香水紳士

5話

1,179字 約2分 2002年1月22日 公開

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 湘南(しょうなん)から伊豆の町々へかけて、警察電話(けいさつでんわ)が、活発な活動をしはじめた。

 小田原(おだわら)から伊東(いとう)に至る十一の停車場の出口には、鋭い眼をした私服のお巡りさんたちが、眼でない、鼻をヒクヒクさせながら、まるで旅客(りょきゃく)のような恪好(かっこう)で、こっそり立ちはじめた。

 ここは、熱海の駅である。

 午前十時四十六分、伊東行きの列車が到着すると、大勢の旅客たちが、広いプラット・ホームになだれ出た。

 その人びとの中に(まじ)って、一人の異様(いよう)な紳士が――満身にすばらしい香水の匂いをプンプンさした紳士が、右手をスプリング・コートのポケットへ入れたまま、なにかひどく()に落ちかねたような顔つきで、鼻をヒクヒクさせながら、人混(ひとご)みをかきわけるようにして、出口のほうへ歩いて行った。

 人びとは、誰もかも、その紳士の発散する、強い激しい芳香に打たれて、びっくりしたように立ちどまると、不思議(ふしぎ)そうな顔をして、或はあきれたような顔をして、紳士を見返り、見送った。

 すると紳士は、いよいよわけが判らないというような顔をしながら、少からずうろたえはじめ、急にいそぎ足になった。

 と、その体から立ちのぼる芳香(ほうこう)は、自ら()きおこした風に乗って、いよいよひろまり、一層多くの人びとが立ちどまって、不思議そうに紳士を見詰(みつ)めはじめた。

 紳士は、泣き出しそうに顔をしかめた。が、急に今度は、真ッ赤になると、歩きながらしきりとなにかブツブツいいはじめた。そして前よりも一層はげしくうろたえはじめ、あわてた足どりで、プラット・ホームから地下道へ、地下道から駅の出口へと、折から(さわ)やかな五月の微風(びふう)に、停車場一面ときならぬ香水の嵐をまきおこしながら、かけ出して行った。

 このような紳士が、駅の出口で、さっきから鼻をヒクヒクやりながら、待ちかまえているお巡りさんを、ごまかすことが出来よう筈はない。‥‥

 その晩、東京のお家へ帰ったクルミさんのところへ、警視庁(けいしちょう)のえらいお巡りさんと、××銀行の支配人さんと、それから新聞社の人たちがやって来た。

 写真をとられたり、色々な話を聞かれたりしたあとで、銀行の支配人さんがいった。

「お嬢さん。あなたのお蔭で、私共の銀行は、おお助かりをいたしました。ついては、何かお礼を差上げたいのですが、なにがお望みでしょうか?」

 すると、クルミさんは、一寸ためらってから、こっそりいった。

「そうですの? じゃ、折角ですから、あたしの使ってしまった、あの香水を買っていただきましょうか? だってあたし、あの品を、従姉(いとこ)の信子さんに、お贈りするつもりだったんですもの」

「おやおや、お嬢さん。私共は、もっと沢山のお礼を差上げたいのですよ。それはそれとして、さ、なんでも外にお望みの品を、もうひとつおっしゃって下さい」

 すると、クルミさんは、一寸考えてから、恥かしそうに(ささや)いた。

「じゃ、あたし、サンドウィッチをいただきますわ」

(おわり)

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