綺堂むかし語り

13話 島原の夢

4,214字 約8分 2001年10月15日 公開

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戯場訓蒙図彙(しばいきんもうずい)」や「東都歳事記(とうとさいじき)」や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎(かぶき)の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮(しょせん)は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。何かの架け橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前からほとんど断えたと云ってもいい位に、朽ちながら残っていた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離(わかれ)をつげて、架け橋はまったく断えてしまったらしい。

 おなじ東京の名をよぶにも、今後はおそらく旧東京と新東京とに区別されるであろう。しかしその旧東京にもまた二つの時代が(かく)されていた。それは明治の初年から二十七、八年の日清戦争までと、その後の今年までとで、政治経済の方面から日常生活の風俗習慣にいたるまでが、おのずからに前期と後期とに分かたれていた。

 明治の初期にはいわゆる文明開化の風が吹きまくって、鉄道が敷かれ、瓦斯(ガス)燈がひかり、洋服や洋傘傘(こうもりがさ)やトンビが流行しても、(せん)ずるにそれは形容ばかりの進化であって、その鉄道に乗る人、瓦斯燈に照らされる人、洋服を着る人、トンビを着る人、その大多数はやはり江戸時代から()み出して来た人たちである事を記憶しなければならない。わたしは明治になってから初めて此の世の風に吹かれた人間であるが、そういう人たちにはぐくまれ、そういう人たちに教えられて生長した。すなわち旧東京の前期の人である。それだけに、遠い江戸歌舞伎の夢を追うには(いささ)か便りのよい架け橋を渡って来たとも云い得られる。しかし、その遠いむかしの夢の夢の世界は、単に自分のあこがれを満足させるにとどまって、他人にむかっては語るにも語られない夢幻の境地である。わたしはそれを語るべき(ことば)を知らない。

 しかし、その夢の夢をはなれて、自分がたしかに()み渡って来た世界の姿であるならば、たといそれがやはり一場の過去の夢にすぎないとしても、私はその夢の世界を明らかに語ることが出来る。老いさらばえた母をみて、おれは(かつ)てこの母の乳を飲んだのかと怪しく思うようなことがあっても、その昔の乳の味はやはり忘れ得ないとおなじように、移り変った現在の歌舞伎の世界をみていながらも、わたしはやはり昔の歌舞伎の夢から()め得ないのである。母の乳のぬくみを忘れ得ないのである。

 その夢は、いろいろの姿でわたしの眼の前に展開される。

 劇場は日本一の新富座(しんとみざ)、グラント将軍が見物したという新富座、はじめて瓦斯燈を用いたという新富座、はじめて夜芝居を興行したという新富座、桟敷(さじき)五人詰一間(ひとま)(あた)い四円五十銭で世間をおどろかした新富座――その劇場のまえに、十二、三歳の少年のすがたが見いだされる。少年は父と姉とに連れられている。かれらは紙捻(かみよ)りでこしらえた太い鼻緒の草履(ぞうり)をはいている。

 劇場の両側には六、七軒の芝居茶屋がならんでいる。そのあいだには芝居みやげの菓子や、辻占(つじうら)せんべいや、花かんざしなどを売る店もまじっている。向う側にも七、八軒の茶屋がならんでいる。どの茶屋も軒には新しい花暖簾(はなのれん)をかけて、さるやとか菊岡(きくおか)とか梅林(ばいりん)とかいう家号を筆太(ふでぶと)にしるした提灯がかけつらねてある。劇場の木戸まえには座主(ざぬし)俳優(やくしゃ)に贈られたいろいろの(のぼり)が文字通りに林立している。その幟のあいだから幾枚の絵看板が見えがくれに仰がれて、木戸の前、茶屋のまえには、幟とおなじ種類の積み物が往来へはみ出すように積みかざられている。

 ここを新富町(しんとみちょう)だの、新富座だのと云うものはない。一般に島原(しまばら)とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓が一時栄えた歴史をもっているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。

 築地(つきじ)の川は今よりも青くながれている。高い建物のすくない町のうえに紺青(こんじょう)の空が大きく澄んで、秋の雲がその白いかげをゆらゆらと浮かべている。河岸(かし)の柳は秋風にかるくなびいて、そこには釣りをしている人もある。その人は俳優の配りものらしい浴衣(ゆかた)を着て、日よけの頬かむりをして(いき)莨入(たばこい)れを腰にさげている。そこには笛をふいている(あめ)屋もある。その飴屋の小さい屋台店の軒には、俳優の紋どころを墨や(あか)(あい)で書いた(いおり)看板がかけてある。居付きの店で、今川焼を売るものも、稲荷鮓(いなりずし)を売るものも、そこの看板や障子や暖簾には、なにかの形式で歌舞伎の世界に縁のあるものをあらわしている。仔細(しさい)に検査したら、そこらをあるいている女のかんざしも扇子も、男の手拭も団扇(うちわ)も、みな歌舞伎に縁の離れないものであるかも知れない。

 こうして、築地橋から北の大通りにわたるこの一町内はすべて歌舞伎の夢の世界で、いわゆる芝居町(しばいまち)の空気につつまれている。もちろん電車や自動車や自転車や、そうした騒雑な音響をたてて、ここの町の空気をかき乱すものは一切(いっさい)通過しない。たまたま此処(ここ)を過ぎる人力車があっても、それは(しず)かに無言で走ってゆく。あるものは車をとどめて、乗客も車夫もしばらくその絵看板をながめている。その頃の車夫にはなかなか芝居の消息を(そら)んじている者もあって、今度の新富チョウは評判がいいとか、猿若マチは景気がよくないとか、車上の客に説明しながら()いてゆくのをしばしば聞いた。

 秋の真昼の日かげはまだ暑いが、少年もその父も帽子をかぶっていない。姉は小さい扇を(ひたい)にかざしている。かれらは幕のあいだに木戸の外を散歩しているのである。劇場内に運動場を持たないその頃の観客は、窮屈な土間(どま)に行儀好くかしこまっているか、茶屋へ戻って休息するか、往来をあるいているかのほかはないので、天気のよい日にはぞろぞろとつながって往来に出る。帽子をかぶらずに、紙捻りの太い鼻緒の草履をはいているのは、芝居見物の人であることが証明されて、それが彼らの誇りでもあるらしい。少年も芝居へくるたびに必ず買うことに決めているらしい辻占せんべいと八橋(やつはし)との(かご)をぶら下げて、きわめて愉快そうに徘徊(はいかい)している。彼らにかぎらず、すべて幕間(まくあい)の遊歩に出ている彼らの群れは、東京の大通りであるべき京橋(きょうばし)区新富町の一部を自分たちの領分と心得ているらしく、()れ合い摺れちがって往来のまん中を悠々と散歩しているが、角の交番所を守っている巡査もその交通妨害を(とが)めないらしい。土地の人たちも決して彼らを邪魔者とは認めていないらしい。

 やがて舞台の奥で()()がきこえる。それが木戸の外まで冴えてひびき渡ると、遊歩の人々は牧童の笛をきいた小羊の群れのように、皆ぞろぞろと(つな)がって帰ってゆく。茶屋の若い者や出方(でかた)のうちでも、如才(じょさい)のないものは自分たちの客をさがしあるいて、もう幕があきますと触れてまわる。それにうながされて、少年もその父もその姉もおなじく急いで帰ろうとする。少年はぶら下げていた煎餅の籠を投げ出すように姉に渡して、一番さきに駈け出してゆく。柝の音はつづいて聞えるが、幕はなかなかあかない。最初からかしこまっていた観客は居ずまいを直し、外から戻って来た観客はようやく元の席に落ちついた頃になっても、舞台と客席とをさえぎる華やかな大きい幕は(なお)いつまでも閉じられて、舞台の秘密を容易に観客に示そうとはしない。しかも観客は一人も忍耐力を失わないらしい。幽霊の出るまえの鐘の音、幕のあく前の拍子木の音、いずれも観客の気分を緊張させるべく不可思議の魅力をたくわえているのである。少年もその柝の音の一つ一つを聴くたびに、胸を(おど)らせて正面をみつめている。

 幕があく。「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)吉野川(よしのがわ)の場である。岩にせかれて(むせ)び落ちる山川を境いにして、(かみ)(かた)の背山にも、(しも)の方の妹山(いもやま)にも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。妹山の家には古風な大きい雛段(ひなだん)が飾られて、若い美しい姫が腰元どもと一緒にさびしくその雛にかしずいている。背山の家には(すだれ)がおろされてあったが、腰元のひとりが小石に封じ(ぶみ)をむすび付けて打ち込んだ水の音におどろかされて、簾がしずかに巻きあげられると、そこにはむらさきの小袖に茶宇(ちゃう)の袴をつけた美少年が殊勝(しゅしょう)げに経巻(きょうかん)読誦(どくじゅ)している。高島(たかしま)屋ァとよぶ声がしきりに聞える。美少年は市川左団次(さだんじ)久我之助(こがのすけ)である。

 姫は太宰(だざい)の息女雛鳥(ひなどり)で、中村福助(ふくすけ)である。雛鳥が恋びとのすがたを見つけて庭に降りたつと、これには新駒(しんこま)屋ァとよぶ声がしきりに浴びせかけられたが、かれの姫はめずらしくない。左団次が前髪立ちの少年に扮して、しかも水のしたたるように美しいというのが観客の眼を奪ったらしい。少年の父も唸るような吐息を洩らしながら眺めていると、舞台の上の色や形はさまざまの美しい錦絵をひろげてゆく。

 背山の(かた)大判司清澄(だいはんじきよずみ)――チョボの太夫の力強い声によび出されて、(かり)花道にあらわれたのは織物の《かみしも》をきた立派な老人である。これこそほんとうに昔の錦絵から抜け出して来たかと思われるような、いかにも役者らしい彼の顔、いかにも型に(はま)ったような彼の姿、それは中村芝翫(しかん)である。同時に、本花道からしずかにあゆみ出た切り髪の女は太宰(だざい)後室(こうしつ)定高(さだか)で、眼の大きい、顔の輪郭のはっきりして、一種の気品をそなえた男まさりの女、それは市川団十郎(だんじゅうろう)である。大判司に対して、成駒(なりこま)屋ァの声が盛んに湧くと、それを圧倒するように、定高に対して成田(なりた)屋ァ、親玉ァの声が三方からどっと起る。

 大判司と定高は花道で向い合った。ふたりは桜の枝を手に持っている。

畢竟(ひっきょう)、親の子のと云うは人間の(わたくし)、ひろき天地より観るときは、おなじ世界に湧いた虫。」と、大判司は相手に負けないような眼をみはって空うそぶく。

「枝ぶり悪き桜木は、切って()ぎ木をいたさねば、太宰の(いえ)が立ちませぬ。」と、定高は(りん)とした声で云い放つ。

 観客はみな酔ってしまったらしく、誰ももう声を出す者もない。少年も酔ってしまった。かれは二時間にあまる長い一幕の終るまで身動きもしなかった。

 その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化した。妹背山の舞台に立った、かの四人の歌舞伎俳優(やくしゃ)のうちで、三人はもう二十年も前に死んだ。わずかに生き残るものは福助の歌右衛門(うたえもん)だけである。新富座も今度の震災で灰となってしまった。一切の過去は消滅した。

 しかも、その当時の少年は依然として昔の夢をくり返して、ひとり楽しみ、ひとり悲しんでいる。かれはおそらく其の一生を終るまで、その夢から醒める時はないのであろう。(大正12・11「随筆」)

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