草迷宮

8話 草迷宮(8)

6,625字 約13分 2003年9月7日 公開

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 もしや手毬唄の中に、こういうのは無かったでしょうか、と叔母にその話をすると、真日中(まびなか)にそんなものを()て、そんなことを云う貴下(あなた)は、身体(からだ)が弱いのです。当分外へは出てはなりません、と外出禁制(きんぜい)

 以前は、その形で、正真正銘の熊の()、と海を渡って売りに来たものがあるそうだけれど、今時はついぞ見懸けぬ、と後での話。……」

       三十二

「日が()ってから、叔母が私の枕許(まくらもと)で、さまでに思詰めたものなら、保養かたがた、思う処へ旅行して、その唄を誰かに聞け。

(妹の声は私も聞きたい。)

 と、手函(てばこ)金子(かね)を授けました。今もって叔母が貢いでくれるんです。

 国を出て、足かけ五年!

 津々浦々、都、村、里、どこを聞いても、あこがれる唄はない。似たのはあっても、その後か、その(さき)か、中途か、あるいはその空間か、どこかに望みの声がありそうだな……と思うばかり。また小児(こども)たちも、手毬が下手になったので、(しまい)まで突き得ないから、自然長いのは半分ほどで消えています。

 とても尋常ではいかん、と思って、もうただ、その一人行方の知れない、(おさな)ともだちばかり、矢も(たて)(たま)らず逢いたくなって来たんですが、魔にとられたと言うんですもの。高峰(たかね)へかかる雲を見ては、(つた)をたよりに(すが)りたし、(うみ)を渡る霧を見ては、落葉に乗っても、追いつきたい。巌穴(いわあな)の底も極めたければ、滝の裏も(のぞ)きたし、何か前世の因縁で、めぐり逢う事もあろうか、と奥山の庚申塚(こうしんづか)に一人立って、二十六夜の月の出を待った事さえあるんです。

 トこの間――名も嬉しい常夏(とこなつ)の咲いた霞川と云う秋谷の小川で、綺麗な手毬を拾いました。

 宰八に聞いた、あの、嘉吉とか云う男に、緑色の珠を与えて、月明(つきあかり)の村雨の中を山路へかかって、

(ここはどこの細道じゃ、

       細道じゃ。

 天神様の細道じゃ、

       細道じゃ。)

 と童謡を口吟(くちずさ)んで通ったと云うだけで、早やその声が聞こえるようで、」

 僧は魅入られたごとくに見えたが、溜息(ためいき)(ほっ)()き、

「まずおめでたい、ではその唄が知れましたか。」

「どうして唄は知れませんが、声だけは、どうやらその人……いいえ、……そのものであるらしい。この手毬を(もてあそ)ぶのは、(たしか)にその婦人(おんな)であろう。その婦人は何となく、この空邸(あきやしき)に姿が見えるように思われます。……むしろ私はそう信じています。

 爺さんに強請(ねだ)って、ここを一()借りましたが、借りた日にはもう其の手毬を取返され――私は取返されたと思うんですね――美しく気高い、その婦人(おんな)の心では、私のようなものに拾わせるのではなかったでしょう。

 あるいはこれを、小川の(すそ)の秋谷明神へ届けるのであったかも分らない。そうすると、名所だ、と云う、浦の、あの、子産石をこぼれる石は、以来手毬の糸が染まって、五彩燦爛(さんらん)として(ほとばし)る。この色が、紫に、緑に、紺青(こんじょう)に、藍碧(らんぺき)に波を射て、太平洋へ月夜の(にじ)を敷いたのであろうも計られません、」

 とまた恍惚(うっとり)となったが、(うなじ)を垂れて、

「その(たたり)、その罪です。このすべての怪異は。――自分の(よく)のために、自分の恋のために、途中でその手毬を拾った罰だろう、と思う、思うんです。

 祟らば祟れ!飽くまでも初一念を貫いて、その唄を聞かねば置かない。

 心の(まよい)か知れませんが。()のあたり見ます、怪しさも、(すご)さも、もしや、それが望みの唄を、何人(なんぴと)かが暗示するのであろうも知れん、と思って、こうその口ずさんで見るんです――行燈(あんどう)が宙へ浮きましょう。

(美しき君の姿は、

 萌黄(もえぎ)の蚊帳を、

 蚊帳のまわりを、姿はなしに、

 通る行燈(あんど)(おもかげ)や。)……

 勿論、こんなのではありません。または、

(美しき君の(いおり)は、

 前の畑に影さして、

 棟の草も露に濡れつつ、

 月の(かつら)茅屋(かやや)にかかる。)……

 ちっとも似てはおらんのです。屋根で鵝鳥(がちょう)が鳴く時は、波に(さら)われるのであろうと思い、板戸に馬の影がさせば、修羅道に()ちるか、と驚きながらも、

(屋根で鵝鳥の鳴き叫ぶ、

 板戸に(こま)の影がさす。)

 と、(うつつ)にも、絶えず耳に聞きますけれど、それだと心は(うなず)きません。

 いかなる事も堪忍んで、どうぞその唄を聞きたい、とこうして参籠をしているんですが、(たたり)ならばよし罪は(いと)わん、」

 と激しく言いつつ、心づいて、悄然(しょうぜん)として僧を見た。

「ただその、手毬を取返したのは、唄は教えない、という宣告じゃあなかろうか、とそう思うと(なさけ)ない。

 ああ、お話が八岐(やちまた)になって、手毬は……そうです。天井から猫が落ちます以前、私が縁側へ一人で坐っています処へ、あの白粉(おしろい)の花の蔭から、(ずいき)の葉を顔に当てた小児(こども)が三人、ちょろちょろと出て来て、不思議そうに私を見ながら、犬ころがなつくように(そば)へ寄ると、縁側から覗込(のぞきこ)んで、手毬を見つけて、三人でうなずき合って、

(それをおくれ。)と言います。

(お前たちのか。)

 と聞くと、(かぶり)()るから、

(じゃ、小父(おじ)さんのだ。)と言うと、男が毬を、という調子に、

(わはは)と笑って、それなりに、ちらちらとどこかへ取って行ったんでした。」――

       三十三

「何、(わし)がうわさしていさっせえた処だって……はあ、お前様(めえさま)二人でかね。」

 どッこいしょ、と立ったまま、広縁が高いから、背負(しょ)って来た風呂敷包は、腰ぎりにちょうど乗る。

「だら、()いけんども、」

 と結目(むすびめ)解下(ときお)ろして、

「天井裏でうわさべいされちゃ(たま)んねえだ。」

 と声を(ひそ)めたが、宰八は直ぐ高調子、

「いんね、(わし)一人じゃござりましねえ。喜十郎様が(とこ)の仁右衛門の苦虫(にがむし)と、学校の先生ちゅが、同士にはい、門前(もんまえ)まで来っけえがの。

 あの、樹の下の、暗え中へ頭突込(つッこ)んだと思わっせえまし、お前様、苦虫の親仁(おやじ)年効(としがい)もねえ、新造子(しんぞっこ)が抱着かれたように、キャアと云うだ。」

「どうしたんです。」

「何かまた、」

 と、僧も夜具包の上から伸上って顔を出した。

 宰八紅顱巻(あかはちまき)をかなぐって、

「こりゃ、はい、御坊様御免なせえまし。御本家からも(よろ)しくでござりやす。いずれ喜十郎様お目に(かか)りますだが、まず(ゆっく)りと休まっしゃりましとよ。

 (わし)こういうぞんざいもんだで、お辞儀の仕様もねえ。婆様がよッくハイ御挨拶しろと云うてね、お前様(うま)がらしっけえ、団子をことづけて寄越(よこ)しやした。茶受(ちゃうけ)にさっしゃりやし。あとで私が蚊いぶしを才覚しながら、ぶつぶつ渋茶を煮立てますべい。

 それよりか、お前様、腹アすかっしゃったろうと思うで、御本家からまた重詰めにして寄越さしった、そいつをぶら下げながら苦虫が、右のお前様、キャアでけつかる。

 門外の草原を、まるで川の瀬さ渡るように、三人がふらふらよちよち、モノ小半時かかったが、芸もねえ、えら遅くなって済まんしねえ。」

「何とも御苦労、」

 と僧は慇懃(いんぎん)(つむり)をさげる。

「その人たちは、どうしたのかね。」

 と明が尋ねた。

「はい、それさ、そのキャアだから、お前様、どうした仁右衛門と、云うと、苦虫が、(つら)さ渋くして、(ああ、(いや)なものを見た。おらが鼻の(さき)を、ひいらひいら、あの生白(なまちら)けた芋の葉の長面(ながづら)が、ニタニタ笑えながら横に飛んだ。精霊棚の瓢箪(ひょうたん)が、ひとりでにぽたりと落ちても、御先祖の(いましめ)とは思わねえで、酒も()めねえ(おら)だけんど、それにゃ(つる)が枯れたちゅう道理がある。風もねえに芋の葉が宙を歩行(ある)くわけはねえ。ああ、厭だ、総毛立つ、内へ帰って夜具を(かぶ)って、ずッしり汗でも取らねえでは、煩いそうに頭も重い。)

 と(すく)むだね。

 (いつも)小児(こども)が駆出したろう、とそう言うと、なお悪い。あの声を聞くと(たま)らねえ。あれ、あれ、石を鳴らすのが、谷戸(やと)に響く。時刻も七ツじゃ、と(あお)くなって、風呂敷包打置(ぶちお)いて、ひょろひょろ帰るだ。

 先生様、ではお前様、その重箱を提げてくれさっせえ、と(わし)が頼むとね。

(厭だ、)と云っけい。

(はてね、なぜでがす。)

 ここさ、お客様の(めえ)だけんど、気にかけて下せえますなよ。

(軍歌でもやるならまだの事、子守や手毬唄なんかひねくる様な(やつ)の、弁当持って堪るものか。)

 と()くでねえか。

 奴は朋友(ともだち)に聞いた、と云うだが、いずれ怪物(ばけもの)退治に来た連中からだんべい。

 お客様何でがすか、お前様、子守唄(こさ)えさっしゃるかね。袋戸棚の障子へ、書いたもの()っとかっしゃるのは、もの、それかね。」

 明は恥じたる色があった。

「こしらえるのじゃない、聞いたのを書き留めて置くんです。数があって忘れるから、」

「はあ、(わし)はまた、こんな恐怖(おっかね)(とこ)に落着いていさっしゃるお前様だ。

 怨敵(おんてき)退散の貼御符(はりごふう)かと思ったが。

 何か、ハイ、わけは(わか)ンねえがね、悪く言ったのがグッと(しゃく)(さわ)ったで、

(なら()うがす、客人のものは持ってもれえますめえ、が、お前様、学校の先生様だ。()し、私あハイ、何も教えちゃもらわねえだで、師匠じゃねえ、同士に歩行(ある)くだら朋達(ともだち)だっぺい。蟹の宰八が手ンぼうの助力さっせえ。)

 と()めつけたさ。

 帽子の下で目を据えたよ。

(貴様のような友達は持たん、失敬な。)と云って引返したわ。何か(かこつ)け、根は臆病で()げただよ。見さっせえ、韋駄天(いだてん)のように木の下を駆出し、川べりの遠くへ行く仁右衛門親仁を、

(おおい、おおい、)

 と茶番の定九郎(さだくろう)()めやあがる。」

       三十四

 その夜に限って何事もなく、静かに。……寝ようという時、初夜過ぎた。

 宰八が手燭(てしょく)に送られて、広縁を折曲って、(はる)かに廻廊を通った僧は、雨戸の並木を越えたようで、故郷(ふるさと)には蚊帳を釣って、一人寂しく友が待つ(おもい)がある。

「ここかい。」

「それを左へ開けさっせえまし、入口の板敷から二ツ目のが、男が立って()るのでがす。行抜けに北の縁側へも出られますで、お前様(めえさま)帰りがけに取違えてはなんねえだよ。

 二三年この方、向うへは誰も通抜けた事がねえで、当節柄じゃ、迷込んではどこへ行くか、ハイ方角が着きましねえ。」

「もう分りましたよ。」

()かあねえ、(わし)、ここに待っとるで、(あかり)をたよりに出て来さっせえ。

 私も、この障子の(いか)いこと続いたのに、めらめら破れのある工合(ぐあい)が、ハイ一ツ一ツ白髑髏(しゃれかうべ)のようで、一人で立ってる気はしねえけんど、お前様が坊様だけに気丈夫だ。えら茶話がもてて、何度も土瓶をかわかしたで、(いれ)かわって私もやらかしますべいに、待ってるだよ。」

 僧は戸を開けながら、と、声をかけて、

「御免下さい。」

 と、ぴたりと閉めた。

「あ、あ、気味の悪い。誰に挨拶(あいさつ)さっせるだ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)、南無阿弥陀仏。はて、急に変なことを考えたぞ。そこさ一面の障子の破れ(のぞ)いたら何が見えべい――南無阿弥陀仏(なんまいだ)、ああ、南無阿弥陀仏、……やあ、蝋燭(ろうそく)がひらひらする、どこから風が吹いて来るだ。これえ消したが最後、立処(たちどころ)に六道の辻に迷うだて。南無阿弥陀仏(なんまいだ)、御坊様、まだかね。」

「ちょいと、」

「ひゃあ、」

 僧は半ば開いて、中に鼠の法衣(ころも)で立ちつつ、

「ちょいと(あかり)を見せておくれ。」

「ええ、お前様、(さき)へ戸を開けておいてから何か言わっしゃれば()い。板戸が音声(おんじょう)を発したか、と吃驚(びっくり)しただ、はあ、何だね。」

「入口の、この出窓の下に、手水(ちょうず)鉢があったのを、入りしなに見ておいたが、広いので暗くて分らなくなりました。」

「ああ、手、洗わっしゃるのかね、」

 と手燭ばかりを、ずいと出して、

「鉢前にゃ、()が明けたら見さっせえまし、大した唐銅(からかね)の手水鉢の、この邸さ()いて来る時分に牛一頭かかった、見事なのがあるけんど、今開ける気はしましねえ。……」

 ええ、そよら、そよらと風だ。

 そ、その鉢にゃ水があれば()いがね、無くば座敷まで我慢さっせえまし、土瓶の(のこり)()けて進ぜる。」

「あります、あります。」

 ざっと音をさして、

「冷い美しい水が、満々(なみなみ)とありますよ。」

「嘘を()くもんでェねえ。なに(うつくし)い水があんべい。井戸の水は真蒼(まっさお)で、小川の水は白濁りだ。」

「じゃあ(あかり)で見るせいだろうか、」

「そして、はあ、何なみなみとあるもんだ。」

「いいえ、縁切(ふちきり)こぼれるようだよ。ああ、葉越さんは綺麗好きだと見える。真白(まっしろ)手拭(てぬぐい)が、」

 と言いかけてしばらく黙った。

今年より卯月(うづき)八日は吉日よ

    尾長(おなが)蛆虫(うじむし)成敗ぞする

「ここに(さかさま)にはってあるのは、これは誰方(どなた)がお書きなすった、」

「……南無阿弥陀仏(なまいだ)、南無阿弥陀仏……」

「ああ、()いおてだ。」

 と大和尚のように落着いて、(おおき)く言ったが、やがてちと(あわただ)しげに小さな坊さまになって急いで出た。

「ええ、(はや)く出さっせえ、(わし)もう押堪(おっこら)えて、座敷から庭へ出て用たすべい。」

「ほんとに誰が書いたんだね、女の手だが、」

 と掛手拭を()めた癖に、薄汚れた畳んだのを自分の(たもと)から出している。

南無阿弥陀仏(なんまいだぶ)、ソ、それは、それ、この次の、次の、小座敷で亡くならしっけえ、どっかの嬢様が書いて()っただとよ、()きそこだ、今ソンな事あどうでも()え。頭から、慄然(ぞっ)とするだに、」

「そうかい、ああ私も今、手を()こうとすると、真新しい切立(きりたて)の掛手拭が、冷く濡れていたのでヒヤリとした。」

「や、」と横飛びにどたりと踏んだが、その跫音(あしおと)を忍びたそうに、腰を浮かせて、同一(おなじ)処を蹌踉蹌踉(うろうろ)する。

       三十五

「そうふらふらさしちゃ(あかり)が消えます。貸しなさい、私がその手燭(てしょく)を持とうで。」

「頼んます、はい、どうぞお前様(めえさま)持たっせえて、ついでにその法衣(ころも)着さっせえ姿から、光明赫燿(かくやく)と願えてえだ。」

 僧は燭を取って一足出たが、

「お爺さん、」

 と呼んだのが、驚破(すわや)事ありげに聞えたので、手んぼうならぬ手を引込(ひっこ)め、不具(かたわ)の方と同一(おなじ)処で、(てのひら)をあけながら、据腰(すえごし)で顔を見上げる、と皺面(しわづら)ばかりが燭の影に真赤(まっか)になった。――この赤親仁と、青坊主が、廊下はずれに物言う(さま)は、鬼が(ささや)くに異ならず。

「ええ、」

「どこか呻吟(うめ)くような声がするよ。」

「芸もねえ、(おど)かしてどうさっせる。」

「聞きなさい、それ……」

「う、う、う、」

 と(いや)な声。

「爺さん、お前が呻吟くのかい。」

「いんね、」

 と変な顔色で、鼻をしかめ、

「ふん、難産の呻吟声(うめきごえ)だ。はあ、御新姐(ごしんぞ)(うな)らしっけえ、姑獲鳥(うぶめ)になって鳴くだあよ。もの、奥の小座敷の方で聞えべいがね。」

「奥も小座敷も私は知らんが、障子の方ではないようだ、便所かな、」

「ひええ、今、お前様が()らっしたばかりでねえかね、」

「されば、」

 と斜めに聞澄まして、

「おお、庭だ、庭だ、雨戸の外だ。」

「はあ、」

 と宰八も、聞定めて、(ほっ)と息して、

「まず構外(かめえそと)だ、この雨戸がハイ鉄壁だぞ。」と、ぐいと(おさ)えてまた蹈張(ふんば)り、

「野郎、(へえ)ってみやがれ、野郎、活仏(いきぼとけ)さまが附いてござるだ。」

「仏ではなお打棄(うっちゃ)っては()かれない、人の声じゃ、お爺さん、明けて見よう、誰か(くるし)んでいるようだよ。」

「これ、静かにさっせえ、()だ、術だてね。ものその術で、背負引(しょび)き出して、お前様天窓(あたま)から塩よ。(わし)は手足い引捩(ひんも)いで、月夜蟹で()がねえ、と()ろうとするだ。ほってもない、開けさっしゃるな。早く座敷へ行きますべい。」

「あれ、聞きなさい、助けてくれ……と云うではないか。」

「へ、(はや)いもんだ。人の気を引きくさる、坊様と知って慈悲で釣るだね、開けまいぞ。」

 と云う時……判然(はっきり)聞えたが、しわがれた声であった。

「助けてくれ……」

「…………」

「…………」

「宰八よう、」――

 と、(むぐら)がくれに虫の声。

 (てん)ぼう(がに)ふるえ上って、

「ひゃあ、苦虫が呼ぶ。」

「何、虫が呼ぶ?」

「ええ、仁右衛門(にえむ)の声だ。南無阿弥陀仏(なんまいだ)、ソ、ソレ見さっせえ。宵に門前(もんまえ)から遁帰(にげかえ)った親仁めが、今時分何しにここへ来るもんだ。見ろ、畜生、さ、さすが畜生の浅間しさに、そこまでは心着かねえ。へい、人間様だぞ。おのれ、荒神様がついてござる、猿智慧(さるぢえ)だね、打棄(うっちゃ)っておかっせえまし。」

 と雨戸を離れて、肩を一つ(ゆす)って()こうとする。広縁のはずれと覚しき彼方(かなた)へ、板敷を離るること二尺ばかり、消え残った燈籠(とうろう)のような白紙(しらかみ)がふらりと出て、真四角(まっしかく)に、(ともしび)歩行(ある)き出した。

「はッあ、」

 と退(すさ)って、僧に(せな)摺寄(すりよ)せながら、

「経文を唱えて下せえ、入って来たわ、南無(なん)まいだ、なんまいだ。」

 僧も爪立(つまだ)って、浮腰(うきごし)に透かして見たが、

行燈(あんどう)だよ、余り手間が取れるから、座敷から葉越さんが見においでだ。さあ、三人となると私も大きに心強い――ここは()くかい。」

「ええ、これ、開けてはなんねえちゅうに、」

「だって、あれ、あれ、助けてくれ、と云うものを。鬼神に横道なし、と云う、(なさけ)抵抗(てむか)(やいば)はない(はず)、」

 (くるる)をかたかた、ぐっと、さるを上げて、ずずん、かたりと開ける、袖を絞って(おお)い果さず、(あかり)(さっ)と夜風に消えた。が、吉野紙を蔽えるごとき、薄曇りの月の影を、(くま)ある暗き(むぐら)の中、底を分け出でて、打傾いて、その光を宿している、目の前の飛石の上を、()つに這廻(はいまわ)るは、そもいかなるものぞ。

       三十六

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