点鬼簿

3話

1,478字 約3分 1998年10月5日 公開

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 僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、(養家は母かたの伯父の家だった。)僕の父にも冷淡だった。僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかった。僕に当時新らしかった果物や飲料を教えたのは(ことごと)く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアップル、ラム酒、――まだその外にもあったかも知れない。僕は当時新宿にあった牧場の外の(かし)の葉かげにラム酒を飲んだことを覚えている。ラム酒は非常にアルコオル分の少ない、橙黄色(とうこうしょく)を帯びた飲料だった。

 僕の父は幼い僕にこう云う珍らしいものを勧め、養家から僕を取り戻そうとした。僕は一夜大森の魚栄でアイスクリイムを勧められながら、露骨に実家へ逃げて来いと口説かれたことを覚えている。僕の父はこう云う時には(すこぶ)る巧言令色を(ろう)した。が、生憎(あいにく)その勧誘は一度も効を奏さなかった。それは僕が養家の父母を、――殊に伯母を愛していたからだった。

 僕の父は又短気だったから、度々誰とでも喧嘩(けんか)をした。僕は中学の三年生の時に僕の父と相撲(すもう)をとり、僕の得意の大外刈りを使って見事に僕の父を投げ倒した。僕の父は起き上ったと思うと、「もう一番」と言って僕に向って来た。僕は又造作もなく投げ倒した。僕の父は三度目には「もう一番」と言いながら、血相を変えて飛びかかって来た。この相撲を見ていた僕の叔母――僕の母の妹であり、僕の父の後妻だった叔母は二三度僕に目くばせをした。僕は僕の父と()()った後、わざと仰向(あおむ)けに倒れてしまった。が、もしあの時に負けなかったとすれば、僕の父は必ず僕にも(つか)みかからずにはいなかったであろう。

 僕は二十八になった時、――まだ教師をしていた時に「チチニウイン」の電報を受けとり、倉皇(そうこう)と鎌倉から東京へ向った。僕の父はインフルエンザの為に東京病院にはいっていた。僕は彼是(かれこれ)三日ばかり、養家の伯母や実家の叔母と病室の隅に寝泊りしていた。そのうちにそろそろ退屈し出した。そこへ僕の懇意にしていた或愛蘭土(アイルランド)の新聞記者が一人、築地の或待合へ飯を食いに来ないかと云う電話をかけた。僕はその新聞記者が近く渡米するのを口実にし、垂死(すいし)の僕の父を残したまま、築地の或待合へ出かけて行った。

 僕等は四五人の芸者と一しょに愉快に日本風の食事をした。食事は確か十時頃に終った。僕はその新聞記者を残したまま、狭い段梯子(だんばしご)を下って行った。すると誰か後ろから「ああさん」と僕に声をかけた。僕は中段に足をとめながら、段梯子の上をふり返った。そこには来合せていた芸者が一人、じっと僕を見下ろしていた。僕は黙って段梯子を下り、玄関の外のタクシイに乗った。タクシイはすぐに動き出した。が、僕は僕の父よりも水々しい西洋髪に結った彼女の顔を、――殊に彼女の目を考えていた。

 僕が病院へ帰って来ると、僕の父は僕を待ち兼ねていた。のみならず二枚折の屏風(びょうぶ)の外に悉く余人を引き下らせ、僕の手を握ったり()でたりしながら、僕の知らない昔のことを、――僕の母と結婚した当時のことを話し出した。それは僕の母と二人で箪笥(たんす)を買いに出かけたとか、(すし)をとって食ったとか云う、瑣末(さまつ)な話に過ぎなかった。しかし僕はその話のうちにいつか《まぶた》が熱くなっていた。僕の父も肉の落ちた(ほお)にやはり涙を流していた。

 僕の父はその次の朝に余り苦しまずに死んで行った。死ぬ前には頭も狂ったと見え「あんなに旗を立てた軍艦が来た。みんな万歳を唱えろ」などと言った。僕は僕の父の葬式がどんなものだったか覚えていない。(ただ)僕の父の死骸(しがい)を病院から実家へ運ぶ時、大きい春の月が一つ、僕の父の柩車(きゅうしゃ)の上を照らしていたことを覚えている。

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