃいかんッて、棒頭が怒鳴ってたど。」

 健達は今度S村附近に陸軍の演習があるので、その宿割を受けていた。

「兵隊さんだけには、白い飯(まま)食べさせなかったら、恥だからな。」

 母親に何度も、何度も云われて、稼ぎに出ていた。然し村から稼ぎに行っているものは、三日と続かなかった。途中でやめてしまった。

「ま、俺達途中でやめれるからええが、土方達はどうする……」

 帰り道は、身体中痛んだ。肩がはれ上って、ウミが出た。

「土方人間で無えべ。――土方と人間が喧嘩したって歌あるんだからな……。」

「佐々爺云ってたども、北海道の開拓はどうしたって土方ば使わねば出来ないんだってよ!」

「んだかな。」

「馬鹿云うもんでねえよ!」

 健はムカムカした。

「飯場さ入る時な、皆ば裸にしてよ、入口でヒー、フー、ミー、ヨーッで数えるんだ。――窓って窓は全部釘付けよ。」

 健は明日からもうやめた、と思った。――兵隊にだって、俺達と同じ黒飯を食わしたって構うもんか、要らない見栄なんてしない方がいいんだ、と思った。

 次の朝三時頃、表から仲間が呼んだ。

「俺アもうやめた。」

 行けば行けると思っていたのに、眼がさめると、身体が痛くて匍うことしか出来なくなっていた。

「何んだって」――母親がむっくり頭をあげた。

 健はものも云わずに又蒲団をかぶった。

「健――これ健ッ、もう二日我慢してけれ、な、もう二日!」

「続かない。身体痛(え)たくて、痛たくて!」

 それっ切りだまった。耐え性なく、それに眠かった。

 母親は思い切り悪く、何時迄も枕もとでクドクド云っていた。それを、うるさい、うるさいと思ってききながら、何時の間にか又眠っていた。

     「ハッ、兵隊さんだな」

 裏の畑のそばで、由三が蹲んで、

「日本勝った、日本勝った、ロシア負けたア……」

「日本勝った、日本勝った、ロシア負けたア……」

 枝切れで蟻穴をつッついていた。

「赤蟻、露助。黒蟻、日本。――この野郎、日本蟻ばやッつける積りだな。こん畜生。こん畜生!」

 ムキになって、枝の切れッぱしで突ッつき出した。

「こら、こら、――こらッ!」

 遠くで銃声がした。由三はギクッと頭を挙げた。――続いて又銃声がした。由三は枝ッ切れを投げ捨てると、いきなり表へ駈け出した。眼をムキ出して駈け出した。

「ハッ、兵隊さんだな!」

     「何するだ、稲が、稲が」

 昼頃、宿割をきめる軍人と役場の人がやってきた。健達は「青年訓練所」から演習の見学のために、一日だけ参加しなければならなかった。――軍人と辛苦をともにして、如何(どん)な難事にも耐える精神を養うのだ、というのだ。危い、危い、健は然し今ではもう行く気がしていなかった。――云うことだけは立派だ。「難事に耐える!」だが、何んの難事に耐えるのか。「裏」を見ろ! いくら食えなくても、小作人はジッとしていなければならない、ということの演習ではないか!

 朝から、遠くで銃声がしていた。飛行機が高く晴れ上った空に、爆音をたてて飛んだ。向きの工合で、翼が銀色にギラギラッと光った。小作人達は所々に立ち止って、まぶしそうに額に手をかざして、空を見上げていた。――子供は夢中だった。

 健は由三にせがまれて、外へ出た。ジリ、ジリと暑かった。だまっていても、腋(わき)の下が気持悪くニヤニヤと汗ばんだ。由三は今ようやく出来かけている口笛を吹きながら、手にぶら下ったり、身体にからまって来たり、一人で燥いでいる。

 市街地に入ると、郵便局の前に毛並のそろった軍隊の馬が、つながっていた。小さい鞄を腰にさげた兵士が頼信紙に何か書いていた。

「ええ馬だな。――俺アの馬ど比らべてみれでア!」

 由三は馬の側を離れないで、前へ廻ったり、後へ廻ったり、蹲んで覗き込んだ。

「兄ちゃ、来年(らいしん)兵隊さ行けば、馬さ乗るんだべか。ええなア!」

 街にはどの家にも宿割の紙が貼らさっていた。――市街地に出ると、銃を肩にかけ、胸のボタンを二つ程外して、帽子の下にハンカチをかぶった兵隊が三人、靴底の金具をジャリジャリさせて、ゆるい歩調でやってきた。

「S村って、これですか。」――市街地を指さした。片手に地図を持っていた。

 由三が健より先きに周章(あわ)てて答をひったくった。

「んですよ。」と云った。

 それだけで、それが由三には大した名誉なことに思われた。

 銃声は東の方から起っていた。それで基線道路から殖民区域七号線へ道を折れて入った。少し行くと、処々道に見慣れなく新らしい馬糞が落ちていた。

「あらッ! あらッ! あら、なア!」

 由三が頓狂に叫んだ。田圃(たんぽ)を越して、遠く、騎兵の一隊が七、八騎時々見え、かくれ、行くのが見えた。――もう、由三は夢中だった。河堤に出ると、村の人達が二三十人かたまって、見物していた。由三は健の手を離れて、先きに走り出してしまった。見ていると、人の腋の下を潜り、グングン押しわけて一番前へ出てしまった。

 百人近くの兵隊が銃を組んで休んでいた。ムレた革と汗の匂いが、皆の立っている処までしていた。――日蔭になっているところには、上半身を裸にして、仰向けに寝ているものが二三人いる。どの兵士も胸の中にがっくり頭を落したり、横になったり――皆ぐったりしていた。然し顔だけは逆上せたように、妙に赤かった。それが気になった。汗が上衣まで通って、背の出張ったところ通りの形にグッショリ濡れていた。

「どうしたんだべな。」

「追(ぽ)われて来たんだべよ。――見れ、弱ってる!」

 不意に、あまり遠くない処で銃声がした。雑木林から吹き上げられたように、鳥の群が飛び立った。続いて銃声がした。――と、上官らしいのが列外へ出て、何か号令をかけた。ガジャガジャと金具の音が起った。が、皆はどうにもならない程、疲れ切っていた。

「グズグズしちアいかん! グズグズしちアいかん!」

 上官がカスれた声で怒鳴った。

「やっぱり兵隊って、ええものだね。――ラッパの音でもきいたら、背中がゾクゾクしてくるからな。」

 健の隣りで話している。――「青島」で右手がきかなくなってから、働くことも出来ず、半分乞食のような暮しをしている「在郷軍人」だった。

「戦争だって、考えたり、見たりする程おッかねえもんでねえんだ。ワアッて行けば、何んしろ……」

 皆に聞えるように、わざと声を高めた。

 兵隊は歩きづらい砂地を、泥人形のような無恰好さで、ザクザク歩き出した。だまりこくって、空虚に眼を前方の一定のところにすえたきり、自分のではない、何か他のものの力で歩かせられているように、歩いていた。病人を無理に立たせて、両方から肩を組み、中央(まんなか)にして歩かせた。が、他愛なく身体がブラ下ってしまった。頭に力がなく、歩く度にグラグラッと揺れた。

 皆はゾロゾロ堤を引き上げた。雑木林の中から、その時だった、突如カン声が上った。帽子の色のちがった別な一隊が、附剣をして「ワアッ、ワァッ!」と叫びながら、さっきの兵隊の後横へ肉迫していた。――不意を喰ってしまった。立ち直る暇もなく、そのまま隊伍を潰して、横へそれると、実りかけている田の中へ、ドタドタと入り込んでしまった。見ている間に、靴の下に稲が踏みにじられてしまった。

「あ、あッ、あ――あッ、あッ!」

 田の向うに一かたまりにかたまって見ていた小作人が、手を振りながら夢中に駈けて来るのが見えた。健達も思わず走った。――百姓達には、それは自分の子供の手足を眼の前で、ねじり取られるそのままの酷(むご)たらしさだった。

「何するだ!」

「何するだ! 稲 稲」

 然し兵隊のワアッ、ワアッという声に、それはモミ潰されてしまった。士官は分っていて、号令をやめなかった。――もう百姓は棒杭のように、つッ立ってしまうよりない!

 ようやく「休戦ラッパ」が鳴った。

 兵卒達はそれでも稲を踏まないように、跳ね跳ね田から出てきた。

 士官は汗をふきながら、プリプリして、

「後で主計が廻ってくるんだから、その時申告すれアいいんだ。」

 それは分っている! 然し損害を受けただけを申告すれば、その度に「これを種にして儲けやがるんだろう。」「日本国民として、この位の損害をワザワザ申告するなんてあるか。」と云われる。「帝国軍人のためだと云って、申告しない百姓さえあるんだぞ。」そんな事も云う。――貧乏な、人の好い小作人はどうすればいいか?――小作料を納める時になれば、地主はそんなことを考顧さえもしてくれない。

 兵士達はそれ等の話を気の毒そうに、離れてきいていた。――矢張り小作人の伜達がいるんだろう、健はそのことを考えていた。

 田を踏みにじられた隣りの農場の小作が、壊れた瀬戸物でもつなぎ合わせるように、田の中に入って行って、倒れた稲を起しにかかった。――健にはそれは見ていられなかった。

     「下稽古かも知れないど」

 兵隊の泊った朝、由三は誰よりも先きに起きた。――吃驚(びっくり)したようにパッチリ眼を開けて、家の中をクルックルッと見廻わすと、ムックリ起き上ってしまった。前の日に磨いて立てかけて置いた銃や剣や背嚢の前に坐ると、独言を云いながら、ちょッぴりちょッぴりいじった。魚が餌(えさ)でもつッつくように。

 母親が起きてきた。――母親は吃驚して、いきなり、由三の耳をひねり上げた。

「これッ! 大切なものさ手ばつけて、おがしくでもしてみれッ!」

 健は眼をさましたまま、寝床にいた。――前の夕方、健が納屋から薪を取り出していたとき、すぐ横で、井戸の水をザブザブさせながら足を洗っていた兵隊が話しているのを聞いた。

「ここの家ヒドイな……」

「うん、ま、御馳走はないな――」

「それでも……」

 あと一寸聞えなかった。息をつまらせて笑っている。

「シャンだからな。」

「それに……な、色ッぽいところがあるぞ。」

「あれか、鄙にもまれなる……」

「……埋合せか。」

 声を合わせて笑い出してしまった。

 健は暗がりの納屋の中にいて、一人でカアーッと赤くなった。

 健は昨日からのお恵の燥(はしゃ)いだ、ソワソワした態度にムカムカしていた。

 兵隊が起きると、由三は金盥に水をとってやったり、下駄を揃えてやったり、気をきかして先きへ先きへと走り廻った。お恵は日焼けのした首に水白粉を塗っていた。塗ったあとが、そのままムラになって残っていた。

 飯はお恵が坐って給仕した。すると、由三が口を突がらした。

「兵隊さんに女(めっけア)なんて駄目だねえ。――俺やるから、姉どけよ!」

 兵隊は苦笑してしまった。

 母親は又昨夜のように、御馳走のないことをクドクド繰りかえした。

 昼過ぎから土砂降りになった。六時頃、兵隊は身体中を泥だらけにして帰ってきた。――ものも云えず、一寸つまずいただけで、そのまま他愛なくつんのめる程疲れ切っていた。――母親はそれを見ると、半分もう泣いていた。兵隊にとられるかも知れない健のことが直ぐ考えられた。

 その晩は最後であり、それにゆっくり出来ると云うので、健は母親に云いつかって、裏で雌鶏を一羽つぶした。からは、「兵隊さんに出すのだから」と云って、ようやく酒を一升借りて来た。

 酔ってくると、兵隊は色々「兵営」の面白いことを話してきかせた。由三は「眠くねえわ、眠くねえわ。」と眼をこすりながら、何時迄も起きていた。

「坊、大きくなったら兵隊になるか。――ハハハハハハ。」

「僕も百姓ですよ。」と一人が云った。「僕の従弟が内地の連隊にいたとき、自分の村で小作争議が起り、それがドエライことになってしまった事があるんです。半鐘は鳴り、ドラはなり、何千人ッていう小作人が全部まア……暴動ッて云うかね、それを起したんですね。どうにもならなくなり、地主連が役所に頼み、役所が連隊に頼み、軍隊出動という処までトウトウ行ってしまったわけです。――が、何んしろその兵隊さんの親、兄弟、親類が村にいるときているし、それに自分等も村にいたとき、毎日毎日地主に苦しめられてきている。――どうにも出来ない。とても苦しかったそうですよ……。」

「ハアねえ――。」母親はワケも分らずうなずいた。

「あんまり御馳走してくれるんで、思い出したんだけれども、――御馳走するどころか、そんな風で案外これア敵かたきでないかと思ってネ。」

 と云って、大声で笑った。――「この辺はどうです。僕の村あたりだと、毎年のように小作争議が起りますよ。何処だって村は困っているし、又困って行く一方ですからね。――ネ、何時か僕等が附剣して、この村へワアッて、やって来ることでもあるんじゃないかと思ってネ……。」

「まさか!」思わず皆で笑い出した。

 後で、フトこの話を健が阿部にした。

「それア本当だよ。」と阿部が考え深そうに云った。「あんまり内地で、所々に農民騒動が起るんで、今度の演習だってその下稽古かも知れないど……。」

 次の昼頃、ラッパの音が聞えると、皆村道に出て行った。

 お恵は髪を綺麗に結い直して、由三を連れて出た。畦道を縄飛びをする時のように、小刻みに跳躍しながら走った。

 村を出て行くラッパの音は、皆を妙に興奮させた。それを聞いていると、何か胸が一杯になった。足並の揃ったザック、ザックという音と一緒に埃が立った。二日でも自分の家に泊った兵隊が通ると、手を振っている。

「あらあら、俺れアの兵隊さん!」

 眼ざとい由三が見つけると、姉の手を引張った。

 心持ちこっちへ顔を向けて――その顔が笑っている。お恵は耳まで真赤になった。そして手を挙げた。が、胸のところしかあがらない……。

 ラッパの音が遠くなった。

 そして行ってしまった。

 皆は兵隊の残して行った革の匂いと埃の中に、何時迄も立ちどまって見送っていた。――

    六

     「あれは口の二つあるダニだよ」

目次に戻る

目次