歌行灯

1話 歌行灯(1)

7,082字 約14分 2002年1月9日 公開

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       一

 宮重(みやしげ)大根のふとしく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし(なみ)ゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたる(よろこ)びのあまり……

 と口誦(くちずさ)むように独言(ひとりごと)の、膝栗毛(ひざくりげ)五編の上の読初め、霜月十日あまりの初夜。中空(なかぞら)冴切(さえき)って、星が水垢離(みずごり)取りそうな月明(つきあかり)に、踏切の桟橋を渡る影高く、(ともしび)ちらちらと目の下に、遠近(おちこち)樹立(こだち)の骨ばかりなのを(なが)めながら、桑名の停車場(ステエション)へ下りた旅客がある。

 月の影には相応(ふさわ)しい、真黒(まっくろ)外套(がいとう)の、()せた身体(からだ)にちと広過ぎるを緩く着て、焦茶色の中折帽、真新しいはさて()いが、()れない天窓(あたま)に山を立てて、(つば)をしっくりと耳へ(かぶ)さるばかり深く()めた、あまつさえ、風に取られまいための留紐(とめひも)を、ぶらりと(しな)びた頬へ下げた工合(ぐあい)が、時世(ときよ)なれば、道中、笠も()せられず、と断念(あきら)めた風に見える。年配六十二三の、気ばかり若い弥次郎兵衛(やじろべえ)

 さまで重荷ではないそうで、唐草模様の天鵝絨(びろうど)革鞄(かばん)に信玄袋を引搦(ひきから)めて、こいつを片手。片手に蝙蝠傘(こうもりがさ)()きながら、

「さて……悦びのあまり名物の焼蛤(やきはまぐり)に酒()みかわして、……と本文(ほんもん)にある(ところ)さ、旅籠屋(はたごや)(ちゃく)の前に、停車場前の茶店か何かで、一本傾けて参ろうかな。(どうだ、喜多八(きだはち)。)と行きたいが、其許(そのもと)は年上で、ちとそりが合わぬ。だがね、家元の弥次郎兵衛どの事も、伊勢路では、これ、同伴(つれ)の喜多八にはぐれて、一人旅のとぼとぼと、棚からぶら下った宿屋を尋ねあぐんで、泣きそうになったとあるです。ところで其許は、道中松並木で出来た道づれの格だ。その道づれと、()んと一口()ろうではないか、ええ、捻平(ねじべい)さん。」

「また、言うわ。」

 と苦い顔を渋くした、同伴(つれ)の老人は、まだ、その上を四つ五つで、やがて七十(ななそじ)なるべし。臘虎(らっこ)皮の(つば)なし古帽子を、白い眉尖(まゆさき)深々と(かぶ)って、鼠の羅紗(らしゃ)道行(みちゆき)着た、股引(ももひき)を太く白足袋の雪駄穿(せったばき)。色()せた鬱金(うこん)の風呂敷、真中(まんなか)を紐で(ゆわ)えた包を、西行背負(さいぎょうじょい)に胸で結んで、これも信玄袋を手に一つ。片手に(つえ)()いたけれども、足腰はしゃんとした、人柄の()いお爺様(じいさま)

「その捻平は()しにさっしゃい、人聞きが悪うてならん。道づれは()けれども、道中松並木で出来たと言うで、何とやら、その、(わし)護摩(ごま)の灰ででもあるように聞えるじゃ。」と杖を一つとんと支くと、(あと)(がん)(さき)になって、改札口を早々(さっさ)と出る。

 わざと一足(うしろ)へ開いて、隠居が意見に急ぐような、(つれ)の後姿をじろりと見ながら、

「それ、そこがそれ捻平さね。松並木で出来たと云って、何もごまのはいには限るまい。もっとも若い内は遣ったかも知れんてな。ははは、」

 人も無げに笑う手から、引手繰(ひったく)るように切符を取られて、はっと駅夫の顔を見て、きょとんと生真面目(きまじめ)

 成程、この小父者(おじご)が改札口を出た殿(しんがり)で、何をふらふら道草したか、汽車はもう遠くの方で、名物焼蛤の白い煙を、夢のように月下に吐いて、真蒼(まっさお)な野路を光って通る。……

「やがてここを立出(たちい)辿(たど)()くほどに、旅人の唄うを聞けば、」

 と小父者、出た処で、けろりとしてまた口誦(くちずさ)んで、

「捻平さん、()い文句だ、これさ。……

時雨蛤(しぐれはまぐり)みやげにさんせ

   (みや)のおかめが、……ヤレコリャ、よオしよし。」

旦那(だんな)、お供はどうで、」

 と停車場(ステエション)前の夜の(くま)に、四五台朦朧(もうろう)と寂しく並んだ車の中から、車夫が一人、腕組みをして、のっそり出る。

 これを聞くと弥次郎兵衛、口を()じて片頬笑(かたほえ)み、

有難(ありがて)え、図星という処へ出て来たぜ。が、同じ事を、これ、(旦那衆戻り馬乗らんせんか、)となぜ言わぬ。」

「へい、」と言ったが、車夫は変哲もない顔色(がんしょく)で、そのまま棒立。

       二

 小父者(おじご)は外套の袖をふらふらと、酔ったような風附(ふうつき)で、

()れよ、さあ、(戻馬乗らんせんか、)と、後生(ごしょう)だから一つ気取ってくれ。」

「へい、(戻馬乗らせんか、)と言うでございますかね、戻馬乗らんせんか。」

 と早口で車夫は実体(じってい)

「はははは、法性寺入道前(ほうしょうじのにゅうどうさき)関白(かんぱく)太政大臣(だじょうだいじん)と言ったら腹を立ちやった、法性寺入道前の関白太政大臣様と来ている。」とまたアハハと笑う。

「さあ、もし召して下さい。」

 と話は(きま)った(はず)にして、委細構わず、車夫は取着(とッつ)いて梶棒(かじぼう)を差向ける。

 小父者、目を据えてわざと見て、

「ヤレコリャ車なんぞ、よオしよし。」

「いや、よしではない。」

 とそこに一人つくねんと、添竹(そえだけ)に、その枯菊(かれぎく)(すが)った、霜の(おきな)は、旅のあわれを、月空に知った姿で、

「早く車を雇わっしゃれ。手荷物はあり、勝手知れぬ町の中を、何を(あて)にぶらつこうで。」と口叱言(くちこごと)で半ば(つぶや)く。

「いや、まず一つ、(よヲしよし、)と切出さんと、本文に合わぬてさ。処へ喜多八が口を出して、(しょうろく四銭(しもん)で乗るべいか。)馬士(うまかた)が、(そんなら、ようせよせ。)と言いやす、馬がヒインヒインと(いば)う。」

「若いもの、その人に構うまい。車を早く。川口の湊屋(みなとや)と言う旅籠屋(はたごや)()くのじゃ。」

「ええ、二台でござりますね。」

「何んでも構わぬ、(わし)は急ぐに……」と後向(うしろむ)きに(つか)まって、乗った雪駄を爪立(つまだ)てながら、蹴込(けこ)みへ入れた革鞄を(また)ぎ、首に掛けた風呂敷包みを外ずしもしないで(ゆす)っておく。

一蓮託生(いちれんたくしょう)、死なば諸共、捻平待ちやれ。」と、くすくす笑って、小父者も車にしゃんと乗る。……

「湊屋だえ、」

「おいよ。」

 で、二台、月に提灯(かんばん)(あかり)黄色に、広場(ひろっぱ)の端へ駈込(かけこ)むと……石高路(いしたかみち)をがたがたしながら、板塀の小路、土塀の辻、径路(ちかみち)を縫うと見えて、寂しい処幾曲り。やがて二階屋が建続き、町幅が糸のよう、月の光を(ひさし)(おお)うて、両側の暗い軒に、掛行燈(かけあんどん)(まばら)に白く、枯柳に星が乱れて、壁の(あお)いのが処々。長い通りの突当りには、火の見の階子(はしご)が、遠山(とおやま)の霧を破って、半鐘(はんしょう)の形()けるがごとし。……火の用心さっさりやしょう、金棒(かなぼう)の音に夜更けの景色。霜枯時の事ながら、月は格子にあるものを、桑名の()達は宵寝と見える、寂しい新地(くるわ)差掛(さしかか)った。

 (やぼね)の下に流るる道は、細き水銀の川のごとく、柱の黒い家の(さま)、あたかも(かわうそ)祭礼(まつり)をして、白張(しらはり)地口行燈(じぐちあんどん)を掛連ねた、鉄橋を渡るようである。

 爺様の乗った前の車が、はたと(とま)った。

 あれ聞け……寂寞(ひっそり)とした一条廓(ひとすじくるわ)の、棟瓦(むねがわら)にも響き転げる、(わだち)の音も留まるばかり、(なだ)の浪を川に寄せて、千里の(はて)も同じ水に、筑前の沖の月影を、白銀(しろがね)の糸で手繰ったように、星に(きら)めく唄の声。

博多帯(はかたおび)しめ、筑前絞(ちくぜんしぼり)

 田舎の人とは思われぬ、

歩行(ある)く姿が、柳町、

 と博多節を流している。……つい目の(さき)の軒陰に。……白地の手拭(てぬぐい)頬被(ほおかむり)、すらりと(やせ)ぎすな男の姿の、軒のその、うどんと(べに)で書いた看板の前に、横顔ながら俯向(うつむ)いて、ただ影法師のように(たたず)むのがあった。

 捻平はフト車の上から、(うなじ)の風呂敷包のまま振向いて、何か背後(うしろ)へ声を掛けた。……と同時に弥次郎兵衛の車も、ちょうどその唄う声を、町の中で引挟(ひっぱさ)んで、がっきと留まった。が、話の意味は通ぜずに、そのまま捻平のがまた曳出(ひきだ)す……(あと)の車も続いて()け出す。と二台がちょっと()れ摺れになって、すぐ(もと)の通り前後(あとさき)に、流るるような月夜の車。

       三

お月様がちょいと出て松の影、

 アラ、ドッコイショ、

 と沖の浪の月の中へ、(さっ)と、(ばち)を投げたように、霜を切って、唄い()てた。……饂飩屋(うどんや)(かど)に博多節を弾いたのは、転進(てんじん)をやや縦に、三味線(さみせん)の手を緩めると、撥を逆手(さかて)に、その柄で(はじ)くようにして、(ほん)のりと、薄赤い、其屋(そこ)の板障子をすらりと開けた。

「ご免なさいよ。」

 頬被(ほおかむ)りの中の(すず)しい目が、(かま)から吹出す湯気の(うち)へすっきりと、出たのを一目、驚いた顔をしたのは、帳場の端に土間を(また)いで、腰掛けながら、うっかり聞惚(ききと)れていた亭主で、紺の筒袖にめくら(じま)前垂(まえだれ)がけ、草色の股引(ももひき)で、尻からげの(なり)、にょいと立って、

「出ないぜえ。」

 は、ずるいな。……案ずるに我が家の門附(かどづけ)聞徳(ききどく)に、いざ、その段になった処で、(くだん)の(出ないぜ。)を()めてこまそ心積りを、唐突(だしぬけ)に頬被を突込(つッこ)まれて、大分狼狽(うろた)えたものらしい。もっとも居合わした客はなかった。

 門附は、澄まして、背後(うしろ)じめに戸を()てながら、三味線を(はす)にずっと入って、

「あい、親方は出ずとも()いのさ。私の方で入るのだから。……ねえ、女房(おかみ)さん、そんなものじゃありませんかね。」

 とちと笑声が交って聞えた。

 女房は、これも現下(いま)の博多節に、うっかり気を取られて、釜前の湯気に(もう)として立っていた。……浅葱(あさぎ)(たすき)、白い腕を、部厚な釜の(ふた)にちょっと()せたが、丸髷(まるまげ)をがっくりさした、色の白い、歯を染めた中年増(ちゅうどしま)。この途端に(さっ)(まぶた)を赤うしたが、(へッつい)の前を横ッちょに、かたかたと下駄の音で、亭主の膝を斜交(はすっか)いに、帳場の銭箱(ぜにばこ)へがっちりと手を入れる。

「ああ、御心配には及びません。」

 と門附は物優しく、

串戯(じょうだん)だ、強請(ゆする)んじゃありません。こっちが客だよ、客なんですよ。」

 細長い土間の一方は、薄汚れた縦に六畳ばかりの市松畳、そこへ上れば坐れるのを、釜に近い、床几(しょうぎい)の上に、ト足を伸ばして、

「どうもね、寒くって(たま)らないから、一杯御馳走(ごちそう)になろうと思って。ええ、親方、決してその御迷惑を掛けるもんじゃありません。」

 で、優柔(おとな)しく頬被りを取った顔を、と見ると迷惑どころかい、目鼻立ちのきりりとした、細面(ほそおもて)の、(まぶた)(やつれ)は見えるけれども、目の清らかな、眉の濃い、二十八九の人品(ひとがら)兄哥(あにい)である。

「へへへへ、いや、どうもな、」

 と亭主は前へ出て、揉手(もみで)をしながら、

「しかし、このお天気続きで、まず結構でござりやすよ。」と何もない、(すす)けた天井を仰ぎ仰ぎ、帳場の上の神棚へ目を()らす。

「お師匠さん、」

 女房前垂をちょっと()でて、

「お銚子(ちょうし)でございますかい。」と莞爾(にっこり)する。

 門附は手拭の上へ(ばち)を置いて、腰へ三味線を小取廻(ことりまわ)し、内端(うちわ)に片膝を上げながら、床几の上に素足の胡坐(あぐら)

 ト(すそ)を一つ掻込(かいこ)んで、

「早速一合、酒は良いのを。」

「ええ、もう飛切りのをおつけ申しますよ。」と女房は土間を横歩行(よこある)き。左側の畳に据えた火鉢の中を、邪険に火箸(ひばし)()(ほじ)って、(かっ)と赤くなった処を、床几の門附へずいと寄せ、

「さあ、まあ、お当りなさりまし。」

難有(ありがて)え、」

 と鉄拐(てっか)(つま)引挟(ひッぱさ)んで、ほうと呼吸(いき)を一つ長く()いた。

「世の中にゃ、こんな炭火があると思うと、里心が付いてなお寒い。(たま)らねえ。女房(おかみ)さん、銚子をどうかね、ヤケという熱燗(あつかん)にしておくんなさい。ちっと飲んで、うんと酔おうという、卑劣な癖が付いてるんだ、お察しものですぜ、ええ、親方。」

「へへへ、お(かた)、それ極熱(ごくあつ)じゃ。」

 女房は染めた前歯を美しく、

「あいあい。」

       四

「時に何かね、今此家(ここ)の前を車が二台、旅の人を乗せて駈抜(かけぬ)けたっけ、この町を、……」

 と干した猪口(ちょく)(かど)を指して、

「二三町行った処で、左側の、屋根の大きそうな家へ着けたのが、(あお)く月明りに見えたがね、……あすこは何かい、旅籠屋(はたごや)ですか。」

湊屋(みなとや)でございまさ、なあ、」と女房が、釜の前から亭主を見向く。

「湊屋、湊屋、湊屋。この土地じゃ、まああすこ一軒でござりますよ。古い家じゃが名代(なだい)で。(せん)には大きな女郎屋じゃったのが、旅籠屋になったがな、部屋々々も昔風そのままな(うち)じゃに、奥座敷の欄干(てすり)の外が、海と一所の、(いか)揖斐(いび)川口(かわぐち)じゃ。白帆の船も通りますわ。(すずき)()ねる、(ぼら)は飛ぶ。とんと類のない(おもむき)のある家じゃ。ところが、時々崖裏の石垣から、(かわうそ)這込(はいこ)んで、板廊下や(かわや)()いた(あかり)を消して、悪戯(いたずら)をするげに言います。が、別に可恐(おそろし)い化方はしませぬで。こんな月の良い晩には、庭で鉢叩(はちたた)きをして見せる。……時雨(しぐ)れた夜さりは、天保銭(てんぽうせん)一つ使賃で、豆腐を買いに()くと言う。それも旅の衆の愛嬌(あいきょう)じゃ言うて、(えら)い評判の()い旅籠屋ですがな、……お前様、この土地はまだ何も知りなさらんかい。」

「あい、昨夜(ゆうべ)初めてこっちへ流込んで来たばかりさ。一向方角も何も分らない。月夜も(やみ)の烏さね。」

 と俯向(うつむ)いて、一口。

「どれ延びない内、底を一つ温めよう、()ったり! ほっ、」

 と言って、目を(こす)って(おもて)を背けた。

「利く、利く。……恐しい利く唐辛子だ。こう、親方の前だがね、ついこないだもこの手を食ったよ、料簡(りょうけん)が悪いのさ。何、上方筋の唐辛子だ、鬼灯(ほおづき)の皮が精々だろう。利くものか、と高を(くく)って、お(あし)は要らない薬味なり、どしこと丼へぶちまけて、松坂で飛上った。……また遣ったさ、色気は無えね、涙と(よだれ)一時(いっとき)だ。」と手の甲で引擦(ひっこす)る。

 女房が銚子のかわり目を、ト(てのひら)(かん)を当った。

「お師匠さん、あんたは東の(かた)ですなあ。」

「そうさ、(うまれ)は東だが、身上(しんしょう)は北山さね。」と言う時、徳利の底を振って、垂々(たらたら)猪口(ちょく)へしたむ。

「で、お前様、湊屋へ泊んなさろうと言うのかな。」

 それだ、と門口で断らりょう、と亭主はその段含ませたそうな気の()顔色(かおつき)

御串戯(ごじょうだん)もんですぜ、泊りは木賃(きちん)(きま)っていまさ。茣蓙(ござ)(かさ)草鞋(わらじ)が留守居。壁の破れた処から、鼠が首を長くして、私の帰るのを待っている。四五日はこの桑名へ御厄介になろうと思う。……上旅籠(じょうはたご)の湊屋で泊めてくれそうな御人品なら、御当家へ、一夜の御無心申したいね、どんなもんです、女房(おかみ)さん。」

「こんなでよくば、泊めますわ。」

 と身軽に銚子を運んで寄る。と亭主驚いた眉を動かし、

「滅相な。」と帳場を背負(しょ)って、立塞(たちふさ)がる(てい)に腰を掛けた。いや、この時まで、紺の鯉口(こいぐち)に手首を(すく)めて、案山子(かかし)のごとく立ったりける。

「はははは、お言葉には及びません、饂飩屋さんで泊めるものは、醤油(おしたじ)の雨宿りか、鰹節(かつおぶし)の行者だろう。」

 と呵々(からから)と一人で笑った。

「お師匠さん、一つお酌さしておくんなさいまし。」と女房は市松の畳の端から、薄く腰を掛込んで、土間を切って、差向いに銚子を取った。

「飛んでもない事、お忙しいに。」

「いえな、内じゃ芸妓屋(げいこや)さんへ出前ばかりが(おも)ですから、ごらんの通りゆっくりじゃえな。ほんにお師匠さん()いお声ですな。なあ、良人(あんた)。」と、横顔で亭主を流眄(ながしめ)

「さよじゃ。」

 とばかりで、煙草(たばこ)を、ぱっぱっ。

「なあ、今お聞かせやした、あの博多節を聞いたればな、……私ゃ、ほんに、身に染みて、ぶるぶると震えました。」

       五

「そう()められちゃお座が()める、酔も醒めそうで遣瀬(やるせ)がない。たかが大道芸人さ。」

 と兄哥(あにい)は照れた風で腕組みした。

「私がお世辞を言うものですかな、真実(まったく)ですえ。あの、その、なあ、悚然(ぞっ)とするような、恍惚(うっとり)するような、()めたような、投げたような、緩めたような、まあ、()んと言うて()かろうやら。海の中に柳があったら、お月様の影の中へ、身を投げて死にたいような、……何んとも言いようのない心持になったのですえ。」

 と、脊筋を(くね)って、肩を入れる。

「お(かた)、お方。」

 と急込(せきこ)んで、訳もない事に不機嫌な御亭(ごてい)が呼ばわる。

「何じゃいし。」と振向くと、……亭主いつの間にか、神棚の(もと)に、(しゃ)と構えて、帳面を引繰(ひっく)って、苦く(にら)み、

升屋(ますや)(かけ)はまだ寄越さんかい。」

 と算盤(そろばん)を、ぱちりぱちり。

「今時どうしたえ、三十日(みそか)でもありもせんに。……お師匠さん。」

「師匠じゃないわ、升屋が懸じゃい。」

「そないに急に気になるなら、良人(あんた)、ちゃと行って取って()い。」

 と下唇の刎調子(はねぢょうし)。亭主ぎゃふんと参った(てい)で、

「二進が一進、二進が一進、二一(にいち)天作の()五一三六七八九(ぐいちさぶろくななやあここの)。」と、饂飩の帳の伸縮(のびちぢ)みは、加減(さしひき)だけで済むものを、醤油(したじ)に水を割算段。

 と釜の湯気の白けた処へ、星の()てそうな按摩(あんま)の笛。月天心(つきてんしん)の冬の町に、あたかもこれ(こがらし)を吹込む声す。

 門附の兄哥(あにい)は、ふと()せた肩を抱いて、

「ああ、霜に響く。」……と言った声が、物語を読むように、(ほがらか)()えて、且つ、鋭く聞えた。

「按摩が通る……女房(おかみ)さん、」

「ええ、笛を吹いてですな。」

「畜生、()しからず身に染みる、(たま)らなく寒いものだ。」

 と割膝に跪坐(かしこま)って、飲みさしの茶の冷えたのを、茶碗に傾け、ざぶりと土間へ、

「一ツこいつへ()いでおくんな、その方がお前さんも手数が要らない。」

「何んの、私はちっとも構うことないのですえ。」

「いや、御深切は難有(ありがた)いが、薬罐(やかん)の底へ消炭(けしずみ)で、()くあとから()める処へ、氷で咽喉(のど)(えぐ)られそうな、あのピイピイを聞かされちゃ、身体(からだ)にひびっ(たけ)がはいりそうだ。……持って来な。」

 と手を振るばかりに、一息にぐっと(あお)った。

「あれ、お見事。」

 と目を《みは》って、

「まあな、だけれどな、無理酒おしいなえ。沢山(たんと)、あの、心配する方があるのですやろ。」

「お方、八百屋の勘定は。」

 と亭主(まばた)きして(あご)を出す。女房は面白半分、見返りもしないで、

「取りに来たらお払いやすな。」

「ええ……と三百は三銭かい。」

 で、算盤を空に(はじ)く。

女房(おかみ)さん。」

 と呼んだ門附の声が沈んだ。

「何んです。」

「立続けにもう一つ。そして(あと)を直ぐ、合点(がってん)かね。」

「あい。合点でございますが、あんた、(えら)大酒(たいしゅ)ですな。」

「せめて酒でも参らずば。」

 と陽気な声を出しかけたが、つと仰向(あおむ)いて(まなじり)を上げた。

「あれ、また来たぜ、按摩の笛が、北の方の辻から聞える。……ヤ、そんなにまだ夜は更けまいのに、屋根(ごし)の町一つ、こう……田圃(たんぼ)(あぜ)かとも思う処でも吹いていら。」

 と身忙(みぜわ)しそうに片膝立てて、当所(あてど)なく《みまわ》しながら、

(おと)は同じだが()が違う……女房(おかみ)さん、どれが、どんな(つら)の按摩だね。」

 と聞く。……その時、白眼(しろまなこ)の座頭の首が、月に(あお)ざめて(のぞ)きそうに、屋の棟を高く見た……目が鋭い。

「あれ、あんた、鹿の雌雄(めすおす)ではあるまいし、笛の音で按摩の容子(ようす)は分りませぬもの。」

「まったくだ。」

 と寂しく笑った、なみなみ()いだる茶碗の酒を、(きっ)と見ながら、

「杯の月を()もうよ、座頭殿。」と差俯(さしうつむ)いて独言(ひとりごと)した。……が博多節の文句か、知らず、陰々として物寂しい、表の障子も裏透くばかり、霜の月の影冴えて、辻に、町に、按摩の笛、そのあるものは波に響く。

       六

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