14話 蛇精 三
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ふたりが同棲してから四度目の夏が来た。ことしは隣り村に大きいうわばみが出て、田畑をあらし廻るので、男も女もみな恐れをなして、野良仕事に出る者もなくなった。このままにしておいては田畑に草が生えるばかりであるから、なんとかしてうわばみ退治の方法をめぐらさなければならないと、村じゅうがあつまって相談の末に、かの蛇吉を頼んで来ることになった。首尾よく退治すれば金一両に米三俵を付けてくれるというのであったが、その相談を蛇吉は断った。
隣り村ではよくよく困ったとみえて、さらに庄屋のところへ頼んで来て、お前さんから何とか蛇吉を説得してもらいたいと言い込んだ。隣り村の難儀を庄屋も気の毒に思って、あらためて自分から蛇吉に言い聞かせると、彼はやはり断った。今度の仕事はどうも気乗りがしないから勘弁してくれと言ったが、庄屋はそれを許さなかった。
「おまえも商売ではないか。金一両に米三俵をくれるという仕事をなぜ断る。第一に隣り同士の好誼ということもある。五年前、こっちの村に水の出た時には、隣り村の者が来て加勢してくれたことをお前も知っているはずだ。言わばお互いのことだから、むこうの難儀をこっちがただ見物していては義理が立たない。誰にでも出来ることならば他の者をやるが、こればかりはお前でなければならないから、わたしもこうして頼むのだ。どうぞ頼まれて行ってくれ。」
こう言われると、蛇吉もあくまで強情を張っているわけにもいかなくなった。彼はとうとう無理往生に承知させられることになったが、家へ帰っても何だか沈み勝であった。あくる朝、身支度をして出てゆく時にも、なみだを含んで妻に別れた。
隣り村ではよろこんで彼を迎えた。彼は庄屋の家へ案内されていろいろの馳走になった上で、いつもの通り、うわばみ退治の用意に取りかかったが、彼がこの村へ足を踏み込んでから、かのうわばみは一度もその姿をみせなくなった。蛇吉の来たのを知って、さすがのうわばみも遠く隠れたのではあるまいかなどと言う者もあったが、相手が姿をみせない以上、それを釣り出すよりほかはないので、蛇吉は蛇の出そうな場所を見立てて、そこに例のおとし穴をこしらえて、例の秘密の一薬を焼いた。しかもそれは何の効もなかった。小蛇一匹すらもその穴には墜ちなかった。
折角来たものであるから、もう少し辛抱してくれと引留められて、蛇吉はここに幾日かを暮らしたが、うわばみは遂にその姿をあらわさなかった。おとし穴にもかからなかった。
「あまり遅くなると、家の方でも案じましょうから、わたしはもう帰ります。」と、彼は十一日目の朝になって、どうしても帰ると言い出した。
相手の方でもいつまで引留めておくわけにはいかないので、それではまたあらためてお願い申すということになって、村方から彼に二歩の礼金をくれた。うわばみ退治に成功しなかったが、ともかくも彼がここへ来てから、その姿を見せなくなったのは事実である。殊に十日以上の暇をつぶさせては、このまま空手で帰すことも出来ないので、その礼心にそれだけの金を贈ったのである。
「なんの役にも立たないでお気の毒ですが、折角のお志だから頂きます。」
彼はその金を貰って出ようとする時、村の者の一人があわただしく駈けて来て、山つづきの藪ぎわに大きいうわばみが姿をあらわしたと注進したので、一同はにわかに色めいた。
「もう一と足で吉さんを帰してしまうところであった。さあ、どうぞ頼みます。」
もともとそれがため来たのであるから、蛇吉も猶予することは出来なかった。彼はすぐに身ごしらえをして、案内者と一緒にその場へ駈けつけると、果して大蛇は藪から半身をあらわして眠ったように腹這っていた。
蛇吉は用意の粉薬を取出して、川という字を横にしたような三本の線を地上に描いた。彼は第一線を前にして突っ立ちながら、なにか大きな叫び声をあげると、今まで眠っていたようなうわばみは眼をひからせて頭をあげた。と思うと、たちまちに火焔のような舌を吐きながら、蛇吉の方へ向ってざらざらと走りかかって来たが、第一線も第二線もなんの障碍をなさないらしく、敵はまっしぐらにそれを乗り越えて来た。第三線もまた破られた。
蛇吉は先度のように呪文を唱えなかった。股引も脱がなかつた。彼は持っている手斧をふりあげて正面から敵の真っ向を撃った。その狙いは狂わなかったが、敵はこの一と撃ちに弱らないらしく、その強い尾を働かせて彼の左の足から腰へ、腰から胸へと巻きついて、人の顔と蛇の首とが摺れ合うほどに向い合った。もうこうなっては組討のほかはない。蛇吉は手斧をなげ捨てて、両手で力まかせに蛇の喉首を絞めつけると、敵も満身の力をこめて彼のからだを締め付けた。
この怖ろしい格闘を諸人は息をのんで見物していると、敵の急所を掴んでいるだけに、この闘いは蛇吉の方が有利であった。さすがの大蛇も喉の骨を挫かれて、次第々々に弱って来た。
「こいつの尻尾を斬ってくれ。」と、蛇吉は呶鳴った。
大勢のなかから気の強い若者が駈け出して行って、鋭い鎌の刃で蛇の尾を斬り裂いた。尾を斬られ頸を傷められて、大蛇もいよいよ弱り果てたのを見て、さらに五、六人が駈け寄って来て、思い思いの武器をふるったので、大蛇は蟻にさいなまれるみみずのようにのたうち廻って、その長いなきがらを朝日の下にさらした。
それと同時に、蛇吉も正気をうしなって大地に倒れた。
彼は庄屋の家へかつぎ込まれて、大勢の介抱をうけてようやくに息をふき返した。別に怪我をしたというでもないが、彼はひどく衰弱して、ふたたび起きあがる気力もなかった。
蛇吉は戸板にのせて送り帰されたときに、お年は声をあげて泣いた。村の者もおどろいて駈け付けて来た。自分が無理にすすめて出してやって、こんなことになったのであるから、庄屋はとりわけて胸を痛めて、お年をなぐさめ、蛇吉を介抱していると、彼は譫言のように叫んだ。
「もういいから、みんな行ってくれ、行ってくれ。」
彼は続けてそれを叫ぶので、病人に逆らうのもよくないから一とまずここを引取ろうではないかと庄屋は言い出した。親類の重助をひとりあとに残して、なにか変ったことがあったらばすぐに知らせるようにお年にも言い聞かせて、一同は帰った。
朝のうちは晴れていたが、午後から陰って蒸し暑く、六月なかばの宵は雨になった。お年と重助はだまって病人の枕もとに坐っていた。雨の宵はだんだんにさびしく更けて、雨の音にまじって蛙の声もきこえた。
「重助も帰ってくれ。」と、蛇吉はうなるように言った。
ふたりは顔を見合せていると、病人はまたうなった。
「お年も行ってくれ。」
「どこへ行くんです。」と、お年は訊いた。
「どこでもいい。重助と一緒に行け。いつまでもおれを苦しませるな。」
「じゃあ、行きますよ。」
ふたりはうなずき合ってそこを起った。一本の傘を相合にさして、暗い雨の中を四、五間ばかり歩き出したが、また抜足をして引っ返して来て、門口からそっと窺うと、内はひっそりしてうなり声もきこえなかった。ふたりは再び顔を見合せながら、さらに忍んで内をのぞくと、病人の寝床は藻ぬけの殻で、蛇吉のすがたは見えなかった。
それがまた村じゅうの騒ぎになって、大勢は手分けをしてそこらを探し廻ったが、蛇吉のすがたはどこにも見いだされなかった。彼は住み馴れた家を捨て、最愛の妻を捨て、永久にこの村から消え失せてしまったのであった。
彼が妻にむかって、この商売を長くはやっていられないと言ったことや、隣り村へゆくことをひどく嫌ったことや、それらの事情を綜合して考えると、あるいは自分の運命を予覚していたのではないかとも思われるが、彼は果して死んでしまったのか、それともどこかに隠れて生きているのか、それはいつまでも一種の謎として残されていた。
しかし村人の多数は、彼の死を信じていた。そうして、こういう風に解釈していた。
「あれはやっぱりただの人間ではない。蛇だ、蛇の精だ。死ぬときの姿をみせまいと思って、山奥へ隠れてしまったのだ。」
彼が蛇の精であるとすれば、その父や母もおなじく蛇でなければならない。そんなことのあろうはずがないと、お年は絶対にそれを否認していた。しかも、なぜ自分の夫が周囲の人々を遠ざけて、その留守のあいだに姿を隠したのか。その子細は彼女にも判らなかった。
これは江戸の末期、文久年間の話であるそうだ。